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<title>札幌浪人//政治、ときどき映画、本</title>
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<description>日本の政治と行政を動かそう</description>
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<title>長妻厚労相には完全に幻滅だ</title>
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<description>　長妻厚生労働大臣は新しく増額される子供手当てに所得制限を設けることに反対だとい...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　長妻厚生労働大臣は新しく増額される子供手当てに所得制限を設けることに反対だといっているが、この意見を聞くと長妻氏は最早完全に厚労省の役人たちに取り込まれてしまったとしか思われない。私はこのように不見識な長妻厚労相には完全に幻滅してしまった。&lt;br /&gt;　そもそも子供手当ては日本の少子化を防ごうとして養育費を国家が支給して人口の減少現象を止めようというものであるから、その目的に敵うように最小の支出で行なえば良いものである。企業経営においても目的達成のために最小の支出を計画する。目的達成のためには費用を厭わない、などということはありえないことだし、あっては成らないことなのである。長妻厚労相にはそういった当たり前の健全な考え方さえも持ていないようであり、また彼の行動を見ていると単に意地になって筋の通らない主張に拘っているようにしか見えないのである。このように見識の無い人間が日本の厚労相をしていることは大変な問題である。長妻氏が失われた年金問題でどれほど活躍し成果を挙げたとしても、それは氏の厚労相としての資質を保証するものではなかったのである。鳩山首相は、長妻氏の年金問題追及という政権奪取への功労と国民への受けだけを考えて長妻氏を厚労相に任命したのであろうが、残念ながら宇宙人を自認する鳩山氏には人間を見る目がなかったのである。&lt;br /&gt;　日本の少子化現象化に影響を与えている大きな要因としては、保育所の不足がある。この不足をなくするために厚生労働省は予算を大幅に増やす必要があるが、それは資金面で子供手当てと競合する。そのことを考えると、子供手当ての支出額を最小限に抑えることが不可欠であることは火を見るよりも明らかだ。そうした合理的な思考さえ長妻厚労相にはできないのだから、大臣としての資質に決定的に欠けることは明瞭である。だから長妻氏は厚労相を自認するべきであるが、恐らくそうはしないであろうから鳩山首相が辞めさせるしかない。そうなると鳩山首相は長妻氏の任命に対しての責任を問われるからそれもまたできないということになる。しかし昔の人は「過ちを改めるのにためらうことなかれ」といった。そうした勇気を示すことは、最近何かと決断力のないことを取りざたされる鳩山首相には起死回生の良い切っ掛けになりうるのではないだろうか。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　そもそも長妻氏を厚労相に任命したのには「失われた年金問題」への論功行賞という意味合いもあったのだろうが、小泉元首相が田中真紀子議員を外相に指名したのと同じ「顔見世パンダ」の真似があったように思われる。真紀子氏には「総理待望論」を書いた太鼓持ちの本もいくつかあったが、彼女が実際に外相になって到底大臣をこなせるような資質のない人物であることが国民の目に明らかになるという予定外の政治的な効用があった。今回長妻氏も同様であることが判明した次第である。自民党の赤城元農相のように国会議員の中には正に資質が決定的に欠けていながら大臣に任命された例が少なくない。鳩山首相は小泉元首相と同じ轍を踏んだ。これから首相になる人は政治的な引っ掛かりに動かされずに能力本位で大臣を選任するべきであろう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　昨日（2009/12/21）鳩山首相は小沢幹事長と会って、党の要望というものを聞いた後にガソリンの暫定税率の廃止という政策を取り止め、また子供手当てについての所得制限という考えも捨て去った。それは全て小沢幹事長の意向に沿わないものであったからだ。かくして鳩山首相が自分が良く考えて意思決定するといっていたことは全くの茶番に過ぎなかったのだ。かくて幹事長という形の上では自らが任命した役職の人間によって鳩山首相が鼻面を引き回されていることが明らかになった。&lt;br /&gt;　また長妻厚労相が子供手当ての所得制限はしない方が良いといっていたのは、単に小沢幹事長の鼻息を窺ってのことであったことがここにおいてはっきりした。長妻氏には自分の意見など初めからなかったのである。このことに気が付かなかったことに対して私は自らの不明を詫びたい。&lt;br /&gt;　しかし民主党議員が１４０人も小沢幹事長の訪中に金魚の糞のようにくっついていったというのは恐ろしいことである。ここにおいて小沢一郎氏は名前を小沢ヒットラーとした方が適切なのではないかと愚考する。実態を明らかにするために民主党は党名自体も変えた方が良いのではないか。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>経済・政治・国際</dc:subject>

<dc:creator>Festina Lente</dc:creator>
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<title>行政機構の責任を問う仕組みの強化を</title>
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<description>　今日（2009/12/16）の日本経済新聞朝刊の「経済教室」に福井秀夫氏の『行...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　今日（2009/12/16）の日本経済新聞朝刊の「経済教室」に福井秀夫氏の『行政訴訟の仕組み改善を』という論文が掲載されていた。この論文の副題は「『官に対する監視』どう徹底」となっている。&lt;br /&gt;　民主党に政権が遷ってから、すぐに話題になったのは八ッ場ダムの工事中止の件であったが、計画が立てられてから５０年以上も経ってなお完成していないようなものが果たして本当に必要なダムといえるのだろうかと、素人考えでも疑問に思うのだが、一度計画したものは何が何でもやるのだという、官僚無謬性を底に持った官庁がだらだらと惰性で工事を継続して行なってきたこと自体が大いに問題であるし、そういった官庁のやり方が国民の目の前に明らかになったことは大いに意義があったと私は評価するものである。&lt;br /&gt;　さて福井氏の上記の論文では、官庁の行なった行政行為に対して不当と考える国民が異議を唱える制度として『行政事件訴訟法』というものがあって、たくさんんの訴えが提起れてきたのだが、現在のその仕組みには問題があって十分に機能で期していないと福井氏は指摘している。その原因の一つは、簡単にいえば行政訴訟を取り扱うのもまた行政組織であるということである。いわば公務員という仲間内で外部の国民からの苦情を取り扱っているということが、そもそもの問題なのである。&lt;br /&gt;　最近地方分権の強化ということが日本の活性化のためにも必要と言われているが、確かに地方の行政府の長に最近はいろいろと個性的な人間が現れて今までにはなかった取り組みも行われるようになってきた。それでも最近、神戸市長の支出を違法な公金支出として訴える住民の動きに対抗して、市議会が市長擁護の決議をするなど全くおかしい行動も見られる。地元民と地方政府や行政府の間にも当然対立がありうるのであり、これを適切に処理する仕組みが必要であって、公正かつ効率的に行われる『行政訴訟』が効果を上げるように制度を設計することが不可欠である。アメリカなどでは納税者意識の存在ということがいわれるが、日本では個人の多くは企業が役所に変わって給料から所得税や社会保険料を天引きする形で徴収するために納税者意識が育ちにくくなっていると、私も最近確定申告を行なうようになってから実感するようになった。それでも昔よりは行政府に対する異議申し立ての動きは高まっていると思われるが、私自身の体験からいっても、まだまだ官庁に対する国民の目は厳しくなる必要があると思う。&lt;br /&gt;　役人たちのお金の使い方について一番問題なのは、それが自分たちで稼いだお金ではなくて、国民の懐から強制的に取り立てたお金であるということである。民間企業の人間のように、お金を稼ぐということの大変さを知らない人間は、お金の使い方もいい加減になる。自民党政権の時代にガソリンなどの燃料税の暫定税率に関して、野党から国土交通省の杜撰な道路整備計画によるムダな道路作りに使われているのではないかと批判されたときに、公明党の議員でその時の国土交通大臣であった冬柴氏が、にやついた閉まりの無い顔付きで「道路整備の計画は精査した結果作られている」という答弁をしていたのをNＨＫの国会中継を見たのだが、官僚に踊らされているとんでもない人物だと憤慨した覚えがあった。&lt;br /&gt;　もし官僚たちがそれほど真剣に仕事をしているのなら、「天下り」や「渡り」といった「仕事もしないで高給だけを食む」という慣習はできなかったに違いないのである。独立法人理事になるとその報酬の額が調べられるからといって、最近は嘱託という地位になって同じように高給を食んでいることが最近報道されたが、こうなるとキャリア官僚という連中は「ずる賢い金に汚い人間」の代名詞に過ぎないとしか思われないのである。&lt;br /&gt;　こうした日本の現状を改革するためには官庁に対する国民の異議申し立てを公正に処理する制度の確立が不可欠であり、官僚依存でしか政治できなかった自民党政権では到底やろうとも思わなかっただろうし、できなかったに違いない『行政事件訴訟法』の改革を民主党政権において重要施策として是非実行してもらいたい。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>経済・政治・国際</dc:subject>

<dc:creator>Festina Lente</dc:creator>
<dc:date>2009-12-16T10:13:43+09:00</dc:date>
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<title>トルーマン・カポーティの『カメレオンのための音楽』</title>
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<description>　コープさっぽろ藤野店で買い物をしてちょっとトイレを借りようと思った。トイレの入...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　コープさっぽろ藤野店で買い物をしてちょっとトイレを借りようと思った。トイレの入り口の左側の壁に簡単な本棚が置いてあって、古本が並べられている。買った人はユニセフへの寄付金として１冊当たり５０円を入れるようにと募金箱が置いてある。私はいつもざっとどんな本が置いてあるかを見ることにしているが、残念ながら今までほとんど買いたいような本が置いてあった試しがない。たいていの本は古本屋でも置いていないような相当に酷い状態のものなのだが、今回は１冊だけ、あれ！と思った本があった。アメリカの作家のトルーマン・カポーティの『カメレオンのための音楽』（早川書房）という短編集であった。私は結構頻繁に古本屋に顔を出す方だが、今まで一度も古本屋で見たことがない本であったので早速買ったのだが、あいにく５０円の持ち合わせがなかったので已む無く１００円玉を入れたのであった。しかしこの本は掘り出し物だろうと思う。ちなみにアマゾンで検索したらヒットして、早川文庫で２００２年１１月に出版されているようだ。私の買ったのは１９８３年に出版された単行本である。ところがこの翻訳をしたのが小説家の野坂昭如氏であったので、ちょっとビックリした。野坂氏が翻訳をしていることを私は知らなかったのである。&lt;br /&gt;　ところで私は先日カポーティの伝記映画『カポーティ』を見たばかりであったが、映画によるとカポーティは話し方の口調が少し普通の人とは違っていたようであった。主演したフィリップ・シーモア・ホフマンが今まで彼の出た映画の中では聞いたこともないような話し方をしていたのであった。ホフマンを映画で初めて見たのは私の好きな映画『セント・オブ・ウーマン・夢のかおり』で、アル・パチーノとクリス・オドネルが主演していた。彼は金持ちの甘やかされて育った高校生の役をやっていたが、まさか主役をするような俳優には思えなかった。２度目に見たのはパトリシア・ハイスミスの小説『リプリー』が原作の『太陽がいっぱい』のリメイク映画『リプリー』で、ホフマンはマット・ディモン演ずるリプリーに殺されるこれまた金持ちの息子フレディ・マイルズ役をやっていたのであった。&lt;br /&gt;　カポーティは多作な小説家ではなかったようだが、今手元にある『カポーティ短編集』（筑摩文庫）の翻訳者河野一郎氏の解説を読むと、カポーティの処女作である短編集Other Voices,Other Roomsが１９４８年にアメリカで出版されたときには読書界に衝撃を与えたことが伝説になっているという。この処女作は新潮文庫から河野氏の訳で『遠い声、遠い部屋』の題で出版されている。&lt;br /&gt;　私が初めて読んだカポーティの小説は『草の竪琴』（新潮文庫）あるが、映画『グラスハープ/草の竪琴』がカポーティの小説に基づいたものであることに気付いたからであった。映画そのものも面白かったので、読もうと思ったのである。カポーティの小説に基づく映画『ティファニーで朝食を』はオードリー・ヘップバーンが主役を演じて有名だが、この原作の小説は新潮文庫から滝口直太郎氏の翻訳で出ていたのだが、どうも私は滝口氏の翻訳が好きでないのでまだ読んでいない。今思いついてアマゾンで検索したら、村上春樹氏の新訳で新潮文庫から出ていることを知ったのでこれを読んでみようと思う。カポーティの最も有名な小説『冷血』（新潮文庫）の翻訳は現在は佐々田雅子さんによるものだが、その前は滝口直太郎氏の翻訳であったので私は持っていなかった。随分と翻訳者にこだわるようだが、理由があるのだ。&lt;br /&gt;　ドストエフスキーの小説の翻訳も昔は岩波文庫でも米川正夫氏の翻訳で出ているものが多かったようだが、高校の国語の教師が米川氏の翻訳を糞味噌に貶していたので私は読まなかった。『カラマーゾフの兄弟』は大学時代に始めて読んだのだが、最初に角川文庫で出ていた中山省三郎氏の訳で読み、次に大学卒業後に読んだのが新潮世界文学全集での原卓也氏の翻訳であったと思うが、最後に読んだのは集英社の世界文学全集での江川卓氏の翻訳であった。江川氏の訳を読んで、私は『カラマーゾフの兄弟』を小説として本当に面白く読めたと思う。江川氏の訳で３回は読んでいる。この経験によって、私は翻訳によってこんなにも小説の面白さが違うもののかと感じ入った次第であった。最近亀山郁夫氏の『カラマーゾフの兄弟』の新しい翻訳が話題になっているが、私はまだ少し読んだだけだが、ロシア人独特の長たらしい名前を一部省略して短く表記するなどして確かに読みやすくなっている。ネームバリューのあった岩波文庫の翻訳小説も、私が自分で読んで最近気が付いたのだが、残年ながら翻訳の質という点では大いに問題のあるものがいくつかあった。&lt;br /&gt;　話が随分それてしまったが、カポーティの『カメレオンのための音楽』は短編集であり、１編を読むのも簡単だし、野坂昭如氏の翻訳もどんなものか大いに興味もあるので読んでみよう。そして河野一郎氏の訳した『カポーティ短編集』には『カメレオンのための音楽』に含まれる四つの短編も入っているから、翻訳を比べてみるのも面白いと思っている。小説の場合、翻訳者の日本語の能力によって面白さが本当に違ってくるのである。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>書籍・雑誌</dc:subject>

<dc:creator>Festina Lente</dc:creator>
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<item rdf:about="http://sapporo-ronin.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-a133.html">
<title>キリスト教徒の傲慢</title>
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<description>　今『キリスト教は文明を救いうるか』（中公文庫）という本を読み始めている。著者は...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　今『キリスト教は文明を救いうるか』（中公文庫）という本を読み始めている。著者はW・M・ホーマックで、アメリカの神学教授である。この本がアメリカで出版されたのが１９４０年であったが、日本での翻訳出版は１９５２年であった。長年に渡って絶版であったのだが、ようやく文庫版の形で１９９２年に出版されたのである。ホーマックは１８９５年生まれであるからもう亡くなっているのだろう。&lt;br /&gt;　私はある時からキリスト教について深い関心を持つようになった。思い返してみると、イギリス人のG・Ｒ・テイラーの『歴史におけるエロス』（河出書房新社）を読んで、キリスト教会に対する悪い印象を持ったのが初めであるように思う。テイラーの書いていることを信じるなら、中世のキリスト教会というのは誠に酷い存在だったのだ。以後いろいろとキリスト教に関する本を読んだが、テイラーの書いていることは間違っていないようである。そしてテイラーはキリスト教の世界で有名な歴史的人物について次のように書いている。&lt;br /&gt;　「不幸なことだが、教会の歴史で傑出した人物に、今日なら心理的障害と見なされるような徴候を示している者がかなり多い。」（Ｐ１５）&lt;br /&gt;　キリスト教の歴史上有名な人物で具体的にテイラーのいう問題人物の典型的な例を示すとしたら、私はマックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』にも取上げられているプロテスタント神学者のジャン・カルヴァンを挙げたい。カルヴァンについては、シュテファン・ツヴァイクが『権力とたたかう良心』（みすず書房）において、彼がいかに狭量でキリスト教精神に反するような一種の狂人であったかを、同じキリスト教徒で寛容な精神の持ち主であったカステリオンとの対比で描いているが、このような人間的に大いに問題ありの悪党が、講談社の「人類の知的遺産」の第２８巻『カルヴァン』として偉大な人物扱いをされて出版されているのを見ると、カルヴァンの人類に及ぼした影響は日本では果たして正しく評価されているのだろうかと私は疑わないではいられない。人間的にはロクデナシそのものであっても、キリスト教神学の世界では理論的な発展に貢献したということなのだろう。しかしそもそもキリスト教神学にはそれほど重要な意味・価値があるのだろうかというのが、私の率直な感想である。特にリチャード・ドーキンスの『神は妄想である』（早川書房）を読んだ後では、宗教というものは「信仰というのは、何の証拠にも基づかず根拠のない精神的行為」（例えばそれが紡ぎ出す「神が存在する」、「神が設計する」、「神が人間を動かす」などという虚言・妄想）に過ぎないと、私は確信するようになっている。&lt;br /&gt;　私は『キリスト教は文明を救いうるか』という題に、キリスト教徒の虚言・誇大妄想癖を感じるのである。（ちなみにこの本の英語名はCan Christianity Save Civilization ?で日本語の題は原著の通りである）&lt;br /&gt;　宗教的な言明については、その宗教を信じるかまたは強い拒否反応を持たない人間か、そもそも宗教そのものを信用しない人間であるかによって、全く受け入れ方が違ってしまう。ある人間が宗教を信仰する切っ掛けのほとんどは、両親によって育てられる過程において見た両親の信仰活動であろう。（特にキリスト教の場合は日曜日ごとの教会通いによって無意識のうちに神の存在を刷り込まれてしまい、習慣的に神の存在を信じるようになる。）自分自身で真剣に神の存在を考える人間などは、一神教の社会環境の下で育った人間にはほとんどいないだろう。多神教の社会である日本では、人々には何か自分たち人間とは異なる神らしきものが存在するようだという意識はあっても、それは唯一絶対全能の神、道徳を与える神などではないから、日本人は神を真剣に恐れるということもないのである。そもそも日本人は、キリスト教の信仰においては根本的な教義である「原罪」というもの存在、そして全ての人間には原罪という避けられないものが付き纏うという考え方など到底理解できないのである。神が人間を創った時にくっつけた原罪などは、良く考えると全く摩訶不思議なものなのである。キリスト教徒の思考には我々日本人には理解し難いものがある。そうしたものをいくつか『キリスト教は文明を救いうるか』の中から以下に引用する。&lt;br /&gt;　「天はわれわれがこのような文明を維持する者になることを禁じている！　神はキリスト教であれあるいは自からを重んずる他のいかなる宗教であれ、それがこのような文明の保証人あるいは保護者となることを許さないのだ！」（Ｐ２０）&lt;br /&gt;　以上の文章でホートンが書いている「天は・・・禁じている、神は・・・許さない」という言明には私は全く呆れてしまう。なぜならホートンはどうしてそんなことを知りえたのか、天や神の意思などは誰にも分かるはずがないではないか。&lt;br /&gt;　またホートンは「罪を浄める神の裁きと罪より贖う神の恵み」（Ｐ２１）と書いているが、そもそも神が勝手に人間を原罪付きで創っておきながら、「罪を浄める」だ「罪を贖う」だと、ホートンはこんどはそんな手前勝手な神を崇めるのであるが、彼の言明は何を根拠にしているのだろうかと考えると、私の考えでは、それらの言葉は全くの戯言に過ぎないのである。キリスト教を信じる人たちにはホートンの言明も意味があるのだろうが、そもそもキリスト教で言うような唯一絶対全能の神の存在などを信じない私には「何言ってんだか」としか受取れないのである。これらは正にファンタジーのようなお話に過ぎない。&lt;br /&gt;　「マドラス宣教会議が『神のみが人を救いうるということは明白である』と語ったのは正しかった」（Ｐ２３）とホートンは書いているが、これもキリスト教徒特有の全く勝手な思い込みに過ぎない。なぜ我々人間は神によって救われなければ成らないのか、と私はキリスト教徒のこんな勝手な戯言には全く腹が立って仕方がないのだ。&lt;br /&gt;　「われわれの信ずる神は人間的な媒介を通して働く神である。・・・・・・&lt;br /&gt;　神は経済や政治の過程を通し、教育を通して、またあらゆる種類の『世俗的な』媒介を通して働くのであり、媒介物なくしてたんに宗教の力だけではわれわれの文明を多分救うことはできなかった・・・」（Ｐ２５）&lt;br /&gt;　「神が人間を媒介にして働く・機能する」というのは、現代の近代社会では大体が教育によって読み書きができるようになったために、科学的な思考、物理学では物質が動くためには力・エネルギーを必要とすると教えられたから、神が何かをするにしても何らかの働き掛ける力が必要であると誰もが考えるようになったためにこういった媒介説が唱えられるようになったのであろう。上の引用文に書かれた事柄は、そうした科学的な思考に対応した神学でなければキリスト教の信徒にも受け入れられなくなってきたからではないのか。&lt;br /&gt;　私はまだ『キリスト教は文明を救いうるか』の緒言の初めの方しか読んでいないが、それだけでも私にはキリスト教徒というのは何と傲慢な人たちなのかと、そして一方で現実に盲いた人たちなのかと思わないではいられないのである。予め神の存在を信じている人たちにとっては、ホートンの言明も違和感なく受け止められるだろうが、そうでない人たちにとっては勝手な思い込みの理屈でしかないのである。たとえどのように高尚に見えても、信仰しなければ通じない理屈というものには本当は何の意味もないのではないだろうか。&lt;br /&gt;　こう書くと、「そもそも宗教と科学的な思考とを対比すること自体がおかしいのだ、宗教と科学とは次元の違うものなのである」ということを言う人がいるだろう。&lt;br /&gt;　私には全く理解のできないことなのだが、イギリスに物理学者でありながら、英国国教会の司祭でもあるジョン・ポーキングホーンという人がいる。彼は物理学では最先端の量子物理学を研究していたのである。彼は『科学者は神を信じられるか』（講談社）という本を書いているが、そこには次のようなことが書かれている。&lt;br /&gt;　「私は、正統的なキリスト教信仰は驚くべき真実をもっているし、科学は私たちの想像力を拡大し、この世界をよりよく理解することに貢献するものと思っている。」（Ｐ５）&lt;br /&gt;　「宗教は神聖な実在との遭遇であり、科学は物理的な実在との遭遇である。」（Ｐ１５６）&lt;br /&gt;　同じ英国の科学者であるリチャード・ドーキンスが『神は妄想である』（早川書房）という本を書いて宗教を徹底的に批判・否定したのと比べると、ポーキングホーンは科学的な思考という面では全く不徹底であると思われるし、宗教の悪い面については全くの無知で、余りにも不勉強である。先日NＨＫ・ＢＳニュースでアイルランドのキリスト教会の中で聖職者が子供に対して性的虐待を長年続けてきていたという事実が発覚したと伝えられていた。そして教会はその事実を知りながら隠蔽していたのである。&lt;br /&gt;　私の認識では聖職者などという人たちも普通の信徒と大して代わらない存在であって、性欲もあれば権勢欲もある俗物がほとんどであると考えている。聖職者を何か特別の存在であるかのように誤解するのがそもそも間違いなのである。私は人類はそろそろ宗教からの乳離れすることが必要であると考える。宗教団体が何故か課税をまぬかれているが、それも間違った認識ゆえである。一般の個人と同じように宗教団体も社会的なサービスを受けているのであるから、当然に課税されるべきなのであるが、政治家たちは不勉強で宗教に対する認識が余りに低すぎるために宗教団体を特別扱いするべきものと思い込んでいるか、または公明党などの宗教政党との癒着のために宗教団体に対してきちんとした対応をとることができなかったようである。宗教団体の社会的責任はそういう面にもあるのだから、きちんと税金を支払うべきなのである。&lt;br /&gt;　話がずれたが、一神教の宗教者というのは、私から見るとよくもこれだけ傲慢になれるものだと呆れてしまう連中である。一神教の唯一絶対全能の神を信じているから、自分たちもその影で偉い存在になったと思い込むようである。中国の清朝崩壊の原因ともなった義和団の乱を引き起こした元の一つは布教のために進出したキリスト教団の傲慢な行動にあったのだし、南米のペルーやインカ帝国の原住民を、「キリスト教徒にあらざれば人間にあらず」という勝手な理由を挙げて奴隷として酷使し、殺戮したのはキリスト教国スペインとポルトガルのキリスト教徒たちであった。歴史的に見てキリスト教徒は昔も今も取り分けて傲慢な連中なのである。「唯一絶対全能の神」という観念が、その信徒たちに必然的にそのような行動をもたらすのだ。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>宗教</dc:subject>

<dc:creator>Festina Lente</dc:creator>
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<title>農業大国での餓死者という不思議</title>
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<description>　先日NHK・ＢＳで放映されたニュースは誠に衝撃的であった。アルゼンチンは世界で...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　先日NHK・ＢＳで放映されたニュースは誠に衝撃的であった。アルゼンチンは世界でも有数の農業国で、農産物の生産活動がふるわないわけではない。むしろ盛況なのだが、その一方で国民のあいだで餓死者が出ているという。その原因は農作物が食料用ではなくて、バイオ燃料用に作られているからだとのことであった。昔も農業国なのにそこで作られている農作物が専ら輸出用であるために、国民が食料不足で悩むという話はあったが、今でも同じようなことが起きているのである。&lt;br /&gt;　なぜこのようなことが起こるのか。バイオ燃料等の農作物を作っているのは専ら企業経営の農場であり、企業の利益と国民の生命とが背反関係にあるのである。昔中学などで習ったプランテーション農業という言葉を思い出した。その産物としては砂糖やコーヒーなどが有名であるが、輸出用の農産物を専ら生産する農業で、それらは植民地としてかつて支配していた宗主国の企業が運営する農業法人が現地人を雇用して生産していたものだ。その現代版がバイオ燃料生産で、小麦などの穀物生産をしなくなったものだからアルゼンチンの人たちには小麦などが市場に出回らなくなって餓死者が出るまでになっているという。ニュースの画面では穀物などが貯蔵されている倉庫が現地の人たちが集団で襲って倉庫に押入り小麦などを持ち去っていて、それを警察が止むを得ないとして見守るだけという状況も放映されていた。国民所得というお金中心の観点から見るとバイオ燃料用穀物の生産によってアルゼンチンでの国民総生産は増えて経済の発展に貢献するのだろうが、その傍らで国民の中に餓死者が出ているとすると何のための経済発展なのだろうか。アメリカ流の近代経済学の基になっている思想は基本的に『市場原理主義』であって、経済活動が市場によって導かれて行われることが最も効率的な結果をもたらすと考えるものだが、「経済とは人間にとって何であるのか」という基本的な理念が欠落しているのである。要するに「お金のほうが人間の生命よりも重要だ」という考え方なのである。そして食事に事欠く人たちはアルゼンチンに限らない。&lt;br /&gt;　今日（2009/11/27）のNＨＫ・ＢＳニュースでアメリカでも十分な食事が取れない困窮者が千万単位で存在するそうで、フードバンクと呼ばれる食料支援団体は支援しなければ成らない人たちの増加のために資金的に苦境に陥っているとのことである。世界一の経済大国アメリカでもこの体たらくなのである。&lt;br /&gt;　昨日私は近くでは大きな書店コーチャンフォーに行ったのだが、経済学書の棚を見ても沢山の本が置かれてあった。紀伊国屋書店などに比べればさすがに本の数は少ないが、それでも沢山ある。そして今や経済学というと、アメリカがメッカである。新古典派の経済学が主流といわれるものだが、経済物理学だ、行動経済学だと新しい経済学を標榜するものが出てきていて盛況である。しかしながらそれらがどれだけ経済の実態を改善するのに役に立っているのだろうかと考えると、以上述べた二つニュースに見られるように、自由市場に基づく経済が「経済とは基本的に人間の生存に役に立つものだ」という基本的な経済活動の役割を改善することに大して役立っていないことは確かであるように私は思う。もしそれは政治の機能不全が問題だとするなら、市場原理主義はそれだけでは不十分であるということである。農業国アルゼンチンの餓死者の出現という問題はやはり国民の生命と財産を守るという基本的な政治の役割が果たされていないということであるし、アルゼンチン政府の責任、農業政策が問われるべき問題である。また現代経済学のメッカであるアメリカは穀物を輸出するくらいの農業国でもあるのに、千万単位の食事に事欠く人たちが存在することに鑑みても、経済学は無力な存在であって、アメリカ的思想そのものである『市場原理主義』、すなわちる経済活動は市場に任せておくベキであるとするイデオロギーはそれだけでは間違いであることが証明されたのである。&lt;br /&gt;　なおオバマ大統領が最重要課題であるとする医療制度改革のニュースを見ても、公的保険に対する異常な反感とでも言うべき感情がアメリカ国民のあいだに存在するようで、われわれ日本人からするとアメリカ人の考え方については何とも理解し難いものがある。所得が少ないために医療を十分に受けられない何千万という人たちを救うことはアメリカ政府の役割であるのは当然であるとわれわれ日本人はは考えるが、民間の保険会社の手先としか思えないような共和党の議員連中は全く市場原理主義のイデオロギーに頃固まった人たちであるが、彼らはそうしたことに気付くこともないのだろう。経済学は社会科学の最上位にあるものと理解されているが、それは強固なイデオロギーをも作り出してもいるのである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ところで今私は『金融工学の悪魔』という題で書いているものがあるが、その途中たまたま以前に読んだチャールズ・Ｒ・モリスの『なぜ、アメリカ経済は崩壊に向かうのか　信用バブルという怪物』（日本経済新聞出版社）をぱらぱらとめくっていたら次のような文章に出くわした。しかしこの内容については、私は全く失念していた。&lt;br /&gt;　「アダム・スミスやデービッド・リカードは政治経済学という名前を使っていた。これは適切な言葉だ。『政治』が抜け落ちて経済学と呼ばれるようになったのは、二十世紀になって経済学に高等数学が使われるようになり、経済学は科学だという幻想が強まったからである。経済学のうち政府の政策を扱う公共経済学は、実証研究の裏づけが乏しく、実際にはイデオロギーの一種だと考える方がよい場合も多い。」（Ｐ４０）&lt;br /&gt;　モリスがイデオロギーといったのは専ら公共経済学についてだが、私はアメリカ経済学の基本的な信念であると考える『市場原理主義』もやはりイデオロギーの一種であると思うのであり、モリスという思わぬ同志がいて嬉しくなった次第である。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　なお今読んでいるジリアン・テット女史の書いた『愚者の黄金　大暴走を生んだ金融技術』（日本経済新聞出版社）で、彼女は前ＦＲＢ議長のアラン・グリーンスパンについて次のように書いている。&lt;br /&gt;　「アラン・グリーンスパンＦＲＢ議長は長年、自由主義市場原理の擁護者であり、１９９８年にはクレディット・デリバティブ業界に対する規制反対の急先鋒となっていた。」（Ｐ１１５〜６）&lt;br /&gt;　またマネタリストの経済学者ミルトン・フリードマンは『政府からの自由』や『選択の自由』（講談社文庫）などの自由市場を擁護する本を書いているが、グリーンスパンにしろフリードマンにしろ彼らは成功したエリートであって、市場の失敗などによって飢餓に晒されるなどといったことはありえず、そもそも豊かで自らの生活が脅かされるようなことがない立場の人間である。『市場原理主義』が一面においては勝者のイデオロギーであることは明白ではないか。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>経済・政治・国際</dc:subject>

<dc:creator>Festina Lente</dc:creator>
<dc:date>2009-11-27T14:12:41+09:00</dc:date>
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<title>日本人は映画『バグジー』に学べ</title>
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<description>　アメリカのニューヨーク株式相場の最高値は確か１４０００ドル程であったと思うが、...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　アメリカのニューヨーク株式相場の最高値は確か１４０００ドル程であったと思うが、１１月２３日のそれは１０４５０ドルで、最高値に比べると約７５％であるのに対して、東京株式相場の日経平均株価は９４００円ほどである。日本の株価の最高値はバブル崩壊前の４００００円弱であったから日本の現在の株価は約２４％である。この差の大きさは一体何ののか。&lt;br /&gt;　２００８年秋に発生したアメリカでの金融危機は１００年に一度と言われるほどのものであったににもかかわらずアメリカの株式市況は日本のそれを遙かに凌いで回復している。今年長年続いた自民党の長期政権が崩壊して民主党政権に代わり、やっと日本社会も変化を求めるようになったところであるが、経済的に見ると相変わらずバブル崩壊後の不景気が続いていて、経済的には変化が見られない。私はそこに日本人の意気地のなさを感じるのである。&lt;br /&gt;　今日（2009/11/25）の日本経済新聞のコラム『大機小機』は「リスクをとらない金融に成長なし」というタイトルで、日本の金融機関が昔ながらのやり方にしがみついていることを批判しているが、そこに見られるのも矢張り『日本人の意気地のなさ』である。日本人は企業家に向かない民族なのではないかと最近私はつい思うのであるが、かつてはソニーやホンダのような戦後起こされて現在は世界的な企業にまで成長した事業を始めた企業家が存在したのだ。それにも関わらず、今やそういった元気のある日本人の企業家の名前を挙げることは私には難しい。かつてノートリアスMITと呼ばれて名前をはせた官僚機構を動かしていたキャリア官僚たちも日本にはいたのだが、今や「天下りと渡り」といった私腹を肥やすための行為にばかり熱心な頭のいいロクデナシとしか思えない矮小な存在に成り果ててしまった。こうした状況では日本が景気を回復させて、元気な社会になることなどは不可能としか思えない。&lt;br /&gt;　先日ウオーレン・ベイテイ主演の『バグジー』という映画を見たが、バグジーはギャングであったが、当時は砂漠にあったちんけな賭博場の横領事件の始末をつけるためにラスヴェガスに出かけていったバグジーが車で帰る途中に、車中での言い争いに激高して車を止めて頭を冷やしに降りて砂漠に歩いていって回りを見渡していたときに、天啓のようにここに豪華なホテルの賭博場を建設することを思いつく。その後このアイデアの実現のためにバグジーは猪突猛進するのであるが、ホテル開業後に殺されてしまう。しかしバグジーの行動は正にベンチャー企業家のそれといって良い。正に夢中になって事業の実現にまい進するバグジーの姿は企業家の鏡であると言える。こうした人間が現在の日本には現れそうに思われないところこそが問題であり、最近の日本人が全く意気地がなくなってしまっている証拠である。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>経済・政治・国際</dc:subject>

<dc:creator>Festina Lente</dc:creator>
<dc:date>2009-11-25T13:19:33+09:00</dc:date>
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<title>CO２温暖化説を疑うという道楽</title>
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<description>　私が最近流行の「CO２温暖化説」を疑うのには、その理論の内容の当否とは別に最近...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　私が最近流行の「CO２温暖化説」を疑うのには、その理論の内容の当否とは別に最近の科学者と言われる人たちの存在基盤のあり方が、大いに問題のある、胡散臭いものになってきている側面を考えるからである。例えば科学者に関する本を沢山書いている小山慶太氏の『道楽科学者列伝　近代西欧科学の原風景』（中公新書）の目次を見ると、序章は「道楽としての学問」となっている。そこでは夏目漱石の講演の内容が引用されているが、漱石は学問をするということは本来的にやりたいことを好きなようにやる我儘な人間の「道楽本位の職業」であると説明しているが、漱石は学者とはそのようなものと理解していたのである。さらに小山氏は現代に下ってアメリカの著名な生化学者シャルガフが次のような話をしていると書いている。&lt;br /&gt;　「職業としての科学が頭脳の行使を前提にしているという意味で、つまりそれが知的な職能であるという意味で、つねに一種奇妙な特徴がつきまとってきた。ものを考え、ものを探求することに対して定まった俸給を受けることには、どこか馬鹿気たところがある。」(Ｐ８）&lt;br /&gt;　歴史的に見て西欧における自然科学の初期の発展の担い手は貴族などの有閑階級の人間であって、彼らが趣味または道楽として行なっていたのであって、科学の研究はけして職業などではなかったのである。それが、現代の科学者であるシャルガフも職業としての科学者というあり方には違和感を抱いたわけだが、しかしこうした感覚を持っている人間自体が現代社会では稀有な存在であるのは間違いなかろう。今や科学者とは社会的に重要な職業で、大学や企業の研究室にうじゃうじゃいるのである。ということは現代では一定のレベルの知性さえあれば誰でもが科学者になれるのである。しかし人数が飛躍的に増えた現代では一流の科学者として認められるためにはコンスタントな論文発表という関門があるそうだ。このことを私は生物学者である池田清彦氏の『科学はどこまでいくのか』（筑摩書房）によって知ったのだが、その問題点を池田氏は次のように書いている。&lt;br /&gt;　「個別の專門学会というのは、ある意味では極めて閉鎖的な組織である。多くの学会は、基本的には会費さえ払えばだれでも入会できるようになっており、一見開放的に見える。しかし、学会誌に投稿した論文の掲載にあたっては、レフェリーがこれを審査して、学会のパラダイムに抵触する論文はすべて掲載拒否をしてしまう、ある意味では極めて保守的で頑迷な組織でもある。&lt;br /&gt;　専門学会に論文を受理してもらうためには、入会しただけではだめで、学会固有のパラダイムを学ぶ必要がある。逆に、大学や大学院でパラダイムを学び、実験装置を自由に使える立場にいれば、凡人でも学会誌に掲載される論文ぐらいは書くことができる。学会は、そのパラダイムに属する研究機関と教育機関を傘下に治めているギルドのようなものである。その主要な機能はパラダイム傘下の業績を発表する場を提供するとともに、パラダイムに抵触する研究者や素人をしめ出すことにある。」（Ｐ１５８〜１５９）&lt;br /&gt;　そうして池田氏は現代の職業的な科学者のあり方を次のように皮肉をもって描写するのである。&lt;br /&gt;　「要するにパラダイムが確立して、学会が設立され、学会誌が刊行されるようになると、凡庸で保守的な研究者は有利になるが、天才的で革新的な研究者は不利になりやすい。制度化され細分化された科学は、凡人の凡人による凡人のための科学なのである。」（Ｐ１６２）&lt;br /&gt;　こうしたことは池田氏ではなければ書けなかったことであろうが、科学者といわれる人たちがいかにも矮小な存在にならざるをえないのは大いに問題ありの状況である。&lt;br /&gt;　ついでに作家のマイケル・クライトンが気候変動をテーマにして書いた小説『恐怖の存在』（早川書房）について触れておこう。この小説では気候変動への対応が世界的な課題になっている状況に付け込んで、NPO法人が寄付金を集めるために人工的に異常気象現象を引き起こそうとする事件を描いているが、クライトンは小説の途中にCO2温暖化原因説を疑うデータを紹介している。クライトンは医者出身であり、科学にも造詣が深いようである。その彼がCO2温暖化原因説を疑っているのであるが、現在CO2温暖化原因説は１００％科学的な真実であるとして受け入れられており、世界中の政府がこの対策に乗り出そうとしている。&lt;br /&gt;　私はどうも人間が下司のせいか、現在のCO2犯人説には胡散臭いものを感じるのである。またCO2犯人説には果たして純粋に科学的な根拠があるのだろうかという疑問がぬぐえないのである。さらにはCO2犯人説は現代の天動説のようなものかもしれないとさえ思ってしまうのである。現代の科学者・研究者の実態に関して池田氏の書いていることが頭にあって、気象学会に所属する大勢の研究者たちにとっては、CO2犯人説はいわば飯の種でもあり、おおっぴらに研究費を要求できるおいしい研究課題なのではないかという勘ぐりさえしてしまう。今やCO2温暖化説に異論を唱える人間はドンキ・ホーテと見做される危険があるが、科学において異論が異端視されるような現代の状況は環境ファシズムといっても過言ではないだろう。&lt;br /&gt;　ところで今私は槌田敦氏の『CO2温暖化説は間違っている』（ほたる出版）を読んでいるのだが、この本を読んで初めて本当に気象現象というものを科学的に理解できたと思った。今や世界中の人々のほとんどはその内容を正しく理解していないままにCO2温暖化説を科学的な事実として受け容れていると思われるが、それは生まれたのがキリスト教社会やイスラム教社会であった人間が刷り込みによってキリスト教やイスラム教の教えを信じるようになるのと全く同じ現象なのである。CO2犯人説は、E=MC2といった物理法則などでは全くない。そもそもレベルが違うのであり、それは単なる学説、仮説にすぎない。そしてその証拠とされるものにはおおいに疑いの余地があるのだ。槌田氏は、大気中におけるCO2の増加が温暖化の原因であるとする主流の説に対して、それは原因と結果が逆で、温暖化したから大気中のCO2が増えたのであると過去の気象データと物理学の理論に基づいて主張しているのだが、私には槌田氏の意見のほうが妥当であると思われる。たまたま手元に朝倉正氏の『気候変動と人間社会』（岩波書店）があったのでパラパラと読んで見たのだが、次のような文章に出合った。&lt;br /&gt;　「最近、氷柱に含まれている炭素から、大気中の二酸化炭素濃度は、氷期に少なく恩暖気に多いことがわかったので、気象変動をおこす主要な要因として二酸化炭素を注目するようになってきた。」（Ｐ２０９）&lt;br /&gt;　私はこの文章を読んで、果たしてこれは科学者の言うことだろうかと疑った。この文章の前段に書かれた事実から、どうして大気中のCO2が温暖化の原因だと断定できるのか。温暖化が原因で大気中のCO2濃度が高くなったと考えることもできるのであり、その方が理屈として筋が通るのである。コーラなどの炭酸飲料を考えて見てもらえば分かる通り、コーラをコップにあけるとき、冷蔵庫で冷やされたコーラはそうでないコーラよりも泡立ちが少ない。それは水の温度が低い方が炭酸ガス（二酸化炭素）が良く水に溶けるからである。二酸化炭素が自然の中に普段存在するのは主として大気中と海水などの中である。気温の高い温暖期の方が海水中 から二酸化炭素はより多く大気中に溶け出るのだし、氷期であれば二酸化炭素は海水中により多く溶け込む。これは単純な科学的な事実である。科学者である人たちが何故こうした単純な事実を忘れて、大気中のCO2濃度が高いのが高い気温の原因であると言うのか、私には全く不思議で成らないのである。&lt;br /&gt;　これは科学者の思考ではなく、単なる思い込みにすぎない言明である。科学ライターの竹内薫氏が『９９.９％は仮説』（光文社新書）という本を書いているが、この本の副題は「思いこみで判断しないための考え方」となっている。気象という現象は複雑であるために因果関係を確定させることが難しいのだろうが、CO2温暖化説には問題がある。朝倉氏は気象学者であるが、CO2温暖化説が支配的なパラダイムになっている気象学会にいて、私が前に書いた子供がキリスト教を刷り込まれるように無意識のうちに思い込むようになり、CO2温暖化説が仮説であることを完全に失念してしまったのではないだろうか。&lt;br /&gt;　鳩山首相がCO2の２０％削減を政策として打ち出しているが、鳩山首相も温暖化問題を本当に理解して言っているのだろうかと私は危ぶまないではいられない。槌田氏の本を是非読んでもらいたいと思う。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>現代社会論</dc:subject>

<dc:creator>Festina Lente</dc:creator>
<dc:date>2009-11-23T19:36:30+09:00</dc:date>
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<title>日本の政治家の危うさ</title>
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<description>　今年自民党が政権党から滑り落ちたことは、私は日本の政治にとっては誠に喜ばしいこ...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　今年自民党が政権党から滑り落ちたことは、私は日本の政治にとっては誠に喜ばしいことであったと評価しているのだが、それと同時に危惧されることがある。&lt;br /&gt;　従来自民党政権の下で政府がやってきたことについての「事業仕分け」が現在行われているが、これを見ると自民党がいかに官僚依存の無責任な政治を行なっていたかがよく分かる。自民党には本当の意味での行政の詳細を把握する意思は全くなかったのであり、官僚に依存する政治しか出来なかったと思わざるを得ないのである。そのように確かに民主党の政権はかつての自民党の官僚依存の無責任政治を打破するという大改革を行なっているのであり評価できるのだが、他方鳩山首相の行動を見るとどこか頼りなくて信頼し切れない人間性に不安を抱かないではいられないのである。私は鳩山首相には何とも言えない人間的な軽さを感じるのである。そして民主党の党内を実質的に仕切っている小沢一郎氏については、確かに選挙のプロではあるかもしれないが、彼の国連至上主義のような見解などは、国連の生い立ちについての根本的な認識を欠いた不見識極まりないものであり、これまでの長年の政治家としての氏の行動は何であったのかと考えると、小沢氏は政治というものについてひどく不勉強な人間であったと私には見えるし、氏のいわゆる剛腕などというのも意思の強固さというよりも単なる面の皮の厚さとヤクザ的な態度を表しているだけではないのか。小沢氏は人格的に判断する限り到底一国の首相足りえない人物であると思う。&lt;br /&gt;　他方で政権党から転落して以降の自民党の動きを見ると、衆院選の時に麻生前首相が政権担当能力を誇示していたのは単なる自己認識の欠落でしかなかったようである。また最近明らかにされた衆院選挙終了直後の多額の官房機密費の使用はまさに「火事場泥棒」に似た行為であり、自民党という政党の卑しさを象徴していると思う。そして現在の党首である谷垣氏についての私の印象を言うと、「甘やかされた意固地なお坊ちゃま」といったところで、鳩山首相と同じように人格的な軽さを感じてしまうのである。&lt;br /&gt;　思想と人格の面で抜きんでた人物はもう日本には見当たらなくなってしまったようだ。幸福の科学の大川隆法氏のような人物が宗教団体の主宰者であるのを見ても、日本人はなんて物事を見る目がなくなってしまったことかと落胆させられるのである。大学進学率が大いに向上したのに反比例して、日本人の見識は見るも無残な惨状を呈している。私には携帯電話の普及が日本人を全く安っぽくしてしまったとしか思われないのである。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>経済・政治・国際</dc:subject>

<dc:creator>Festina Lente</dc:creator>
<dc:date>2009-11-22T09:05:19+09:00</dc:date>
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<title>鳩山総理の政治的言葉遣いに異議あり</title>
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<description>　今晩（2009/11/13）オバマ大統領と鳩山首相の首脳会談が行なわれたが、終...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　今晩（2009/11/13）オバマ大統領と鳩山首相の首脳会談が行なわれたが、終わった後の記者会見での鳩山首相の発言が一部TVで放映された。私はその時の言葉遣いに違和感を感じるところがあったので、その点について書きたい。&lt;br /&gt;　鳩山首相は「日米関係が日本外交のすべての礎であると話して、オバマ大統領の了解を得た」と語っていたが、オバマ大統領は同じ場で「日米関係は対当の関係だ」と語っていた。もし日米関係をお互いに対等な関係と考えているのであれば、鳩山首相は自分の話したことを「オバマ大統領に了解してもらった」などと言わず、「お互いの共通の理解であった」と、何故言わないのか。「了解」という言葉は日本語では対等でない関係を含む場合があると思う。この鳩山首相の言葉遣いは日米関係において日本は従属的な立場にあるのだという鳩山首相の無意識の認識を図らずも現していて、そのために「了解して頂いた」というような言葉遣いが出たのだろうと思われるのである。&lt;br /&gt;　実際に日米関係が完全に対等なものではありえないことは私も理解しているが、対等な関係になるように可及的に努力するのが首相の責務なのではないのか。つい最近沖縄で起きた米軍関係者によると思われるひき逃げ殺人事件を見ても、日米関係が対等なものでないことは明確であるが、こういった犯罪事件についての米軍関係者の取り調べについて今なお日本の警察が当然の事情聴取もできないというおかしな点は到底日本人として認められないものである。こうした点を民主党は早急に改善するようにしなければ成らない。&lt;br /&gt;　従来の自民党政権は、アメリカ政府に対しては初めから負け犬の行動しか取れなかった。政権が変わった今こそ、不条理な対等でない日米関係を改める良い機会なのである。また米軍駐留経費の日本負担分についての『思いやり予算』などという愚劣な呼び方は、かえって卑屈さを含んだおかしな優越感を日本国民に起こさせるものであって、民主党はこうした下らない言葉遣いも早急に改めるべきであると思う。そして『思いやり予算』の内容についても厳しく見直しを行なって、浮いた分は国防予算の自衛隊支出分に回すべきである。&lt;br /&gt;　言葉遣いは心理状態の反映である。日本人はアメリカに対する無意識的な従属意識をきちんと認識して、まず対等な言葉遣いから始めるべきであろう。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>経済・政治・国際</dc:subject>

<dc:creator>Festina Lente</dc:creator>
<dc:date>2009-11-13T23:22:00+09:00</dc:date>
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<title>最近の外国映画のタイトルの付け方から見た日本人の教養</title>
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<description>　今日（2009/11/12）借りてあった『ラブ・アペタイザー』というDVDの映...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　今日（2009/11/12）借りてあった『ラブ・アペタイザー』というDVDの映画を見たが、なかなか味わいのある映画であった。最近のアメリカ映画はあざとい感じのものが多いと思うのだが、時々家族や男女の愛を描いた映画で、見応えのあるものがあり、この映画もそうした良い映画であったのだが、この日本語に直された映画のタイトルには全く情けない思いがした。&lt;br /&gt;　映画の内容は、高齢の大学教授の夫妻、レストランの店主の中年の夫婦、その店に働く若い男とその恋人、不動産セールスの女と不倫相手の男、といったいろいろな形の男女の関係が描かれるのであるが、日本語のタイトルである『ラブ・アペタイザー』の安っぽさとは全く対照的な内容のものである。映画の原題はfeast of loveで、英語の辞書で調べるとfeastには①ご馳走、②祝宴、宴会、饗宴、③（宗教的な）祝祭日という意味が出ていたが、『ラブ・アペタイザー』というこの日本語のタイトルを考え出した人間は、①の意味に引き摺られたのだろうか。しかしアペタイザーは、食欲をもり立てるものという意味だから矢張りおかしいのだ。それよりも何よりも、『ラブ・アペタイザー』とは何と品性下劣な言葉遣いだろう。&lt;br /&gt;　私はこんな安っぽいタイトルを考え出した人間は果たしてどんな人間なのだろうかと想像したし、またこの映画を供給したのがソニーであると知って一体どうしたことなのかと疑ってしまった。昔の外国映画では日本の供給会社が映画の内容に則した素晴らしい日本語の題名にしたものがあったが、最近の外国映画については、安易に原題をカタカナにしただけのものや、映画の内容と全く関係がないようなおかしな題名（それもカタカナ英語のもの）を付けたものも見られて、担当者の日本語の能力不足を大いに印象づけられるのである。日本では大学進学率も高く高学歴化が進んだのだが、それに反比例して、日本語の使い方のレベルが大幅に低下しているように思われる。グローバル化で英語の能力向上が叫ばれているが、藤原正彦氏が言うように、やはり日本語の能力をきちんと身に付けないと内容空疎で教養のない人間が出来上がるようである。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>経済・政治・国際</dc:subject>

<dc:creator>Festina Lente</dc:creator>
<dc:date>2009-11-12T18:38:44+09:00</dc:date>
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