セックス、エロス、ポルノ

2008年4月22日 (火)

アメリカにおける不倫相手に対する損害賠償を認める州法について

 今日(2008年4月22日)、アメリカのTVニュースで、ある州では結婚している人間と不倫関係を持った場合に、その不倫の相手方に対して結婚の不倫された相手方が損害賠償を請求することができるという州法が成立したことについて、賛成派と反対派の男性間で議論が行なわれているのがNHKのTVニュースで放映されたが、反対意見の男は不倫は昔から存在する事象で法律を作ったからといって減るような問題ではないといって法律の効果を否定していたが、それに対して賛成派の男の意見は、「結婚の神聖」といった観念に基づき不倫に基づく結婚の崩壊という損害に対して不倫相手は損害賠償を支払うべきだというものである。しかし結婚というものの本質をどのようなものと考えるかによって結婚外恋愛・交渉(不倫というのは初めから価値的に偏った言葉であるので以後は使わない)についての態度は違ってくる。私は歴史の初めから存在しているものを今更道徳的に良くないから法律によって損害賠償の対象にするというのは全く馬鹿げた愚かな考え方であると思う。
 作家の大庭みな子さんは結婚について次のように書いている。
 「結婚は常に危機にさらされているべきである。危機にさらされた状態で、持ちこたえ、安心を確かめ合うのがよい。・・・・・・・
 夫が妻以外の女に興味を持ったり、妻が夫以外の男に興味を持ったりするのは少しも悪いことではない。ごく自然なことである。だからそういうことはかくし合わないほうがよい」(『女の男性論』中公文庫P9、10)
 キリスト教文化圏の結婚は神によって認められて初めて正当なものになるというもので、だから離婚も認めないというものであったが、今はその点も変わってきている。上記の法律の賛成者はキリスト教文化に忠実な人間なのだが、結婚という男と女の関係を神に係わらせること以外には考えられないという思考停止状態にある。自分がキリスト教の教義通りに生きたいのならそうすればいいのであって、他人にまでそれを強制するようなことはハッキリ言って余計なお世話以外の何ものでもないのだが、この男はけっして納得しないだろう。そして大庭みな子さんの言っている上のような結婚観と結婚外恋愛・交渉についての理解は彼にはけっして受入れられないものであろう。また結婚するしないについての大庭さんの以下のような意見も彼の理解を超えるものであろう。
 「双方が決心して子供を持った時以外は法律的な結婚はまったく無いほうがよいかもしれない。・・・・・結婚の本質的な意味は法律とはまったく無関係なのだ、ということを知っていたほがよい。ところが、実際には結婚は法律だと思っている人が多いのにはびっくりすることがある。法律的に結婚した夫婦間ではしかじかこうこうの権利と義務がある、というようなことが言われ、それを当然だと思っている人も多いようである。しかいS,
法律というものはもともと人間の社会生活を円滑にするための規則であり、人間を拘束するためのものではないはずだ。」(P11〜12)
 この文章の「結婚=法律行為」論の「法律」を「宗教」に取り替えたら、上記の賛成者の考え方になる。キリスト教のマインド・コントロールが今なおアメリカでは強い力を持っているのだ。キリスト教の結婚観は果たして人間を幸福にしてきたのだろうか。私は大庭さんの結婚についての考え方は非常に実際的で、人間の幸福に結びつくものであると思う。
 「婚外の性的な行為を浮気と呼ぶが、これはいやな言葉である。これはたぶん、結婚制度を合理化するための言葉らしいが、もともとそんなものはないのである。もともと、男であるということ、女であるということはお互いに性的な関係を持ち得る、ということなのだ。・・・・・・男と女は好き合うようにできている。そんなことを言いわけがましく、あれは浮気であった、などと定義づける必要はない。」(P17〜18)
 人間の本質からして結婚外恋愛・交渉もごく自然な事柄であるという、こういった真の大人の考え方はキリスト教徒にはどうやら無縁のもの、理解の及ばないものであるようだ。大庭さんの次の言葉にはきっと腰を抜かすに違いない。
 「できることなら、夫と妻はお互いの恋人の話を優しい言葉で語り合えるようになったほうがよいのだ。ちょうど親友に、他の魅力のある友人の話をするように。」(P18)
 男と女とは初めから好き合うように出来ているという普遍的な真実を踏まえて生きるほうが人間は幸せになれると私は思うのだが、キリスト教のセックスを罪と見なして否定する偏狭な考え方は西洋社会にとてつもない不幸をもたらしてきていると思う。

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2008年4月 9日 (水)

お寺で修業するということの裏の意味

 日本ではお寺というと、当然仏教のお寺である。宗教的な施設という意味では、キリスト教の教会もユダヤ教のシナゴーグ、イスラム教のモスクもお寺と同じようなものであるが、そこで具体的に何がおこなわれているのかという意味で見ると同じではない。日本の仏教寺院=お寺は、出家した人間が仏教の修業をする場所という意味があるが、その他の宗教ではあまり修業をする場所という意味はないようである。信徒が集まって宗教的な礼拝をする場所という意味が強いようである。しかし日本では有名なお寺になると、古くから伝わる仏像などを安置していることがその寺の存在価値であるかのようで、お寺の住職は単なるそういった歴史的な遺物の管理者であることに意味を見いだしているかのようである。つまりキリスト教の教会がキリスト教徒の集会のための場所、罪を告白する場所としての意味を持って機能しているのとは違って、仏教信者のための有効な信仰を促進する場所という意味を現在のお寺は持っていないのがほとんどであるように思われる。むしろそういう信者が集まる信仰のため場所としての機能を果たしているのは、新興宗教の場合に限られるのではないか。なお日本の場合、新興宗教もほとんどが仏教の信仰であって、キリスト教、ましてやユダヤ教、イスラム教の新興宗教団体はないようだ。
 ところで私はお寺で修業するということの裏の意味というものを書こうとしている。お寺は本来出家者のための仏教の修業の場であったが、その裏の意味としては昔なら変態性欲と呼ばれた『同性愛』、今ならゲイといわれるセックスが修行者の間で広く行われた場所であった。こんなことを書く気になったのは、中丸明さんの『好色義経記』(新潮文庫)を読んでいたら、牛若(義経の幼名)は預けられた鞍馬山の禅林坊で坊主たちにとことんお釜を掘られたと書かれていたからである。そうだとすると、義経って不潔と思う人もきっと出て来るだろう。しかし最近のアメリカ映画を観ると、同性愛は今や完全に市民権を得ているように思われる。同性愛も、セックスの趣向・好みの一つに過ぎないと考えられるようになったのだ。
 北森鴻の小説『狂乱廿四孝』(角川文庫)では、歌舞伎役者の子役がお寺の坊主に買われるという話が出てくるが、これは昔からある稚児買い、すなわちお釜掘りの相手になっていたということで、何も特別なことではなかったのだ。(ついでながら、歌舞伎役者は客商売だから商家の御上などに買われてセックスするのも日常的なことになっていたそうである。)
 ちなみにローマ・キリスト教会はなぜか聖職者の妻帯を禁じた。しかしその実態はというと、多くの聖職者は妾を抱えて私生児を作っていたのである。別にイエスは聖職者が結婚することを禁じてはいなかったのだが、イエスが死んだ後の教団関係者の間では、なぜかセックスを罪とみなし敵視する考え方がキリスト教の基本的な教義に潜り込み、聖職者の妻帯禁止という意味のない戒律をでっち上げたのである。しかしルネッサンス期前後、ローマ・キリスト教会の本家本元であるローマ教皇たちは毒殺されたり、数知れない私生児を生ませたばかりでなく、ローマ法王の寝室は売春宿にも等しい状態になり、梅毒にかかった法王も多くいたのである。
ユダヤ教やイスラム教の聖職者について私はセックスがらみの話は余り知らないが、ルネ・ゼルウィガー主演の映画『しあわせ色のルビー』では、ユダヤ教のラビ見習いと結婚した女性主人公が知り合いのラビに侵される場面が出てくる。ラビたちもセックスの面では必ずしもきちんと行動せず、平気で戒律を破ったことが描かれている。ことセックスとなると、宗教の戒律なども大して有効に機能しないのである。セックスはそれほどに強力な欲望なのだ。
 こうして日本では「お寺で修業する」とは、裏の意味としては同性愛=お釜掘りの修業をすることでもあったのである。キリスト教の修道院でも同性愛の関係は当然存在した。最近は同性愛も、当たり前の性関係として社会に受入れられるようになったが、かつては異常性欲などとよばれてキリスト教世界では特に大変な差別を受けていたのである。日本ではキリスト教のような罪悪視をする考えが存在しなかったから,ひどい弾圧を受けることもなかったのである。人間はもともと性欲を持った存在である(動物なのだから当然だ)から、同性しかいない状態で同性愛に走る者が出てきても何ら不思議はないのだが、反セックスに凝り固まったキリスト教会は聖職者の妻帯を禁止することで妾を持つことを促進し、同性愛者を罪びととして糾弾し、圧迫したのであった。

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2008年3月12日 (水)

「下半身に人格はない」とニューヨーク州知事

 エリオット・スピッツァー・ニューヨーク州知事が売春婦との関わりを自ら認めたと報道されている。過去にはクリントン元大統領のモニカ・ルインスキー事件も起きた。なぜこうした事件が繰り返されるのか。答えは簡単だ。性欲は人間の欲望の中でも最強のものだからである。私がこのブログで「下半身に人格はない」という表現をタイトルに使ったのは3回目である。不倫であれ、買春であれ、この先も同じようなことは続くし、決してなくなることはないだろう。それほどに性欲は強力なのだ。だから問題は「不倫」や「買春」は道徳的に本当に悪いことなのかどうかということである。もし何も悪いことでなければ、問題になることはないのである。結論を書くと、「不倫」や「買春」を道徳的に悪いこととする根拠はないと思う。歴史上ずっと行われてきて、これからも無くなるとは考えられない事柄であり、人間の自然に属する事柄を道徳的に悪といっても意味がないと私は思う。
 われわれの社会では「不倫」や「買春」は、アプリオリに道徳的悪であると受け止められている。果たして本当にそうなのだろうか。その根拠は何であるのだろうか。例えば、聖書に罪だと書かれているからと西洋人なら言うだろう。私は、それに対してこう聞きたい。「それは単なる刷り込みなのではないですか」 われわれは子供の時に父親や母親から言われたことを無批判に受入れるという圧倒的な傾向を持っていて、父親や母親の意見を批判的に検討して自ら判断することはほとんどないと思う。大きくなると本を読んだり先生の意見を聞いたりして、今まで無意識のうちに受入れていた父親や母親の意見を批判的に検討し直す者もでてくる。そもそも父親や母親たち自身が子供に教えることを自らの徹底的な検討に基づいた意見としていっているケースは稀であると思う。父親や母親も、刷り込まれたことを言っているに過ぎないのがほとんどである。西洋人の場合は教会で聞いた話や聖書で読んだ話などを無批判に受入れて自分の考えのように言っているだけだ。だから子供から道徳的善悪の根拠を説明して欲しいと言われた時に、きちんと説明のできる父親も母親もほとんどいないはずだ。彼らが理由としてあげるのは、聖書にこ書かれているからとか牧師がこう言っていたとかいう話であろう。そして牧師さえも自分で考えたりなどしてはいないはずだ。更にいえば、聖書を書いた人間でさえもそれほど深く考えたりなどしていないと思う。私は聖書が無条件にその内容に従うべき物であると一般に受入れられていること自体がおかしいと考える。キリスト教はアプリオリに「性欲(肉欲ともいっているが)は罪」とする教義を作り上げたが、私のような非キリスト教徒からすると、敢て刺激的な言い方をすると、どこの馬の骨が書いたのかも解らないような本の内容を何かとてつもなく神聖なものであるかのように受入れているキリスト教徒というのは、大変なマインド・コントロールを受けた人たちであるとしか考えられないのである。キリスト教は、結婚を男女の性的結合が正当なものと認められる唯一のライセンスであるとしてきたが、一体人間はセックスをするのに、自分たち以外の誰の承認を必要としなければならないのだろうか。男と女の性的関係を当事者以外の者が良いの悪いのという権利は一体どこにあるのだろうか。私に言わせれば、全く余計な話である。そして結婚したら配偶者以外の人間とセックスしてはならないという道徳的決まりは誰が決めたことなのか。キリスト教では、それは神の決めたものだというのだが、神など存在しないと考える人間から見ると全く何の根拠にもなっていない。それよりも人間の行いを歴史的に観察してみるべきである。キリスト教の「終身一夫一婦制」の理念はけして西洋でもきちんと護られてきたことはなく、森永卓郎氏は『<非婚>のすすめ』(講談社現代新書)で、ヨーロッパでの「終身一夫一婦制」を実質的に支えてきたのは「不倫の伝統」であったといっているが、私もそうではないかと思う。また仏文学者の加島茂氏は19世紀初めの3人の大文学者バルザック、ユゴー、デュマを扱った『パリの王様』(文春文庫)で、彼らの作品の完成量は彼らの精液の射出量に比例していたと書いている。セックスに関わるエネルギー、性欲は人間にとって根本的なものであり、それを「罪」としか考えないキリスト教のドグマは人間にとっては害悪以外の何ものでもないのである。
 先端技術のアメリカで未だにキリスト教のセックス観(セックス=悪)が公式の道徳の基礎になっていることは面白い。私は、今まで何回も書いたが、作家の大庭みな子さんが1970年代という早い時期に男と女の関係について革命的な意見を述べている。1970年(昭和45年)に雑誌に発表した『幸福な夫婦』に述べられている考え方は私には衝撃的なものであった。そしてそれはキリスト教の「終身一夫一婦制」のドグマを完全に粉砕するものであった。大庭さんの考え方と比べるとキリスト教の「終身一夫一婦制」のドグマなどは人間性を理解しない幼稚なものでしかない。
 キリスト教では結婚はキリスト教会が認めたもでなければならなず、神が認めたものは取り消しが利かないとして離婚を認めなかったが、大庭さんは、男も女も自由な人間として簡単に離婚できるほうが人間性にかなった結婚のあり方であるという。女性が男性に経済的に従属することが結婚の存続に関係するようなことがあってはならないのである。そしてたとえ結婚していて配偶者以外を好きになることがあっても、それは人間性の自然なあり方なのである。配偶者以外にも好きな人間ができたからといって離婚しなければならないわけではない。大庭さんの言うように「男と女は好き合うようにできている」のであるから。以上のような心境こそは、人間の進歩を表すものであると思う。
 「できることなら、夫と妻はお互いの恋人の話を優しい言葉で語り合えるようになったほうがよいのだ。ちょうど親友に、他の魅力ある友人の話をするように。」
 (以上の引用は大庭みな子さんの『女の男性論』(中公文庫)P18)
 こういった精神のありようも、小さなときからキリスト教のような偏った精神構造とは関係のない家庭環境・社会環境の中で育てば人間に自然と身に付くものであろう。「下半身に人格はない」は誤解を招く言い方だが、これも人間性の自然を表していると思うのである。

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2008年3月10日 (月)

「下半身に人格はない」と未熟な校長ストーカー

 埼玉県の市立川口高校の校長が元教え子の女性に対する脅迫罪で3月8日に逮捕された。その日は丁度高校の卒業式の日であった。こういうニュースを聞くと、人生は面白いと思う。校長は56歳で、メールや電話で脅迫を受けた女性は20代とのこと。色恋沙汰には年齢は関係がないのだ。またポストも関係がない。教職にある人間がそんなことをするのはおかしいと考えるのは、人間というものを理解しない者の言うことである。どんな立場にいようと、例えば宗教団体のから教祖であろうと、色恋沙汰に影響されない人間はいない。つまり性欲がない人間は存在しないのだ、たとえその強弱の差は激しいとしても。
 性欲は人間に対して最も強い影響を持つ本能の一つである。だから宗教は性欲を敵視してきた。性欲を克服できることを立派なことと教えてきた。キリスト教の性欲に対する根本的な考え方は「性欲は罪」というものであり、「禁欲」を大いに讃えてきた。しかしキリスト教の「性欲は罪」という主張には客観的な根拠はあるだろうか。それは単なる無知に基づく偏見に過ぎないと私は思う。人間にとって、食欲が満たされなければならない欲望であるのと同じように性欲も満たされることが必要である。ただし食欲を満たすための対象は基本的に人格とは関係がなく相手の同意を得る必要がないが、性欲の場合は、人間以外の動物相手の場合を除けば、性欲を満たすための相手に対して同意を必要とする。たとえお金を払ってする場合であっても、相手がいやといえば無理にはできない。お金を払ってセックスすることについては未だに道徳的または法律的にけしからぬこととされているが、私はそれは全く余計なことであると思う。個人が完全なる自由意思に基づいて商売としてセックスをすることを罪や犯罪とすることは全く意味がないと私には思われる。
 ところで今回の高校の校長がストーカー行為を行ったことは、彼の精神的な未熟を現しているに過ぎない。教育界の人間は、その立場ゆえに偏見を持って世間から見られている。教師であっても性欲を持った人間であることに違いはないのに、である。他方、巷間「教師こそはスケベが多い」ということも言われる。教師に性欲を認めない偏見が言わしめることである。教職員を色恋沙汰に関して特別視すること事態がとんでもない間違いであると私は考える。人を教える仕事をすることと、教師が性欲を持った人間であることとは何も矛盾することではない。考えても見よ、教師という仕事についたからといって性欲が無くなるはずはない。教師であろうと、教祖であろうと、哲学者であろうと、人間が性欲を持つことには変わりはないのだ。
 人間が異性を好きになる原因は性欲であるが、相手の同意が得られないなら諦めるしかないことを成熟した人間なら学ばなければならないのだが、残念なことにこの校長はそれを学習する機会がなかったようである。性欲は実に強力な欲望であるが、それを満足させるには相手の同意という絶対的な制約が存在する。お金を払わないセックスは人格的なものであるから、人間は相手の同意という絶対的な制約をクリアしない限りできないことを理解しなければならないのであるが、その行動で判断する限りこの校長は余りにも精神的に未熟であった。「下半身に人格はない」は人間の絶対的な真実であるから、お金を払ってやることはそれも一種の同意の上のセックスだから構わないが、それ以外は、セックスに関しては相手の嫌がることだけはやってはいけないことをルールとして理解しなければならないのに、この校長は余りにも世間が狭すぎたのではなかったか。50代でも恋する力があったのは立派なことなのだが。人間、いくつになっても枯れてはいけないと私は考えるが、年相応の恋の仕方を身に付けなければならないと思う。

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2008年2月20日 (水)

猥褻とは何ぞや

 08年2月20日の日本経済新聞社朝刊に米国の写真家、故ロバート・メイプルソープ氏の写真集が猥褻物に該当するかどうかが争われた上告審で最高裁判所は芸術性などを理由として猥褻物に該当しないと判決したという記事が載っていた。私はかねてより猥褻物という観念自体が間違いだと考えている。特に人間の性器を猥褻物だとする考え方は全くおかしいと思う。人間の誰もが持っている体の一部を特に猥褻であると見なす考え方は、どうもキリスト教由来の惰性的な固定観念であるとしか思われない。誰もが知っているように、アダムとイブとは知恵の実である林檎を食べたことが神の禁止を破ったとして神の怒りを呼び、エデンの園を追放された。アダムとイブは知恵を身に付けたことによって自分たちが裸でいることを知って恥じいり、腰の廻りを木の葉で覆うようになったという。神による性器を覆った姿の彼らが楽園を追放される絵はほとんどの人が見た覚えがあろう。子供がこれを見ると、性器は隠すべきものであるというマインド・コントロールを受けることになる。
 ところで知恵が付くことと性器を恥じるということとは果たしてどういう繋がりがあるのだろうか。私たちはなぜかこのことを問うことなく、当たり前にように受入れているが、これはマインド・コントロールそのものであると私は考える。性器はすべての哺乳類が持っているが、それを恥じているのは恐らく人間だけだろう。人間の男は成長すると毎日自分で性器を保持しながら小便をするが、それは毎日猥褻物を目にし触っているということだ。男ならトイレで並んで小便をするときには自分の性器が大きいかどうかが気になるものだが、その時にも別に猥褻であるかどうかを意識はしていない。ただ男の性器は男の象徴でもあるから、大きさが気になるのである。男性器の大きさを気にするのも一種のマインド・コントロールといってもよかろう。
 ところで日本の春画は性器をもろに描いているが、今はそれを誰でも入手することができるようになった。平凡社の発行する雑誌『太陽』の『春画』には大勢の浮世絵師の春画が掲載されている。またD・H・ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』は猥褻裁判で有罪となったものだが、今やなし崩しに完訳本がいくつも出版されており、サド公爵の『悪徳の栄え』も同様である。現代の日本では猥褻の観念はなし崩しに緩和されてきているのである。私はもう猥褻などという観念は廃棄するべきときに来ていると考えるのだが、これを積極的に行おうとする立法者、つまり国会議員は全くいないようだ。なぜなら日本の有権者のうちの女性、特に子供を持つ女性が強く反対しそうだからであろう。しかし女性いはもっとセックスのことを正視してもらいたいと私は望む。 「太陽も死もじっと見つめることはできない」というのはラ・ロシュフコー公爵の箴言だが、これに「性器も」と付け加えてもよいだろう。今やインターネットの普及は、誰でもが性器はもちろんセックスしている姿、さらにはアナル・セックスさえも目にすることができるようになっている。そうしてこうしたものを見慣れると、猥褻という観念はむなしいものに思われてくる。警察や裁判の世界でだけ未だに性器やセックス行為を猥褻などといって騒いでいるのだ。警察官であれ、裁判官であれ誰でもが自分が体の一部として持っている性器や男と女なら誰でも当たり前にする日常的な性行為をわざわざ猥褻として取り締まるのは、全く馬鹿げたことではないだろうか。警察や法律家は制定された法律を守らなければならないのだから、問題は猥褻などという観念を法律の中に持ち込んだ立法者に問題があるのだが、彼らは一体何を根拠にして猥褻という観念を正当化するのだろうか。アダムとイブの楽園追放の絵は、無意識のうちに猥褻の観念を人々のうちに埋め込んでいるが、宗教の教義はその根拠を求められることがないから、場合によっては人類に大変な害を及ぼしうるのだ。、特にキリスト教の原罪という観念は人類に大きな害悪を及ぼしたとんでもなく悪質な観念であった。人間は生まれつき原罪を負っていると主張しているが、どうしてそうなのかの証明を求められることはない。キリスト教徒はなぜそんな観念を疑うことなく受入れたのだろうか。そのこと自体も問題であるが、神を根拠にして証明を求められることを拒否するこういう主張は本来あってはならないことではないのか。教育制度もなかった大昔は、そんな主張は信徒を脅しつけるのには多いに役立ったろう。そうしてキリスト教会は信徒から多いに絞り取ったのだが、この詳細については中丸明氏の『絵画で読む聖書』を読んでください。
 猥褻の観念を追放することを求める主張に対しては、子供や青少年に対する悪影響ということを理由に反対する人たちがまだまだ大勢であると思うが、そういう人たちには「セックスを正視する」ことを求めたい。セックスを子供に対して隠すことの方がむしろ問題であると私は考える。

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2008年2月15日 (金)

政治家の下半身

 アメリカでは現在大統領候補者の予備選挙で騒がしいが、キリスト教道徳のせいであろう、異性問題が発覚すると即、大統領として不適格とされるようである。これは随分と狭量な話ではないかと私には思われるが、下半身は政治家の鬼門のようである。
 さてフランス人ブラントームの『艶婦伝』(新潮文庫)は、セックスがらみの歴史上の逸話を集めて書いた本であるが、私がこれを読んだのは中学時代で、」受験勉強をしながら読みふけったことを覚えている。この本は小西茂也氏の翻訳だが、旧仮名遣いがまたなんとも趣があって私には好ましく思われる。ところでこの中にローマ帝国の政治家ジュリアス・シーザーの逸話があって面白いので引用する。なおこの引用の中で「シーザー帝」という言葉が使われているが、正確ではない。なぜならシーザーは終身独裁官ではあっても皇帝にはなっていないからである。紀元前27年にオクタウィアヌスが元老院からアウグストゥスの称号を授与されたのがローマ皇帝の始まりである。
 「なにしろシーザー帝は英雄色を好まれただけに、這(しゃ)般の(このような、の意)眞相はよく心得てをられたに違ひない。「悉皆の牝鳥相手の雄鶏」とまで帝は云はれ、町に澤山のコキュ(寝取られ亭主のこと)を作られた豪の者だつたので、その凱旋の折りには兵士どもは、「ローマ人ども、女房はちゃんと蔵つておけよ、名代の艶魔、コキュ作りの名人、禿のシーザーさまをお連れ申したから、軒並みにやられるぞ。」と、からかつていたのを見ても解らう。」(P28)
 スエトニウスの『ローマ皇帝伝(上)』(岩波文庫)「の第一巻 カエサル」にも次のような文章がある。
 「50 カエサルは色を好み、放埒であった、そして名門の婦女子を多く誘惑し辱めたというのが定説である。」(P56)
 「51 属州の貴婦人にまで手を出して憚らならなかったことは、少なくともガリアの凱旋式に、他の歌と同じように兵士らがカエサルに浴びせた次の二行詩で明らかである。
 『都の人たちよ、女房を守れ。いま、われわれは、薬罐頭の女たらしを連れ帰った。
 カエサルよ、あなたはローマで借りた金をガリアで放蕩に使い果たした』(P57)
 薬罐頭についてはスエトニウスの次の文章を読めば腑に落ちるであろう。
 「しかし(カエサルも)醜い禿頭だけは、政敵が攻撃のたびに揶揄の対象とするのを何度も体験し、堪え難く悩んでいた。」(P53)
 「52 ・・・・彼の不貞と姦通に関する不名誉な噂が盛んに燃えていたことは、まったく疑う余地がない。」(P59)
 しかしシーザーの英雄色を好む振る舞いは、彼の政治家としての資格にはなんら影響を与えなかったようである。
 他方、明治維新の功労者であった伊藤博文も女好きでは有名であるが、彼が総理大臣に就任するのにまったく支障にはならなかったようである。福田和也氏は『総理の値打ち』(文春文庫)の中で次のように書いている。
 「その病的ともいうべき好色が話題にのぼることが多い。実際、現在の価値観からすれば、伊藤は総理大臣を務めるどころか、性犯罪者として糾弾されるべき存在かもしれない。相手の容貌にはさほど頓着しなかったために、恨みを買うことは少なかったとも云うが。」(P17)
 しかし福田氏の政治家としての伊藤博文に対する評価は非常に高い。福田氏の歴代総理大臣に対する評価点数ではトップの91点を与えているのである。
 「明治天皇は、数ある重臣、元勲のなかで伊藤を最も信用していたと伝えられている。
 ・・・・・・・・・・・
 いずれにしろ、明治国家の立憲体制の立役者であり、良かれ悪しかれ政党政治のあり方を決定した人物でもある。アジア最初の立憲政体の生みの親であり、また自ら作った制度の下で政治家として活躍した最初の議会政治家として、その功績は不朽といわざるをえまい。」(P17〜18)
 ところが近年政治家には身辺が綺麗であることが求められるようになっている。異性問題でつまずいた最近の政治家の典型は、第47代総理大臣・宇野宗佑であろう。福田和也氏は『総理の値打ち』(文春文庫)の中でごく簡単に次のように触れている。
 「女性スキャンダルで失脚した最初の首相。日本もアメリカ並になった、と喜んでもいられない。」(P173)
 女性スキャンダルといっても、宇野宗佑の場合は愛人に対する手切れ金の多寡が格好のマスコミの材料になったくらいで、伊藤博文とは女性の数のいわば規模が全く違うのである。 しかし考えてみると宇野総理スキャンダルなど全く狭量な話ではないだろうか。これを書いていて、ふと思い出した文章があるのでそれを引用する。I・モンタネッリが『ローマの歴史』(中公文庫)の中で、ローマ最初の皇帝アウグストゥスの三度目の妻リヴィアについて書いたものである。
 「リヴィアは良妻賢母の鑑、つまり完璧な悪女だった。子供の教育に熱心で、言動に非の打ち所なかったが,夫の浮気には目を吊り上げて嫉妬した。」(P243)
 モンタネッリの「良妻賢母の鑑、つまり完璧な悪女」という考え方はなかなか独創的で面白いが、私には、現代の人びとの女性スキャンダルに対する対応は、これとそっくりであるように思われるのである。
 ところで男と女の関係については、私は作家の大庭みな子さんが書いていることが一番まともであると思っているので、それを引用しておこう。大庭さんは『女の男性論』(中公文庫)というエッセイ集の中の『幸福な夫婦』で次のように書いている。
 「幸福な結婚とはいつでも離婚できる状態でありながら、離婚したくない状態である。夫にすがりつく以外に生きられない女性は夫を束縛してうるさがられるか、夫に憐れまれるかどちらかである。妻に去られることを恐れているような男はたいていは魅力がない。一人で生きなければならない場合を常に予期しながら、現在の慰め合える状態を尊いものに思うのが結婚生活を幸福にする方法である。」(P9)
 これはフェミニズムに近い考え方であるといっても良かろう。大庭さんの次の文章はもっと過激である。
 「できることなら、夫と妻はお互いの恋人の話を優しい言葉で語り合えるようになったほうがよいのだ。ちょうど親友に、他の魅力ある友人の話をするように。
 夫や妻はどこへ行くの自由もあるのである。結婚の場にとどまっているとしたら、それは自由な意志でそうしているのである。結婚における義務とか権利とかいうものがあるとすれば、相手をその場にとどまりたいような気分にさせる機会を与えられているということだけである。」(P18)
 なかなか過激でしょう。しかし私は大庭さんの考え方は良識にのっとったものであると思っている。なぜなら人間性の実態を踏まえるなら、結婚していても異性を好きになることがあるのは自然なことであり、それを不道徳ととする考え方は人間性の自然に背くものだからである。
 結婚をがんじがらめの一夫一婦制にしたのはキリスト教であろう。しかもカトリック教会は結婚を生涯にわたる束縛にして離婚を禁止し、人間を不幸にしたのである。しかしもはや人間性の自然には逆らえず、ようやく離婚を認めるようになってきた。
 そもそもなぜ結婚やセックスにキリスト教会が介入することが当然と考えられたのであろうか。歴史的事実としてキリスト教はセックスを罪と見なしてきた。キリスト教会は夫婦の間のセックスさえあらゆる屁理屈をこねて妨害することに躍起となっていたのだが、その足下でローマ教皇は自らソドムとゴモラを実演していたのだ。本来ローマカトリックの聖職者は妻帯してはならない(つまりセックスしてはならないのである、それは罪だから)ことになっているのに、ルネッサンスに至るローマ教皇のほとんどは私生児を作り、場合によっては梅毒にかかってさえいたという。信徒に言うことと教皇自身がやることは全く違っていたのである。このことが宗教革命の下地になったのではないか。プロテスタントの牧師は妻帯を認められている。
 政治家の下半身の話から随分遠くなってしまったようだ。アメリカの政治家は女性問題のスキャンダルが起きるとすぐに政治家であることをやめなくてはいけなくなるようであるが、それはキリスト教の影響であろう。シーザーが好色であることを知られていながら政治家としてトップの地位にとどまれたのは、まだキリスト教がローマ帝国の国教になる前だったからであろう。ローマ帝国の人たちは現在のように狭量ではなかったのである。しかし現代の日本でも女性スキャンダルは政治家の命取りになる。それはなぜなのだろう。結婚に関しては日本でもキリスト教の観念が支配的であるからではないだろうか。終身一夫一婦制こそが最も道徳的に正当な男女関係とまだ見なされているのである。しかし本当に自立的な男と女の間では終身一夫一婦制の観念など意味を持たなくなるであろう。
 「下半身には人格がない」という言葉は、人間性の自然を表していると私は思うのだが、それを正視したら政治家の下半身に対してもっと寛容になることができるのではないだろうか。「良妻賢母の鑑、つまり完璧な悪女」的なセックスに対する道徳観念は人間を不幸にするだけである。手切れ金をけちるのは、おおいに人格の問題ではあるが。

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