アメリカにおける不倫相手に対する損害賠償を認める州法について
今日(2008年4月22日)、アメリカのTVニュースで、ある州では結婚している人間と不倫関係を持った場合に、その不倫の相手方に対して結婚の不倫された相手方が損害賠償を請求することができるという州法が成立したことについて、賛成派と反対派の男性間で議論が行なわれているのがNHKのTVニュースで放映されたが、反対意見の男は不倫は昔から存在する事象で法律を作ったからといって減るような問題ではないといって法律の効果を否定していたが、それに対して賛成派の男の意見は、「結婚の神聖」といった観念に基づき不倫に基づく結婚の崩壊という損害に対して不倫相手は損害賠償を支払うべきだというものである。しかし結婚というものの本質をどのようなものと考えるかによって結婚外恋愛・交渉(不倫というのは初めから価値的に偏った言葉であるので以後は使わない)についての態度は違ってくる。私は歴史の初めから存在しているものを今更道徳的に良くないから法律によって損害賠償の対象にするというのは全く馬鹿げた愚かな考え方であると思う。
作家の大庭みな子さんは結婚について次のように書いている。
「結婚は常に危機にさらされているべきである。危機にさらされた状態で、持ちこたえ、安心を確かめ合うのがよい。・・・・・・・
夫が妻以外の女に興味を持ったり、妻が夫以外の男に興味を持ったりするのは少しも悪いことではない。ごく自然なことである。だからそういうことはかくし合わないほうがよい」(『女の男性論』中公文庫P9、10)
キリスト教文化圏の結婚は神によって認められて初めて正当なものになるというもので、だから離婚も認めないというものであったが、今はその点も変わってきている。上記の法律の賛成者はキリスト教文化に忠実な人間なのだが、結婚という男と女の関係を神に係わらせること以外には考えられないという思考停止状態にある。自分がキリスト教の教義通りに生きたいのならそうすればいいのであって、他人にまでそれを強制するようなことはハッキリ言って余計なお世話以外の何ものでもないのだが、この男はけっして納得しないだろう。そして大庭みな子さんの言っている上のような結婚観と結婚外恋愛・交渉についての理解は彼にはけっして受入れられないものであろう。また結婚するしないについての大庭さんの以下のような意見も彼の理解を超えるものであろう。
「双方が決心して子供を持った時以外は法律的な結婚はまったく無いほうがよいかもしれない。・・・・・結婚の本質的な意味は法律とはまったく無関係なのだ、ということを知っていたほがよい。ところが、実際には結婚は法律だと思っている人が多いのにはびっくりすることがある。法律的に結婚した夫婦間ではしかじかこうこうの権利と義務がある、というようなことが言われ、それを当然だと思っている人も多いようである。しかいS,
法律というものはもともと人間の社会生活を円滑にするための規則であり、人間を拘束するためのものではないはずだ。」(P11〜12)
この文章の「結婚=法律行為」論の「法律」を「宗教」に取り替えたら、上記の賛成者の考え方になる。キリスト教のマインド・コントロールが今なおアメリカでは強い力を持っているのだ。キリスト教の結婚観は果たして人間を幸福にしてきたのだろうか。私は大庭さんの結婚についての考え方は非常に実際的で、人間の幸福に結びつくものであると思う。
「婚外の性的な行為を浮気と呼ぶが、これはいやな言葉である。これはたぶん、結婚制度を合理化するための言葉らしいが、もともとそんなものはないのである。もともと、男であるということ、女であるということはお互いに性的な関係を持ち得る、ということなのだ。・・・・・・男と女は好き合うようにできている。そんなことを言いわけがましく、あれは浮気であった、などと定義づける必要はない。」(P17〜18)
人間の本質からして結婚外恋愛・交渉もごく自然な事柄であるという、こういった真の大人の考え方はキリスト教徒にはどうやら無縁のもの、理解の及ばないものであるようだ。大庭さんの次の言葉にはきっと腰を抜かすに違いない。
「できることなら、夫と妻はお互いの恋人の話を優しい言葉で語り合えるようになったほうがよいのだ。ちょうど親友に、他の魅力のある友人の話をするように。」(P18)
男と女とは初めから好き合うように出来ているという普遍的な真実を踏まえて生きるほうが人間は幸せになれると私は思うのだが、キリスト教のセックスを罪と見なして否定する偏狭な考え方は西洋社会にとてつもない不幸をもたらしてきていると思う。
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