CO2温暖化説を疑うという道楽
私が最近流行の「CO2温暖化説」を疑うのには、その理論の内容の当否とは別に最近の科学者と言われる人たちの存在基盤のあり方が、大いに問題のある、胡散臭いものになってきている側面を考えるからである。例えば科学者に関する本を沢山書いている小山慶太氏の『道楽科学者列伝 近代西欧科学の原風景』(中公新書)の目次を見ると、序章は「道楽としての学問」となっている。そこでは夏目漱石の講演の内容が引用されているが、漱石は学問をするということは本来的にやりたいことを好きなようにやる我儘な人間の「道楽本位の職業」であると説明しているが、漱石は学者とはそのようなものと理解していたのである。さらに小山氏は現代に下ってアメリカの著名な生化学者シャルガフが次のような話をしていると書いている。
「職業としての科学が頭脳の行使を前提にしているという意味で、つまりそれが知的な職能であるという意味で、つねに一種奇妙な特徴がつきまとってきた。ものを考え、ものを探求することに対して定まった俸給を受けることには、どこか馬鹿気たところがある。」(P8)
歴史的に見て西欧における自然科学の初期の発展の担い手は貴族などの有閑階級の人間であって、彼らが趣味または道楽として行なっていたのであって、科学の研究はけして職業などではなかったのである。それが、現代の科学者であるシャルガフも職業としての科学者というあり方には違和感を抱いたわけだが、しかしこうした感覚を持っている人間自体が現代社会では稀有な存在であるのは間違いなかろう。今や科学者とは社会的に重要な職業で、大学や企業の研究室にうじゃうじゃいるのである。ということは現代では一定のレベルの知性さえあれば誰でもが科学者になれるのである。しかし人数が飛躍的に増えた現代では一流の科学者として認められるためにはコンスタントな論文発表という関門があるそうだ。このことを私は生物学者である池田清彦氏の『科学はどこまでいくのか』(筑摩書房)によって知ったのだが、その問題点を池田氏は次のように書いている。
「個別の專門学会というのは、ある意味では極めて閉鎖的な組織である。多くの学会は、基本的には会費さえ払えばだれでも入会できるようになっており、一見開放的に見える。しかし、学会誌に投稿した論文の掲載にあたっては、レフェリーがこれを審査して、学会のパラダイムに抵触する論文はすべて掲載拒否をしてしまう、ある意味では極めて保守的で頑迷な組織でもある。
専門学会に論文を受理してもらうためには、入会しただけではだめで、学会固有のパラダイムを学ぶ必要がある。逆に、大学や大学院でパラダイムを学び、実験装置を自由に使える立場にいれば、凡人でも学会誌に掲載される論文ぐらいは書くことができる。学会は、そのパラダイムに属する研究機関と教育機関を傘下に治めているギルドのようなものである。その主要な機能はパラダイム傘下の業績を発表する場を提供するとともに、パラダイムに抵触する研究者や素人をしめ出すことにある。」(P158〜159)
そうして池田氏は現代の職業的な科学者のあり方を次のように皮肉をもって描写するのである。
「要するにパラダイムが確立して、学会が設立され、学会誌が刊行されるようになると、凡庸で保守的な研究者は有利になるが、天才的で革新的な研究者は不利になりやすい。制度化され細分化された科学は、凡人の凡人による凡人のための科学なのである。」(P162)
こうしたことは池田氏ではなければ書けなかったことであろうが、科学者といわれる人たちがいかにも矮小な存在にならざるをえないのは大いに問題ありの状況である。
ついでに作家のマイケル・クライトンが気候変動をテーマにして書いた小説『恐怖の存在』(早川書房)について触れておこう。この小説では気候変動への対応が世界的な課題になっている状況に付け込んで、NPO法人が寄付金を集めるために人工的に異常気象現象を引き起こそうとする事件を描いているが、クライトンは小説の途中にCO2温暖化原因説を疑うデータを紹介している。クライトンは医者出身であり、科学にも造詣が深いようである。その彼がCO2温暖化原因説を疑っているのであるが、現在CO2温暖化原因説は100%科学的な真実であるとして受け入れられており、世界中の政府がこの対策に乗り出そうとしている。
私はどうも人間が下司のせいか、現在のCO2犯人説には胡散臭いものを感じるのである。またCO2犯人説には果たして純粋に科学的な根拠があるのだろうかという疑問がぬぐえないのである。さらにはCO2犯人説は現代の天動説のようなものかもしれないとさえ思ってしまうのである。現代の科学者・研究者の実態に関して池田氏の書いていることが頭にあって、気象学会に所属する大勢の研究者たちにとっては、CO2犯人説はいわば飯の種でもあり、おおっぴらに研究費を要求できるおいしい研究課題なのではないかという勘ぐりさえしてしまう。今やCO2温暖化説に異論を唱える人間はドンキ・ホーテと見做される危険があるが、科学において異論が異端視されるような現代の状況は環境ファシズムといっても過言ではないだろう。
ところで今私は槌田敦氏の『CO2温暖化説は間違っている』(ほたる出版)を読んでいるのだが、この本を読んで初めて本当に気象現象というものを科学的に理解できたと思った。今や世界中の人々のほとんどはその内容を正しく理解していないままにCO2温暖化説を科学的な事実として受け容れていると思われるが、それは生まれたのがキリスト教社会やイスラム教社会であった人間が刷り込みによってキリスト教やイスラム教の教えを信じるようになるのと全く同じ現象なのである。CO2犯人説は、E=MC2といった物理法則などでは全くない。そもそもレベルが違うのであり、それは単なる学説、仮説にすぎない。そしてその証拠とされるものにはおおいに疑いの余地があるのだ。槌田氏は、大気中におけるCO2の増加が温暖化の原因であるとする主流の説に対して、それは原因と結果が逆で、温暖化したから大気中のCO2が増えたのであると過去の気象データと物理学の理論に基づいて主張しているのだが、私には槌田氏の意見のほうが妥当であると思われる。たまたま手元に朝倉正氏の『気候変動と人間社会』(岩波書店)があったのでパラパラと読んで見たのだが、次のような文章に出合った。
「最近、氷柱に含まれている炭素から、大気中の二酸化炭素濃度は、氷期に少なく恩暖気に多いことがわかったので、気象変動をおこす主要な要因として二酸化炭素を注目するようになってきた。」(P209)
私はこの文章を読んで、果たしてこれは科学者の言うことだろうかと疑った。この文章の前段に書かれた事実から、どうして大気中のCO2が温暖化の原因だと断定できるのか。温暖化が原因で大気中のCO2濃度が高くなったと考えることもできるのであり、その方が理屈として筋が通るのである。コーラなどの炭酸飲料を考えて見てもらえば分かる通り、コーラをコップにあけるとき、冷蔵庫で冷やされたコーラはそうでないコーラよりも泡立ちが少ない。それは水の温度が低い方が炭酸ガス(二酸化炭素)が良く水に溶けるからである。二酸化炭素が自然の中に普段存在するのは主として大気中と海水などの中である。気温の高い温暖期の方が海水中 から二酸化炭素はより多く大気中に溶け出るのだし、氷期であれば二酸化炭素は海水中により多く溶け込む。これは単純な科学的な事実である。科学者である人たちが何故こうした単純な事実を忘れて、大気中のCO2濃度が高いのが高い気温の原因であると言うのか、私には全く不思議で成らないのである。
これは科学者の思考ではなく、単なる思い込みにすぎない言明である。科学ライターの竹内薫氏が『99.9%は仮説』(光文社新書)という本を書いているが、この本の副題は「思いこみで判断しないための考え方」となっている。気象という現象は複雑であるために因果関係を確定させることが難しいのだろうが、CO2温暖化説には問題がある。朝倉氏は気象学者であるが、CO2温暖化説が支配的なパラダイムになっている気象学会にいて、私が前に書いた子供がキリスト教を刷り込まれるように無意識のうちに思い込むようになり、CO2温暖化説が仮説であることを完全に失念してしまったのではないだろうか。
鳩山首相がCO2の20%削減を政策として打ち出しているが、鳩山首相も温暖化問題を本当に理解して言っているのだろうかと私は危ぶまないではいられない。槌田氏の本を是非読んでもらいたいと思う。
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