現代社会論

2009年11月23日 (月)

CO2温暖化説を疑うという道楽

 私が最近流行の「CO2温暖化説」を疑うのには、その理論の内容の当否とは別に最近の科学者と言われる人たちの存在基盤のあり方が、大いに問題のある、胡散臭いものになってきている側面を考えるからである。例えば科学者に関する本を沢山書いている小山慶太氏の『道楽科学者列伝 近代西欧科学の原風景』(中公新書)の目次を見ると、序章は「道楽としての学問」となっている。そこでは夏目漱石の講演の内容が引用されているが、漱石は学問をするということは本来的にやりたいことを好きなようにやる我儘な人間の「道楽本位の職業」であると説明しているが、漱石は学者とはそのようなものと理解していたのである。さらに小山氏は現代に下ってアメリカの著名な生化学者シャルガフが次のような話をしていると書いている。
 「職業としての科学が頭脳の行使を前提にしているという意味で、つまりそれが知的な職能であるという意味で、つねに一種奇妙な特徴がつきまとってきた。ものを考え、ものを探求することに対して定まった俸給を受けることには、どこか馬鹿気たところがある。」(P8)
 歴史的に見て西欧における自然科学の初期の発展の担い手は貴族などの有閑階級の人間であって、彼らが趣味または道楽として行なっていたのであって、科学の研究はけして職業などではなかったのである。それが、現代の科学者であるシャルガフも職業としての科学者というあり方には違和感を抱いたわけだが、しかしこうした感覚を持っている人間自体が現代社会では稀有な存在であるのは間違いなかろう。今や科学者とは社会的に重要な職業で、大学や企業の研究室にうじゃうじゃいるのである。ということは現代では一定のレベルの知性さえあれば誰でもが科学者になれるのである。しかし人数が飛躍的に増えた現代では一流の科学者として認められるためにはコンスタントな論文発表という関門があるそうだ。このことを私は生物学者である池田清彦氏の『科学はどこまでいくのか』(筑摩書房)によって知ったのだが、その問題点を池田氏は次のように書いている。
 「個別の專門学会というのは、ある意味では極めて閉鎖的な組織である。多くの学会は、基本的には会費さえ払えばだれでも入会できるようになっており、一見開放的に見える。しかし、学会誌に投稿した論文の掲載にあたっては、レフェリーがこれを審査して、学会のパラダイムに抵触する論文はすべて掲載拒否をしてしまう、ある意味では極めて保守的で頑迷な組織でもある。
 専門学会に論文を受理してもらうためには、入会しただけではだめで、学会固有のパラダイムを学ぶ必要がある。逆に、大学や大学院でパラダイムを学び、実験装置を自由に使える立場にいれば、凡人でも学会誌に掲載される論文ぐらいは書くことができる。学会は、そのパラダイムに属する研究機関と教育機関を傘下に治めているギルドのようなものである。その主要な機能はパラダイム傘下の業績を発表する場を提供するとともに、パラダイムに抵触する研究者や素人をしめ出すことにある。」(P158〜159)
 そうして池田氏は現代の職業的な科学者のあり方を次のように皮肉をもって描写するのである。
 「要するにパラダイムが確立して、学会が設立され、学会誌が刊行されるようになると、凡庸で保守的な研究者は有利になるが、天才的で革新的な研究者は不利になりやすい。制度化され細分化された科学は、凡人の凡人による凡人のための科学なのである。」(P162)
 こうしたことは池田氏ではなければ書けなかったことであろうが、科学者といわれる人たちがいかにも矮小な存在にならざるをえないのは大いに問題ありの状況である。
 ついでに作家のマイケル・クライトンが気候変動をテーマにして書いた小説『恐怖の存在』(早川書房)について触れておこう。この小説では気候変動への対応が世界的な課題になっている状況に付け込んで、NPO法人が寄付金を集めるために人工的に異常気象現象を引き起こそうとする事件を描いているが、クライトンは小説の途中にCO2温暖化原因説を疑うデータを紹介している。クライトンは医者出身であり、科学にも造詣が深いようである。その彼がCO2温暖化原因説を疑っているのであるが、現在CO2温暖化原因説は100%科学的な真実であるとして受け入れられており、世界中の政府がこの対策に乗り出そうとしている。
 私はどうも人間が下司のせいか、現在のCO2犯人説には胡散臭いものを感じるのである。またCO2犯人説には果たして純粋に科学的な根拠があるのだろうかという疑問がぬぐえないのである。さらにはCO2犯人説は現代の天動説のようなものかもしれないとさえ思ってしまうのである。現代の科学者・研究者の実態に関して池田氏の書いていることが頭にあって、気象学会に所属する大勢の研究者たちにとっては、CO2犯人説はいわば飯の種でもあり、おおっぴらに研究費を要求できるおいしい研究課題なのではないかという勘ぐりさえしてしまう。今やCO2温暖化説に異論を唱える人間はドンキ・ホーテと見做される危険があるが、科学において異論が異端視されるような現代の状況は環境ファシズムといっても過言ではないだろう。
 ところで今私は槌田敦氏の『CO2温暖化説は間違っている』(ほたる出版)を読んでいるのだが、この本を読んで初めて本当に気象現象というものを科学的に理解できたと思った。今や世界中の人々のほとんどはその内容を正しく理解していないままにCO2温暖化説を科学的な事実として受け容れていると思われるが、それは生まれたのがキリスト教社会やイスラム教社会であった人間が刷り込みによってキリスト教やイスラム教の教えを信じるようになるのと全く同じ現象なのである。CO2犯人説は、E=MC2といった物理法則などでは全くない。そもそもレベルが違うのであり、それは単なる学説、仮説にすぎない。そしてその証拠とされるものにはおおいに疑いの余地があるのだ。槌田氏は、大気中におけるCO2の増加が温暖化の原因であるとする主流の説に対して、それは原因と結果が逆で、温暖化したから大気中のCO2が増えたのであると過去の気象データと物理学の理論に基づいて主張しているのだが、私には槌田氏の意見のほうが妥当であると思われる。たまたま手元に朝倉正氏の『気候変動と人間社会』(岩波書店)があったのでパラパラと読んで見たのだが、次のような文章に出合った。
 「最近、氷柱に含まれている炭素から、大気中の二酸化炭素濃度は、氷期に少なく恩暖気に多いことがわかったので、気象変動をおこす主要な要因として二酸化炭素を注目するようになってきた。」(P209)
 私はこの文章を読んで、果たしてこれは科学者の言うことだろうかと疑った。この文章の前段に書かれた事実から、どうして大気中のCO2が温暖化の原因だと断定できるのか。温暖化が原因で大気中のCO2濃度が高くなったと考えることもできるのであり、その方が理屈として筋が通るのである。コーラなどの炭酸飲料を考えて見てもらえば分かる通り、コーラをコップにあけるとき、冷蔵庫で冷やされたコーラはそうでないコーラよりも泡立ちが少ない。それは水の温度が低い方が炭酸ガス(二酸化炭素)が良く水に溶けるからである。二酸化炭素が自然の中に普段存在するのは主として大気中と海水などの中である。気温の高い温暖期の方が海水中 から二酸化炭素はより多く大気中に溶け出るのだし、氷期であれば二酸化炭素は海水中により多く溶け込む。これは単純な科学的な事実である。科学者である人たちが何故こうした単純な事実を忘れて、大気中のCO2濃度が高いのが高い気温の原因であると言うのか、私には全く不思議で成らないのである。
 これは科学者の思考ではなく、単なる思い込みにすぎない言明である。科学ライターの竹内薫氏が『99.9%は仮説』(光文社新書)という本を書いているが、この本の副題は「思いこみで判断しないための考え方」となっている。気象という現象は複雑であるために因果関係を確定させることが難しいのだろうが、CO2温暖化説には問題がある。朝倉氏は気象学者であるが、CO2温暖化説が支配的なパラダイムになっている気象学会にいて、私が前に書いた子供がキリスト教を刷り込まれるように無意識のうちに思い込むようになり、CO2温暖化説が仮説であることを完全に失念してしまったのではないだろうか。
 鳩山首相がCO2の20%削減を政策として打ち出しているが、鳩山首相も温暖化問題を本当に理解して言っているのだろうかと私は危ぶまないではいられない。槌田氏の本を是非読んでもらいたいと思う。

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2009年10月16日 (金)

地球温暖化って本当?

 今日(2009/10/16)のNHK・BSニュースでアメリカの北部で過去で一番早い初雪を経験したと伝えていた。最近気候について問題になるのは専ら気候の温暖化の話であるのに、何故過去に例にない早期の降雪が起きたのか。これは温暖化とは正反対の気候である。気候は変動するものだが、何をもって温暖化という傾向をいうことができるのだろうか。こうした報道を見ると「温暖化、温暖化」と騒がれていることも、単なる気候変動の正常な範囲に属することかもしれないと、素人である私などはつい思ってしまうのである。
 温暖化ということも科学的な問題という観点からすると長期的な傾向として判断しなければ成らないことは私も理解しているが、次のようなこともついつい頭に浮かぶのである。つまり現在問題になっている地球温暖化の主たる原因と考えられている化石燃料の燃焼に伴なってその中の炭素が大気中へCO 2となっている放出されることであるが、それらのCO 2はもともと大昔の大気の中に存在したCO 2が植物によって光合成された結果植物の中に貯えられる。そして植物と植物を食べた動物の中に炭素として貯えられて、それらの動植物が地中に埋没して何億年もかけて石油や石炭に変質したものである。つまり現在地中にある化石燃料に含まれる炭素は大昔には大気中に存在していたものである。ということはかつての大気には現在よりもずっと多いCO 2がふくまれていたのである。そして当時の気温は現在よりももっと高かったということである。その当時の動植物はは誰も気温の高いことに苦情も言わずにその気候環境に適応して生きていたのである。つまり現在の気候温暖化というのは大気中のCO 2が多かったかつての地球の気候の状態に回帰しようとしているに過ぎないのである。しかしそれは我々人類にとって非常に不都合なのでその回帰を妨げようと「温暖化防止」と言って騒いでいるに過ぎないのである。

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2009年7月 6日 (月)

「我が町」と感じるということ

 今日早朝近所を散歩していて、我が家近くに戻った時に、ふと「ここは我が町だ」と感じた。もう2年半近く住んでいたのだが、今住んでいる場所についてこんなことを感じたのは初めてであった。それに60年以上生きてきてあちこちに住んできたのだが、こんな感慨を持ったのも初めてであった。
 私の住んでいるところは全くの住宅街で、一軒家と共同住宅とが混在していて、住宅と住宅との間には空間があり、個人の土地の一部が自然と通路になっているところがいくつかある。そういうところを生徒たちが近道として利用し日々通り抜けている。私の住んでいる共同住宅の脇もそのような通路になっていて毎日生徒たちが通っている。私自身も近所のスーパーなどに買い物に行く時に便利に利用している。
 今朝散歩の帰り道、近所の脇道を同じように通り抜けようとして、私はあれと思ったのである。その脇道は前回私が利用した時まで草が膝くらいまでぼうぼうと生い茂って、通る時に道塞ぎになっていたのであったが、今朝見ると綺麗に刈られていて、黄色く枯れ草色に変わっていたのである。久しぶりに使ったのだったが、少し前に誰かが草を刈っていたのである。
 これが私に「我が町」という言葉をふと思い起こさせたのであった。この時初めて私は自分が住んでいるこの地域を「我が町」として強い情緒的な感慨を抱いたのである。草ぼうぼうの脇道が、草が刈られて歩き良いものになっていたという小さな変化が今住んでいるこの地域に対する愛着を呼び起こしたのである。こういう小さな変化が生じたと気が付くということ、それは「我が町」の証拠なのだ。
 それで思ったのであるが、日本人で自分の住んでいるところを「我が町」として愛着を以て感じられる人が果たして、今どれくらいいるのだろうか。自分の住む住居もただ仕事が終われば帰って寝るだけの場所ぐらいにしか意識されず、その地域の持つ個性・特徴などに全く気付くこともないというようなところには地域共同体は存在しない。今や地域競争対なおDというものはほとんど死語なのだ。特にマンション形態の共同住宅では、隣近所の住人も何も付合いもなく互いの顔も知らないといった、人間とのかかわりを疎ましく思うだけの人間しかいなくなった日本という社会はけして住みやすい社会ではありえないだろう。自分自身の体験に則して考えても、高齢化して年金生活となり、暇だけはたっぷりあるという生活にでもならなければ生活を楽しむ時間も持てないというのが日本の実態である。日本人にはもう少し生活を楽しむための時間を持つことが必要であると痛感する。日本社会の安定のためにも、自分の住むところを「我が町」として意識できる人が多ければ、その町は安心して住める町になるのに。

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2009年7月 3日 (金)

温暖化ガス削減のための原子力発電は大問題

 いつの間にやら地球温暖化防止のためのCO2削減対策は世界中での最優先課題になってしまったようだ。NHKでは「明日のエコでは間に合わない」とかいうキャッチで温暖化防止への参加を訴えている。
 ところで原子力発電は、石炭や石油といった化石燃料を燃やさないのでCO2を発生させないから温暖化防止に役立つとして、原子力発電の中止を決めていたヨーロッパ各国も政策を転換してまたぞろ原子力発電の拡張に向かって動き出している。確かに目先、原子力発電はCO2を出さないのであるが、その発電に当たってはウランという放射性物質を使用することによる避けられない大問題を抱えている。原子力発電所で燃やされるウランは放射性廃棄物を生み出す。その処分には解決不能の問題が存在するのである。
 物理学者の槌田敦氏が『原発安楽死のすすめ』(学陽書房)という本を書いているが、その中で原子力利用に伴うリスクについて次のように書いている。
 「原子力を利用するについては、三つの大きな問題がある。第一は軍事問題、第二は原子力事故、第三は放射能の後始末である。」(P146)
 そして第三の問題である「放射能の後始末」とは、「人間の能力を遙かに超えた」(P146)ものであるという。原子力発電の結果生じる放射能には、燃料として使用されるウランなどの残物に含まれるもの他に、例えば原子炉の鋼材に含まれるコバルトに中性子が当たると発生するコバルト60などがある。後者は廃炉に伴う問題であるが、しかし「原発を運転すると必ず生じてしまうこうした放射能のうち使用済みの燃料の中に含まれる放射能がもっとも量が多い。」(P146)という。そして使用済みの核燃料は再処理することになっているが、「再処理」とはプルトニウムを取り出すことを言うのだそうだ。この後に残った廃物には高濃度の放射性物質が含まれるために、それらは「高レベルの放射性廃物」と呼ばれ、それをガラス固化して、高さ1.4m、直径45㎝程度の容器に詰める。そうして人間から隔離するために地下深くに埋設されることになっている。ところが「高レベルの放射性廃物」の放射能は時間の経過によってそのレベルが低くなっていくのではあるが、100年後には10分の1くらいに減っても放射能は完全にはなくならないのである。従ってたとえ地下深くの岩盤に保管したとしても問題はなくならない。槌田氏は次のように書いている。
 「放射能と人間との隔離でもっとも注意しなければならないのは、地下水から隔離することである。」(p149)
 100年以上もの長期に渡って果たして地下水から放射性廃物を完全に隔離することは出来るのだろうか。特に日本の場合、容器のひび割れなどの他に地層や地震などの問題による放射能の地下水との接触が起こる可能性が小さくないという。放射性廃物が地下水と接触すれば地下水は放射能を帯びるし、いったん放射能を帯びた水から放射能を除去することは不可能である。
 槌田氏は放射性廃物の放射能の減衰について100年後のデータを示しているが、高木仁三郎氏は、『原子力神話からの解放』(光文社)の中で、「とくに問題になるのが使用済み燃料の中に含まれている死の灰の本体部分で、高レベル廃棄物と呼ばれるものです。この中には、何百万年という非常に寿命の長い放射性物質が含まれています・・。」(p269)と書いている。原発によって生じる放射性廃棄物の問題はその害が無くなるまでには超長期を要する大変厄介な問題なのである。
 原子力発電によって人間社会は大変なリスクを抱え込むことになったのである。つまり原子力発電とは、放射能汚染という究極のリスクを先送りすることによってエネルギーを得るというやり方なのである。当面現在生存している人間たちは放射能汚染の問題からは守られているかも知れないが、100年後の我々の子孫たちは100年前の人間たちの都合のために飛んでもない被害を受けることになりかねないのである。

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NHKの中国共産党的体質

 NHKが4月5日に放送した『NHKスペシャル JAPANデビュー 第一回 アジアの”一等国”』という台湾を扱った番組に対して月刊誌WILL6月号に、渡部昇一氏が『NHK台湾偏向報道への公開質問状』を掲載した。私はこの番組を見ていないが、渡部氏が書いている内容が正しいとすると、非常に問題のあるものであると言わざるを得ない。台湾では日本の統治が現地の人たちには良く受け容れられていたという話は、私の歴史の本などで読んでいたが、NHKのこの番組では全く反対のことが伝えられたという。岡田英弘氏などによると、日本が統治する以前、中国のあちこちから台湾に移り住んできた人たちの話す言葉には共通語といい得べきものが無くて中国人同士のあいだで意志の疎通に問題があったところ、日本の統治の下で日本語が共通語となって話されるようになった結果その問題が解決したという。また日本は鉄道の施設や義務教育制度を導入することによって遅れていた台湾社会をレベルアップさせたとも言う。日本の台湾統治は、欧米列強がアジアで行なった植民地統治とは内容的にみて全く違っていて、現地の人たちの為にも役に立つ面が多かったのであったのにもかかわらず、NHKの番組ではそういった面は全く触れずに日本が悪いことしかしなかったように伝えているという。それは中国政府が強く主張する、日本は侵略国家であったという主張を代弁するようなものであったようだ。村山談話によって日本政府自ら、大東亜戦争において日本が侵略国家であったと認めるだけでなくわざわざ宣言したのであったが、欧米列強で中国侵略を行なった国家はどこもそんなことはしていない。村山談話は自己満足だけの全く愚かなものでしかなかったのであるが、その害悪は今なお日本政府を束縛して国益を害しているのである。
 またWILL8月号では自民党元総裁の安倍晋三氏が『NHK台湾番組は放送法違反か』を寄稿して、今回のNHKの番組を批判しているが、自民党議員の中山斉彬氏が出した質問状にも真面目に回答していないとして怒っていた。
 こうしてみてくると、NHKが今回の番組でやったことは実態としては中国共産党政権の提灯持ちでしかなかったのである。日本国民から強制的に巻き上げた受信料という税金もどきを使ってNHKが中国政府のイチャモン主張をバックアップする番組を製作していたとは、全くいい根性である。今回の番組制作を通して透けて見えたものは、日本国民の利益に反する番組を日本国民のお金を使って作り上げるというNHKの売国奴的体質であった。NHKは常に日本の公共放送を自認してきているが、それを語る資格は最早NHKには全くないと言わざるを得ない。また面白いことに、NHKの独善的な体質は、中国共産党の一党独裁政権と同じものであることを示しているのである。
 NHKのクビに鈴をつけるやり方を日本国民は真剣に考える必要があるのだ。その一つの重要なやり方として私は、WOWOWのように受信料を払わなければ番組を見ることができないという有料放送方式に変更するべきであると考える。テレビ受像機を買うとNHKの番組を見ようとみまいと強制的に受信料支払義務が生じるというのは、私に言わせると個人の財産権の侵害にほかならず、重要な憲法違反である。

 以上の原稿を書いた時点で私はまだWILL8月号に掲載されていた大高未貴女史の『台湾人の名誉を傷つけたNHK偏向報道』の記事を読んでいなかったのだが、そこで大高女史はこの番組の背後に中国共産党の影を感じている。しかし私にはNHKの官僚的体質そのものが中国共産党に相通じるものがあるように思われるのである。大高氏はNHKは「無理やり受信料を取り」と書いているが、公共放送を唱えるからといって国民に、見ようと見まいと受信料支払を義務づける法律が存在することこそが根本的な問題であって、今までの自民党政権下では誰もそのことに疑問を持たなかったということに国会議員の情けないほどの法律感覚の欠如が示されていて、私には許し難いことなのである。繰り返すが、それは憲法に定められた私有財産権の侵害そのものであって、憲法の規定に違反し、近代社会の基本的なルール・枠組みを踏みにじっているのである。

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2009年6月27日 (土)

『環境問題の杞憂』を読んで

 藤倉良氏の『環境問題の杞憂』(新潮新書)を読んだが、日本で今,環境問題というと、何と言っても「地球温暖化問題」ということになろう。氏は地球温暖化問題の基本的な問題は、気候変動にあると書いている。藤倉氏は大気中の温暖化ガスのCO2などが増加すると、大洋の深層海流の動きに変動が起きて地球が冷却化して氷河期になるかも知れないという説を紹介しているが、何とも不思議な話である。詳しい説明についてはこの本を読んでもらいたいが、私は地球の温度に影響する一番大きな要因は太陽光による輻射エネルギーであり、短期的には太陽活動の状態であると考える。ところが太陽光の輻射エネルギーの問題については長期的には丹羽敏雄氏が『数学は世界を解明できるか』(中公新書)で書いている以下の事情が重要である。つまり地球は太陽の回りを楕円形を描いて回転しているが、その楕円軌道は常に同一なものではなくて千年に一度くらい地球が太陽から大きく離れることがあって、その時には太陽光の輻射エネルギーが少なくなって地球が寒冷化すると書いている。
 藤倉氏が紹介している温暖化ガスによる温度上昇がもたらす地球の寒冷化の説は、太陽光が地球にもたらす輻射エネルギーの量が同じであっても、温暖化ガスの増加によって南極の氷河が大量に溶けると深層海流の動きに変化が起きて地球が冷却化するという理論であるが、地球全体にもたらされる太陽の輻射エネルギーの量が変わらなくても地球が寒冷化するというのは私には熱力学の法則に反しているとしか思われないのである。なお太陽の輻射エネルギーについては小出昭一郎・安孫子誠也氏は『エントロピーとはなんだろうか』(岩波書店)で、「地球は外燃機関」という表現で語っており、太陽のもたらす輻射エネルギーの量を抜きにして地球の温暖化や寒冷化を問題にすることは基本的におかしいと私は思う。
 また藤倉氏は日本国内の重要問題としてゴミ問題に触れて次のように書いている。
 「省エネルギーとゴミの発生抑制には、全国で市民、行政、企業が真剣に取り組んでいます。」(P205)
 札幌市でもゴミの発生抑制のために家庭ゴミの有料化が7月から始まるが、その説明会でも「ゴミの発生抑制」という言葉が使われていて、良く聞くとそれは「家庭ゴミの抑制」という意味なのであった。現在家庭ゴミは「燃えるゴミ」と呼ばれている。
 ところでゴミには「家庭から出る廃棄物」と「産業廃棄物」とがあるが、そもそもゴミとは何かを考えてみると、それは基本的に家庭で購入された物的な商品が消費された結果として発生するものと、企業などの活動の過程で消費された物的な商品(原材料または部品や消耗品、文房具など)の使用・消費の結果生じたものとがある。物理学の基本法則に「質量不変の法則」があるが、人間が使用する商品についてもそのことは絶対的に当て嵌まるのであるから、家庭であれ企業であれ、そこに購入された商品はすべて廃棄物という形か製造された商品という形に変わる。家庭すなわち人間の場合だと、食品は調理の過程で生じる廃棄物と、飲食されて屎尿の形で生じる廃棄物になって、前者は家庭ゴミとして出され、後者は都会では下水を通って下水処理場に送られて処理される。そして消費の過程においても商品の総質量は変わらないのである。したがって商品の購入量が絶対的に減らない限り家庭で出るゴミ(屎尿を含む)も減らないのであるが、札幌市が「ゴミの発生抑制」という場合、その意味は、従来家庭から「燃えるゴミ」という形で出されていたものの中から、リサイクルできるゴミはきちんとリサイクル用に出すようにして、「燃えるゴミ」の量を減らそうということなのであった。このことは普通の市民の人たちには誤解を招く、私に言わせると詐欺的な理屈である。藤倉氏もこの点については十分に理解していないと思われる。その原因は、恐らく自分で分別したゴミ出しをしたことがないからであろう。
 なおリサイクルできるゴミのうち、食品の容器・包装に使用されたプラスティック・ゴミについて、私が自分で分別して出すようになってよく分かったのであるが、食品のラップに使われたプラスティックには多くの場合説明のための紙のラベルが貼られていて、それらをいちいち剥がしてからごみに出す人間が果たしてどれほどいるのだろうかと疑問に思う。私自身そんなことなどとてもやっていられない。食品の容器・包装に使用されたプラスティックはそのままゴミとして出して、焼却するのが一番だという武田邦彦氏の意見が実務的には妥当であると考える。私自身食品製造会社にいて、食品容器・包装リサイクル法に基づく処理費用を支払うための事務作業を行なった経験があるが、食品の容器・包装に使用されたプラスティックは、ペットボトルを除けば実際にはリサイクルなど不可能であると思う。この制度は経済産業相の役人の天下りのための愚劣な政策に過ぎないと判断せざるを得ないのである。官僚どもはエコの名を傘にして、無意味なロクでもないことをしているのである。

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2009年6月21日 (日)

週刊誌の広告を楽しむ

 私は週刊誌は買わないので読むこともないが、ただ20年以上に渡って読んでいる日本経済新聞に出る週刊誌の広告だけは面白く読んでいる。今日(2009/06/20)の朝刊にいつものように週間新潮と週刊文春の広告が並んで出ていたが、どちらも一番の記事の内容が自民党が政権党から凋落することを予想していた。そのキャッチは前者では「自民党『下野前夜』物語」とあり、後者では「余命1ヶ月の麻生首相」とあった。新聞ではこういった予想は書かれることがないので、別の情報源として大変貴重である。 それにしても麻生首相のお粗末さは情けない限りであり、更には自民党がまともな総裁としての能力を持った人物を全く持っていない政権担当能力など本当はがなかった政党であったことを最近3代の首相の進退によって自ら国民の眼の前に明らかにしたが、それはまた日本が最近全く経済的にも揮わなかった根本原因でもあったのだと思う。
 また障害者団体の証明書偽造を行なったという厚生労働省の雇用均等・児童家庭局の局長であった村木厚子のニュースについては、その原因が政治家からの依頼であったとのことであるが、新聞ではその代議士が誰であったかを伝えていなかったが、今日の週刊新潮の広告ではその名前が出ていた。それによると民主党の石井一副代表だそうである。なぜ新聞では疑われた議員の名前を出すことができないのか。随分とお行儀の良いことだが、マスコミとしての役割を十分果たしていないというべきであろう。したがって新聞が上品なために国民が知りえない情報は週刊誌から得るしかないのだろうから、私はこれからも週刊誌の広告を楽しんでみることとしよう。
 それにしても厚生労働省では次々とよくも不祥事が現れるものだと感心する。やはりキャリア官僚などという連中は本人たちはエリートを自認しているようだが、飛んでもない話で、もはやロクデナシの集団でしかないという私の判断は間違っていないのである。

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2009年5月28日 (木)

セブンイレブンヘの公正取引委員会の指導について

 NHK・BSニュースで公正取引委員会がセブンイレブンの加盟店に対して弁当・総菜の消費期限切れ商品を値引き販売することを禁じて廃棄処分させていた件を、優越した地位の乱用として指導するということが報じられていたが、私に言わせると何を今更と思わざるを得ない。私はたまたまローソンの参加店のおばさんを知っていたが、期限切れ商品をやはり廃棄処分せざるを得ないと言ってもったいないと残念がっていた(またそれは加盟店の負担で処分するので利益を削ることになったから尚更であったのだが)のを知っているし、私たちはそうした弁当などをタダで食べさせてもらったこともあった。それはもう10年以上も前の話である。セブンイレブンだけの話ではないのだ。
 それほどに古い話なのであるが、今までそうしたことを公正取引委員会の人たちが全く知らなかったとすると、余りにも世間知らずであると言わざるを得ない。そんなことは世間では周知のことだったのである。公正取引委員会の人たちというのは、深窓の令嬢のような人たちばかりだったのだろうか。しかしそんなことでは困るのだ。業界の人たちからのタレコミがなければそうした実状も耳に入らないというのは、如何にも役人らしい仕事ぶりである。もっと情報の蒐集のための繋がりを国民とのあいだに作っておかなければ公正取引委員会としての仕事を十全に行なうことなど不可能だ。情報こそが仕事の核心であり、情報網の整備をしなければ仕事もできないことを公正取引委員会の人たちはシッカリと認識しなければならない。しかし役人にこんなことを言っても無理か。

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2009年5月25日 (月)

地球温暖化論に対する疑問

 丹羽敏雄氏の『数学は世界を解明できるか カオスと予定調和』(中公新書)を読み始めたのは、ベノワ・B・マンデロブロとリチャード・L・ハドソンの『禁断の市場 フラクタルでみるリスクとリターン』(東洋経済新報社)を読もうとして数学の応用ということについて今少し勉強しておこうと考えたからであった。ちなみに全くの偶然であるが、丹羽氏の本にマンデルブロがマンデルブロートという名前でフラクタル数学の研究者として紹介されていた。
 ところで丹羽氏の本を読んでいる内に、今や世界的に通説となっている地球温暖化論に関する疑問が思いがけず浮かび上がってきたのである。なお私としてはこの本を読むことによって科学とは何かということを教えられたのであった。
 先ず私が抱いた最初の疑問は丹羽氏の書いている次の文章から湧いてきたのであった。
 「厳密に言うと、地球を含め惑星の動きもきわめて複雑である。たとえば、地球の楕円軌道は一定しているのではなく、楕円自身がゆっくりと回転したり、細長くなったりと形を変えている。その周期は一万年単位のゆっくりとしたものであるが、地球史的にはきわめて重要な影響を及ぼす。楕円が細長くなると、太陽からの距離が遠くなる期間が長くなり、その結果地球が寒冷化する。地球の氷河期が周期的にやってくる原因の一つと考えられている。」(P43)
 なぜ地球の太陽を回る軌道が完全に一定でないのかというその理由として丹羽氏は「多体問題」の存在を挙げている。地球が太陽の回りを回転する際の軌道については、ニュートンによって発見された万有引力の法則を使って太陽と地球との間の引力の相互作用を計算した結果としての軌道とされているが、じつは地球と太陽以外の惑星の及ぼす弱い引力の影響が存在するのであって、太陽と地球の間の引力の相互作用だけに基づいて計算された軌道と少し違った軌道を地球は回っているのである。こうしたことは、私がそうであったように世間の人は知らないはずだ。
 ところで地球には過去に何度かの氷河期があったし、また恐竜が跋扈していた頃は今よりも地球の温度はずっと高かったと言われている。私は今までなぜ氷河期があったのかを全く疑問に思うこともなかったのだが、丹羽氏の上の説明でようやく正しい理解を持つことができたのである。
 また温暖化に関連して読んだ本によって、私は地球の温度に一番強い影響を与える要因が、太陽からの届く光エネルギーであることを知ったが、太陽の活動自体が変動するものであって黒点はその結果の一例であるという。ということは地球の温暖化やその逆の寒冷化についての一番の影響は太陽との距離とその活動状況なのである。
 したがってもし地球が現在太陽を回る楕円軌道の内の太陽に近い場所にいるのなら地球温暖化をもたらしているの主たる要因は太陽光の強さであるはずだし、逆に楕円軌道の太陽から遠い場所にある氷河期であるのなら太陽からの距離が遠いことに基づく太陽光の弱さということになる。IPCCの報告書というのは、果たしてそうした点をキチンと踏まえて書かれているのであろうか。
 また私は丹羽氏が気象学者のローレンツが気象現象の分析のために作ったモデル(ローレンツモデル)を例にして、計算によって出される科学的な結論の危うさについて説明していることを引用したい。気象現象は大気という流体の中で起こっている現象であり、ローレンツは流体の運動を表す方程式から出発しているという。
 「非常に現実的な現象である流体の運動をはじめ、多くの重要な現象を記述する多くの方程式が解けそうにない、というのもまた厳然とした事実である。
 そこで取られる科学の常套手段は、その方程式を簡単なものに置き換えることと、近似的に解くという手段である。」(P134)
 「ローレンツの研究や、一般に多くのカオスの研究はコンピュータの数値実験に負うところが多い。コンピュータの数値実験には実際上、本質的に誤差がつきまとう。しかもカオスを示すシステムの時間的変動を計算しようとすると、この誤差がある意味で致命的である。」(P142〜143)
 なおこの場合のカオスは流体運動に現れるのだという。コンピュータを使って方程式の計算を行なう際にはパラメータを設定してやらなければならないのだが、そこに問題が起きるのだと丹羽氏は言っているのである。二つの理由によって、現象を分析・説明するために作られる方程式のモデルの正しさが担保される保証がないのだから致命的である。
 「一つは原理的な理由で、神ならぬ人間には現象の変動の仕組みは完全にはおそらく解明できないであろうということ。・・・・・・・
 もう一つの理由はもっと実際的で、システムを定めるさまざまなパラメータの値が近似的にしかわからないことからくる。たとえダイナミカル・システムを定める方程式の形は原理的には正しいものであっても、モデルの「外的」要因を定めるパラメータの値となると、そうはいかなくなる。モデルのよってたつ原理の妥当性とは異なり、その値は絶対のものとは仮定できない」(P124)
 IPCCの報告書の作成に関係する科学者の数がいかに多かろうと、以上の丹羽氏の指摘する事態には何ら影響しないのであるから、IPCCの報告書の結論は安易に受け容れられないものでもあるのだ。なぜなら、丹羽氏によれば「世界は想像以上に複雑でまだまだ未知の部分が大部分である・・。」(P152)のだから。
 地球温暖化論は今や世界中の人たちによって科学的な真実そのものと見做されているが、私に言わせれば現代の風潮は「環境ファシズム」とでも言って良い状態であり、大いに異論が唱えられて根本的な見直しも必要であるように私には思われるのである。
 また私が科学について重要だと考えているのは、個人の研究成果であるということである。つまり科学的な結論について個人の顔の見えることが重要であると思うのである。たとえどれほど大きな集団の名前の下で出されたものであっても(IPCCはその最たるものであろうが)、科学としての信頼性を担保するものは科学者個人であると私は考える。科学的な結論が集団の名前によって示される時、重要な科学的な内容のものについては、場合によってはその集団内の政治的な力学によって真実が歪められることもありうるのではないかと懸念されるしのである。マイケル・クライトンの小説『NEXT』(早川書房)は研究資金集めの手段としての環境テロリズムという観点からその問題を取り扱っている。
 現代では科学研究費は巨額のものになり、集団的に研究を行なわざるを得ない場合が多くなっているようであるが、科学的な真実を担保するものは集団ではなくてあくまでも個人であると私は考えている。そういう観点からすると私はIPCCの報告書の内容、専らCO2などの温暖化ガスを温暖化の原因とする結論について100%信用することはしかねるのである。

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2009年4月24日 (金)

猥褻の概念はまともなものか

 スマップの草彅剛が酩酊して公園で全裸になっていたたことが発覚して公然猥褻罪で警察に逮捕されたが、そもそも猥褻という概念はまともなものなのだろうかと私は以前から大いに疑問に思っている。小さな子どもの性器は全く猥褻とは無関係なものと受け止められているのだが、大人の人間の身体の一部である性器は、他の身体部分と違ってなぜか猥褻であると世間的に了解されている。したがって大人が裸であっても、短パンをはいていれば何でもないのに、性器を覆わなかっただけで全く違った事態になるのである。ところが公衆浴場や温泉の風呂といった場所ではたとえ性器を隠さずに全裸であっても猥褻罪には該当しないことは明白である。ということは同じく全裸であっても、場所によっては全く法律的な取り扱いが違うのであって、裸であることが当然の場所では性器も猥褻なものではなくなるのである。
 ところでアフリカの哺乳類などのドキュメンタリーでは交尾をする場面などもテレビで放映されることがあるが、人間ではないから猥褻罪には該当しない。ということは哺乳類の性器であっても、」人間のものでなければ猥褻ではないのである。なぜ人間の性器だけが猥褻なのであろうか。猥褻という概念は全く人間的なものであり、特殊な性質のものなのである。猥褻という観念は、一神教社会での神の概念と同じように、刷り込みによって何の自覚もないままに人間に植えつけられているのである。猥褻という観念にはなんら正当な根拠はないのである。かつては恥毛は猥褻であると受け止められていたのだが、いつのまにか猥褻の対象から外されてしまったから、ヘアヌードなどといった写真集が大手を振って出版される有り様である。
 人間の顔は当然隠す訳には行かないから人間の身体の中では常時露出されているが、誰もそれを猥褻だとは言わない。(唯一の例外は、イスラム社会の女性ぐらいのものであろうが、これは宗教的なイデオロギーによるものだ。)一方人間の大人の性器は普通いつも衣装の中に隠されている。どうやら衣装の中に隠されているものが猥褻と受取られるようだ。例えば女性が乳房を露出して歩いていた場合に、彼女は猥褻罪で捕まえられるのだろうか。まあ普通に考えると、乳房も普通衣装に覆われて隠されていおり、乳房を露出して歩くような女性はいないが、それでも思考実験としてそうした状況を考えた場合に、果たして彼女は猥褻罪に該当するとして警察に捕まえられるのであろうか。昔は女性が赤ん坊に授乳するために乳房を公衆の前で露出して子供に含ませていたものだが、誰もそれを猥褻であるとは見做さなかった。ということは乳房そのものが猥褻なのではなくて、問題は乳房が露出されている状況なのである。性器も同じなのである。風呂場では露出されていても猥褻ではなくて、世間で普通隠すべきであると受け止められている状況で露出されている場合にのみ猥褻なのである。なぜ通常の状況では性器は猥褻であると受取られるのであろうか。
 ヌーデストクラブでは誰もが性器を露出しているが、誰もその性器を猥褻なものであるとは受け止めていない。ということは性器を猥褻なものであるとするかどうかは、価値観すなわちイデオロギーの問題なのである。どうも世の親たちは子どもたちが大人の性器を見ることから遠ざけようと考えているようだ。それは世の親たちが性器を猥褻なものであると考えているからである。もし誰もがそのように考えていなければ、たとえ性器を露出して歩いている人がいても誰もその人間を猥褻な存在とは考えなかったはずである。そのような社会であったなら、草彅剛も公然猥褻罪で逮捕されることもなかったであろう。私は猥褻罪などというものは世の中に積極的な意味を持っているのであろうか全く疑問に思っている。むしろ世の中に害悪を与えているとさえ思う者である。政治家などは自分の政治家という地位を確保するために世論に迎合するだけであるから、猥褻罪という刑法上の罪を真剣に検討するなどということは出来ない。したがって日本において猥褻罪は、内容の変化することはあっても刑法からなくなることはないだろう。戦前に存在した姦通罪は戦後アメリカの外圧によって刑法からなくなったが、私は猥褻罪も同じ運命をたどっても構わないはずだと思うのだが、強烈な外圧などは起こりそうもないから日本人は何も手を打たないだろう。
 草彅剛の全裸は誰にどんな迷惑をかけたというのだろうか。誰かそれを私に説明してもらいたいものである。

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