現代社会論

2009年7月 6日 (月)

「我が町」と感じるということ

 今日早朝近所を散歩していて、我が家近くに戻った時に、ふと「ここは我が町だ」と感じた。もう2年半近く住んでいたのだが、今住んでいる場所についてこんなことを感じたのは初めてであった。それに60年以上生きてきてあちこちに住んできたのだが、こんな感慨を持ったのも初めてであった。
 私の住んでいるところは全くの住宅街で、一軒家と共同住宅とが混在していて、住宅と住宅との間には空間があり、個人の土地の一部が自然と通路になっているところがいくつかある。そういうところを生徒たちが近道として利用し日々通り抜けている。私の住んでいる共同住宅の脇もそのような通路になっていて毎日生徒たちが通っている。私自身も近所のスーパーなどに買い物に行く時に便利に利用している。
 今朝散歩の帰り道、近所の脇道を同じように通り抜けようとして、私はあれと思ったのである。その脇道は前回私が利用した時まで草が膝くらいまでぼうぼうと生い茂って、通る時に道塞ぎになっていたのであったが、今朝見ると綺麗に刈られていて、黄色く枯れ草色に変わっていたのである。久しぶりに使ったのだったが、少し前に誰かが草を刈っていたのである。
 これが私に「我が町」という言葉をふと思い起こさせたのであった。この時初めて私は自分が住んでいるこの地域を「我が町」として強い情緒的な感慨を抱いたのである。草ぼうぼうの脇道が、草が刈られて歩き良いものになっていたという小さな変化が今住んでいるこの地域に対する愛着を呼び起こしたのである。こういう小さな変化が生じたと気が付くということ、それは「我が町」の証拠なのだ。
 それで思ったのであるが、日本人で自分の住んでいるところを「我が町」として愛着を以て感じられる人が果たして、今どれくらいいるのだろうか。自分の住む住居もただ仕事が終われば帰って寝るだけの場所ぐらいにしか意識されず、その地域の持つ個性・特徴などに全く気付くこともないというようなところには地域共同体は存在しない。今や地域競争対なおDというものはほとんど死語なのだ。特にマンション形態の共同住宅では、隣近所の住人も何も付合いもなく互いの顔も知らないといった、人間とのかかわりを疎ましく思うだけの人間しかいなくなった日本という社会はけして住みやすい社会ではありえないだろう。自分自身の体験に則して考えても、高齢化して年金生活となり、暇だけはたっぷりあるという生活にでもならなければ生活を楽しむ時間も持てないというのが日本の実態である。日本人にはもう少し生活を楽しむための時間を持つことが必要であると痛感する。日本社会の安定のためにも、自分の住むところを「我が町」として意識できる人が多ければ、その町は安心して住める町になるのに。

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2009年7月 3日 (金)

温暖化ガス削減のための原子力発電は大問題

 いつの間にやら地球温暖化防止のためのCO2削減対策は世界中での最優先課題になってしまったようだ。NHKでは「明日のエコでは間に合わない」とかいうキャッチで温暖化防止への参加を訴えている。
 ところで原子力発電は、石炭や石油といった化石燃料を燃やさないのでCO2を発生させないから温暖化防止に役立つとして、原子力発電の中止を決めていたヨーロッパ各国も政策を転換してまたぞろ原子力発電の拡張に向かって動き出している。確かに目先、原子力発電はCO2を出さないのであるが、その発電に当たってはウランという放射性物質を使用することによる避けられない大問題を抱えている。原子力発電所で燃やされるウランは放射性廃棄物を生み出す。その処分には解決不能の問題が存在するのである。
 物理学者の槌田敦氏が『原発安楽死のすすめ』(学陽書房)という本を書いているが、その中で原子力利用に伴うリスクについて次のように書いている。
 「原子力を利用するについては、三つの大きな問題がある。第一は軍事問題、第二は原子力事故、第三は放射能の後始末である。」(P146)
 そして第三の問題である「放射能の後始末」とは、「人間の能力を遙かに超えた」(P146)ものであるという。原子力発電の結果生じる放射能には、燃料として使用されるウランなどの残物に含まれるもの他に、例えば原子炉の鋼材に含まれるコバルトに中性子が当たると発生するコバルト60などがある。後者は廃炉に伴う問題であるが、しかし「原発を運転すると必ず生じてしまうこうした放射能のうち使用済みの燃料の中に含まれる放射能がもっとも量が多い。」(P146)という。そして使用済みの核燃料は再処理することになっているが、「再処理」とはプルトニウムを取り出すことを言うのだそうだ。この後に残った廃物には高濃度の放射性物質が含まれるために、それらは「高レベルの放射性廃物」と呼ばれ、それをガラス固化して、高さ1.4m、直径45㎝程度の容器に詰める。そうして人間から隔離するために地下深くに埋設されることになっている。ところが「高レベルの放射性廃物」の放射能は時間の経過によってそのレベルが低くなっていくのではあるが、100年後には10分の1くらいに減っても放射能は完全にはなくならないのである。従ってたとえ地下深くの岩盤に保管したとしても問題はなくならない。槌田氏は次のように書いている。
 「放射能と人間との隔離でもっとも注意しなければならないのは、地下水から隔離することである。」(p149)
 100年以上もの長期に渡って果たして地下水から放射性廃物を完全に隔離することは出来るのだろうか。特に日本の場合、容器のひび割れなどの他に地層や地震などの問題による放射能の地下水との接触が起こる可能性が小さくないという。放射性廃物が地下水と接触すれば地下水は放射能を帯びるし、いったん放射能を帯びた水から放射能を除去することは不可能である。
 槌田氏は放射性廃物の放射能の減衰について100年後のデータを示しているが、高木仁三郎氏は、『原子力神話からの解放』(光文社)の中で、「とくに問題になるのが使用済み燃料の中に含まれている死の灰の本体部分で、高レベル廃棄物と呼ばれるものです。この中には、何百万年という非常に寿命の長い放射性物質が含まれています・・。」(p269)と書いている。原発によって生じる放射性廃棄物の問題はその害が無くなるまでには超長期を要する大変厄介な問題なのである。
 原子力発電によって人間社会は大変なリスクを抱え込むことになったのである。つまり原子力発電とは、放射能汚染という究極のリスクを先送りすることによってエネルギーを得るというやり方なのである。当面現在生存している人間たちは放射能汚染の問題からは守られているかも知れないが、100年後の我々の子孫たちは100年前の人間たちの都合のために飛んでもない被害を受けることになりかねないのである。

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NHKの中国共産党的体質

 NHKが4月5日に放送した『NHKスペシャル JAPANデビュー 第一回 アジアの”一等国”』という台湾を扱った番組に対して月刊誌WILL6月号に、渡部昇一氏が『NHK台湾偏向報道への公開質問状』を掲載した。私はこの番組を見ていないが、渡部氏が書いている内容が正しいとすると、非常に問題のあるものであると言わざるを得ない。台湾では日本の統治が現地の人たちには良く受け容れられていたという話は、私の歴史の本などで読んでいたが、NHKのこの番組では全く反対のことが伝えられたという。岡田英弘氏などによると、日本が統治する以前、中国のあちこちから台湾に移り住んできた人たちの話す言葉には共通語といい得べきものが無くて中国人同士のあいだで意志の疎通に問題があったところ、日本の統治の下で日本語が共通語となって話されるようになった結果その問題が解決したという。また日本は鉄道の施設や義務教育制度を導入することによって遅れていた台湾社会をレベルアップさせたとも言う。日本の台湾統治は、欧米列強がアジアで行なった植民地統治とは内容的にみて全く違っていて、現地の人たちの為にも役に立つ面が多かったのであったのにもかかわらず、NHKの番組ではそういった面は全く触れずに日本が悪いことしかしなかったように伝えているという。それは中国政府が強く主張する、日本は侵略国家であったという主張を代弁するようなものであったようだ。村山談話によって日本政府自ら、大東亜戦争において日本が侵略国家であったと認めるだけでなくわざわざ宣言したのであったが、欧米列強で中国侵略を行なった国家はどこもそんなことはしていない。村山談話は自己満足だけの全く愚かなものでしかなかったのであるが、その害悪は今なお日本政府を束縛して国益を害しているのである。
 またWILL8月号では自民党元総裁の安倍晋三氏が『NHK台湾番組は放送法違反か』を寄稿して、今回のNHKの番組を批判しているが、自民党議員の中山斉彬氏が出した質問状にも真面目に回答していないとして怒っていた。
 こうしてみてくると、NHKが今回の番組でやったことは実態としては中国共産党政権の提灯持ちでしかなかったのである。日本国民から強制的に巻き上げた受信料という税金もどきを使ってNHKが中国政府のイチャモン主張をバックアップする番組を製作していたとは、全くいい根性である。今回の番組制作を通して透けて見えたものは、日本国民の利益に反する番組を日本国民のお金を使って作り上げるというNHKの売国奴的体質であった。NHKは常に日本の公共放送を自認してきているが、それを語る資格は最早NHKには全くないと言わざるを得ない。また面白いことに、NHKの独善的な体質は、中国共産党の一党独裁政権と同じものであることを示しているのである。
 NHKのクビに鈴をつけるやり方を日本国民は真剣に考える必要があるのだ。その一つの重要なやり方として私は、WOWOWのように受信料を払わなければ番組を見ることができないという有料放送方式に変更するべきであると考える。テレビ受像機を買うとNHKの番組を見ようとみまいと強制的に受信料支払義務が生じるというのは、私に言わせると個人の財産権の侵害にほかならず、重要な憲法違反である。

 以上の原稿を書いた時点で私はまだWILL8月号に掲載されていた大高未貴女史の『台湾人の名誉を傷つけたNHK偏向報道』の記事を読んでいなかったのだが、そこで大高女史はこの番組の背後に中国共産党の影を感じている。しかし私にはNHKの官僚的体質そのものが中国共産党に相通じるものがあるように思われるのである。大高氏はNHKは「無理やり受信料を取り」と書いているが、公共放送を唱えるからといって国民に、見ようと見まいと受信料支払を義務づける法律が存在することこそが根本的な問題であって、今までの自民党政権下では誰もそのことに疑問を持たなかったということに国会議員の情けないほどの法律感覚の欠如が示されていて、私には許し難いことなのである。繰り返すが、それは憲法に定められた私有財産権の侵害そのものであって、憲法の規定に違反し、近代社会の基本的なルール・枠組みを踏みにじっているのである。

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2009年6月27日 (土)

『環境問題の杞憂』を読んで

 藤倉良氏の『環境問題の杞憂』(新潮新書)を読んだが、日本で今,環境問題というと、何と言っても「地球温暖化問題」ということになろう。氏は地球温暖化問題の基本的な問題は、気候変動にあると書いている。藤倉氏は大気中の温暖化ガスのCO2などが増加すると、大洋の深層海流の動きに変動が起きて地球が冷却化して氷河期になるかも知れないという説を紹介しているが、何とも不思議な話である。詳しい説明についてはこの本を読んでもらいたいが、私は地球の温度に影響する一番大きな要因は太陽光による輻射エネルギーであり、短期的には太陽活動の状態であると考える。ところが太陽光の輻射エネルギーの問題については長期的には丹羽敏雄氏が『数学は世界を解明できるか』(中公新書)で書いている以下の事情が重要である。つまり地球は太陽の回りを楕円形を描いて回転しているが、その楕円軌道は常に同一なものではなくて千年に一度くらい地球が太陽から大きく離れることがあって、その時には太陽光の輻射エネルギーが少なくなって地球が寒冷化すると書いている。
 藤倉氏が紹介している温暖化ガスによる温度上昇がもたらす地球の寒冷化の説は、太陽光が地球にもたらす輻射エネルギーの量が同じであっても、温暖化ガスの増加によって南極の氷河が大量に溶けると深層海流の動きに変化が起きて地球が冷却化するという理論であるが、地球全体にもたらされる太陽の輻射エネルギーの量が変わらなくても地球が寒冷化するというのは私には熱力学の法則に反しているとしか思われないのである。なお太陽の輻射エネルギーについては小出昭一郎・安孫子誠也氏は『エントロピーとはなんだろうか』(岩波書店)で、「地球は外燃機関」という表現で語っており、太陽のもたらす輻射エネルギーの量を抜きにして地球の温暖化や寒冷化を問題にすることは基本的におかしいと私は思う。
 また藤倉氏は日本国内の重要問題としてゴミ問題に触れて次のように書いている。
 「省エネルギーとゴミの発生抑制には、全国で市民、行政、企業が真剣に取り組んでいます。」(P205)
 札幌市でもゴミの発生抑制のために家庭ゴミの有料化が7月から始まるが、その説明会でも「ゴミの発生抑制」という言葉が使われていて、良く聞くとそれは「家庭ゴミの抑制」という意味なのであった。現在家庭ゴミは「燃えるゴミ」と呼ばれている。
 ところでゴミには「家庭から出る廃棄物」と「産業廃棄物」とがあるが、そもそもゴミとは何かを考えてみると、それは基本的に家庭で購入された物的な商品が消費された結果として発生するものと、企業などの活動の過程で消費された物的な商品(原材料または部品や消耗品、文房具など)の使用・消費の結果生じたものとがある。物理学の基本法則に「質量不変の法則」があるが、人間が使用する商品についてもそのことは絶対的に当て嵌まるのであるから、家庭であれ企業であれ、そこに購入された商品はすべて廃棄物という形か製造された商品という形に変わる。家庭すなわち人間の場合だと、食品は調理の過程で生じる廃棄物と、飲食されて屎尿の形で生じる廃棄物になって、前者は家庭ゴミとして出され、後者は都会では下水を通って下水処理場に送られて処理される。そして消費の過程においても商品の総質量は変わらないのである。したがって商品の購入量が絶対的に減らない限り家庭で出るゴミ(屎尿を含む)も減らないのであるが、札幌市が「ゴミの発生抑制」という場合、その意味は、従来家庭から「燃えるゴミ」という形で出されていたものの中から、リサイクルできるゴミはきちんとリサイクル用に出すようにして、「燃えるゴミ」の量を減らそうということなのであった。このことは普通の市民の人たちには誤解を招く、私に言わせると詐欺的な理屈である。藤倉氏もこの点については十分に理解していないと思われる。その原因は、恐らく自分で分別したゴミ出しをしたことがないからであろう。
 なおリサイクルできるゴミのうち、食品の容器・包装に使用されたプラスティック・ゴミについて、私が自分で分別して出すようになってよく分かったのであるが、食品のラップに使われたプラスティックには多くの場合説明のための紙のラベルが貼られていて、それらをいちいち剥がしてからごみに出す人間が果たしてどれほどいるのだろうかと疑問に思う。私自身そんなことなどとてもやっていられない。食品の容器・包装に使用されたプラスティックはそのままゴミとして出して、焼却するのが一番だという武田邦彦氏の意見が実務的には妥当であると考える。私自身食品製造会社にいて、食品容器・包装リサイクル法に基づく処理費用を支払うための事務作業を行なった経験があるが、食品の容器・包装に使用されたプラスティックは、ペットボトルを除けば実際にはリサイクルなど不可能であると思う。この制度は経済産業相の役人の天下りのための愚劣な政策に過ぎないと判断せざるを得ないのである。官僚どもはエコの名を傘にして、無意味なロクでもないことをしているのである。

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2009年6月21日 (日)

週刊誌の広告を楽しむ

 私は週刊誌は買わないので読むこともないが、ただ20年以上に渡って読んでいる日本経済新聞に出る週刊誌の広告だけは面白く読んでいる。今日(2009/06/20)の朝刊にいつものように週間新潮と週刊文春の広告が並んで出ていたが、どちらも一番の記事の内容が自民党が政権党から凋落することを予想していた。そのキャッチは前者では「自民党『下野前夜』物語」とあり、後者では「余命1ヶ月の麻生首相」とあった。新聞ではこういった予想は書かれることがないので、別の情報源として大変貴重である。 それにしても麻生首相のお粗末さは情けない限りであり、更には自民党がまともな総裁としての能力を持った人物を全く持っていない政権担当能力など本当はがなかった政党であったことを最近3代の首相の進退によって自ら国民の眼の前に明らかにしたが、それはまた日本が最近全く経済的にも揮わなかった根本原因でもあったのだと思う。
 また障害者団体の証明書偽造を行なったという厚生労働省の雇用均等・児童家庭局の局長であった村木厚子のニュースについては、その原因が政治家からの依頼であったとのことであるが、新聞ではその代議士が誰であったかを伝えていなかったが、今日の週刊新潮の広告ではその名前が出ていた。それによると民主党の石井一副代表だそうである。なぜ新聞では疑われた議員の名前を出すことができないのか。随分とお行儀の良いことだが、マスコミとしての役割を十分果たしていないというべきであろう。したがって新聞が上品なために国民が知りえない情報は週刊誌から得るしかないのだろうから、私はこれからも週刊誌の広告を楽しんでみることとしよう。
 それにしても厚生労働省では次々とよくも不祥事が現れるものだと感心する。やはりキャリア官僚などという連中は本人たちはエリートを自認しているようだが、飛んでもない話で、もはやロクデナシの集団でしかないという私の判断は間違っていないのである。

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2009年5月28日 (木)

セブンイレブンヘの公正取引委員会の指導について

 NHK・BSニュースで公正取引委員会がセブンイレブンの加盟店に対して弁当・総菜の消費期限切れ商品を値引き販売することを禁じて廃棄処分させていた件を、優越した地位の乱用として指導するということが報じられていたが、私に言わせると何を今更と思わざるを得ない。私はたまたまローソンの参加店のおばさんを知っていたが、期限切れ商品をやはり廃棄処分せざるを得ないと言ってもったいないと残念がっていた(またそれは加盟店の負担で処分するので利益を削ることになったから尚更であったのだが)のを知っているし、私たちはそうした弁当などをタダで食べさせてもらったこともあった。それはもう10年以上も前の話である。セブンイレブンだけの話ではないのだ。
 それほどに古い話なのであるが、今までそうしたことを公正取引委員会の人たちが全く知らなかったとすると、余りにも世間知らずであると言わざるを得ない。そんなことは世間では周知のことだったのである。公正取引委員会の人たちというのは、深窓の令嬢のような人たちばかりだったのだろうか。しかしそんなことでは困るのだ。業界の人たちからのタレコミがなければそうした実状も耳に入らないというのは、如何にも役人らしい仕事ぶりである。もっと情報の蒐集のための繋がりを国民とのあいだに作っておかなければ公正取引委員会としての仕事を十全に行なうことなど不可能だ。情報こそが仕事の核心であり、情報網の整備をしなければ仕事もできないことを公正取引委員会の人たちはシッカリと認識しなければならない。しかし役人にこんなことを言っても無理か。

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2009年5月25日 (月)

地球温暖化論に対する疑問

 丹羽敏雄氏の『数学は世界を解明できるか カオスと予定調和』(中公新書)を読み始めたのは、ベノワ・B・マンデロブロとリチャード・L・ハドソンの『禁断の市場 フラクタルでみるリスクとリターン』(東洋経済新報社)を読もうとして数学の応用ということについて今少し勉強しておこうと考えたからであった。ちなみに全くの偶然であるが、丹羽氏の本にマンデルブロがマンデルブロートという名前でフラクタル数学の研究者として紹介されていた。
 ところで丹羽氏の本を読んでいる内に、今や世界的に通説となっている地球温暖化論に関する疑問が思いがけず浮かび上がってきたのである。なお私としてはこの本を読むことによって科学とは何かということを教えられたのであった。
 先ず私が抱いた最初の疑問は丹羽氏の書いている次の文章から湧いてきたのであった。
 「厳密に言うと、地球を含め惑星の動きもきわめて複雑である。たとえば、地球の楕円軌道は一定しているのではなく、楕円自身がゆっくりと回転したり、細長くなったりと形を変えている。その周期は一万年単位のゆっくりとしたものであるが、地球史的にはきわめて重要な影響を及ぼす。楕円が細長くなると、太陽からの距離が遠くなる期間が長くなり、その結果地球が寒冷化する。地球の氷河期が周期的にやってくる原因の一つと考えられている。」(P43)
 なぜ地球の太陽を回る軌道が完全に一定でないのかというその理由として丹羽氏は「多体問題」の存在を挙げている。地球が太陽の回りを回転する際の軌道については、ニュートンによって発見された万有引力の法則を使って太陽と地球との間の引力の相互作用を計算した結果としての軌道とされているが、じつは地球と太陽以外の惑星の及ぼす弱い引力の影響が存在するのであって、太陽と地球の間の引力の相互作用だけに基づいて計算された軌道と少し違った軌道を地球は回っているのである。こうしたことは、私がそうであったように世間の人は知らないはずだ。
 ところで地球には過去に何度かの氷河期があったし、また恐竜が跋扈していた頃は今よりも地球の温度はずっと高かったと言われている。私は今までなぜ氷河期があったのかを全く疑問に思うこともなかったのだが、丹羽氏の上の説明でようやく正しい理解を持つことができたのである。
 また温暖化に関連して読んだ本によって、私は地球の温度に一番強い影響を与える要因が、太陽からの届く光エネルギーであることを知ったが、太陽の活動自体が変動するものであって黒点はその結果の一例であるという。ということは地球の温暖化やその逆の寒冷化についての一番の影響は太陽との距離とその活動状況なのである。
 したがってもし地球が現在太陽を回る楕円軌道の内の太陽に近い場所にいるのなら地球温暖化をもたらしているの主たる要因は太陽光の強さであるはずだし、逆に楕円軌道の太陽から遠い場所にある氷河期であるのなら太陽からの距離が遠いことに基づく太陽光の弱さということになる。IPCCの報告書というのは、果たしてそうした点をキチンと踏まえて書かれているのであろうか。
 また私は丹羽氏が気象学者のローレンツが気象現象の分析のために作ったモデル(ローレンツモデル)を例にして、計算によって出される科学的な結論の危うさについて説明していることを引用したい。気象現象は大気という流体の中で起こっている現象であり、ローレンツは流体の運動を表す方程式から出発しているという。
 「非常に現実的な現象である流体の運動をはじめ、多くの重要な現象を記述する多くの方程式が解けそうにない、というのもまた厳然とした事実である。
 そこで取られる科学の常套手段は、その方程式を簡単なものに置き換えることと、近似的に解くという手段である。」(P134)
 「ローレンツの研究や、一般に多くのカオスの研究はコンピュータの数値実験に負うところが多い。コンピュータの数値実験には実際上、本質的に誤差がつきまとう。しかもカオスを示すシステムの時間的変動を計算しようとすると、この誤差がある意味で致命的である。」(P142〜143)
 なおこの場合のカオスは流体運動に現れるのだという。コンピュータを使って方程式の計算を行なう際にはパラメータを設定してやらなければならないのだが、そこに問題が起きるのだと丹羽氏は言っているのである。二つの理由によって、現象を分析・説明するために作られる方程式のモデルの正しさが担保される保証がないのだから致命的である。
 「一つは原理的な理由で、神ならぬ人間には現象の変動の仕組みは完全にはおそらく解明できないであろうということ。・・・・・・・
 もう一つの理由はもっと実際的で、システムを定めるさまざまなパラメータの値が近似的にしかわからないことからくる。たとえダイナミカル・システムを定める方程式の形は原理的には正しいものであっても、モデルの「外的」要因を定めるパラメータの値となると、そうはいかなくなる。モデルのよってたつ原理の妥当性とは異なり、その値は絶対のものとは仮定できない」(P124)
 IPCCの報告書の作成に関係する科学者の数がいかに多かろうと、以上の丹羽氏の指摘する事態には何ら影響しないのであるから、IPCCの報告書の結論は安易に受け容れられないものでもあるのだ。なぜなら、丹羽氏によれば「世界は想像以上に複雑でまだまだ未知の部分が大部分である・・。」(P152)のだから。
 地球温暖化論は今や世界中の人たちによって科学的な真実そのものと見做されているが、私に言わせれば現代の風潮は「環境ファシズム」とでも言って良い状態であり、大いに異論が唱えられて根本的な見直しも必要であるように私には思われるのである。
 また私が科学について重要だと考えているのは、個人の研究成果であるということである。つまり科学的な結論について個人の顔の見えることが重要であると思うのである。たとえどれほど大きな集団の名前の下で出されたものであっても(IPCCはその最たるものであろうが)、科学としての信頼性を担保するものは科学者個人であると私は考える。科学的な結論が集団の名前によって示される時、重要な科学的な内容のものについては、場合によってはその集団内の政治的な力学によって真実が歪められることもありうるのではないかと懸念されるしのである。マイケル・クライトンの小説『NEXT』(早川書房)は研究資金集めの手段としての環境テロリズムという観点からその問題を取り扱っている。
 現代では科学研究費は巨額のものになり、集団的に研究を行なわざるを得ない場合が多くなっているようであるが、科学的な真実を担保するものは集団ではなくてあくまでも個人であると私は考えている。そういう観点からすると私はIPCCの報告書の内容、専らCO2などの温暖化ガスを温暖化の原因とする結論について100%信用することはしかねるのである。

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2009年4月24日 (金)

猥褻の概念はまともなものか

 スマップの草彅剛が酩酊して公園で全裸になっていたたことが発覚して公然猥褻罪で警察に逮捕されたが、そもそも猥褻という概念はまともなものなのだろうかと私は以前から大いに疑問に思っている。小さな子どもの性器は全く猥褻とは無関係なものと受け止められているのだが、大人の人間の身体の一部である性器は、他の身体部分と違ってなぜか猥褻であると世間的に了解されている。したがって大人が裸であっても、短パンをはいていれば何でもないのに、性器を覆わなかっただけで全く違った事態になるのである。ところが公衆浴場や温泉の風呂といった場所ではたとえ性器を隠さずに全裸であっても猥褻罪には該当しないことは明白である。ということは同じく全裸であっても、場所によっては全く法律的な取り扱いが違うのであって、裸であることが当然の場所では性器も猥褻なものではなくなるのである。
 ところでアフリカの哺乳類などのドキュメンタリーでは交尾をする場面などもテレビで放映されることがあるが、人間ではないから猥褻罪には該当しない。ということは哺乳類の性器であっても、」人間のものでなければ猥褻ではないのである。なぜ人間の性器だけが猥褻なのであろうか。猥褻という概念は全く人間的なものであり、特殊な性質のものなのである。猥褻という観念は、一神教社会での神の概念と同じように、刷り込みによって何の自覚もないままに人間に植えつけられているのである。猥褻という観念にはなんら正当な根拠はないのである。かつては恥毛は猥褻であると受け止められていたのだが、いつのまにか猥褻の対象から外されてしまったから、ヘアヌードなどといった写真集が大手を振って出版される有り様である。
 人間の顔は当然隠す訳には行かないから人間の身体の中では常時露出されているが、誰もそれを猥褻だとは言わない。(唯一の例外は、イスラム社会の女性ぐらいのものであろうが、これは宗教的なイデオロギーによるものだ。)一方人間の大人の性器は普通いつも衣装の中に隠されている。どうやら衣装の中に隠されているものが猥褻と受取られるようだ。例えば女性が乳房を露出して歩いていた場合に、彼女は猥褻罪で捕まえられるのだろうか。まあ普通に考えると、乳房も普通衣装に覆われて隠されていおり、乳房を露出して歩くような女性はいないが、それでも思考実験としてそうした状況を考えた場合に、果たして彼女は猥褻罪に該当するとして警察に捕まえられるのであろうか。昔は女性が赤ん坊に授乳するために乳房を公衆の前で露出して子供に含ませていたものだが、誰もそれを猥褻であるとは見做さなかった。ということは乳房そのものが猥褻なのではなくて、問題は乳房が露出されている状況なのである。性器も同じなのである。風呂場では露出されていても猥褻ではなくて、世間で普通隠すべきであると受け止められている状況で露出されている場合にのみ猥褻なのである。なぜ通常の状況では性器は猥褻であると受取られるのであろうか。
 ヌーデストクラブでは誰もが性器を露出しているが、誰もその性器を猥褻なものであるとは受け止めていない。ということは性器を猥褻なものであるとするかどうかは、価値観すなわちイデオロギーの問題なのである。どうも世の親たちは子どもたちが大人の性器を見ることから遠ざけようと考えているようだ。それは世の親たちが性器を猥褻なものであると考えているからである。もし誰もがそのように考えていなければ、たとえ性器を露出して歩いている人がいても誰もその人間を猥褻な存在とは考えなかったはずである。そのような社会であったなら、草彅剛も公然猥褻罪で逮捕されることもなかったであろう。私は猥褻罪などというものは世の中に積極的な意味を持っているのであろうか全く疑問に思っている。むしろ世の中に害悪を与えているとさえ思う者である。政治家などは自分の政治家という地位を確保するために世論に迎合するだけであるから、猥褻罪という刑法上の罪を真剣に検討するなどということは出来ない。したがって日本において猥褻罪は、内容の変化することはあっても刑法からなくなることはないだろう。戦前に存在した姦通罪は戦後アメリカの外圧によって刑法からなくなったが、私は猥褻罪も同じ運命をたどっても構わないはずだと思うのだが、強烈な外圧などは起こりそうもないから日本人は何も手を打たないだろう。
 草彅剛の全裸は誰にどんな迷惑をかけたというのだろうか。誰かそれを私に説明してもらいたいものである。

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2009年3月16日 (月)

医学の脅迫観念

 歳を取ると、やれ高血圧だ、高脂血症だ、尿酸値が高いだなどと、病気として指摘されるものが増えてくる。しかし柴田二郎氏や浜四郎氏などの本を読むと、どうも単純に医者のいう通りにしていてはいけにように思われるのである。私が昔住んでいた湯河原町のアパートの近くの個人医院の医者がある時、「歳を取ると少し血圧が高くなるのは当たり前で、150や160は何でもない」と言ったのを覚えている。しかし今は下が90を超えるか、上が140を超えると、たいていの医者は異口同音に「高血圧だから、降圧剤を飲むように」といって降圧剤を処方する。私もそういわれてしばらく降圧剤を飲んだことがあるが、浜四郎氏の「100から180までの間なら、降圧剤は飲まない方がいい」という主張の方がまともだと思うので、最近は飲まないでいる。
 ところで統計学でいわれるものに、自然界に存在する釣り鐘型をした「正規分布」という現象がある。例えば最近大きな問題として騒がれている「メタボリック・シンドローム」も、見方によっては異常な考え方である。「自然現象の現れ」と考えられる「正規分布」という見方をすれば、世間には痩せた人もいれば太った人もいるのが自然の秩序なのである。それをある一律の基準を定めて、それ以上は肥満で「メタボリック・シンドローム」という病気だと言うのである。しかし痩せていることについては、拒食症による場合を除けば病気だとは言わないようだが、私はおかしいのではないかと思う。
 寄生虫博士として有名な藤田紘一郎氏によると、歳を取ってからは少し太りぎみくらいの人の方が長生きをしていると言う。痩せていると体力がないから病気に弱いのだそうである。今いわれている「メタボリック・シンドローム」の基準はおかしいと藤田氏は言っている。藤田氏は統計に基づいてそういっているのだ。
 そして最近新聞広告で、岡本裕氏の『9割の病気は自分で治せる』(中経文庫)という本を知って早速買って見た。その中で、医者を信じきって、医者のいうままに薬漬けの医療を受けている日本人は、医者や病院にとっては利益になる「おいしい患者」なのだと岡本氏は皮肉を込めて言っている。そしてそうした状況を作りだした張本人は、医者の技術料を極端に低く決め、薬代の差額でしかペイしないような薄利多売の診療システムを作り上げた厚生労働省なのだと岡本氏は指摘している。私は舛添厚生労働相こそこの本を読むべきだと思う。
 また岡本氏によると、日本の医者は「マニュアル診療」をするだけで、自分の頭で考えることをしていないと言う。このことを岡本氏は次のように書いている。
 「(日本の医者は)、ゆっくりと物事の本質に考えをめぐらす余裕など毛頭ないというのが現状だと思います。」(P20)
 健康診断にしろなんにしろ医者は血圧を測って、例えば先の「90以上、または140以上は高血圧」の診断基準(マニュアル)を金科玉条にして「あなたは高血圧とだ」と全く条件反射的に判定するが、そもそも人間には体質的に差異があると考えるべきではないのか。痩せた人間も太った人間も全く同じ基準で高血圧と診断することは、私には間違っているとしか思われない。岡本氏も、浜四郎氏と同じように、高齢者は少し血圧が高い方が元気で長生きするという統計的な調査結果も出ていると言う。浜氏はなぜ日本の医学会ではこの事実を無視して「90以上、または140以上は高血圧」という異常な基準を決めたのかと批判している。
 したがって私は、医者との距離の取り方を自分で勉強する必要があると思う。昔私の勤めていた会社に年配で仕事熱心な女子社員がいたが、ある時風邪を引き、仕事の忙しい時期だったので仕事を休まないように早く薬で治そうと考え医者に行って薬を貰ったが、すぐに治らないものだから別の医者のところに行き、つぎつぎと同じことを繰り返しているうちに、彼女はひどく体調を崩してしまった。大きな病院に行って検査してもらったところ、余りにも抗生物質を服用しすぎて体中の有用不可欠な細菌までも殺してしまい、外部の細菌に対する抵抗力をすっかり失ってしまっていたことが判明した。以後彼女は長期に入院することとなり会社も辞めざるを得なくなってしまったのである。私はアーサー・ヘイリーの小説『ストロング・メディスン』(新潮文庫)を読んだ時に、医者が「風邪を引いた時は、アスピリンでも飲んで、水分をたっぷり取って暖かくして寝ているのが一番だ」と言っているのを読んで、そのようにしているが、病気になった時くらいはとにかく休養するべきなのだ。中学くらいになったら、学校ではそうしたことを是非とも教えるべきだと思う。
 医者のマニュアル診断は場合によっては、一種の強迫観念ではないかと私には思われる。またそれには医学の本質についての誤解もあるのではないか。米山公啓氏は『医学は科学ではない』(筑摩新書)と言う本を書いているが、現代の医学教育そのものにも問題があるように思われるのである。
 なおわれわれ、特に働いている人は、病気になった時くらいはいい休養の機会ができたと思って、じっくり療養する精神的なゆとりが必要であると思う。

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2009年2月21日 (土)

受精卵取り違え事件のもうひとつの見方

 香川県立中央病院で起こった受精卵の取り違え移植事件については、作業手順についてのチェック体制の不備が原因と報道されているが、果たして本当の原因はそれだけなのだろうか。私がこのように思った理由は、ある講習会で聞いた話が頭に残っていたからである。
 その講習会の講師は、西武百貨店の当時の専務の人であったが、私の頭に強く残ったのは彼が指摘した次のような話であった。病院の管理についての一番の問題は、医者が最高権力者になっていることだと、その講師は話した。病院には医療行為の他に病院という組織体の運営管理ということがあるが、医者は医療の専門家ではあっても病院の経営ということに関しては素人にすぎない。ところがその素人が、経営に関する能力も資格もなくても病院の最高権力者になることができるのだから、病院経営がうまくいかないことがあるのだ、とその講師は言っていた。この話は強く私の印象に残った。
 ところで今回の受精卵取り違え移植事件の深層にあるのではないかと私が疑うのが、この部門がその担当医者の「治外法権」の場になっていて、極端な言い方をすれば本人の好き勝手なやり方で運営され病院長も口を出せない状態になっていたのではないかということである。手順を決めたマニュアルはあったというが、取り違え防止のための手順を決めたものはなかったという。ここにも以上で述べた「治外法権」の影響があったのではないか。
 以上のことは私の単なる推測に過ぎないのであるが、不妊治療の担当医者が一人だけでしかも実績もあったことから病院長を含む周りの人たちが口を出せない状況にあったのだろうと、先の話から私には思われるのである。今回の事件で体外受精の分野での取り違えミスは解消されるだろうが、今後も別の医療分野で同じような「治外法権」が原因の治療過誤が起こりうるのではないかと推測されるのである。
 なお最近読んだ医療過誤を扱ったミステリー、ベイン・カーの『柔らかい棘』(講談社文庫)でも、治療の場が医者の権力下にある密室、すなわち一種の「治外法権」の場であることが問題であったことが描かれているが、医者の権力をどうやってコントロールするかという重要な問題の所在を示唆しているのである。

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2008年12月30日 (火)

21世紀は新しい宗教戦争の時代

 宗教戦争というと、私たちが高校などの世界史の授業教わったのは専らヨーロッパのキリスト教国で起きたキリスト教徒同志の間の戦争であったが、どうやら21世紀になってからは一神教のユダヤ教、キリスト教、イスラム教の信徒の間での戦争という性格がはっきりしてきたように思われる。パレスチナでのイスラエルとそれを取り巻くイスラム教国との間の戦争は明らかに、ユダヤ教徒とイスラム教徒との間の戦争である。またアフガニスタンやイラクで闘われている戦争は、キリスト教徒とイスラム教徒との間の戦争である。
 第一世界大戦も第二次世界大戦も、そこには宗教的な要素は見られなかったといってよい。第一次世界大戦は主戦場がヨーロッパであって、闘った国家は互いに基本的にキリスト教徒の国であった。第二次世界大戦はもう少し戦場の範囲が広くなって、ヨーロッパからアジアにも戦場が広がったが、そこには基本的に宗教的な要素が関わっていたわけではない。
 パレスチナでのイスラエルと回りのイスラム諸国との戦争は20世紀から引き続いたものだが、2001年9月11日のアメリカでの同時多発テロ以降キリスト教諸国のイスラム教徒に対するテロ対策やイラク戦争は、イスラム教徒とキリスト教徒との間の宗教戦争であるといってよいと思う。そして、それらは全て同じ根を持つ一神教の宗教を信じる者たちの間の戦争という性格が強く現れてきたように私には思われるのである。これは一神教という唯一神を信じる宗教というものの持つ問題性を明らかにしたといえるのではないだろうか。
 一神教は唯一全能の至高の神の存在を信じる宗教であり、従ってその神の教えのみが唯一正しく道徳的にも善なるものであると考える、従って論理的にそれ以外の宗教は全て悪であるという結論にならざるを得ない。一神教を信仰する一神教徒は自分たちは常に道徳的に正しい善なる存在であって、それ以外の人間(異教徒や異端者)は全て悪なる存在であると考える癖を持っている。同じ一神教を信仰する仲間以外の人間は、従って全て悪魔であると彼ら一神教徒は考えるのである。悪魔を殺すことは道徳的に良いことではあっても、悪いことではありえない、ということになる。一神教徒はかくして道徳的殺戮者になりうるのである。異教徒である悪魔憑きの人間に対する殺人行為を道徳的に善なる行為と強く意識するがゆえに、イスラム教徒は簡単にテロリストになってしまうのだ。同じ宗教的殺人は中世のヨーロッパで魔女狩りや異端裁判といった形でキリスト教徒の間で行われたのであったが、現代ではキリスト教徒の間での異端狩りはなくなったのに対して、イスラム教徒の間ではいまだ異端ということが問題になっているという。久保田展弘氏の『聖書はどこから来たか』(新潮社)には次のようなことが書かれている。
 「コーランの教えを教条主義的に強調し、絶えず背教者の告発が声高になされている現代のカイロ」(P14)
 「背教者と名指しされ、告訴された上に、もし判決によって背教者と宣告されたとき、それは死刑宣告に等しいのだという。」(P14)
 ヨーロッパはまだ基本的にはキリスト教圏であろうが、それでも信仰の自由が誰にも保障されているのと比べると、イスラム教国はまだまだ近代社会の基本である信仰の自由は全く確立しておらず、近代人としての意識基盤ができていないのである。こうしてみると信仰の自由ということは、社会の近代性を計る上でのの大きなメルクマールであることがよく分かるのだ。しかし宗教に対する日本人の観念は、一神教徒の宗教観とは基本的に異なるものであって、そのことを久保田展弘氏は次のように述べている。
 「日本の神信仰とその概念によって育まれ、この神と仏との融合のなかで、排除の思想をもたない神とか仏、そして宗教を考えてきた私」(P15)
 一神教の観念をもたない日本人の信仰する宗教が「排除の思想」を持たないことがいかに人間的なものであるかを、この久保田氏の文章は明らかにしている。
 私は最近、一神教は人類にとっての災厄であったと思うようになっている。国家間の利害の対立によって引き起こされる戦争に比べると、宗教的な背景を持つ戦争は非常に質(たち)が悪い。利害の対立は解決が比較的に容易なものだが、道徳的な対立を解決するのは、互いに自分が道徳的に正当であると考えているがゆえに簡単には調停もできないのものだ。それは全く質の悪い紛争なのである。エレーヌ・ペイゲルス女史は、宗教の本質を「不可視の世界」の理解に関わるものと理解して、『悪魔の起源』(青土社)において次のように書いている。
 「世界のさまざまな宗教の伝統は、不可視の世界にさまざまな形を与えてきた。また、私たちが想像する不可視の世界は、周囲の人々や出来事、あるいは自然界に対する私たちの関わり方にも大きく左右される。」(P11)
 「古代の西洋世界に於ける多くのーおそらくは、ほとんどのー民族は、この宇宙には不可視の存在が多く住み着いており、そして彼らの存在が、可視の世界やそこに住む人間に決定的な影響を与えている、と考えていた。』(P11〜12)
 この不可視の世界の住人と彼らは考えたのは、神であり、天使であり、堕天使や悪魔であった。養老孟司氏に言わせると、これらは全て人間の脳の機能によって創り出されたものに過ぎない、ということになろう。不可視の存在に対して人間の脳がさまざまな性格を与えたのが、神であり、天使であり、堕天使や悪魔であったのである。そして人間の脳が創り出したものが、今度は宗教という形で人間の思考や行動を束縛するようになったのである。

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2008年6月14日 (土)

注射器の使い回しが表す医療界の思考能力の欠如

 注射器の使い回しについての報道が引き続いて報道されている。その原因に厚生労働省の禁止通達が医療現場に届いていなかったということもあるというが、私にはそれ以前の、医療従事者の「何も考えない症候群」こそが問題なのではないかと思われるのでる。なぜ注射器など血液を扱う機具の使い回しがダメなのかは、ウイルスというものの基本的な知識があればすぐに解ることである。ウィルスは非常に小さくて顕微鏡では見えない、電子顕微鏡でやっと見えるくらいの存在だ。肝炎やエイズの原因になっているのはそういった微小なウィルスであり、ウィルス患者に使用した注射器など血液を扱う機具に微量に残った血液中にも沢山のウィルスが存在していて、使い回せばそのウィルスが次の人にうつることは簡単に理解できることである。こんなことは素人の私にも解る基本的な事柄である。そういう単純な理屈でさえも理解できない医療従事者がいるというのは、私にはまことに恐ろしいことに思われる。
 先ずはウィルスというものについての基礎知識さえ持っていないか、または上に述べたウィルス感染のリスクを考えつかないか、のどちらかが問題なのだが、余りにも基本的な事柄を理解していないというのは医療従事者に対する教育のあり方にも問題があることを示していると思う。もしウィルスが極く微小な存在であることを知っていながら、注射器などの使い回しを行なっていたとしたら、そういった人たちは「何も考えない症候群」の人たちである。ところが私には、医者を初めとして医療界全体に「何も考えない症候群」が行き渡っているように思われるのである。私がそのように判断する根拠として、次の二つが挙げられる。
 一つは「高血圧」の基準数値である。高血圧かどうかを判断するガイドラインは、2000年に正常値を90ー140に定められたが、それ以前は95ー160であったという。基準数値が厳しく改定されたのである。そして医者は患者の血圧測定値が90ー140の正常値を超えると、高血圧と自動的に診断して患者に降圧剤を処方して飲ませる。ところが私が神奈川県の湯河原町に住んでいた時に自宅近くの医者にかかった時、その医者は歳を取ると血圧は上がるもので、150や160は当たり前だといっていた。そして医者の浜六朗氏は『高血圧は薬で下げるな!』(角川新書)で、「六十歳未満、あるいはもっと年齢が若くても、自立度を考えると、180/100程度までは、降圧剤での治療は不要かつ有害です。」(P113)と書いている。 なおここに書かれている「自立度」とは「人の助けを借りずに身の回りのことができる」人を「自立者」とした場合の「自立者の割合」を言います。調査の結果を見ると降圧剤を使用する人は、自立度が下がるのだそうです。しかし普通に病院などに行った場合には、血圧測定をして90ー140を少しでも超えると医者は高血圧と自動的に判断して降圧剤を処方します。私は人間をこのように単純に一律の基準で判断することが果たして妥当なことだろうかという疑問を抱きます。歳を取ると血圧は高くなる傾向があると言った医者は、自分の経験に基づき言っているのだろうと思うのだが、私にはその判断は正しいように思われるし、浜医師の書いていることにも納得が行くので自宅で計る血圧が180/100に収まっている限り降圧剤を飲むつもりはない。もしこれで何かあっても全く構わないと考えている。人間、いつかは死ぬのだ。
 医療界における「何も考えない症候群」の根拠と考えるもう一つの根拠は、最近話題の「メタボリック・シンドローム」の基準である。お腹廻り(つい先日健康診断を受けたらへその位置での計測であった)が、男が85センチ以上、女が90センチ以上ならメタボリック・シンドロームなのだそうだ。しかし藤田紘一郎氏などは過去の実例から言って、少し太っているくらいの方が長生きしており、今回のガイドラインはおかしいと批判している。もしそれが事実なら、医療界は高齢化社会対策として少しでも長生きを阻止しようと考えて、このようなガイドラインを設けたのではないかと性悪の私などはついつい勘ぐってしまうのでる。

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2008年6月 2日 (月)

無戸籍の女性と子供のニュースを見て

 法律は社会の構成員の利害関係を調整するための便宜的なものに過ぎないと私は考えているが、現在の民法の規定のために女性とその子供二人が戸籍を持てずに困っているというニュースをTVで見た。これは、はっきり言って法律の規定がおかしいことを示している。そのことを法務相の官僚たちはハッキリと認識して至急、民法の規定を改めるべきである。私がこういっても、恐らく法律学の専門家などはあれこれと屁理屈を言ってなかなか改正に動かないだろうと推測されるが、專門バカというものはどこにでもいるもので困ったことである。法律のために人間があるのではなくて、人間のために法律があるという根本を理期すれば今回のような馬鹿げた現象は起きなかったはずだ。法務省の官僚たちもこのことに対する対処で熱心に動いても出世のためには何の役にも立たないと考えているからだろうが、臭い物に蓋で誰もやるべきことをやろうとはしなかったのだろうと私は推測している。キャリア官僚にとってはどうも仕事は出世のための単なる手段に過ぎないようである。良い仕事(私が言うのは、国民のためになる仕事という意味であるが)をした結果として出世するのではないというところに日本のキャリア官僚たちの根本的な考え違いがあるのではないだろうか。私にはキャリア官僚連中の考え方は本末が転倒しているとしか思われないのだが、いまや官民を問わず日本にはエリートというにたる中身のある人間がほとんどいなくなってしまったとしか思われない。私欲のためだけに仕事を利用するというのでは、とてもエリートとは言えないと思うのだが、言うだけ無駄であろう。

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NHK・BSTVの海外作成番組の放送はきちんとチェックされているのだろうか

 今日(2008/06/02)のNHK・BS放送の夜10時台の中国の四川大地震に関するニュースでおかしな言葉を耳にした。中国政府が進めている仮設住宅の建設に関して、「こうち」に戻しやすいように仮設住宅にはセメントを使わないと同時通訳の女性が言っていた。この「こうち」というのは「更地(さらち)」の間違いであろうが、同時通訳をしているのは発音からすると中国人のようである。更地という言葉は少し専門的だから辞書を引いて知ったのだろうと思うが、その辞書には漢字だけが記載されていて日本語の読みは出ていなかったのだろうと推測される。
 ところでNHKでは放送前にニュース内容を誰かが見て通訳内容をチェックすることをしていないのだろうかか。もしやっていて気が付いていたのなら、「こうち」というのは更地の間違いであったと訂正するべきであるし、それがなかったということは誰もこの間違いについては気が付いていないということだろう。多分放送前に編集作業があると思うのだが、その時に誰にも気づかれなかったということは、NHKの職員の日本語のレベルは低下していることを示していると私には思われるのである。
 10時台の放送をNHK職員の誰かが見て更地という言葉が「こうち」と間違って発言されたことはNHLK内部で認知されたのだろうか。そして間違った発音が認知されたとして、当該通訳者にその間違いはちゃんとフィードバックされるようになっているのだろうか。

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2008年5月30日 (金)

フィレンツェ人の格言

 『汝の道を行け、そして人々の語るにまかせよ!』 カール・マルクスが『資本論』第一巻の序文に引用している有名なフィレンツェ人(誰かは知らないが)の格言である。要するに「自分の進むめべきと考えた道を行きなさい、そして他人には好きなように言わせておきなさい」ということを言ったものである。東洋的な見方で言えば、いわば唯我独尊の精神を勧めたものであるといえるかもしれない。
 私は本を書こうと思っていて、そのための練習としてこのブログに文章を書いて掲載している。読んでくれる人も余りいないようだが、私自身が書き込みなどもほとんど気にしていなくて、そもそも他人のブログを読もうなどといった気にさえならないくらいの、いわば『タコ壺ブログ』といってもいいようなものである。ところが私の書いたものに最近コメントがあって、それを読んで、学校裏サイトと呼ばれるものが子供たちに悪い影響を与えているというニュースについてやっと「ああ、そうなのか」と腑に落ちる経験をした。わたしの書いた内容について何ら具体的な指摘もないままに、自分を高見において偉そうに私を批判したものであった。なるほど世の中にはこうした困った手合がいるのかと改めて思ったことであった。
 ところで私は上に引用した格言を拳々服膺してるので「何を言っていやがる」で済んだのだが、小さな子供なら書かれたことがまともに心に刺さって傷付くこともあるに違いないと思った。私には他にも拳々服膺してることがもう一つあって、それは生物学者の池田清彦氏が書いていた「人間は死ぬべきときに死ねばよいのだ」という言葉である。この言葉を知ってから、私は死というものを恐れる気持ちがなくなったように思う。何時死ぬようなことになっても、「死ぬべき時がきた」と思って死ねば良いのだから。60歳を過ぎて死ということが具体的な事柄として意識されるようになったが、人間が生物である以上はいつかは死ぬのだし、人間以外の動物で自分の死のことを考えて悩むものはいないようで、死はコントロールすることが好きな人間であってもコントロールしきれないものである。死への恐怖が宗教を人間に齎したようでもあるが、死を余り恐れる気がなくなると宗教などは馬鹿馬鹿しいものに思えてきさえするのだ。
 要するに考え方さえしっかりしていれば、困った外部からの影響をやり過ごすこともできるように思う。インターネットの世界で無責任な言葉が子供たちを傷つけているようだが、それに対する精神的ワクチンとして大人たちが適切な助言をすることができれば助けになるのではないだろうか。昔の人たちが言っていた次のような格言も大いに有益だと思う。『人の口に戸は立てられない。』 悪口を言う人があっても、誰もそれを強制的に止めさせることはできないのだから聞き流して無視しなさい。こういった先人の知恵を生かす以外に手の打ちようはないのではないか。

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2008年5月12日 (月)

『名ばかり管理職』問題は経営者の無能の証明だ

 最近『名ばかり管理職』問題がメディアでも広く取上げられているが、これは日本企業の経営者の無能を証明するものであると私は考えている。人事管理の方策としての『名ばかり管理職』の前に日本では『年俸制』が導入され、次いで『成果主義人事』が導入されているが、なんだかんだと言ってもこれらも目的は単純で、人件費の抑制だけが目的の『名ばかり管理職』と同根のやり方であり、非常に姑息なものである。『年俸制』も『成果主義人事』も結局、日本企業の経営者の無能を証明するものであったと私は」考えている。それはもちろん私の長年勤務した社員としての経験の基づくものである。私自身が労務管理にも携わってきた。
 なぜ経営者の無能ということを言うのかというと、山本真司氏の『会社を変える戦略 超MBA流改革トレーニング』(講談社現代新書)を読んで、プロフェッショナルな経営者とはどういうものなのかを深く認識させられたからである。この本は小説仕立てで書かれていて、ニューヨークのある日系オーナー企業の食品スーパーが経営的に行き詰まりを見せてきたところで、外部から経営コンサルタントを経営トップとして据えて経営改革を行なわせるものだが、その人物が行なう経営改革のやり方や考え方が非常に勉強になった。なるほどプロの経営者というのは経営の考え方、やり方がこんなに違うものかと、オーナー企業に勤めていた私は、自社の経営トップとの違いに強い印象を受けたのであった。この小説のオーナーは自分の能力の限界を認識してプロの経営者に食品スーパーの経営を任せようと考えたが、その決断をしたこと自体が非常に立派な行いであって、高い評価に値すると私は判断する。なぜなら私が長年勤務した企業の二代目オーナー経営者は、債務超過にまで経営を悪化させたにも拘わらず「私はオーナーだから経営者を辞められない」と世迷いごとを言って経営トップに居座り続けた恥じ知らずな人間であったからである。
 この本に描かれたプロの経営者と比べると、私が勤めていた企業の二代目経営者などは全くのオ坊チャマのプータロウでしかない。働いている社員は普通なかなか経営者の実態を知ることがないのだが、数社の企業で働いた経験から私は山本氏の本を読んで日本企業の経営者にはプロフェッショナルな人間がいないのではないか、プロフェッショナルな経営者の不在こそが日本企業の根本的な問題なのではないか思うようになった。だからといって単純にMBA教育を受けた人間でさえあればいいとは思わないが。
 労務管理に携わった経験から、『名ばかり管理職』や『年俸制』は非常に安易で姑息なやり方であると私は判断する。そういうことも判断できないほど日本の経営者は無能なのだ。能力主義だ成果主義だといいながら、日本の企業では未だに長時間勤務を高く評価する悪い伝統が根深く残っている。職場に遅くまで残っている人間は良く働いていると単純に評価しているが、そうした評価こそが長時間勤務を職場に蔓延させていると私は思う。人間一日に8時間も働けば充分だと私個人は考えているが、科学や技術の進歩が労働時間の短縮に結びつかないというのは本来異常なことである。何のための科学・技術の進歩なのか。こうした根本的な考え方さえもできなくなっている競争社会のあり方に疑問も感じないようなら、高等教育も大した意味はないと私は考える。切磋琢磨することと、単に競争に勝つことしか考えられないのとでは天地の違いがある。人間の関係が競争関係だけになってしまったら、社会は成り立たないだろう。
 ところで本来個人個人の仕事の出来栄えを適切に評価するのが人事考課の役目であると思うが、評価というのは言うは易しく実行は非常に難しいことであると私の経験から言える。しかしそれをするのが人事担当者や管理者の仕事なのだ。私はガルブレイスが言うように、現代日本が豊かな社会であることは確かだと思うが、その一方で日本ではその豊かさを個人の生活場面で充分生かせないでいる。それには日本企業の経営者の無能という要因が大きく関わっていると私には思われてしかたがないのである。『過労死』や『うつ病』などいったことは、長時間労働の問題を象徴するものである。豊かな社会における長時間労働の問題は政治家も企業トップも真剣に考えるべき事柄であると私には思われるのだが、彼らには私のような問題意識自体があるのだろうかと疑わざるを得ないのが実態である。プロの経営者がいないと書いたが、政治家にも同じことが言えると思う。今マックス・ヴェーバーの『職業としての政治』(岩波文庫)を読み直しているが、果たして日本の政治家のどれくらいがこの本を読んだことがあるのだろうか。

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2008年5月 7日 (水)

マイクル・クライトンの『恐怖の存在』を読む

 久しぶりにマイクル・クライトンの小説を読んだ。環境問題を扱った『恐怖の存在』であるが、ナノテクノロジーを扱った『プレイ-獲物』以来である。私が彼の小説を読むのは、小説としての面白さもさることとながら、現代の最先端技術を知る上で大いに役に立つからだ。『恐怖の存在』の初めの方はどちらかというと退屈であったが、途中から俄然面白くなってきた。最近地球温暖化のニュースでも良く出てくるIPCCという科学者団体も取上げられているが、クライトンは批判的な見方をしている。IPCCはIntergovernmental Panel on Climate Changeの略語で、「気候変動に関する政府間パネル」と訳されている。1988年に国際機関によって設立され、今は何千人もの科学者の意見を反映した報告書を作成しているとのことであるが、クライトンはこれに対抗して地球温暖化は事実といえるかどうか怪しいと小説の中で批判しているのである。彼がその証拠に引用しているのは何名もの科学者の意見や公表されている科学的なデータで、地球規模の気候についての問題となると事実の確認からして容易ではないし、また集められたデータをどのように解釈するかという問題もあって、地球は炭酸ガスやメタンガスといった温暖化ガスによって温暖化などしていない、都市化の進展によって都市部で起きているヒートアイランド現象が温暖化の原因になっているかもしれないといった解釈も成り立つという。クライトンのこの小説は2004年に出版されているからもう4年ほど経つが、ニュースなどを見る限りではIPCCの権威はますます大きなものになってきているようで、さすがのクライトンも敵わなかったようである。しかし私はこの小説は地球温暖化問題に関して大きな意義を持つと考える。
 小説『恐怖の存在』では地球温暖化防止を叫ぶ環境団体が自ら自然災害を増幅させることで大きな災害を引き起こし、資金集めを容易にしようと企むのだが、地球温暖化問題をテーマとする研究は科学者が科学研究を行なうのに必要な資金集めに現在一番有利な研究題目になっているようだ。石油や石炭などの化石燃料が燃やされて発生した熱エネルギーは、熱力学の第一法則によれば、消滅することはないのだから、現代のように毎日膨大な量の石炭や石油が燃焼した結果として発生した熱は地球を焦熱地獄にして当然なのだが、それがそうなっていないのは毎日発生している膨大な熱が大気圏から宇宙に放散されているからなのである。そして今大きな問題となっている地球温暖化問題は、炭酸ガスやメタンガスが熱を伝えにくいという性質を持っているためにそれら温室効果ガスの増加が宇宙への熱の放散を妨げることによって地球を温暖化させているという考え方に基づいている。そしてその事実を立証する為の研究が大勢の科学者によって行なわれているのである。IPCCは地球温暖化を立証する研究結果を取りまとめている機関なのであるが、その主張に対して反対意見を持っている科学者たちも存在しているのだ。一般的に言って個人よりも集団の方が倫理的にはレベルが低くなりがちであって、そのことはたとえ科学者の団体であっても当て嵌まる。団体が大きくなって力を持てば持つほど倫理的な問題は高まるだろう。規模が大きくて注目を集める領域を研究対象にしていれば研究資金を集まるのも容易になるから、そこに問題が起きやすい。科学的な事実は、科学者の声の大きさに比例するものなのかどうか、といえば誰もそうだとは言わないだろうが、地球温暖化問題についてはどうもそのような事態になっていると考えられるのである。マスコミの報道は科学的な事実を証明するものではないはずだが、実際には声の大きい主張が科学的な事実として幅を利かせているのが現状なのではないだろうかか。私にはそのように思われるのである。いわば科学の世界でのファシズム現象が地球温暖化問題について起こっていると考えられるのである。クライトンがこの小説を通して示した地球温暖化問題と言われる事柄の真実性の疑わしさは私には大いに納得のいくものであったし、また科学者がメンバーとなって組織している団体についても人間であるがゆえの問題を免れていないという訴えかけを、私たちは正しく理解する必要があると思われる。地球温暖化問題に関するIPCCの影響力が強まっていることからすると、残念ながらクライトンのこの小説は世界的には大きな影響力を持ちえなかったようだが、自然科学の世界においてもファシズムはあり得るという問題点を提起したことで大きな意味を持っている。

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2008年4月25日 (金)

現代のマスメディアはなぜ面白くないか

 ブログに勝手なことを書き散らすようになって考えたことがある。新聞、TV、雑誌といったマスメディアに、それ自体の意見などがあるのだろうか。例えば新聞は、今問題になっている揮発油税の暫定税率に対して賛成・反対の意見を新聞社として持っているということがありうるのだろうか。社説はその組織としての新聞社の持っている見解といえるのか。たとえ社説という形をとっていたとしても見解というのはあくまでも個人のものなのではないだろうか。その新聞社に働いている論説委員の知性と教養を表した意見名のではないか。
 2008年4月12日の日本経済新聞に掲載された週刊新潮の広告に出ていた記事名の中で一番大きかったのは、『聖火と共に「北京五輪欠席」の輪は広がるのに中国を批判できない朝日の「チベット報道」』というものであった。朝日新聞が名指しで批判されていたが、週刊誌や雑誌などの広告で朝日新聞を批判する記事は時々目に付く。40年ほど前の私の実家では朝日新聞を購読していた。当然私も読んでいたが当時は別に何の違和感もなかった。しかし今の実家は讀売新聞を取っている。私個人としては23年ほど前から日本経済新聞を購読していて、たまに他の新聞を読んでも面白くないので日本経済新聞しか読まない。朝日新聞については井沢元彦氏など何人もの人が、かつて共産諸国と言われたソ連や中国に対する姿勢がおかしい、それらの国に関する報道内容にイデオロギー的な規制がなされていて正確に報道をしていないと批判しているが、私は長い間朝日新聞を取っていなかったからその批判内容を正しく評価することは出来ないが、讀売新聞や毎日新聞がそういった批判を受けているのを聞かないから恐らく朝日新聞への批判にも妥当性があるのだろうと思われる。
 このブログに私は好き勝手なことを書き散らして載せているが、日本のジャーナリズムの中で本当に個性的で面白い人物といえば宮武外骨だろうと私は思っている。彼は明治維新の1年前(1967年)に生まれていて、明治から昭和にかけてジャーナリストとして活躍しているが、彼の批判精神旺盛でなおかつユーモアと機智に富んだ文章がとにかく面白い。私が宮武外骨のことを知ったのは、赤瀬川原平氏の『学術小説 外骨という人がいた!』によってであるが、日本にもこういう人がいたのかと感動したくらいである。彼の出版活動は明治政府によって何度も出版禁止をくらって弾圧され、本人も何度も投獄されている。それでも懲りずに出版を続けたの人物なのである。彼の出版活動はまさに彼の個性の表出そのものだった。1889(明治22)年に明治憲法(正式名『大日本帝国憲法』)が発布された時は、それを茶化した『大日本滑稽研法』というものを書いて「頓智教会雑誌」に掲載した。吉野孝雄氏の『宮武外骨』に『大日本滑稽研法』が『大日本帝国憲法』と上下に逐条対象の形で掲載されているが、それを見ると条文の数も明治憲法と全く同じ形で作られ、条文そのものも部分的には全く同じものが使われているので、明治憲法をおちょくったものであることは一目瞭然である。こういった遊びを明治政府は許すことができなかった。外骨は不敬罪で裁判所に呼び出されて重禁固3年の判決で監獄(これが当時の正式名称である)に収監された。明治政府は自由民権運動を徹底的に弾圧した。明治政府は民主主義からははるか遠く離れた独裁的な政治体制だったのだ。明治憲法の見本となったドイツ帝国はその当時民主主義国家ではなかったから、已むを得なかったのではあるが、この体質が軍国主義に繋がったのである。赤瀬川の前掲書によると、外骨は入獄4回、罰金と発禁で29回とのことであるが、良くも懲りずにやったものだと感心する。『滑稽研法』での3年重禁固という異常な重罰でも分かるように明治政府には国民の批判を笑って受け止めるだけの度量はなかったのである。明治政府を批判する者は、即国家の敵と見なされたのである。
 しかし以上に述べたことでは宮武外骨の書いたものの本当の面白さは全く伝わらない。反骨のジャーナリストであるのと同じように、ユーモアとエスプリに溢れた人物だったのであるから、彼の文章を実際に読まなければその面白さを味わうことは無理なのである。とにかく赤瀬川原平氏の上記の本と吉野孝雄氏の本『宮武外骨』(河出文庫)を読んでいただきたい。個性的な人物の書く文章はとにかく面白いのである。現在のマスコミが余り面白くないのは、人間の個性が抑えられているからなのではないか。新聞社が一定のイデオロギーの人間ばかりから成り立っていて、同じ調子のことばかりが書かれていたら、読者には面白くないだろう。新聞の記事は事実を伝えることが本旨であるとしても、もっと個人の書名入り記事が多く掲載されたほうが紙面は断然面白くなるのではないか。
 ところでチベット問題が起きて北京オリンピックの聖火リレーが英国やフランスで妨害されたが、中国ではこれに怒った中国人がフランスに抗議するデモを呼びかけて実施した他にフランスのスーパー・カルフールのボイコットを呼びかけているが、そうした行動は中国の若い人たちが自主的に行なったということで報道されている。しかしこの事件を私は中国のメディアが報じるようにそのまま「そうですか」と信じることは到底できないのである。中国政府の体質を考えると、この事件はインターネットを利用した中国政府実演のマッチポンプと見なすのが妥当であると思う。しかしこのことは深く秘められていることであるから、誰も証拠を挙げて証明することはできないと思う。だから新聞社にしろ、TV放送機関にしろ、公式のメディアはそうした推測を世間一般に向けて表明することは到底できないだろう。それができるのは個人だけだ。昔は市井の個人がそういった意見を世間に向けて表明することはほとんど不可能であったと思うが、今はインターネットの世界で個人はいくらでも自分の意見を自由に表明することができるようになった。ただし今回のチベット問題の場合は上記の私の意見は単なる推測に過ぎず、それを裏付ける証拠を示すことは不可能であるから、見ようによっては全くいい加減な意見ということになる。だが中国政府の過去の行動を知った上で判断するとこういうことも考えられるという意見を個人なら表明することができるのだ。公式のマスメディアにはそのような歴史に則った推測的意見は、たとえ記者個人は思ったとしても、組織としてはいろいろと引っ掛かりがあって到底世間に伝えることはできないだろう。仮に今回の中国のフランス抗議デモやカルフールの不買運動の裏には中国政府の扇動があるかもしれないなどとNHKが報道したら、NHKは中国からの退去を迫られるだろう。そういった引っ掛かりである。従って公式メディアは証拠を示すことのできないような微妙な問題については表面的な報道以外のことはできないのだ。しかし本来メディアには蓋然性のある原因を報道することも含まれている筈だ。外国の政府と利害関係を持たない個人ならそれができるのであるし、そうすることは価値のあることだと私は確信する。個人が表明した意見をどのように受け止めるかは、それを読んだ人の自由で、意味がないクズ情報だと思った人は無視すればよいのである。しかし場合によっては真実をうがっているかもしれないのである。
 国家や大企業、政治家などの公式の意見などしか報道しないメディアが面白い筈はない。世の中には沢山の真実が隠されているのだが、それらは過去の歴史的事実を基にした推測などによってしか到達されないものが多いと思われる。そして直接的な証拠がないからといって推測的意見が公表されることがないようなら、完全に隠されたままになってしまうだろう。それは好ましいことではないと思う。

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2008年4月 7日 (月)

団塊世代は人類滅亡を目にするか?

 人間に一番近いサルというとゴリラやチンパンジーということだが、そのことは遺伝子の差異が少ないことによって証明されているという。ところがゴリラやチンパンジーと人間の生活の仕方の違いというと、非常に大きなものがある。彼らには文字もないし宗教というものはないようだし、家も建てないし車やテレビも作らない。生物的には近縁であっても、その生活のあり方は全く異なっている。その違いをもたらしたものは何かといえば、脳の違いであろう。脳の違い以外にゴリラやチンパンジーと人間との間には大きな違いはないと考えられるからである。
 人間も生物であるから、食料を毎日食べなければならない。しかし食料の食べ方についても、人間はゴリラやチンパンジーと大きく異なっている。栄養の取り方として人間は野菜も一種類だけでは駄目で種類を多く取らなければならないというし、ゴリラやチンパンジーのような単純な食生活では駄目なのだ。どうしてこんな差が出来たのか。私には不思議でならないのである。
 人間も初めはゴリラやチンパンジーと同じように狩猟・採集によって食料を獲得していただろう。それから自然の植物の実や種、根を採集するだけでなく、それらを土に植えて栽培することを覚えたり、捕獲した動物を馴化し家畜として飼育するようになった。農業・牧畜を行なうようになったのである。人間にとっても一番の重要事は何といっても食料の入手であったが、それを農業・牧畜を行なうことによって確保するようになると、狩猟・採集の不安定さから脱出できるようになっていった。「農業革命」といって良かろう。その後何千年も経て人間は自然科学・工学技術の知識を蓄積して18世紀に「産業革命」を成し遂げた。工業生産で大量にものを作ることが出来るようになった。その後200年ほどして今度は「情報・通信革命」を行ない、現在はその渦中にある。インターネットや携帯電話で簡単に情報を得たり、人と連絡を取ったりで出来るようになった。
 「農業革命」は一次産業に関連し、「産業革命」は二次産業、そして「情報・通信革命」は三次産業に関連しているが、ほんの少し前までは食料生産に関わる一次産業はもはや産業としての重要性はたいしてないものとして扱われてきて、その従事者が少ない社会ほど進歩した社会であると考えられてきた。ところが最近急に食料不足といった懸念が世界的に高まり、食料品価格が急騰するようになった。人間も動物であることに変わりはないから、食料なしでは生存できないという事実が人間の目の前に突きつけられたのである。これは、考えようによっては、今までの「舞い上がったサル」(デズモンド・モリスの本の題名)の状態から、人間も急遽地に足がついた状態に戻ったということではないか。
 グローバル経済化によって先進国は安価な輸入品価格のために全般的にデフレ経済の雰囲気であったのが、中国やインドといった後進国の経済の急成長に伴う食料や天然資源の需要の拡大によって世界的にそれらの供給不足の状況が現れてきて、その価格が上昇し始めたのである。日本でもじわじわと食料品価格が上昇し始めているが、中国などでは価格上昇が激しいようだ。食料の供給不足には地球環境問題も影響しているようだが、アフリカ諸国の国内紛争による農業生産の落ち込みも関係しているのだろう。かねて地球の環境的制約による人類の生存可能な人数のことが問題とされてきたが、いよいよそれが現実的な問題となってきたように思われる。
 世界的な情報化によって、後進国の人たちも先進国の人たちの生活振りを目にすることが出来るようになり、教育水準も上がっていき人権意識の普及によって生活向上意欲が強まった。先進国に住むわれわれは後進国の人たちの生活向上意欲を否定することは出来ないだろう。そうして長い時間をかけて世界中の人間の生活レベルの平準化が進んでいった時に、はっきりすることは地球規模での資源的制約によって後進国の人たちが現在の先進国の人たちと同じような生活レベルに達することは絶対的に不可能であるという事実である。だが長い時間などかからないかもしれない。もっと前に資源的な制約による人類生存の危機という問題が具体化するかもしれない。
 現在も世界には飢えている人たちが大勢いる。一番に解決しなければならないのは食料問題である。それを解決するためには、牧畜を含む農業生産によって必要な量の食料を確保しなければならないのだが、農業生産の増加は果たしてどこまで可能なのだろうか。農業生産を増やすためには農業技術の向上、肥料・農薬の確保や農地の拡大、水資源の確保といったことが必要だが、環境保護のための森林の確保といった制約があるから農地の拡大は難しいだろうし、水資源も充分確保できるか怪しいから、農業生産の抜本的な増加を達成することは非常に困難であるように思われる。
 人類はこの問題に直面して、どのように対処するのだろうか。人類の間で生き残りを掛けた殺し合いという形の人口調節が起こるのだろうか。人間が何もしないで座視することなどあり得ないだろう。人間はその長い歴史の中で、散々殺し合いをしてきている。
 こう考えると、私のような戦後すぐに生まれた団塊世代の人間は、極端な場合人類滅亡に立ち会うということになるかもしれないのだ。
 『緊急レポート このままでは地球はあと10年で終わる!』(洋泉社)という本も出ている。この本は地球規模での環境危機の切迫を訴えていて、他にもこうした本は出版されているが、最近の状況を見ると、環境的な制約が急速に地球規模で人間生活に実際的な影響を及ぼすようになってきたように思われるから、単なる絵空事ではなくなってきているのではないか。私などは60も過ぎて、もう何時死んでもいいという気持ちであるが、小さな子どもたちは可哀想だと思う。
 ついでながらこの文章のタイトルは、フィリップ・K・ディックの小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を意識して付けたものである。

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2008年3月17日 (月)

組織のトップと出世主義者

 ポール・リンゼイが最初の小説『目撃』を書いたとき、彼はFBIの現役の特別捜査官であった。そしてデトロイト支局のトップやその下の管理者がただただゴマ摺りで上司の命令に対しては絶対的に服従摺るだけの人間であって、実際の犯罪捜査においてはいかに無能であるかを面白おかしく描き出している。現役でいながらこういう組織の問題点や上司を批判する小説を書いて出版することができるアメリカという社会は面白い。一方日本では上司をコケにした小説というのは、私は余り読んだ覚えがない。リンゼイのようにユーモアを持って管理者こき下ろした日本の小説を教えてもらいたいと思う。残業代を節約するために実質的には管理者でもないのに、管理者扱いする大きな会社が日本には沢山あるようだが、こういう会社は経営トップの程度が低いだけで、これは笑えない。トップの程度は組織の程度に直結している。有効に機能しない組織、利益を上げられない企業のトップこそは、お粗末な人材なのである。
 ところで日本国民は社会保険庁、厚生労働省や自衛隊など、官庁組織の職務遂行における不祥事をこのところ集中的に眼にしているが、どうやら日本の大きな組織の管理者といった連中、キャリア官僚たちは、お利口なのかもしれないがひどく人格の程度が低いゴマ摺りの絶対服従型の人間ばかりであるように思われるのである。こうした連中のお粗末な行動を徹底的にユーモアを持って描けば、きっと面白い小説になると思うのであるが、誰か書いてくれないものだろうか。そうすれば、出版業界の不況を少しでもカバーすることができるのではないだろうか。ただし内容は実際にある組織の実情を正しく映したものでなければならない。
 官僚が駄目なのは政治家が駄目だからという話も聞くが、もしそうなら政治家と官僚の問題のある関係もリアルに描いてくれたら良い。そうして有権者が禄でもない政治家を選ぶことが無くなれば官僚も少しは今よりましな仕事をするようになるかもしれない。そして有権者と政治家との関係にも多いに問題があるに違いないから、その点も面白く描いて欲しいものだ。
 日本は大学進学率も高く高度の大衆教育社会になったのに、実際の社会は高度な教育の良い影響が全く表に現れているように見えない。一体どうしたことなのだろうか。今や大学卒業という資格は単なる名目だけでなんらの実質を有しないからだろうか。もしそうなら家計の負担する教育投資も社会的に見ると無駄な投資でしかないわけだが。
 現在日本の社会では成人年齢は20歳となっているが、二十歳《はたち》になっても実質的に大人になったという感覚を持てなくしてしまっている。私などは早く大人になって家を出て自立した生活を送れるようになりたいと思ったものだが、現代はパラサイトとかいって子供がいくつになっても親に依存することを恥とは思わないし、親もまたいくつの子供であろうと子供に頼られることを喜ぶようになっているようだ。生活において自立しない限り、いくつになろうと大人ではない。日本の社会は子供の自立を阻むことによって、いつまでも大人になることを引き伸ばしている。
 最近になって成人年齢を18歳に引き下げようという動きが出てきているが、私は大賛成である。高校を出てもまだ大人扱いをしないということこそが大きな問題だと思うからだ。昔は15にもなれば人によっては結婚したりもしていたが、それは社会が早く大人になることを求めていたからであろう。いつまでも子供でいることを許さないで、早く大人になることを求めるほうが社会としては健全なあり方であると思う。
 話が組織の論理から離れてしまったが、キャリア官僚などといった特権に甘んじている連中の実態は、実質的には大人になれていない人たちなのではないかと私には思われる。個人の利益を優先するだけの人たちがなぜ自分たちをエリートなどと考えて恥じないでいられるのか。組織の中で高い地位に就くことだけが目的で仕事をしている。そして高額の給与と退職金を貰うことしか考えないような人たちが立派に仕事をするはずはない。まさにポール・リンゼイの小説に出てくる出世主義の無能な人間そのものなのではないか。

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2008年3月 1日 (土)

メタボリック・シンドロームは文明の必然である

 今年(2008年)から企業の行う健康診断でメタボリック・シンドロームの検査が含まれることになった。私はメタボリック・シンドロームは先進国の文明病、文明の必然であると考えている。食生活が向上し、歩くことが少ない安楽・快適な生活を送るようになったことがこの病気をもたらしていると私は思う。人間は動物であるから、動物としての肉体機能を維持しなければならない。体を動かさなければ筋肉が衰えるし、カロリーを消費しない。現代の生活は人間にとっては安楽で快適なものになったが、そのことは動物としての体の機能を使用する機会を奪い、体の能力を衰えさせることになった。私は日本ではこれからどんどん寝たきり老人が増えるだろうと予想している。歩くことが少なくなって多くの人たちの足腰が弱くなっているからである。昔は歩かなければ生活ができなかったのが、今は全く歩かなくても生活することができるようになっている。
 特に意識しない限り、人間が安楽・快適な生活を求めることは止めようがないだろう。私は意識して30分以内で往復できるところは歩いていくようにしているし、歩く予定がないときは自宅で自転車漕ぎの器具で40分以上運動するようにしている。また週に一度はエアロビクスの運動に参加するようにしている。こうすれば少なくとも寝たきりにはなりにくいだろうと思うし、自分の体を自由に動かせなくなったら生きている価値はないと考ている。寝たきりで他人の世話になって生きるなんてのは、まっぴらごめんである。自分で自分の面倒を見ることができることは、人間の自由の基礎であるとも思っている。思うように動けなくなった時にどうやって死のうかと、死に方を考えておきたい。
 文明の進歩は無条件に良いことのように考えられているが、世の中には良いことだけのものなどないと考えるのが大人の考え方であり、良いことの裏には悪いことが必ず潜んでいると考えるのが賢明な考え方である。
 アフリカで植えに苦しんでいる人たちには、メタボリック・シンドロームは無縁である。先進国、豊かな社会の人間がメタボリック・シンドロームで悩むのである。まさに進歩した文明の必然なのだ。豊かさが人間の生活に危険をもたらすようになっている。

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2008年2月26日 (火)

教職員組合の人事考課に対する認識は時代錯誤である

 先日日本経済新聞に北海道教職員組合が査定昇給制度の導入に反対して1月30日に行ったストライキに対して、北海道教育委員会がストに参加した教職員約12500人に対する懲戒処分を行うというニュースが報道されていたが、未だに教職員の労働組合がこんな程度の低い認識しか持っていないのかと唖然とした。私が程度が低いというのは、労働に対する査定というものを悪と考える教職員、というよりも教職員組合の指導者に対するものである。私の労働組合経験から判断して、一般の組合員は組合指導者に引きずられていると思うからだ。
 教職員組合の指導者の考え方とは反対に、私は賃金の支払いに関しては労働に対して査定を行うことこそが正しい取り扱いであり、それを行わないことこそが悪であると考える。そのことを労働組合の指導者は正しく認識しなければならない。そうしない限り教職員の労働組合は国民から支持を得られないだろう。
 私は食品製造業で労務管理に携わった経験があるが、実際に製造に従事している社員に対してどのように賃金を支払うのが妥当であるかと考えると、その労働の質=成果を適切に評価して賃金に反映することこそが公正な取り扱いであるということが解った。これは実際に労務管理を行ったことがない人間にはなかなか解らないことだと思う。そしていかに労働の成果を正しく評価するかこそが難しい問題なのだ。労務管理の難しさは、いかに公正に労働の成果を評価するかということにあるのである。労働の成果を正しく評価できるような人事考課票を作ることは非常に難しい。一度自分自身で考課表作りをやってみたらすぐにその難しさは解るだろう。もし労働組合の指導者が賃金を支払うという立場になったららそのことに悩まないではいられないはずだ。それを意識しないような人間は知性も何もない人間なのだと私は自信を持って言うことができる。
 賃金は労働の成果に対する報酬である。そして労働の成果は個人個人の技能の反映である。教育の場合であってもそれは同じである。教職員のみんなが同じ技能であるということはあり得ない。教職員の技能に差異があること自体が自然なことであり、それを一律なものと考えることは現実を無視した不自然なことなのだ。差異を正しく賃金に反映することこそが公正な賃金管理なのだ。賃金の支払いにおいて平等という名目で差異を認めないことは、公正さという観点からすると許し難いことなのであるが、どうも労働組合の指導者の人たちはそういう現実を見ようとしないようだ。それは人間を正しく扱うことからは遙かに隔たった考え方なのである。差異があるのに差異を認めないで一律に扱おうとする、人事考課=査定を否定する労組指導者は自らの不明を厳しく認識しなければならない。全員を一律に扱うという悪平等が社会主義や共産主義の国で経済効率をいかに悪化させたかという歴史的な事実を無視する愚劣さをいつまで持ち続けるつもりなのだろうか。世間知らずで内弁慶の阿呆としか言いようがない。こういった無知蒙昧な人間が教育界に君臨していることはまさに日本にとっても教職員の人たちにとっても悲劇そのものなのだ。現在、恐らく教職員組合以外の組合指導者は査定ということに対しては拒否感を持たないのではないかと思う。問題にするなら考課表の内容をこそ問題にするべきなのである。教職員というのは知性に基づく職業であるが、その組合指導者が、労務管理に関して全く知性から隔たった考えを抱いているというのは一体どうしたことなのであろうか。組合の指導者などというのは知性とは無縁の存在なのだろうか。もしそうだとしたら、それこそが問題である。

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2008年1月 5日 (土)

見えてきた人類滅亡

 21世紀も2008年を迎えた。7年が経過して人類の置かれている様子も見えてきたように思われる。私の判断ではそれはけっして良いものではない。むしろ人類滅亡の方向がハッキリと現れてきているといって良いのではないだろうか。人類は生物世界の頂点に立って、今や地球上に異常繁殖した。生物としては大成功を収めたのであるが、その先に見えるのは後は滅亡である。成功のゆえに滅びるというのは、過去の人類文明の法則であったが、今回は個々の文明の範囲に収まらず、種としての人類が滅びる段階に至ったのではないか。人類の異常繁殖を抑える制約要因は、もはや生存環境と資源の制約しかないだろう。過去の歴史に照らして判断する限り世界全体としてみると人類の人口抑制など到底不可能なのはもはや明確な事実であるし、常に良い生活を求める人類の傾向はすでに先進国の豊かな生活という見本があるのだからそれを抑えようとしても不可能であろう。したがってこの先の人類の将来が滅亡以外にはないことは明白であると思われる。
 2008年が明けてからのニュースには良いものがほとんど見当たらず、悪いニュースばかりが幅を利かせている。1月5日朝のTVニュースではケニヤの大統領選挙に不満の野党支持者が選挙の不正を主張して暴動を起こしたことを報道している。そのためにたくさんの死者と多くの難民が発生している。また今年のダカール・ラリーがテロリストの脅威を考慮して中止になったと報道された。アフリカでの部族対立などに基づく対立抗争も続いているし、イスラム教徒によるテロの多発、パキスタンのブット元首相暗殺などによる政情不安定など、政治面・社規面では世界的に混乱が多発している。人類は果たして進歩しているといえるのだろうか。世界全体として秩序が揺らいできており、混乱した状況が拡大しつつあるように見える。世界全体として無秩序状態に向かって進んでいるように見える。物理学でいうエントロピーの法則が、人間社会の分野でも働いているようだ。世界の貧しい地域の人達が豊かになりうる可能性は環境問題や地球資源の有限性などを考えるとほとんど不可能な状態になっていると判断するのが妥当だろう。しかし一方でアフリカでもインターネットや携帯電話が使えるようだし、そこに住む人達がTVをみると先進国の豊かな生活振りを目にすることができる。世界全体で情報を得ることが容易になっているのだから、世界の貧しい人達が自分たちの生活と引き比べて不公平だと不満に思うのを誰も抑えることはできない。こうした状況では、世界全体として秩序の保たれた状態が確保されることは根本的に不可能なのではないかと思われる。
 日本経済新聞は日本の経済的地位の低下を憂慮した特集を組んだりしているが、私は21世紀中には人類が滅びることが確実であると考えるから、日本人の生き方として、過去の伝統を踏まえて、『滅びの美学』をどう実践するかを考えてはどうかと思うのである。人間も生物である以上は必ず死ぬのだし、やがて死にゆく我が身の処し方を今のうちから考えておいてはどうかと思う次第である。

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2007年12月26日 (水)

薬害肝炎訴訟解決の隠れた構図

 薬害肝炎訴訟の解決には、大半が女性である原告側が患者の①一律救済を求めることとと②国の責任を認めさせることという二つの原則に徹底的にこだわって譲らなかったことが大きな役割を果たしたと考えられる。原告女性の途中で安易な妥協をすることをしないという強い意志が勝利をもたらしたのだ。これは実に大した成果あったと思う。ところでこの同じ内容の訴訟を男性が大半の原告が行っていたとしたら果たして同じ結果に至っていただろうかと、ふと思った。違っていたのではないだろうかというのが私の意見である。男性ならもっとだらしなく妥協して白旗を揚げていただろうと私は残念ながら想像する。女性の方が原則を守ることに純粋であったのに対して、男は負け犬となって簡単に妥協していたに違いないと、男である私は判断するのである。男は今回女性が見せた粘り強さをとても発揮することは出来なかったであろうと思うからである。男のそのだらしなさは、サラリーマンとしての飼い殺しに対する免疫力のなさに由来するものであろう。出世というニンジンが鼻の先にぶら下がっているから、男は簡単に寝返るのである。女性には社内での出世という機会が決定的に欠けている日本の企業環境が、飼い殺しによる精神の惰弱とは関係のない精神構造を女性に持たせたのだというのが私の理解である。
 ところで厚労省のキャリア官僚たちは恐らくほとんどが男と考えて間違いないであろう。(ごく一部に女性もいるのかどうかを私は知らないが) そして日本の国家を代表する人たちは福田首相以下、大半が男である。今回の肝炎訴訟解決の構図は表面的には「国家(厚労省も含めて)VS肝炎患者」というものであるが、この構図の根底にある実際に意味のあるものは、実は「男VS女」という構図ではないのかというのが私の意見である。そして今回は男が徹底的に女によって打ち負かされたのである。しかもそれは男が行った不正に対して女性があくまでもノーを言って許さなかったことによってもたらされたのであった。今後の社会においては倫理というものの内容・実質を女性の方が決めていくようになるのではないだろうか。西洋の神話では正義の神は女性であるそうだ。さて西洋神話の先見性のこのすごさ。

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2007年12月25日 (火)

日本は本当にデジタル社会になったのか

 私はここ数年来、年賀状に北斎の『神奈川沖浪裏』という富士山が遙かに波間に見える浮世絵を使用してきた。使っているワープロソフトにサービスに付いてきた画像を利用したのである。しかし先日新しくパソコンを買って古いものを中古品として売ったときにうっかりそこに入っていた画像を移し忘れて昨年は使用することが出来なくなってしまった。何年も継続してその絵を年賀状に使用してきたから、それは私の一種トレードマークのようなものであった。今年はそれを復活させようと思って浮世絵のCDかDVDがないかと、ヨドバシカメラなどにも出向き、インターネットでも探したが、ついに入手することが出来なかった。それでも何とか『神奈川沖浪裏』を使用したかったので、2005年に東京・上野で東京国立博物館と日本経済新聞社とが共催で北斎展をやったときに見に行って購入した画集があったことを思い出し、そこに印刷されていた『神奈川沖浪裏』をスキャナーでパソコンに取り込み、無事使用することが出来た。このことがなければキャノンの複合機のスキャナー機能を使用することはなかったであろう。スキャナーで綺麗に画像がコピーできることが分かったのは私には大きな成果であった。
 ところでインターネットではシンフォレストという会社が浮世絵のCDを販売していたのだが、それも今は販売中止となっていた。これだけデジタル画像が出回っているのだから、美術全集などもハイビジョンのDVDで出版されていてもよいと思うのだが、紀伊国屋書店にも見当たらないし、かつて販売されていた美術CDが今はないという日本は果たして本当にデジタル社会化しているといえるのだろうかと疑問に思った次第である。インターネットであらゆる情報が得られると言われるが、例えば浮世絵を一ヶ所にまとめて誰にでも見られるようにしたサイトはないようだ。大型のハイビジョン液晶TVがどの家にもやがて置かれることになるであろうから、嵩張る書籍の美術全集などよりDVDの美術全集が出版された方が実用にかなっていると思う。そしてそれらの絵などを自由にパソコンに取り込んで私的に利用できるようにしてもらいたいと思う。スキャナーがあれば印刷されたものが簡単にパソコンに取り込める時代であるから、DVDから簡単に利用できるようになっても同じであろう。私は岩谷宏さんが言うように、デジタル化された作品がコピーされることに対しては著作権による対価というものを求めても実際的ではないと思う。デジタル化した社会とは、ベンヤミンの言う複製技術が徹底して利用される時代が極限化したものなのだ。

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