キリスト教徒の傲慢
今『キリスト教は文明を救いうるか』(中公文庫)という本を読み始めている。著者はW・M・ホーマックで、アメリカの神学教授である。この本がアメリカで出版されたのが1940年であったが、日本での翻訳出版は1952年であった。長年に渡って絶版であったのだが、ようやく文庫版の形で1992年に出版されたのである。ホーマックは1895年生まれであるからもう亡くなっているのだろう。
私はある時からキリスト教について深い関心を持つようになった。思い返してみると、イギリス人のG・R・テイラーの『歴史におけるエロス』(河出書房新社)を読んで、キリスト教会に対する悪い印象を持ったのが初めであるように思う。テイラーの書いていることを信じるなら、中世のキリスト教会というのは誠に酷い存在だったのだ。以後いろいろとキリスト教に関する本を読んだが、テイラーの書いていることは間違っていないようである。そしてテイラーはキリスト教の世界で有名な歴史的人物について次のように書いている。
「不幸なことだが、教会の歴史で傑出した人物に、今日なら心理的障害と見なされるような徴候を示している者がかなり多い。」(P15)
キリスト教の歴史上有名な人物で具体的にテイラーのいう問題人物の典型的な例を示すとしたら、私はマックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』にも取上げられているプロテスタント神学者のジャン・カルヴァンを挙げたい。カルヴァンについては、シュテファン・ツヴァイクが『権力とたたかう良心』(みすず書房)において、彼がいかに狭量でキリスト教精神に反するような一種の狂人であったかを、同じキリスト教徒で寛容な精神の持ち主であったカステリオンとの対比で描いているが、このような人間的に大いに問題ありの悪党が、講談社の「人類の知的遺産」の第28巻『カルヴァン』として偉大な人物扱いをされて出版されているのを見ると、カルヴァンの人類に及ぼした影響は日本では果たして正しく評価されているのだろうかと私は疑わないではいられない。人間的にはロクデナシそのものであっても、キリスト教神学の世界では理論的な発展に貢献したということなのだろう。しかしそもそもキリスト教神学にはそれほど重要な意味・価値があるのだろうかというのが、私の率直な感想である。特にリチャード・ドーキンスの『神は妄想である』(早川書房)を読んだ後では、宗教というものは「信仰というのは、何の証拠にも基づかず根拠のない精神的行為」(例えばそれが紡ぎ出す「神が存在する」、「神が設計する」、「神が人間を動かす」などという虚言・妄想)に過ぎないと、私は確信するようになっている。
私は『キリスト教は文明を救いうるか』という題に、キリスト教徒の虚言・誇大妄想癖を感じるのである。(ちなみにこの本の英語名はCan Christianity Save Civilization ?で日本語の題は原著の通りである)
宗教的な言明については、その宗教を信じるかまたは強い拒否反応を持たない人間か、そもそも宗教そのものを信用しない人間であるかによって、全く受け入れ方が違ってしまう。ある人間が宗教を信仰する切っ掛けのほとんどは、両親によって育てられる過程において見た両親の信仰活動であろう。(特にキリスト教の場合は日曜日ごとの教会通いによって無意識のうちに神の存在を刷り込まれてしまい、習慣的に神の存在を信じるようになる。)自分自身で真剣に神の存在を考える人間などは、一神教の社会環境の下で育った人間にはほとんどいないだろう。多神教の社会である日本では、人々には何か自分たち人間とは異なる神らしきものが存在するようだという意識はあっても、それは唯一絶対全能の神、道徳を与える神などではないから、日本人は神を真剣に恐れるということもないのである。そもそも日本人は、キリスト教の信仰においては根本的な教義である「原罪」というもの存在、そして全ての人間には原罪という避けられないものが付き纏うという考え方など到底理解できないのである。神が人間を創った時にくっつけた原罪などは、良く考えると全く摩訶不思議なものなのである。キリスト教徒の思考には我々日本人には理解し難いものがある。そうしたものをいくつか『キリスト教は文明を救いうるか』の中から以下に引用する。
「天はわれわれがこのような文明を維持する者になることを禁じている! 神はキリスト教であれあるいは自からを重んずる他のいかなる宗教であれ、それがこのような文明の保証人あるいは保護者となることを許さないのだ!」(P20)
以上の文章でホートンが書いている「天は・・・禁じている、神は・・・許さない」という言明には私は全く呆れてしまう。なぜならホートンはどうしてそんなことを知りえたのか、天や神の意思などは誰にも分かるはずがないではないか。
またホートンは「罪を浄める神の裁きと罪より贖う神の恵み」(P21)と書いているが、そもそも神が勝手に人間を原罪付きで創っておきながら、「罪を浄める」だ「罪を贖う」だと、ホートンはこんどはそんな手前勝手な神を崇めるのであるが、彼の言明は何を根拠にしているのだろうかと考えると、私の考えでは、それらの言葉は全くの戯言に過ぎないのである。キリスト教を信じる人たちにはホートンの言明も意味があるのだろうが、そもそもキリスト教で言うような唯一絶対全能の神の存在などを信じない私には「何言ってんだか」としか受取れないのである。これらは正にファンタジーのようなお話に過ぎない。
「マドラス宣教会議が『神のみが人を救いうるということは明白である』と語ったのは正しかった」(P23)とホートンは書いているが、これもキリスト教徒特有の全く勝手な思い込みに過ぎない。なぜ我々人間は神によって救われなければ成らないのか、と私はキリスト教徒のこんな勝手な戯言には全く腹が立って仕方がないのだ。
「われわれの信ずる神は人間的な媒介を通して働く神である。・・・・・・
神は経済や政治の過程を通し、教育を通して、またあらゆる種類の『世俗的な』媒介を通して働くのであり、媒介物なくしてたんに宗教の力だけではわれわれの文明を多分救うことはできなかった・・・」(P25)
「神が人間を媒介にして働く・機能する」というのは、現代の近代社会では大体が教育によって読み書きができるようになったために、科学的な思考、物理学では物質が動くためには力・エネルギーを必要とすると教えられたから、神が何かをするにしても何らかの働き掛ける力が必要であると誰もが考えるようになったためにこういった媒介説が唱えられるようになったのであろう。上の引用文に書かれた事柄は、そうした科学的な思考に対応した神学でなければキリスト教の信徒にも受け入れられなくなってきたからではないのか。
私はまだ『キリスト教は文明を救いうるか』の緒言の初めの方しか読んでいないが、それだけでも私にはキリスト教徒というのは何と傲慢な人たちなのかと、そして一方で現実に盲いた人たちなのかと思わないではいられないのである。予め神の存在を信じている人たちにとっては、ホートンの言明も違和感なく受け止められるだろうが、そうでない人たちにとっては勝手な思い込みの理屈でしかないのである。たとえどのように高尚に見えても、信仰しなければ通じない理屈というものには本当は何の意味もないのではないだろうか。
こう書くと、「そもそも宗教と科学的な思考とを対比すること自体がおかしいのだ、宗教と科学とは次元の違うものなのである」ということを言う人がいるだろう。
私には全く理解のできないことなのだが、イギリスに物理学者でありながら、英国国教会の司祭でもあるジョン・ポーキングホーンという人がいる。彼は物理学では最先端の量子物理学を研究していたのである。彼は『科学者は神を信じられるか』(講談社)という本を書いているが、そこには次のようなことが書かれている。
「私は、正統的なキリスト教信仰は驚くべき真実をもっているし、科学は私たちの想像力を拡大し、この世界をよりよく理解することに貢献するものと思っている。」(P5)
「宗教は神聖な実在との遭遇であり、科学は物理的な実在との遭遇である。」(P156)
同じ英国の科学者であるリチャード・ドーキンスが『神は妄想である』(早川書房)という本を書いて宗教を徹底的に批判・否定したのと比べると、ポーキングホーンは科学的な思考という面では全く不徹底であると思われるし、宗教の悪い面については全くの無知で、余りにも不勉強である。先日NHK・BSニュースでアイルランドのキリスト教会の中で聖職者が子供に対して性的虐待を長年続けてきていたという事実が発覚したと伝えられていた。そして教会はその事実を知りながら隠蔽していたのである。
私の認識では聖職者などという人たちも普通の信徒と大して代わらない存在であって、性欲もあれば権勢欲もある俗物がほとんどであると考えている。聖職者を何か特別の存在であるかのように誤解するのがそもそも間違いなのである。私は人類はそろそろ宗教からの乳離れすることが必要であると考える。宗教団体が何故か課税をまぬかれているが、それも間違った認識ゆえである。一般の個人と同じように宗教団体も社会的なサービスを受けているのであるから、当然に課税されるべきなのであるが、政治家たちは不勉強で宗教に対する認識が余りに低すぎるために宗教団体を特別扱いするべきものと思い込んでいるか、または公明党などの宗教政党との癒着のために宗教団体に対してきちんとした対応をとることができなかったようである。宗教団体の社会的責任はそういう面にもあるのだから、きちんと税金を支払うべきなのである。
話がずれたが、一神教の宗教者というのは、私から見るとよくもこれだけ傲慢になれるものだと呆れてしまう連中である。一神教の唯一絶対全能の神を信じているから、自分たちもその影で偉い存在になったと思い込むようである。中国の清朝崩壊の原因ともなった義和団の乱を引き起こした元の一つは布教のために進出したキリスト教団の傲慢な行動にあったのだし、南米のペルーやインカ帝国の原住民を、「キリスト教徒にあらざれば人間にあらず」という勝手な理由を挙げて奴隷として酷使し、殺戮したのはキリスト教国スペインとポルトガルのキリスト教徒たちであった。歴史的に見てキリスト教徒は昔も今も取り分けて傲慢な連中なのである。「唯一絶対全能の神」という観念が、その信徒たちに必然的にそのような行動をもたらすのだ。
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