宗教

2009年11月29日 (日)

キリスト教徒の傲慢

 今『キリスト教は文明を救いうるか』(中公文庫)という本を読み始めている。著者はW・M・ホーマックで、アメリカの神学教授である。この本がアメリカで出版されたのが1940年であったが、日本での翻訳出版は1952年であった。長年に渡って絶版であったのだが、ようやく文庫版の形で1992年に出版されたのである。ホーマックは1895年生まれであるからもう亡くなっているのだろう。
 私はある時からキリスト教について深い関心を持つようになった。思い返してみると、イギリス人のG・R・テイラーの『歴史におけるエロス』(河出書房新社)を読んで、キリスト教会に対する悪い印象を持ったのが初めであるように思う。テイラーの書いていることを信じるなら、中世のキリスト教会というのは誠に酷い存在だったのだ。以後いろいろとキリスト教に関する本を読んだが、テイラーの書いていることは間違っていないようである。そしてテイラーはキリスト教の世界で有名な歴史的人物について次のように書いている。
 「不幸なことだが、教会の歴史で傑出した人物に、今日なら心理的障害と見なされるような徴候を示している者がかなり多い。」(P15)
 キリスト教の歴史上有名な人物で具体的にテイラーのいう問題人物の典型的な例を示すとしたら、私はマックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』にも取上げられているプロテスタント神学者のジャン・カルヴァンを挙げたい。カルヴァンについては、シュテファン・ツヴァイクが『権力とたたかう良心』(みすず書房)において、彼がいかに狭量でキリスト教精神に反するような一種の狂人であったかを、同じキリスト教徒で寛容な精神の持ち主であったカステリオンとの対比で描いているが、このような人間的に大いに問題ありの悪党が、講談社の「人類の知的遺産」の第28巻『カルヴァン』として偉大な人物扱いをされて出版されているのを見ると、カルヴァンの人類に及ぼした影響は日本では果たして正しく評価されているのだろうかと私は疑わないではいられない。人間的にはロクデナシそのものであっても、キリスト教神学の世界では理論的な発展に貢献したということなのだろう。しかしそもそもキリスト教神学にはそれほど重要な意味・価値があるのだろうかというのが、私の率直な感想である。特にリチャード・ドーキンスの『神は妄想である』(早川書房)を読んだ後では、宗教というものは「信仰というのは、何の証拠にも基づかず根拠のない精神的行為」(例えばそれが紡ぎ出す「神が存在する」、「神が設計する」、「神が人間を動かす」などという虚言・妄想)に過ぎないと、私は確信するようになっている。
 私は『キリスト教は文明を救いうるか』という題に、キリスト教徒の虚言・誇大妄想癖を感じるのである。(ちなみにこの本の英語名はCan Christianity Save Civilization ?で日本語の題は原著の通りである)
 宗教的な言明については、その宗教を信じるかまたは強い拒否反応を持たない人間か、そもそも宗教そのものを信用しない人間であるかによって、全く受け入れ方が違ってしまう。ある人間が宗教を信仰する切っ掛けのほとんどは、両親によって育てられる過程において見た両親の信仰活動であろう。(特にキリスト教の場合は日曜日ごとの教会通いによって無意識のうちに神の存在を刷り込まれてしまい、習慣的に神の存在を信じるようになる。)自分自身で真剣に神の存在を考える人間などは、一神教の社会環境の下で育った人間にはほとんどいないだろう。多神教の社会である日本では、人々には何か自分たち人間とは異なる神らしきものが存在するようだという意識はあっても、それは唯一絶対全能の神、道徳を与える神などではないから、日本人は神を真剣に恐れるということもないのである。そもそも日本人は、キリスト教の信仰においては根本的な教義である「原罪」というもの存在、そして全ての人間には原罪という避けられないものが付き纏うという考え方など到底理解できないのである。神が人間を創った時にくっつけた原罪などは、良く考えると全く摩訶不思議なものなのである。キリスト教徒の思考には我々日本人には理解し難いものがある。そうしたものをいくつか『キリスト教は文明を救いうるか』の中から以下に引用する。
 「天はわれわれがこのような文明を維持する者になることを禁じている! 神はキリスト教であれあるいは自からを重んずる他のいかなる宗教であれ、それがこのような文明の保証人あるいは保護者となることを許さないのだ!」(P20)
 以上の文章でホートンが書いている「天は・・・禁じている、神は・・・許さない」という言明には私は全く呆れてしまう。なぜならホートンはどうしてそんなことを知りえたのか、天や神の意思などは誰にも分かるはずがないではないか。
 またホートンは「罪を浄める神の裁きと罪より贖う神の恵み」(P21)と書いているが、そもそも神が勝手に人間を原罪付きで創っておきながら、「罪を浄める」だ「罪を贖う」だと、ホートンはこんどはそんな手前勝手な神を崇めるのであるが、彼の言明は何を根拠にしているのだろうかと考えると、私の考えでは、それらの言葉は全くの戯言に過ぎないのである。キリスト教を信じる人たちにはホートンの言明も意味があるのだろうが、そもそもキリスト教で言うような唯一絶対全能の神の存在などを信じない私には「何言ってんだか」としか受取れないのである。これらは正にファンタジーのようなお話に過ぎない。
 「マドラス宣教会議が『神のみが人を救いうるということは明白である』と語ったのは正しかった」(P23)とホートンは書いているが、これもキリスト教徒特有の全く勝手な思い込みに過ぎない。なぜ我々人間は神によって救われなければ成らないのか、と私はキリスト教徒のこんな勝手な戯言には全く腹が立って仕方がないのだ。
 「われわれの信ずる神は人間的な媒介を通して働く神である。・・・・・・
 神は経済や政治の過程を通し、教育を通して、またあらゆる種類の『世俗的な』媒介を通して働くのであり、媒介物なくしてたんに宗教の力だけではわれわれの文明を多分救うことはできなかった・・・」(P25)
 「神が人間を媒介にして働く・機能する」というのは、現代の近代社会では大体が教育によって読み書きができるようになったために、科学的な思考、物理学では物質が動くためには力・エネルギーを必要とすると教えられたから、神が何かをするにしても何らかの働き掛ける力が必要であると誰もが考えるようになったためにこういった媒介説が唱えられるようになったのであろう。上の引用文に書かれた事柄は、そうした科学的な思考に対応した神学でなければキリスト教の信徒にも受け入れられなくなってきたからではないのか。
 私はまだ『キリスト教は文明を救いうるか』の緒言の初めの方しか読んでいないが、それだけでも私にはキリスト教徒というのは何と傲慢な人たちなのかと、そして一方で現実に盲いた人たちなのかと思わないではいられないのである。予め神の存在を信じている人たちにとっては、ホートンの言明も違和感なく受け止められるだろうが、そうでない人たちにとっては勝手な思い込みの理屈でしかないのである。たとえどのように高尚に見えても、信仰しなければ通じない理屈というものには本当は何の意味もないのではないだろうか。
 こう書くと、「そもそも宗教と科学的な思考とを対比すること自体がおかしいのだ、宗教と科学とは次元の違うものなのである」ということを言う人がいるだろう。
 私には全く理解のできないことなのだが、イギリスに物理学者でありながら、英国国教会の司祭でもあるジョン・ポーキングホーンという人がいる。彼は物理学では最先端の量子物理学を研究していたのである。彼は『科学者は神を信じられるか』(講談社)という本を書いているが、そこには次のようなことが書かれている。
 「私は、正統的なキリスト教信仰は驚くべき真実をもっているし、科学は私たちの想像力を拡大し、この世界をよりよく理解することに貢献するものと思っている。」(P5)
 「宗教は神聖な実在との遭遇であり、科学は物理的な実在との遭遇である。」(P156)
 同じ英国の科学者であるリチャード・ドーキンスが『神は妄想である』(早川書房)という本を書いて宗教を徹底的に批判・否定したのと比べると、ポーキングホーンは科学的な思考という面では全く不徹底であると思われるし、宗教の悪い面については全くの無知で、余りにも不勉強である。先日NHK・BSニュースでアイルランドのキリスト教会の中で聖職者が子供に対して性的虐待を長年続けてきていたという事実が発覚したと伝えられていた。そして教会はその事実を知りながら隠蔽していたのである。
 私の認識では聖職者などという人たちも普通の信徒と大して代わらない存在であって、性欲もあれば権勢欲もある俗物がほとんどであると考えている。聖職者を何か特別の存在であるかのように誤解するのがそもそも間違いなのである。私は人類はそろそろ宗教からの乳離れすることが必要であると考える。宗教団体が何故か課税をまぬかれているが、それも間違った認識ゆえである。一般の個人と同じように宗教団体も社会的なサービスを受けているのであるから、当然に課税されるべきなのであるが、政治家たちは不勉強で宗教に対する認識が余りに低すぎるために宗教団体を特別扱いするべきものと思い込んでいるか、または公明党などの宗教政党との癒着のために宗教団体に対してきちんとした対応をとることができなかったようである。宗教団体の社会的責任はそういう面にもあるのだから、きちんと税金を支払うべきなのである。
 話がずれたが、一神教の宗教者というのは、私から見るとよくもこれだけ傲慢になれるものだと呆れてしまう連中である。一神教の唯一絶対全能の神を信じているから、自分たちもその影で偉い存在になったと思い込むようである。中国の清朝崩壊の原因ともなった義和団の乱を引き起こした元の一つは布教のために進出したキリスト教団の傲慢な行動にあったのだし、南米のペルーやインカ帝国の原住民を、「キリスト教徒にあらざれば人間にあらず」という勝手な理由を挙げて奴隷として酷使し、殺戮したのはキリスト教国スペインとポルトガルのキリスト教徒たちであった。歴史的に見てキリスト教徒は昔も今も取り分けて傲慢な連中なのである。「唯一絶対全能の神」という観念が、その信徒たちに必然的にそのような行動をもたらすのだ。

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2009年6月20日 (土)

宗教指導者は何様か

 先日行われたイランの大統領選挙では、現職のアハマデネジャド大統領が対抗馬のムサビ元首相の約倍の得票率で再選されたと報道されたが、その選挙に不正があったとしてムサビ氏の支持者がデモを行なっていた。政治後進国で行われる選挙では、選挙運動そのものが公正に行なわれない場合が多いようだし、投票用紙の開票・集計も公正に行われているように思われないケースが多い。イランの場合もその公正さは何も担保されていないが、ハメネイ氏は選挙結果に従うように国民に訴えている。ハメネイ氏も民主主義を口に出すのだが、しかし民主主義の何たるかをり全く解してはいないのだ。
 政治先進国であるイギリスや日本では投票の開票結果が疑われたという話は聞かない。ただアメリカでは必ずしも公正な開票が行われないケースがあるようで、2000年のジョージ・W・ブッシュ氏が当選したアメリカの大統領選挙ではブッシュ氏の弟が知事を務めるカリフォルニア州での開票に不正があったことは今や公然の秘密であるのだが。
 ところで今回のイランの大統領選挙ではイスラム教の金曜礼拝でイランの最高権力者といわれる宗教指導者のハメネイ氏が選挙に不正はなかったと演説した。なぜ宗教指導者でしかない人間が選挙結果についてどうこういう資格があるのだろうかと、私には不思議で仕方がない。イスラム社会のことは少し本で読んだりして勉強したが、イスラム社会では政教分離はありえない話のようで、イスラム教の教えのほうがすべてに優先するという、日本人にはとうてい理解できない社会なのである。ハメネイ氏はイランの最高権力者であるというが、どのようにして彼はそんな権力を手に入れたのか。その過程は私には全く不明である。そして金曜礼拝の場でイスラム教徒の国民が手を振り上げてハメネイ氏を支持する姿は、ヒトラーを支持したドイツ国民と同じに見える。その光景は、彼らはすべてマインドコントロールをうけている人間たちであることを現している。
 超越神を信仰の基礎とする一神教の場合、その超越性のゆえに論理的に信徒である人間は神の教えや神の代理人である宗教指導者に対して絶対服従以外の姿勢を取ることはできないのである。それは人間にとって全く危険な宗教であるということだ。
 今私はリチャード・ドーキンスの『神は妄想である 宗教との決別』(早川書房)を読み直しているが、ドーキンスの言うように宗教は不当に高く敬われてきたと私も思う。特に超越的な唯一神を信仰の基礎に置く一神教は、そもそも唯一絶対の超越神が存在するということを何ら証明する必要もなしに信徒に信仰させているのだが、その信仰は子供のうちから家庭と社会に満ちている一神教信仰の雰囲気に影響されて信徒は何も考えることもないうちに一神教徒になってしまっており、これこそは典型的なマインドコントロールなのではないか。つまり特定の宗教が強い影響力を持つ社会では、その宗教的な慣習がその構成員を宗教的な自覚も何もない内にその特定の宗教に取り込んでしまっているのである。動物の世界について言うインプリンティング(刷り込み)が人間の場合でも一神教の社会では宗教については行われているのである。そのような社会であればこそ、宗教指導者が社会の最高権力者であることも可能なのである。彼が手に入れている社会に対する影響力は、果たして正当なものであるといえるのだろうか。私の考え方では、彼ら宗教指導者といわれる連中は一体何様なのだろうか。マインドコントロールをした人々から崇められていい気になっている人間でしかないではないか。
 宗教心といっても、阿満利麿氏の『日本人はなぜ無宗教なのか』(筑摩新書)を読むと教祖がいて教義書が書かれており教団もある「創唱宗教」と「共同体の中で自然に発生して共同体構成員によって信仰されている、はっきりした教義もなくも教祖もいない「自然宗教」とでは内容が違っており、日本人はほとんどが「自然宗教」を信仰していて、一神教などの「創唱宗教」には馴染まないでいるという。そして社会において大きな問題を起こしてきた宗教は歴史的に見てもほとんどが一神教を信じる人間たちであった。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の間で、また同じ一神教の中で宗派によって激しい争いを起こしては宗教の旗印の下で互いに殺し合ってさえいたのである。広く歴史的に見る限り一神教は人間にとっては災厄であったといっていいと私は思う。ところが宗教はその実態を無視されてきた。ドーキンスは宗教は不当にも高い尊敬受けてきたと次のように非常に厳しい口調で書いている。
 「人間社会においては宗教に対し、常軌を逸した過剰なまでの敬意が払われている。」(P42)
 ドーキンスは生物学者であるが、経済学者の竹内靖雄氏は『<脱>宗教のすすめ』(PHP新書)で宗教というものは卒業した方がよいと主張している。そして竹内氏の評価では、キリスト教こそが一番問題であって、わざわざ1章を設けていて、第6章は「もっとも恐ろしい宗教 キリスト教の犯罪歴」となっている。
 宗教指導者が社会の最高権力者でいると言うことは大変に問題のある事態なのであるが、イスラム教徒は全くそんな風には考えられないようにマインドコントロールをうけているし、普通の日本人は単にイランは少し変わった国だくらいにしか思っていないだろう。宗教はその悪事の実態を広く知られる必要があるのであり、それを通して初めて「宗教卒業」も可能になるだろう。先ずは宗教などは立派でも何でもないものであることを誰もが理解すれば世の中はもっとまともなものになるだろう。

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2009年5月29日 (金)

科学者がなぜ宗教に甘いのか

 科学と数学との関係について知りたいと思い、丹羽敏雄氏の『数学は世界を解明できるか カオスと予定調和』(中公新書)を読み終わってから、次いで自然科学が起こった西洋について知るために渡辺正雄氏の『科学者とキリスト教 ガリレイから現代まで』(講談社ブルーバックス)を読んでいるが、科学者である著者の渡辺氏がなぜこんなに宗教や神というものに甘い態度なのかと強い違和感を感じた。この本は1987年の4月に初版が発刊されているが、この本のカバーに印刷された渡辺氏の略歴をみると氏は東京大学工学部を卒業後東大助教授を経てこの本の出版時には東京基督教大学の教授であった。勤務先がキリスト教系の大学だからなのか、宗教というものに対して随分と甘い評価をしているのだ。渡辺氏はまえがきで以下のように書いている。
 「科学は宇宙の起源と人間の起源を究めることはできるかも知れないが、人は何によって生きるかに答えることはできない。科学は生命現象を説明したり、生物学的生命を延ばすことに寄与したりはするが、人間を人間として真に生かすものを提供することはできない。科学は今や、一瞬のうちに全人類を滅ぼすほどに強大な力となってはいるが、人間を人間として生かす力を、ただ一人の人間に対してすら与えることができない。
 解決を求めようとすれば、それを宗教に求めざるを得ないということになるであろう。・・・・その科学の発展の著しさが、今日、かえって宗教の必要性を人々に痛感させている・・・・」(P6)
 これを読むと渡辺氏は、宗教は人間にとって必要不可欠なものであり、科学と共存することには何も問題はないし、当然のことであると考えているようだが、果たしてそうだろうか。普通の日本人はほとんどがたいして宗教に凝っていないけれども、幸せに暮らしていくのに宗教が不可欠であるとは思ってもいないし、日本人が宗教的でないことは何も問題を起こしていないことは日本人なら誰でも知っていることだ。渡辺氏にはそれが見えていないのだが、なぜだろう。宗教によって目を曇らせているからではないだろうか。
 渡辺氏は宗教については「歴史的に科学ともっとも深くかかわってきた宗教は周知の通りキリスト教である。近代科学の成立・発展は、まずキリスト教的な西洋世界において行われたからである。これ(科学)に寄与した人々の多くは、自ら意識するといなとにかかわりなく、キリスト教的な世界観のもとで研究を進めてきたのである。」(P6〜7)」と書いているが、キリスト教徒でありながら科学者でもあるという人間は西洋では多いようである。量子力学という自然科学の最先端を研究していたイギリス人のジョン・ポーキングホーン氏は『科学者は神を信じられるか  クォーク、カオスとキリスト教のはざまで 』(講談社ブルーバックス)で宗教とキリスト教の関係について次のように書いている。
 「両者は相互補完的なもので、科学とキリスト教のふたつの観点から世界をみた方が、より完全な理解が得られるのではないだろうか。」(P4)
 「私は個人的には、科学とキリスト教の両方とも必要であり、両分野はお互いに語り合うことが重要だと思っている。}(P5)
 渡辺氏とポーキングホーン氏とは全く同じ見解を抱いているのである。ところで宗教について言うと、日本と西洋社会とでは全く社会的環境が違っている。西洋社会では子供が産まれるとすぐに両親は赤ん坊を教会に連れて行って洗礼を受けさせるようである。つまり子供は本人の意思とは全く関係なくキリスト教徒にさせられるのであるが、西洋人は誰もそれを疑問には思わないのである。日本では七五三という子供を神社に連れていってお祝いをする習慣があるが、それは別に子供を何らかの意味で宗教に入信させることとは無関係である。西洋ではキリスト教徒になること(であること)は、いわば地域社会の一員になるための不可欠な要件でもあって、本人の立場からするとインプリンティング(刷り込み)によって本人の自由意志とは無関係にキリスト教信仰の道に押し込まれるのである。したがって私は西洋のキリスト教徒が本当の意味での宗教者であるといえるのかどうかを疑問に思っている。宗教的な自覚も何もなく、単に社会的習慣によって彼らはキリスト教徒であるに過ぎないのだ。子供の頃に馴染んだものからは、人間は簡単に抜け出せない。彼らはいわば精神のロボットなのである。
 ポーキングホーン氏が宗教、神について書いていることを読むと私はこれが果たして科学者が書くことなのかと全く頭を傾げざるを得ないのである。具体的に引用しよう。
 「神の創造は、過去のある時点で何がどう起こったかだけではなく、現在、進行中の出来事にも関与している。宇宙を創造した神は今もまだ、このように関与することによって存在しているのだ。宇宙をこのように現にあらしめている、この宇宙の進化の歴史の背後には、神の心と目的が明確に存在しているのである。」(P63〜64)
 この文章を読んで私が思うのは、何を勝手なことを言っているのか、彼のこの主張の裏には何の根拠もないふぇはないか、ということである。彼のこの言明は神の存在を刷り込まれて育ったキリスト教徒の典型的なお喋りでしかないのである。しかも彼は「我々は神が存在するか存在しないかを証明することはできない。」(P46)と書いているから、神を信仰するかしないかは全くの個人のいわば趣味の問題に過ぎないのである。私は宗教の根底にあるのは「かも知れない」という証明を超越した思考であると考えている。神の存在を信じることについては、日本には次のように昔の人が言った適切な表現がある。『鰯の頭も信心から』 正にそうなのである。冷静に考えれば、神を信じることと、鰯の頭を信じることとの間には何の違いもないのである。こういうことを書くと、キリスト教の信者の方は「何と不敬なことをいう」と大変に立腹されることだろうが、日本人の私などから見ると何もおかしなことはないのであって、唯一全能で絶対の神が存在すると考えるユダヤ、キリスト、イスラム教徒こそは目が曇っているのである。ところが科学者であるポーキングホーン氏も、こと宗教のこととなると目が見えなくなるのである。
 「宗教が信仰を土台にしていることは誰でも知っている。・・・・信仰はある意味で一種の飛躍ではあるが、それは闇に向かうのではなく光への飛躍なのである。宗教が求めるものは、現実に人々が置かれている問題が何であるかを理解しようとする試みである。・・・・宗教といえど、それが真実であるときだけ価値がある・・・。」(P24)
 私は彼が言っていることは綺麗事でしかないと思う。例えばイスラムのテロリストは上の言明とは全く反対の存在ではないか。宗教にも良い面と悪い面とがあるのであり、ニーチェは『アンチ・クリスト』を書いて、キリスト教は病者の宗教であると批判しているが、ポーキングホーン氏はニーチェのこの批判にどう応えるのだろうか。

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2009年3月30日 (月)

『バベルの謎 ヤハウィストの冒険』を読んで

 最近、長谷川三千子氏の『バベルの謎 ヤハウィストの冒険』(中央公論新社)を読んでいるが、旧約聖書をもう少し理解したいと思ったからである。読んで見ると、旧約聖書の作者は一人ではないから、その内容に齟齬するところがあると、具体的にテキストをあげて指摘していて、面白いのである。そうしたことを、18世紀以降に進んだ旧約聖書の研究成果を踏まえて長谷川氏は論じていて、内容としてはなかなか面白いところが有るのではあるが、それでも私にはむなしく感じられるのである。それは、私が全能の唯一神などは存在しないと思っているからである。存在しもしない神のことをああだ、こうだと論じても結局意味がないとしか思われないのである。神の不在を決定的に確信するようになったのは、進化論学者リチャード・ドーキンスの『神は妄想である』(早川書房)を読んだからである。
 またK・メンデルスゾーンの『科学と西洋の世界支配』(みすず書房)を読んだことも、私が宗教の意味を評価しなくなることに強い影響を及ぼした。メンデルスゾーンによると、「500年前、すなわち(ポルトガルの)エンリケ航海王子がアフリカ沿岸を航行し、世界制覇の第一歩を踏み出したとき、ヨーロッパは東洋の偉大な文明と比較すると絶望的なほど貧しかった。」(P2)ところがそのときまでにヨーロッパには、その後のヨーロッパの世界支配を可能にした根が根付いていたという。その根とは、当時「自然哲学」と呼ばれたものであるが、じつは現代では科学と呼ばれる哲学上の思想であった。なぜそれがヨーロッパで生まれたのかははっきりしないのだが、それはヨーロッパの自然科学を発達させた。そしてそれによりヨーロッパはヨーロッパ以外の他の世界の地域に対する力の優位性を獲得したのであった。西洋は科学を発達させることによって世界を支配することのできる力を持つようになったのである。メンデルスゾーンによると、科学の基本的な特徴は、現象の間の数学的な相関関係を把握したことであり、それに基づいて自然の力を利用し、世界のヨーロッパ以外の人たちを支配する力を持つことができるようになった。そして支配した地域の人間たちをキリスト教に改宗させようとしたのである。キリスト教徒は人間を支配することに対して何らの違和感を持っていなかった。その一例としてキリスト教徒の中国人への布教が引き起こした大きな事件として義和団事件があり、三石善吉氏が書いた『中国、一九〇〇年 義和団運動の光芒』にキリスト教徒の横暴な振舞いが中国人の怒りを買った経過が描かれている。
 ところで私が最近、不審に思っていることが一つある。それは、なぜ宗教学者と言われる人たちのほとんどが一神教についての歴史的な功罪をキチンと評価しないのかということである。一神教、特にキリスト教について徹底的に厳しい評価をしたのは、私が知っている限りでは、経済学者の竹内靖雄氏である。竹内氏は『<脱>宗教のすすめ』(PHP新書)において、世界的に見て最も人類に害をなした宗教はキリスト教であると書いているが、私もいろいろと読んだ限りでは竹内氏の主張は正しいと思われる。ところがいわゆる宗教学者といわれる人たちには、宗教の悪というものに対する感度が全く欠如しているように思われるのである。例えばキリスト教の宗教改革の大物としてジャン・カルヴァンがいる。マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』という有名な論文にも名前が出てくるくらい有名な人物であるが、作家のシュテファン・ツヴァイクが書いた小説『権力とたたかう良心 カルヴァンとたたかうカステリオン』(みすず書房)で描かれているカルヴァンはまさに権力志向の強い卑劣な人間そのものであるのだが、他方でカルヴァンは講談社の「人類の知的遺産」というシリーズの1巻に久米あつみ氏が『カルヴァン』として取上げている人物である。ローマ・カトリック教会が免罪符の販売という史上最悪の詐欺を行なってキリスト教を貶めたことに対して、その批判勢力として対抗して出てきたのが宗教改革派であるが、カルヴァンが行なったのは日常生活の楽しみを一切否定する体の宗教的恐怖政治であった。こうした人間を知的な偉人として平気で持ち上げるというのは、ヒトラーを政治的な偉人として持ち上げるのと大して変わりがないのではないかと私には思われるのである。
 下らない人間について一所懸命に細かなことをああだこうだと研究することが果たして学問なのだろうかと、私は最近疑問に思うようになっている。このシリーズには『毛沢東』の巻も有るが、毛沢東は大躍進政策や文化大革命などによって大変な数の中国人を殺したのであり、そういう意味ではヒトラーと大して変わらない人間であったと私は判断する。マックス・ヴェーバーは政治は結果責任だといったが、そうだとするとジャン・カルヴァンも毛沢東も大きな責任を負っている。彼らがやったことの結果から判断する限り、知的に偉大な人間でも何でもないのである。特に私は、キリスト教神学など、いや一神教の神学全般について全くの戯言であるとしか思われないのである。キリスト教の聖職者や神学者といわれる人たちはよく「神がああだ、こうだ」というが、これらは全くの思いつき、勝ってな憶測を述べているのもしに過ぎない。聖書に書かれている神の言動も、私には全く何の根拠もない戯言でしかない。そうでない証拠を見せてくれたら私も考えを変えるのだが。
 このことを長谷川三千子氏の『バベルの謎 ヤハウィストの冒険』を読んでいて、私は改めて強く確信したのであった。ヤハウィストというのは、ユダヤ教の神ヤハウェの天地創造の話を書いている『創世記』に始まるモーセ五書(残りは『出エジプト記』、『レビ記』、『民数記』、『申命記』の4つ)を書いたとされる一人の人物についてドイツの聖書研究家ゲルハルト・フォン・ラートが名付けた名前である。この作者については複数説も有るのであるが、長谷川氏は一人という立場に立つ。そして彼女は、『創世記』に書かれている話はそれ以前に書かれていたと考えられる複数の話が継ぎ合わされたものであって、だから整合性に問題があるという事実を論証しているが、確かに彼女のいう通りであると思う。ところが長谷川氏は、「ほぼ二千年近くものあひだ、『律法』(トーラー)、すなはち『モーセ五書』は、モーセ本人の筆になるものである、ということになってゐた。これは、ユダヤ教においても、キリスト教においても、疑ってはならぬ公式見解としてまかり通っていたのである。」(P56)と書いており、教会の公式見解は間違いであると言っているのである。
 書かれたものについては、その作者が誰であるかは重要な問題である。そして教会と研究者とで聖書の作者についての見解が異なるというのは非常に面白い話で、私は研究者の見解が正しいと考える。繰り返しになるが、そういうことを教えられたという意味で、『バベルの謎 ヤハウィストの冒険』は面白い本であるのだが、しかしこのことを知ったことにはどうしてもむなしさが付きまとうのである。なぜかというと、唯一絶対の全能の創造神などというものは存在するはずがないと考えるからである。存在しないものについての話などは私には興味がないし、そういうものについてああだ、こうだと論じること自体が全く無意味なことだと考えるからである。しかし信仰というものは、その信仰することの内容の真実性には基づかないのであり、ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も大勢の信徒がいて、今なお毎日殺し合いをしている。そして宗教指導者たちは殺し合いを止めさせようとは積極的に動いていないように見えるのである。こうした実状に鑑みて判断する限り、一神教は全く問題のある宗教であると言わざるを得ないであろう。ところが宗教学者たちは、そうした宗教の害悪を語ろうとはしない。

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2009年2月12日 (木)

「神」という魔術的な観念

 羽入辰郎氏の『マックス・ヴェーバーの犯罪』(ミネルヴァ書房)を読んでいて、「ああ、そうなのだ!」と腑に落ちた文章に出会った。それをまず以下に引用する
 「”理念型”という呪文をひとたびヴェーバーからかけられると、われわれの頭は麻痺し、その正常な思考の動きをすべて止めてしまう。われわれはその瞬間から大魔術師ヴェーバーに対して頭を垂れ、ほとんど常識的な検証作業すら止めてしまうのである。”理念型”とはそれほどまでに威力のある呪文なのである。この魔術的概念、”「資本主義の精神」の理念型”を脱魔術化すること・・・。」(P195〜196)
 この”理念型”という概念を”神”という言葉に置き換え、マックス・ヴェーバーという名前を”両親”または”神父”などという言葉に置き換えると、人間が宗教にからめ捕られるプロセスの説明そのものになるではないか。例えばヨーロッパやアメリカなどのキリスト教圏、中東などのイスラム教圏においてそこに住む人たちのほとんど全てがキリスト教徒またはイスラム教徒になっている理由は、まさに上の文章に書かれた状況が説明している。共同体としての圧力が、キリスト教徒であること、またはイスラム教徒であることを個人に対して強制していることは、その共同体の外部に暮らしている私から見ると明白である。そうした地域に住んで、キリスト教徒でないこと、またはイスラム教徒でないことは、まともな人間ではないこととして受け止められるのである。そうした社会に宗教の自由などは存在しないのである。個人が信仰を持つことは、共同体などの社会的圧力から完全に守られていることが保障されないかぎりは実質的には意味がないのであるが、すでにキリスト教徒またはイスラム教徒である人間にとってはそういう考え方そのものが完全になじまないものなのである。そうした社会に会っては、「神」が存在することは、理屈抜きに受け入れるべき事柄であって、「神」が存在するかどうかを疑うこと自体が許されないことなのだ。
 「神」という観念こそは、まさに魔術的な観念なのである。普通の日本人にとっては「神」という概念は個人的にはそれほど大きな意味を持っていない。むしろ非常に軽い意味合いの存在ですらある。何かの時に軽く口に出るだけであって、その実在を固く信じる一神教徒のように全能で超越的な絶対神が存在するなどとは日本人は誰も観念しないのである。こういう自体を日本人の無宗教として問題にする宗教学者がいるが、自分の商売が宗教学だからといって日本人の無宗教をあげつらうことこそ、私はむしろ問題であると考える。宗教の問題性を彼ら宗教学者は良く理解していないのである。
 最近の私は、宗教特に一神教はマインド・コントロール以外の何ものでもないと考えているが、21世紀になってますます激しくなってきたキリスト教とイスラム教の対立、テロリズムは宗教のマインド・コントロールとしての悪の側面を一層明らかにした。科学技術が発展したなかで、その成果でもある武器を使用して、魔術的な神観念をもつ一神教の信者が自らの頭で考えることなしに「聖戦」という、これまた魔術的な観念に取り込まれて自爆テロなどを行なう。こういうことを行なわせる宗教は人間社会にとって害をなすだけなのではないか。今は専らイスラム教徒が「聖戦」を行なっているが、かつてはキリスト教徒も十字軍という形で「聖戦」をイスラム教徒にしかけて、大虐殺を行なったのである。そうして見ると、現代のイスラム教徒のテロリズムは、時代が変わって攻守ところを変えた過ぎないのである。
 一神教徒は、唯一絶対の超越神を信仰しているがゆえに自分たちは高等な人間であると思い込む傾向があるようだ。彼ら一神教徒たちは、訳の判らないいろんな神を信じる多神教の信徒などは、程度の低い神を信じる程度の低い人間であると傲慢にも考えるのである。そこに傲りが生じる。唯一絶対の超越神は、論理的にいっても、多神教の神の上に立っているに決まっている。しかしその論理的な正当性は、もし唯一絶対の超越神が実際に存在したならばということであって、唯一絶対の超越神の存在そのものを一神教徒はてんから証拠のあるなしを問わずに信じているだけのことであって、その存在を見た人は現代では誰もいないのではないか。聖書にはモーゼが神に会ったと書かれているが、その後に会った人は、聖人や聖女などが夢うつつの中で会ったようなことを言っていても、私などには、本当とは到底思われないのである。つまり現代においては、なぜ神はその姿を我々の前に現さないのかと私は不信に思っている。それは、詰まる所神など存在しないという証拠なのではないかというのが私の結論である。その存在を信じるに足りないものである「神」を、私は到底信仰することなど出来ないのである。
 「神」という観念に魔術的な意味合いを与えた人間こそが本当は問題なのである。そしてヨーロッパの中世においてその魔術的な観念のマインド・コントロール機能を徹底的に悪用して権力を振るったのがローマ・カトリック教会であり、究極の詐欺とも言える免罪符の販売によって信徒から財産を巻き上げたのである。魔女裁判の裏側には、女性たちの財産を巻き上げるというカトリック聖職者の魂胆さえあったそうである。そういった非道なことを神の名の下に平気で行なったのが、ローマ・カトリック教会であった。そしてその個人的な問題の一面はメリメの小説『オーバン神父』に良く描かれている。すなわち個人が安楽な生活を送るのに非常に都合の良い職業としての聖職、神父の地位とはそういうものでもあったのである。
 そして19世紀末の清朝の中国に布教の名目で送り込まれたヨーロッパ列強の神父たちは、外交特権に守られた時には中国の農民の土地を無法にも奪うなど非道なことを平気で行なって農民や地主の怒りを買い、義和団事件を引き起こすそもそもの原因を作ったのであった。こちらは専らプロテスタントの聖職者であったようだが、キリスト教の神父などは、とんだ聖職者であったのだ。
 一神教の「神」というのは、なんと罪作りな存在なのだろう。かくして一神教の「神」という観念こそ、脱魔術化が不可欠な最優先課題なのである。脱魔術化された後の一神教の「神」とは、お化けのようなものでしかないのだろうと私には思われるのであるが。

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2009年1月23日 (金)

『キリストはなぜ殺されたか』を読む

 J・カーマイケルの『キリストはなぜ殺されたか』(読売新聞社)を読んでいるが、これを読むと福音書と呼ばれる四つのイエスの言行録がお互いに統一性のない内容の物語を語っていることがよく分かる。キリスト教会はよくそんな不統一な話を平気で一つの本に収めたものだと感心さえする。ところでキリスト教徒の人たちは、果たしてこうした事実をどれほど知っているのだろうかと思う。私はたまたまキリスト教に批判的な本を読んでるが、そうした傾向の本を何冊か読むに従い宗教というものに対してどんどん不信感を深めていったのである。そして自分の信仰する宗教の内容を深く自覚して理解している人というのは案外少ないのではないだろうかと最近思うになっている。宗教は人間の精神の空白を埋める一種の詰め物のようなものにすぎないのではないかとさえ思うようになっている。一種の精神安定剤なのである。
 特にキリスト教、イスラム教、ユダヤ教などの一神教の場合、社会全体がその宗教によっていわば汚染されていて、子どもたちは何も理解できない内からその宗教に帰属することを無自覚な両親や地域社会の圧力によって強制されてしまう。動物学で云う刷り込み(インプリンティング)によってその宗教の信徒にされてしまうのである。ところが何故かそのような形で子どもたちが宗教を信仰させられてしまうことに対して,問題であると認識する人が殆どいないのである。宗教を信仰することは、特に一神教が社会の支配的な宗教である国や地域においては、当然にするべきことになっており、それを信仰しない人間は除け者になってしまう。そのような場合、宗教は単なる社会的な圧力にすぎなくなっている。信仰する自由などないのである。信仰する自由のない宗教とは一体何の意味があるのだろうか。個人にとっては、その社会で生きていくために従わなくてはならない社会的な習慣にすぎない。すなわち一種の強力な社会的な強制なのである。信仰することを強制することは宗教の本来あるべき姿なのだろうか。そうではあるまい。
 アメリカは現在なお実質的にはキリスト教国家である。ところがアメリカの建国者たちは、アメリカという国を世俗国家として立国したのだと、生物進化学者のリチャード・ドーキンスは『神は妄想である』(早川書房)で書いている。先日のバラク・オバマ大統領の就任宣誓式で、彼はリンカーン大統領が宣誓の際に使用したという聖書を使用して宣誓を行なった。また大統領就任の翌日には家族と一緒にワシントンにある教会のミサに出席したという。アメリカが世俗国家であるというのなら、なぜ大統領就任に当たっての宣誓の時に聖書を使用するのだろうか。昔からの習慣であるというのだろうが、それは宗教的な行事であると云わざるを得ない。もしこの先仮に、イスラム教徒が大統領に就任することになった場合には、コーランを使って宣誓を行なうことになるのだろうか。大統領の信仰する宗教がキリスト教なら良いけれど、イスラム教は駄目だというわけにはいかないだろう。イスラム教徒がアメリカの大統領になる可能性は萬に一つもないだろうが、論理的な可能性としてコーランを使用した宣誓というケースも考えておくべきことだろう。それを許さないとするのなら、事実上アメリカには信仰の自由はないのである。
 アメリカ社会の習慣的な事実としては、キリスト教はアメリカ社会の支配的な宗教なのである。宗教という面で対比すると、アメリカと日本とは対照的な社会である。そもそも日本では首相に就任する際に宣誓するという習慣はない。首相になる人間の信仰する宗教などということが問題になること自体がないのではないか。首相になる人間がキリスト教を信仰しようが仏教を信仰しようが、日本人は気にしないが、イスラム教となるとどうだろう。慣れない宗教を信じる人間は、何となく胡散臭い人間であるとして恐らく首相に選任される可能性はないだろう。信仰の自由といっても、簡単ではないのだ。
 私は最近思うのだが、人間の精神はほとんど受動的に影響を受けるだけで、能動的に物事を理解するということは一般的にはないのではないか。学習とは、宗教も含めて外部から知識などを無自覚の内に押し付けられるということであって、極端に云うとマインド・コントロールなのである。私はリチャード・ドーキンスが『神は妄想である』において、ユダヤ教やキリスト教などの一神教を徹底的に否定した時、人類の精神史の画期をもたらしたと考えるものである。西洋の歴史のなかでニーチェは『アンチ・クリスト』を書いてキリスト教を病者の宗教であるとして蔑んだが、ドーキンスの科学的精神は『神の観念』の不毛性を容赦なく暴いたのである。ドーキンスくらいの著名な科学者でなければ、神の存在を否定しても西洋社会に大きな影響をあたえることはできなかったであろう。しかし実際のところ、ドーキンスのこの本は西洋社会にどれくらいの影響を与えたのだろうか。

 冷静に考えれば神の事跡などと云われているものが全く胡散臭いものであることは明瞭である。予めマインド・コントロールによって神の存在を信じ込まされている人間でなければ、神がやったと云われるような聖書に記載された神の事跡などは、ただそのように書かれただけで何の根拠もないおとぎ話のようなお話にすぎないものなのである。予めマインド・コントロールによって神の存在を信じるようにさせられた者だけが、神の事跡や預言者への啓示などを何らの疑問を抱くことなく信じて受け入れることができるのである。例えばイエスに洗礼を施したとされるヨハネについて、L・カーマイケルは『キリストはなぜ殺されたか』で、福音書に書かれているヨハネについて次のように書いている。
 「ヨハネは、神によって霊感をさずけられたので、その福音を告示したのである。」(P86)
 ところでヨハネが神によって霊感を授けられたということはどのようにして知られたのであろうか。神によって霊感を授けられたことなど、ヨハネ本人が言ったのでないかぎり、そんなことは誰も知りようがないではないか。それではヨハネは如何にして、自分が神から霊感を受けたと判ったのであろうか。本人がそういったからそうなのだという以外には、これも説明のしようがないのである。つまりはっきり言って、福音書は何の根拠もないままに神との関係を主張しているのである。現代でこのようなことを主張すれば、その人間は精神の異常を疑われるだけであろう。しかしかつてはそれが神聖な事実として受け入れられていたのである。こうして見ると、改めて宗教とは何と胡散臭いものなのだろうと思う。しかしかつてはそれが人間によって求められていたということも確かであり、そうでなかったら宗教がこれほどに普及することはなかったであろう。それはその時代の人間が生きることの苛酷さを反映したものであったと私は考えるが、現代でもアメリカなどでは圧倒的にキリスト教が社会的な習慣として力を得ていて、国民の意識を支配している。科学的な思考はいまだに宗教に対して決定的な勝利を得るに至っていないのである。その理由の一つは、宗教的な考え方の判りやすさにあるのだと私は思う。自分で考えることなどしなくても済むのが宗教の強みなのだろう。
 自然科学が発達して、現実の世界に起きる事象は自然法則によってのみ説明可能であるという物の考え方を普及させるようになってから、自然法則に反する奇蹟などはありえないと考える人たちが大半になって当然なのであるが、現実には未だに唯一神を信じる一神教徒が世界で大勢を占めている。確かに奇蹟が起きることもありえなくはないのではないかと考えることも可能なのではあるが、実際には近代社会に住む人々が奇蹟を目にすることはなくなった。なぜモーゼやイエスが生きていたような大昔にだけに奇蹟は起きて、なぜ今はそれを目にすることがなくなったのかと私は大いに不信に思うのである。ドーキンスは『神は妄想である』の中で、あることが存在しない、起こりえないと証明することは、実際には非常に難しいのだと言っているが、この不可能性の証明の困難こそが奇蹟を主張する宗教の存在を可能にしているのである。

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2008年12月26日 (金)

『悪魔の起源』を読む(その1)

 エレーヌ・ペイゲルス女史の『悪魔の起源』(青土社)を読もうと思った直接の理由は、シュワルツェネッガー主演の映画『エンド・オブ・デイズ』を見て、以前から疑問に思っていたキリスト教圏で創られる映画に出てくる悪魔は、なぜキリスト教の悪魔なのだろうかという極く単純な理由、つまり悪魔といっても宗教によって異なっていて人類に普遍的なものではないのはおかしいという考えをずっと抱いてきたからである。そして私がたまたま古本屋などで悪魔や天使などについて書かれた本を目にするたびに買って所蔵していた内の一冊が『悪魔の起源』であった。今まで持っているだけで読んでいなかったのだが、この機会に勉強してみようと思ったのである。
 ペイゲルス女史はアメリカに住んでいてキリスト教文化圏の人であるから当然、この本で悪魔といえばキリスト教の悪魔を対象にして書いている。日本語で悪魔といっても、英語ではDEMON、DEVIL、SATANとあり、どうやらサタンが悪魔の総元締めのようである。
 ところでこの本を読んでいて始めて一神教の基本的な考え方がハッキリと判った。一神教は、宇宙をも創造した唯一の神という存在があるとする考え方である(従って神は宇宙の創造以前に存在していたことになる)が、その神はあくまでも「不可視の存在」であって、人間の目には見えないものである。さらに一神教の宇宙観とでも言うべきものとして、「宇宙的な規模での善と悪との闘争」という観念に基づいて世界を理解しようとする。そして一神教の神のみが善の側に立っていると考えるから、論理的に当然なこととして神以外のものは全て悪の立場にあると言うことになる。ここにおいて、世界には一神教が成立する以前に地域的にも異なるさまざまな神が存在していたが、それらの神たちはすべて唯一神とは異なるがゆえに、一神教の立場からすると論理的に当然のこととして全て悪魔と見做されるようになったのである。多神教の神たちの神の立場から悪魔の立場への急転落。一神教がその転落を作り出したのであった。何と言う魔術的転換。
 ここに見られるのは一神教という立場の持つ、全く理不尽な「自分たちの神のみが善である」とする思い込みである。しかし一神教徒にとっては、「善なる唯一の神の存在」は真実であって、思い込みといった程度の低いものではないのだ。この根拠なき傲慢にして不遜な考え方は全く慈悲を知らないものであった。だからこそ、善なる唯一の神を信じる自分たちこそが善なる立場にいるという観念に基づいて、キリスト教徒は魔女狩りや異端審問、宗教戦争、異教徒の抹殺、南アメリカの現地住民の奴隷化などを何らの良心の咎めもなく実行することができたのである。アジアやアフリカの植民地化にもこの考え方が影響していると考えられる。同じことは現代のイスラム教徒が、自分たちこそは善なる立場であるという認識の下にテロリズムという形で行なっている。
 こう考えると、一神教というのは実に問題のある宗教であることが判る。自分たち一神教徒こそは唯一神の善なる側にいるとして、キリスト教徒たちは、 外部から見ると悪でしかないこと、例えば魔女狩りや異端審問などという「殺人」を全く良心の痛みなく実行することができたのであった。論理的に殺人さえも善であると合理化する宗教、一神教とはそのような宗教なのである。
 この論考ではまだ『悪魔の起源』で説明された悪魔そのものについての具体的な事柄についてはほとんど触れていないので、それらについては次回に書くこととしたい。

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宗教の問題性が問われ出した

 先日古本屋で山本七平氏の『静かなる細き声』(PHP研究所)という本を目にして購入した。私は山本氏の本を集めている。古本屋でその本を開いた時に一番初めに次のような文章が書かれていた。
 「私は生まれながらのクリスチャンなので、もの心ついたときすでに教会の中にいた。」(P14)
 昔の私ならこれを読んでも別に何とも思わなかっただろう。へー、山本氏は子供の時からクリスチャンだったのだ、と思ってお仕舞いだった。しかし今は違う。宗教というものの問題性を強く意識しているからである。それを私に最初に気づかせてくれたのは、経済学者の竹内靖雄氏で、彼の書いた『<脱>宗教のすすめ』(PHP新書)に、歴史的に見て世界で最悪の宗教はキリスト教だと書かれていた。その本の第6章は「もっとも恐ろしい宗教------キリスト教の犯罪歴」となっている。この本を読む前に私はヘレン・エラーブというレバノン生まれでアメリカ在住の女性が書いた『キリスト教 封印の世界史 西欧文明のダークサイド』(徳間書店)を読んでいたのだが、もう一つインパクトが弱かったのであった。しかし竹内氏の本は私にキリスト教の問題点を決定的に認識させてくれたのであった。また私はニーチェが好きであったから、ニーチェの『アンチ・クリスト』(潮文庫)を読んではいたが、ニーチェがキリスト教を否定するのはキリスト教が病者の宗教だと、専ら精神的な内容面で批判していたので竹内氏ほどの問題性は感じなかったのであった。竹内氏はもっと直接的に世界の歴史のなかでキリスト教が人類に及ぼした巨大な害悪を指摘しているのであった。詳しくは『<脱>宗教のすすめ』を読んでいただきたいが、これに刺激されて私は色々とキリスト教関係の本を集めて読み始めているが、読めば読むほどキリスト教には問題を感じるのである。
 キリスト教、さらには宗教そのもののが有する問題を決定的に論じたのは、イギリスの進化学者のリチャード・ドーキンスである。ドーキンスは『利己的な遺伝子』(紀伊国屋書店)という有名な本を書いた人だが、生物学者である彼わざわざキリスト教を批判した『神は妄想である』(早川書房)という本を書いたのは、普通に考えると不思議な話である。しかし彼は科学者としてどうしても書かなくてはならないという切迫した気持ちにさせられたのであった。彼は子供に宗教教育をしてはならないと書いている。まだ批判精神も何もない子供時代に宗教教育をするというのは、生物学で言うインプリンティング(刷り込み)であって、それは決定的な問題だと指摘している。キリスト教社会では、『幼児洗礼』という形で本人の意思とは無関係にキリスト教徒になるための儀式を行なってもらうが、これを良くないことであると考えるほども意識を持つ西洋人はほとんど全くといっていいほどにいないだろう。それこそが大きな問題なのに、である。それほどキリスト教は西洋では当然に信仰するべきものと受け止められているのである。そしてキリスト教そのものに対する批判精神は西洋社会にはほとんど存在しない。イスラム教圏でもイスラム教に対する批判精神の欠如は同じである。宗教家にとっては、宗教は飯の種でもあると同時に、権力の基盤である。そのことを意識している信徒はほとんどいないであろう。批判精神を抹殺するのも宗教の持つ重要な特質なのである。ここまで来ると、山本氏の書いた「私は生まれながらのクリスチャンなので」という文章の意味する問題性がはっきりするであろう。
 日本人は無宗教だとは良く言われる話だが、それは、世界的な観点で見ると「良くないこと」だという否定的なニュアンスで言われる言葉である。そして特に宗教に深く関心を持たない限り、日本人は何となくそのことを肯定せざるを得ないように思ってしまうのであるが、最近私はそういうことを言う人たちは実は全く浅薄な人間であったと判ったのである。宗教というものを本当に深く理解している人間ならば、けしてそんなに簡単には宗教をなにか立派なもののようには言えないはずであると判ったからである。宗教は必ずしも人間性を高めるような高尚なものでも何でもない。そのことは21世紀に入って、2001年の9.11事件が起きて誰の目にもハッキリと示された。この事件がイスラム教という宗教と関係がないとは誰も考えないであろう。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教とは全て関連性のある一神教であり、一神教であるがゆえにその神は共通である。その共通の神をいただく宗教の信徒の間で、深い憎悪が渦巻き、イスラエルでユダヤ教徒とイスラム教徒とが殺し合いをし、アフガニスタンやイラクではキリスト教徒とイススラム教徒とが殺し合いをしているのである。これらの紛争は宗教とは不可分の関係があるのだ。宗教というものが大いに深刻な問題であることは、これを見ても明らかである。
 宗教が、何か人間にとって高尚なものであるかのような日本人にとっての印象は全くの間違いであったことははっきしりた。21世紀になって、宗教こそはむしろ、人間にとって大変大きな問題の根源あることが明らかになったのである。日本でそのことを誰の目にもはっきりさせたのは、まずオーム真理教であった。信徒の殺人から反教団の弁護士の殺人、さらには地下鉄サリン事件という日本で初めての大量殺戮のテロリズムを実行したのはオーム真理教であった。宗教団体を自認するものが、まさかの殺人実行集団であったのだ。日本にはかつては存在しなかった新しい宗教団体が発生したのである。
 日本人の感覚では、宗教団体とは平和的な存在であったはずだ。しかし歴史的に宗教団体の行なってきたことを見ると、例えばキリスト教会がヨーロッパで中世に行なった魔女狩りや異端審問は宗教の名の下に行なわれた殺人であり拷問であって、とうてい我々日本人の感覚では宗教団体の行なうべきものからはかけ離れた残虐な行為であった。宗教戦争というものさえ行われ、宗教の名の下に人々は殺し合った。さらにコロンブスのアメリカ大陸発見によってスペイン人が南アメリカに侵入し、現地人を金や銀の採掘を行なわせるために奴隷化して大量に殺したが、彼らは現地人を人間とはみなさなかったのだ。そもそもキリスト教がローマ帝国に普及するに当たっては、奴隷を否定する考えを持たなかったことがローマ帝国の国教となることを可能とした要因であったと、中丸明氏はその『絵画で読む聖書』(新潮文庫)で書いている。その伝統がスペイン人による南アメリカの現地人の奴隷化をもたらしたのであった。キリスト教の歴史は大いに問題のあるものだったのである。

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2008年12月17日 (水)

映画『エンド・オブ・デイズ』にちなんで悪魔を調べたら(その1)

 以前からキリスト教圏で作られた映画では、キリスト教にちなんだ悪魔が出てくる。たとえば、『エクソシスト』、『オーメン』、『ローズマリーの赤ちゃん』、『エンゼル・ハート』、『ディアボロス・悪魔の扉』などは私が見た映画の中からざっと思い出したものだが、こうした映画を見ていていつも疑問に思ったのが、なぜキリスト教という特定の宗教に関係した悪魔しか出てこないのだろうか、ということであった。悪魔は宗教と密接な関係にあるのだが、キリスト教に関連した悪魔であれば、十字架や神父などが悪魔払いの役に立つだけで、他のものでは駄目なのだ。従って、キリスト教の悪魔はキリスト教専属の存在であって、キリスト教を信じない人間には何らの関わりももたない存在なのである。
 シュワルツネッガー主演の映画『エンド・オブ・デイズ』に出てくる悪魔・サタンは2000年の千年紀を利用して世界を支配しようと考えていて、教会の中にも平気で入り込んでくるし、十字架も何のその神父がいようと全く制約されることがない。無敵の存在なのである。こうした時に、なぜ神は姿を現さないのだろうかと私などはつい考えてしまうのだ。唯一絶対全能の神が悪魔に好き放題に振る舞わせるというのは一体どうしたことなのだろうか。全く不思議でたまらない。そこでこの機会に悪魔とは何かを調べてみることにしたのである。
 私は以前から悪魔に関する本を何冊か購入して持っていたので、早速取り出してきて読むことにしたのだが、エレーヌ・ペイゲルス女史の『悪魔の起源』(青土社)が題からして適切なようなので読み始めたのだが、訳者あとがきによると女史はアメリカの大学の教授でキリスト教の研究者として一流の存在であるとのこと。
 序から読み始めたが、非常に面白い内容で、女史はキリスト教に対して批判的な目をキチンと持っている人物であることがよく判った。彼女はキリスト教徒たちは、聖書の内容について「その心の中に刷り込まれてきた。」とか「信じ込まされて来たのだ」(P18)と書いているが、これは宗教というものに対する強烈な批判である。進化生物学者のリチャード・ドーキンスが『神は妄想である 宗教との決別』(早川書房)において、信仰とは別の文脈においてではあるが、「信じるように育てられた人間」(P105)という表現を使っている。ある特定の社会においては、その社会の成員は「何かを信じるように仕向けられている」ものであり、キリスト教を基本的な宗教とする社会ではキリスト教はその社会の成員であるためには信じなければならないものとなっているのである。
 ところで新約聖書は四つある福音書から始まるが、聖書では『マタイによる福音書』、『マルコによる福音書』、『ルカによる福音書』、『ヨハネによる福音書』と名付けられている。しかしペイゲルス女史は、「歴史的に言えばこれらの福音書の真の記者は判らない」と書いていて、従って私がかねて考えていた「どこの馬の骨が書いたか判らないようなものをどうしてキリスト教徒はそんなにも有難がっているのか不思議でならない」という命題は的を射たものであったのだ。普通本を買う場合、われわれは著者を確認して買うことが多いだろう。全く新しい著者の場合は、新聞などに乗った書評を見て内容の信頼性を確認する。ところが新約聖書にしろ、その内容は著者によって保障されるということはない。神の言葉として伝えられるものも、その真実性を担保するものは何もないのである。聖書が信頼されるのは、両親を初めとする社会的な圧力によるものなのである。
 福音書に戻ると、現在では2番目の位置に置かれている『マルコによる福音書』こそが歴史的に見てイエスの死後一番早く書かれたものと同定されているが、それでも西暦70年頃で、イエスの死後相当時間が経過している。そして後残りの三つの福音書は『マルコによる福音書』をベースにして書き加えられたものであると聖書研究者たちによって考えられている。
 ところで私は聖書を全て読み通すなどということは、はっきり言って馬鹿馬鹿しくてできないのだが、ペイゲルス女史の『悪魔の起源』を読んでいて、確認のために聖書に書かれていることをチェックしたりした。すると『マルコによる福音書』の最初を見て如何にも作為的な内容にあきれ返ってしまった。第一章17節は次のようにかかれている。
 「それで、アブラハムからダビデまでの代が全部で十四代、ダビデからバビロン移住までが十四代、バビロン移住からキリストまでが十四代になる。」
 この文章を読むと、十四代が3回続くというのは、普通の感覚の持ち主ならいかにも作り物じみていると感じないではいられないだろう。そして次の18節にはイエスの受胎について次のように書かれている。
 「イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、精霊によって身重になったことがわかった。」
 私は、『マルコによる福音書』の書記はどうして「精霊によって身重になった」と判ったのであろうか、不思議に思う。「精霊がマリアに種付けしたこと」を一体誰が見たというのだろう。この記述の内容は、キリスト教を信じ込まされた人以外には全く納得のゆくものではありえないのである。聖書には真実のことが書かれていると、予め教え込まれた人たちでない限りは、イエスの生誕の奇跡などは全くの噴飯物でしかないのである。しかし社会全体がキリスト教信仰者で成り立っているところでは、こんな荒唐無稽な話でもまかり通るのだから、宗教とは恐ろしいものなのである。このことをドーキンスは上述の本の中で次のように書いている。
 「信じるべき適切な理由がなくとも信念をもちつづけることができるのが、信仰の本質である。」(80)
 話が長くなりすぎたので一端ここで筆を置くことにする。

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2008年9月13日 (土)

信仰心のいかがわしさ

 古本屋で白洲正子の『ほとけさま』(ワイアンドエフ)を買って、読み始めたらすぐに次のような文章に出あった。
 「私にはもともと信仰心はない。だが信仰とは何だろう。日々かき立てずにおかねば、忽ち消滅するはかない幻ではないだろうか。・・・・私には信仰心があります、と正面切っていう人には、どこか偽善者めいたところがある。」(P16)
 これを読んで、キリスト教が支配的な宗教であるアメリカで毎週日曜日に多くのひとが教会に行くという現象には、まさにこの「日々かき立てずにおかねば、忽ち消滅するはかない幻」という言葉が当て嵌まるのではないか。つまり宗教も一種の習慣でしかないのではないのか。それと地域社会の拘束力とでも言うべきものがキリスト教信仰を支えているのではないか。つまり日本で言う「村八分」に似た要因がキリスト教社会にも働いているのではないか。ヨーロッパの中世の時代、教会を破門されると生きていけなかったという。破門するというのは、「おまえは死ね」」というのと一緒なのだ。
 今日読み終わったシュテファン・ツヴァイクの『権力とたたかう良心』(みすず書房)で描かれたジャン・カルヴァンは「神」に取り憑かれた狂信者、パラノイアだ。彼は「神」のために人間が存在していると考えていて、「神の栄光」こそが最も重要だと考えている。カルヴァンはジュネーブの市民が教会に行っているかどうかを監視させ、行かない人間を圧迫した。「信仰の自由」などというものがあるなどとは、カルヴァンは一瞬も考えたことはない。なにしろカルヴァンにとっては人間よりも「神」の方が断然重要だからである。
 ツヴァイクはそのことを次のように書いている。
 「神という観念に最高の位をあたえるために、人間という観念の権利を剥奪して、これを辱しめてしまった。この人間嫌いの改革者は、人類を救いがたい、手に負えない罪人の集団であるとしか見なかった。」(P69)
 白洲正子はカルヴァンとはまさに対照的な人間である。正子は「美」を人間の生活にとって重要なものと考えたが、カルヴァンは「美を」否定した。カルヴァンの神政政治がジュネーヴに及ぼした影響についてツヴァイクは次のように書いている。
 「カルヴァンの死後二世紀にわたって。世界的な名声をもったただひとりの画家、ただひとりの音楽家、ただひとりの芸術家も生みだしてはいない。」(P88)
 ところがこのようなカルヴァンが世界の知的シーンにおいては偉大な人物として評価されているのである。その例を挙げるなら、講談社の「人類の知的遺産」シリーズの28巻は『カルヴァン』なのである。ツヴァイクの評価は、全く間違っていたのだろうか。
 はっきりしていることは、ジャン・カルヴァンと白洲正子は全く相容れないタイプの人間であるということだ。信仰に凝り固まったカルヴァンと、信仰をなにか胡散臭いものと考える白洲正子では人間的な体質がまるっきり違っている。それは一部は時代の違いを反映しているのかもしれないが、当時の人間がすべてカルヴァンのような考え方をしていたのではなくて、カルヴァンこそが例外なのだったのだ。彼は支配欲に凝り固まっていて執拗な道徳心など全く持っていない偏執狂であったが、それに対抗できるだけの人物が当時のジュネーヴにはいなかったからであろう。戦前の日本でカルヴァンの「神」に相当するものというと、「天皇」であったろう。戦前の権力欲の亡者たちは「天皇」の名前をかたって当時の日本国民を恐怖で支配したのだ。
 人間の精神構造はそんなに変わっていない。何かの切っ掛けで、日本が民主主義国家から独裁専制国家に変わらないという保障はないのではないか。それでもはっきりしていることは、宗教では日本人を支配できないということだろう。

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