経済・政治・国際

2009年12月20日 (日)

長妻厚労相には完全に幻滅だ

 長妻厚生労働大臣は新しく増額される子供手当てに所得制限を設けることに反対だといっているが、この意見を聞くと長妻氏は最早完全に厚労省の役人たちに取り込まれてしまったとしか思われない。私はこのように不見識な長妻厚労相には完全に幻滅してしまった。
 そもそも子供手当ては日本の少子化を防ごうとして養育費を国家が支給して人口の減少現象を止めようというものであるから、その目的に敵うように最小の支出で行なえば良いものである。企業経営においても目的達成のために最小の支出を計画する。目的達成のためには費用を厭わない、などということはありえないことだし、あっては成らないことなのである。長妻厚労相にはそういった当たり前の健全な考え方さえも持ていないようであり、また彼の行動を見ていると単に意地になって筋の通らない主張に拘っているようにしか見えないのである。このように見識の無い人間が日本の厚労相をしていることは大変な問題である。長妻氏が失われた年金問題でどれほど活躍し成果を挙げたとしても、それは氏の厚労相としての資質を保証するものではなかったのである。鳩山首相は、長妻氏の年金問題追及という政権奪取への功労と国民への受けだけを考えて長妻氏を厚労相に任命したのであろうが、残念ながら宇宙人を自認する鳩山氏には人間を見る目がなかったのである。
 日本の少子化現象化に影響を与えている大きな要因としては、保育所の不足がある。この不足をなくするために厚生労働省は予算を大幅に増やす必要があるが、それは資金面で子供手当てと競合する。そのことを考えると、子供手当ての支出額を最小限に抑えることが不可欠であることは火を見るよりも明らかだ。そうした合理的な思考さえ長妻厚労相にはできないのだから、大臣としての資質に決定的に欠けることは明瞭である。だから長妻氏は厚労相を自認するべきであるが、恐らくそうはしないであろうから鳩山首相が辞めさせるしかない。そうなると鳩山首相は長妻氏の任命に対しての責任を問われるからそれもまたできないということになる。しかし昔の人は「過ちを改めるのにためらうことなかれ」といった。そうした勇気を示すことは、最近何かと決断力のないことを取りざたされる鳩山首相には起死回生の良い切っ掛けになりうるのではないだろうか。

 そもそも長妻氏を厚労相に任命したのには「失われた年金問題」への論功行賞という意味合いもあったのだろうが、小泉元首相が田中真紀子議員を外相に指名したのと同じ「顔見世パンダ」の真似があったように思われる。真紀子氏には「総理待望論」を書いた太鼓持ちの本もいくつかあったが、彼女が実際に外相になって到底大臣をこなせるような資質のない人物であることが国民の目に明らかになるという予定外の政治的な効用があった。今回長妻氏も同様であることが判明した次第である。自民党の赤城元農相のように国会議員の中には正に資質が決定的に欠けていながら大臣に任命された例が少なくない。鳩山首相は小泉元首相と同じ轍を踏んだ。これから首相になる人は政治的な引っ掛かりに動かされずに能力本位で大臣を選任するべきであろう。

 昨日(2009/12/21)鳩山首相は小沢幹事長と会って、党の要望というものを聞いた後にガソリンの暫定税率の廃止という政策を取り止め、また子供手当てについての所得制限という考えも捨て去った。それは全て小沢幹事長の意向に沿わないものであったからだ。かくして鳩山首相が自分が良く考えて意思決定するといっていたことは全くの茶番に過ぎなかったのだ。かくて幹事長という形の上では自らが任命した役職の人間によって鳩山首相が鼻面を引き回されていることが明らかになった。
 また長妻厚労相が子供手当ての所得制限はしない方が良いといっていたのは、単に小沢幹事長の鼻息を窺ってのことであったことがここにおいてはっきりした。長妻氏には自分の意見など初めからなかったのである。このことに気が付かなかったことに対して私は自らの不明を詫びたい。
 しかし民主党議員が140人も小沢幹事長の訪中に金魚の糞のようにくっついていったというのは恐ろしいことである。ここにおいて小沢一郎氏は名前を小沢ヒットラーとした方が適切なのではないかと愚考する。実態を明らかにするために民主党は党名自体も変えた方が良いのではないか。

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2009年12月16日 (水)

行政機構の責任を問う仕組みの強化を

 今日(2009/12/16)の日本経済新聞朝刊の「経済教室」に福井秀夫氏の『行政訴訟の仕組み改善を』という論文が掲載されていた。この論文の副題は「『官に対する監視』どう徹底」となっている。
 民主党に政権が遷ってから、すぐに話題になったのは八ッ場ダムの工事中止の件であったが、計画が立てられてから50年以上も経ってなお完成していないようなものが果たして本当に必要なダムといえるのだろうかと、素人考えでも疑問に思うのだが、一度計画したものは何が何でもやるのだという、官僚無謬性を底に持った官庁がだらだらと惰性で工事を継続して行なってきたこと自体が大いに問題であるし、そういった官庁のやり方が国民の目の前に明らかになったことは大いに意義があったと私は評価するものである。
 さて福井氏の上記の論文では、官庁の行なった行政行為に対して不当と考える国民が異議を唱える制度として『行政事件訴訟法』というものがあって、たくさんんの訴えが提起れてきたのだが、現在のその仕組みには問題があって十分に機能で期していないと福井氏は指摘している。その原因の一つは、簡単にいえば行政訴訟を取り扱うのもまた行政組織であるということである。いわば公務員という仲間内で外部の国民からの苦情を取り扱っているということが、そもそもの問題なのである。
 最近地方分権の強化ということが日本の活性化のためにも必要と言われているが、確かに地方の行政府の長に最近はいろいろと個性的な人間が現れて今までにはなかった取り組みも行われるようになってきた。それでも最近、神戸市長の支出を違法な公金支出として訴える住民の動きに対抗して、市議会が市長擁護の決議をするなど全くおかしい行動も見られる。地元民と地方政府や行政府の間にも当然対立がありうるのであり、これを適切に処理する仕組みが必要であって、公正かつ効率的に行われる『行政訴訟』が効果を上げるように制度を設計することが不可欠である。アメリカなどでは納税者意識の存在ということがいわれるが、日本では個人の多くは企業が役所に変わって給料から所得税や社会保険料を天引きする形で徴収するために納税者意識が育ちにくくなっていると、私も最近確定申告を行なうようになってから実感するようになった。それでも昔よりは行政府に対する異議申し立ての動きは高まっていると思われるが、私自身の体験からいっても、まだまだ官庁に対する国民の目は厳しくなる必要があると思う。
 役人たちのお金の使い方について一番問題なのは、それが自分たちで稼いだお金ではなくて、国民の懐から強制的に取り立てたお金であるということである。民間企業の人間のように、お金を稼ぐということの大変さを知らない人間は、お金の使い方もいい加減になる。自民党政権の時代にガソリンなどの燃料税の暫定税率に関して、野党から国土交通省の杜撰な道路整備計画によるムダな道路作りに使われているのではないかと批判されたときに、公明党の議員でその時の国土交通大臣であった冬柴氏が、にやついた閉まりの無い顔付きで「道路整備の計画は精査した結果作られている」という答弁をしていたのをNHKの国会中継を見たのだが、官僚に踊らされているとんでもない人物だと憤慨した覚えがあった。
 もし官僚たちがそれほど真剣に仕事をしているのなら、「天下り」や「渡り」といった「仕事もしないで高給だけを食む」という慣習はできなかったに違いないのである。独立法人理事になるとその報酬の額が調べられるからといって、最近は嘱託という地位になって同じように高給を食んでいることが最近報道されたが、こうなるとキャリア官僚という連中は「ずる賢い金に汚い人間」の代名詞に過ぎないとしか思われないのである。
 こうした日本の現状を改革するためには官庁に対する国民の異議申し立てを公正に処理する制度の確立が不可欠であり、官僚依存でしか政治できなかった自民党政権では到底やろうとも思わなかっただろうし、できなかったに違いない『行政事件訴訟法』の改革を民主党政権において重要施策として是非実行してもらいたい。

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2009年11月27日 (金)

農業大国での餓死者という不思議

 先日NHK・BSで放映されたニュースは誠に衝撃的であった。アルゼンチンは世界でも有数の農業国で、農産物の生産活動がふるわないわけではない。むしろ盛況なのだが、その一方で国民のあいだで餓死者が出ているという。その原因は農作物が食料用ではなくて、バイオ燃料用に作られているからだとのことであった。昔も農業国なのにそこで作られている農作物が専ら輸出用であるために、国民が食料不足で悩むという話はあったが、今でも同じようなことが起きているのである。
 なぜこのようなことが起こるのか。バイオ燃料等の農作物を作っているのは専ら企業経営の農場であり、企業の利益と国民の生命とが背反関係にあるのである。昔中学などで習ったプランテーション農業という言葉を思い出した。その産物としては砂糖やコーヒーなどが有名であるが、輸出用の農産物を専ら生産する農業で、それらは植民地としてかつて支配していた宗主国の企業が運営する農業法人が現地人を雇用して生産していたものだ。その現代版がバイオ燃料生産で、小麦などの穀物生産をしなくなったものだからアルゼンチンの人たちには小麦などが市場に出回らなくなって餓死者が出るまでになっているという。ニュースの画面では穀物などが貯蔵されている倉庫が現地の人たちが集団で襲って倉庫に押入り小麦などを持ち去っていて、それを警察が止むを得ないとして見守るだけという状況も放映されていた。国民所得というお金中心の観点から見るとバイオ燃料用穀物の生産によってアルゼンチンでの国民総生産は増えて経済の発展に貢献するのだろうが、その傍らで国民の中に餓死者が出ているとすると何のための経済発展なのだろうか。アメリカ流の近代経済学の基になっている思想は基本的に『市場原理主義』であって、経済活動が市場によって導かれて行われることが最も効率的な結果をもたらすと考えるものだが、「経済とは人間にとって何であるのか」という基本的な理念が欠落しているのである。要するに「お金のほうが人間の生命よりも重要だ」という考え方なのである。そして食事に事欠く人たちはアルゼンチンに限らない。
 今日(2009/11/27)のNHK・BSニュースでアメリカでも十分な食事が取れない困窮者が千万単位で存在するそうで、フードバンクと呼ばれる食料支援団体は支援しなければ成らない人たちの増加のために資金的に苦境に陥っているとのことである。世界一の経済大国アメリカでもこの体たらくなのである。
 昨日私は近くでは大きな書店コーチャンフォーに行ったのだが、経済学書の棚を見ても沢山の本が置かれてあった。紀伊国屋書店などに比べればさすがに本の数は少ないが、それでも沢山ある。そして今や経済学というと、アメリカがメッカである。新古典派の経済学が主流といわれるものだが、経済物理学だ、行動経済学だと新しい経済学を標榜するものが出てきていて盛況である。しかしながらそれらがどれだけ経済の実態を改善するのに役に立っているのだろうかと考えると、以上述べた二つニュースに見られるように、自由市場に基づく経済が「経済とは基本的に人間の生存に役に立つものだ」という基本的な経済活動の役割を改善することに大して役立っていないことは確かであるように私は思う。もしそれは政治の機能不全が問題だとするなら、市場原理主義はそれだけでは不十分であるということである。農業国アルゼンチンの餓死者の出現という問題はやはり国民の生命と財産を守るという基本的な政治の役割が果たされていないということであるし、アルゼンチン政府の責任、農業政策が問われるべき問題である。また現代経済学のメッカであるアメリカは穀物を輸出するくらいの農業国でもあるのに、千万単位の食事に事欠く人たちが存在することに鑑みても、経済学は無力な存在であって、アメリカ的思想そのものである『市場原理主義』、すなわちる経済活動は市場に任せておくベキであるとするイデオロギーはそれだけでは間違いであることが証明されたのである。
 なおオバマ大統領が最重要課題であるとする医療制度改革のニュースを見ても、公的保険に対する異常な反感とでも言うべき感情がアメリカ国民のあいだに存在するようで、われわれ日本人からするとアメリカ人の考え方については何とも理解し難いものがある。所得が少ないために医療を十分に受けられない何千万という人たちを救うことはアメリカ政府の役割であるのは当然であるとわれわれ日本人はは考えるが、民間の保険会社の手先としか思えないような共和党の議員連中は全く市場原理主義のイデオロギーに頃固まった人たちであるが、彼らはそうしたことに気付くこともないのだろう。経済学は社会科学の最上位にあるものと理解されているが、それは強固なイデオロギーをも作り出してもいるのである。

 ところで今私は『金融工学の悪魔』という題で書いているものがあるが、その途中たまたま以前に読んだチャールズ・R・モリスの『なぜ、アメリカ経済は崩壊に向かうのか 信用バブルという怪物』(日本経済新聞出版社)をぱらぱらとめくっていたら次のような文章に出くわした。しかしこの内容については、私は全く失念していた。
 「アダム・スミスやデービッド・リカードは政治経済学という名前を使っていた。これは適切な言葉だ。『政治』が抜け落ちて経済学と呼ばれるようになったのは、二十世紀になって経済学に高等数学が使われるようになり、経済学は科学だという幻想が強まったからである。経済学のうち政府の政策を扱う公共経済学は、実証研究の裏づけが乏しく、実際にはイデオロギーの一種だと考える方がよい場合も多い。」(P40)
 モリスがイデオロギーといったのは専ら公共経済学についてだが、私はアメリカ経済学の基本的な信念であると考える『市場原理主義』もやはりイデオロギーの一種であると思うのであり、モリスという思わぬ同志がいて嬉しくなった次第である。

 なお今読んでいるジリアン・テット女史の書いた『愚者の黄金 大暴走を生んだ金融技術』(日本経済新聞出版社)で、彼女は前FRB議長のアラン・グリーンスパンについて次のように書いている。
 「アラン・グリーンスパンFRB議長は長年、自由主義市場原理の擁護者であり、1998年にはクレディット・デリバティブ業界に対する規制反対の急先鋒となっていた。」(P115〜6)
 またマネタリストの経済学者ミルトン・フリードマンは『政府からの自由』や『選択の自由』(講談社文庫)などの自由市場を擁護する本を書いているが、グリーンスパンにしろフリードマンにしろ彼らは成功したエリートであって、市場の失敗などによって飢餓に晒されるなどといったことはありえず、そもそも豊かで自らの生活が脅かされるようなことがない立場の人間である。『市場原理主義』が一面においては勝者のイデオロギーであることは明白ではないか。

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2009年11月25日 (水)

日本人は映画『バグジー』に学べ

 アメリカのニューヨーク株式相場の最高値は確か14000ドル程であったと思うが、11月23日のそれは10450ドルで、最高値に比べると約75%であるのに対して、東京株式相場の日経平均株価は9400円ほどである。日本の株価の最高値はバブル崩壊前の40000円弱であったから日本の現在の株価は約24%である。この差の大きさは一体何ののか。
 2008年秋に発生したアメリカでの金融危機は100年に一度と言われるほどのものであったににもかかわらずアメリカの株式市況は日本のそれを遙かに凌いで回復している。今年長年続いた自民党の長期政権が崩壊して民主党政権に代わり、やっと日本社会も変化を求めるようになったところであるが、経済的に見ると相変わらずバブル崩壊後の不景気が続いていて、経済的には変化が見られない。私はそこに日本人の意気地のなさを感じるのである。
 今日(2009/11/25)の日本経済新聞のコラム『大機小機』は「リスクをとらない金融に成長なし」というタイトルで、日本の金融機関が昔ながらのやり方にしがみついていることを批判しているが、そこに見られるのも矢張り『日本人の意気地のなさ』である。日本人は企業家に向かない民族なのではないかと最近私はつい思うのであるが、かつてはソニーやホンダのような戦後起こされて現在は世界的な企業にまで成長した事業を始めた企業家が存在したのだ。それにも関わらず、今やそういった元気のある日本人の企業家の名前を挙げることは私には難しい。かつてノートリアスMITと呼ばれて名前をはせた官僚機構を動かしていたキャリア官僚たちも日本にはいたのだが、今や「天下りと渡り」といった私腹を肥やすための行為にばかり熱心な頭のいいロクデナシとしか思えない矮小な存在に成り果ててしまった。こうした状況では日本が景気を回復させて、元気な社会になることなどは不可能としか思えない。
 先日ウオーレン・ベイテイ主演の『バグジー』という映画を見たが、バグジーはギャングであったが、当時は砂漠にあったちんけな賭博場の横領事件の始末をつけるためにラスヴェガスに出かけていったバグジーが車で帰る途中に、車中での言い争いに激高して車を止めて頭を冷やしに降りて砂漠に歩いていって回りを見渡していたときに、天啓のようにここに豪華なホテルの賭博場を建設することを思いつく。その後このアイデアの実現のためにバグジーは猪突猛進するのであるが、ホテル開業後に殺されてしまう。しかしバグジーの行動は正にベンチャー企業家のそれといって良い。正に夢中になって事業の実現にまい進するバグジーの姿は企業家の鏡であると言える。こうした人間が現在の日本には現れそうに思われないところこそが問題であり、最近の日本人が全く意気地がなくなってしまっている証拠である。

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2009年11月22日 (日)

日本の政治家の危うさ

 今年自民党が政権党から滑り落ちたことは、私は日本の政治にとっては誠に喜ばしいことであったと評価しているのだが、それと同時に危惧されることがある。
 従来自民党政権の下で政府がやってきたことについての「事業仕分け」が現在行われているが、これを見ると自民党がいかに官僚依存の無責任な政治を行なっていたかがよく分かる。自民党には本当の意味での行政の詳細を把握する意思は全くなかったのであり、官僚に依存する政治しか出来なかったと思わざるを得ないのである。そのように確かに民主党の政権はかつての自民党の官僚依存の無責任政治を打破するという大改革を行なっているのであり評価できるのだが、他方鳩山首相の行動を見るとどこか頼りなくて信頼し切れない人間性に不安を抱かないではいられないのである。私は鳩山首相には何とも言えない人間的な軽さを感じるのである。そして民主党の党内を実質的に仕切っている小沢一郎氏については、確かに選挙のプロではあるかもしれないが、彼の国連至上主義のような見解などは、国連の生い立ちについての根本的な認識を欠いた不見識極まりないものであり、これまでの長年の政治家としての氏の行動は何であったのかと考えると、小沢氏は政治というものについてひどく不勉強な人間であったと私には見えるし、氏のいわゆる剛腕などというのも意思の強固さというよりも単なる面の皮の厚さとヤクザ的な態度を表しているだけではないのか。小沢氏は人格的に判断する限り到底一国の首相足りえない人物であると思う。
 他方で政権党から転落して以降の自民党の動きを見ると、衆院選の時に麻生前首相が政権担当能力を誇示していたのは単なる自己認識の欠落でしかなかったようである。また最近明らかにされた衆院選挙終了直後の多額の官房機密費の使用はまさに「火事場泥棒」に似た行為であり、自民党という政党の卑しさを象徴していると思う。そして現在の党首である谷垣氏についての私の印象を言うと、「甘やかされた意固地なお坊ちゃま」といったところで、鳩山首相と同じように人格的な軽さを感じてしまうのである。
 思想と人格の面で抜きんでた人物はもう日本には見当たらなくなってしまったようだ。幸福の科学の大川隆法氏のような人物が宗教団体の主宰者であるのを見ても、日本人はなんて物事を見る目がなくなってしまったことかと落胆させられるのである。大学進学率が大いに向上したのに反比例して、日本人の見識は見るも無残な惨状を呈している。私には携帯電話の普及が日本人を全く安っぽくしてしまったとしか思われないのである。

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2009年11月13日 (金)

鳩山総理の政治的言葉遣いに異議あり

 今晩(2009/11/13)オバマ大統領と鳩山首相の首脳会談が行なわれたが、終わった後の記者会見での鳩山首相の発言が一部TVで放映された。私はその時の言葉遣いに違和感を感じるところがあったので、その点について書きたい。
 鳩山首相は「日米関係が日本外交のすべての礎であると話して、オバマ大統領の了解を得た」と語っていたが、オバマ大統領は同じ場で「日米関係は対当の関係だ」と語っていた。もし日米関係をお互いに対等な関係と考えているのであれば、鳩山首相は自分の話したことを「オバマ大統領に了解してもらった」などと言わず、「お互いの共通の理解であった」と、何故言わないのか。「了解」という言葉は日本語では対等でない関係を含む場合があると思う。この鳩山首相の言葉遣いは日米関係において日本は従属的な立場にあるのだという鳩山首相の無意識の認識を図らずも現していて、そのために「了解して頂いた」というような言葉遣いが出たのだろうと思われるのである。
 実際に日米関係が完全に対等なものではありえないことは私も理解しているが、対等な関係になるように可及的に努力するのが首相の責務なのではないのか。つい最近沖縄で起きた米軍関係者によると思われるひき逃げ殺人事件を見ても、日米関係が対等なものでないことは明確であるが、こういった犯罪事件についての米軍関係者の取り調べについて今なお日本の警察が当然の事情聴取もできないというおかしな点は到底日本人として認められないものである。こうした点を民主党は早急に改善するようにしなければ成らない。
 従来の自民党政権は、アメリカ政府に対しては初めから負け犬の行動しか取れなかった。政権が変わった今こそ、不条理な対等でない日米関係を改める良い機会なのである。また米軍駐留経費の日本負担分についての『思いやり予算』などという愚劣な呼び方は、かえって卑屈さを含んだおかしな優越感を日本国民に起こさせるものであって、民主党はこうした下らない言葉遣いも早急に改めるべきであると思う。そして『思いやり予算』の内容についても厳しく見直しを行なって、浮いた分は国防予算の自衛隊支出分に回すべきである。
 言葉遣いは心理状態の反映である。日本人はアメリカに対する無意識的な従属意識をきちんと認識して、まず対等な言葉遣いから始めるべきであろう。

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2009年11月12日 (木)

最近の外国映画のタイトルの付け方から見た日本人の教養

 今日(2009/11/12)借りてあった『ラブ・アペタイザー』というDVDの映画を見たが、なかなか味わいのある映画であった。最近のアメリカ映画はあざとい感じのものが多いと思うのだが、時々家族や男女の愛を描いた映画で、見応えのあるものがあり、この映画もそうした良い映画であったのだが、この日本語に直された映画のタイトルには全く情けない思いがした。
 映画の内容は、高齢の大学教授の夫妻、レストランの店主の中年の夫婦、その店に働く若い男とその恋人、不動産セールスの女と不倫相手の男、といったいろいろな形の男女の関係が描かれるのであるが、日本語のタイトルである『ラブ・アペタイザー』の安っぽさとは全く対照的な内容のものである。映画の原題はfeast of loveで、英語の辞書で調べるとfeastには①ご馳走、②祝宴、宴会、饗宴、③(宗教的な)祝祭日という意味が出ていたが、『ラブ・アペタイザー』というこの日本語のタイトルを考え出した人間は、①の意味に引き摺られたのだろうか。しかしアペタイザーは、食欲をもり立てるものという意味だから矢張りおかしいのだ。それよりも何よりも、『ラブ・アペタイザー』とは何と品性下劣な言葉遣いだろう。
 私はこんな安っぽいタイトルを考え出した人間は果たしてどんな人間なのだろうかと想像したし、またこの映画を供給したのがソニーであると知って一体どうしたことなのかと疑ってしまった。昔の外国映画では日本の供給会社が映画の内容に則した素晴らしい日本語の題名にしたものがあったが、最近の外国映画については、安易に原題をカタカナにしただけのものや、映画の内容と全く関係がないようなおかしな題名(それもカタカナ英語のもの)を付けたものも見られて、担当者の日本語の能力不足を大いに印象づけられるのである。日本では大学進学率も高く高学歴化が進んだのだが、それに反比例して、日本語の使い方のレベルが大幅に低下しているように思われる。グローバル化で英語の能力向上が叫ばれているが、藤原正彦氏が言うように、やはり日本語の能力をきちんと身に付けないと内容空疎で教養のない人間が出来上がるようである。

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2009年11月11日 (水)

官僚の雇用者は官僚?

 今日(2009/11/11)日本経済新聞の朝刊の『大機小機』に『官僚は10年任期制で』というタイトルの小論が掲載されていたが、これを読んで改めて考えてみて気付いたことがあった。ちなみに上の小論では「役所の幹部候補である官僚」という言い方をしているが、官僚とは一般職の役人とは違う存在であるようだ。
 ところで役人というのは雇用されていないのだろうか。こんなことを書いたのは、誰が雇用者としての責任を負っているのだろうかと疑問に思ったからである。役人もやはり何らかの法律的な雇用関係の下にあるはずだ。そして民間の企業と比べてみるとよく分かるのだが、そもそも役人たちを雇用し人事・労務管理を行なって雇用者としての機能を実質的に果たしているのは誰なのだろうか、と考えると役人たち自身なのではないだろうかと思われるのである。だから役人たちに都合の良いだけの制度や慣行が作られるのではないのか。
 民間企業であれば、仮に社員からたたき上げて取締役などの役員となった人たちであっても企業の立場に立った雇用者としての機能を果たさなければ成らないし、従って当然に社員とは利害関係が対立する側面を有する立場に立つ。それに対して日本政府の役人たちの雇用関係を考えてみると、キャリアであると否とを問わず役人は全て被雇用者であるが、役人のトップの立場にある人たちは何らかの人事・労務管理を行なう立場にあるはずで、そういう意味では企業の管理職と同じ立場にあるのだが、民間企業の役員や管理職と社員たち(人事担当者を除く)とが利害関係が反する立場にあることとどこか違っている。民間企業は原初的な資本を表す株式などを所有している人間が企業の所有者であり、それら所有者の選んだ経営陣が企業を運営する。その一環として社員を雇用して労務・人事管理を行なう中で事業を行なうのである。
 他方日本政府は選挙で選ばれた国会議員の中から経営トップと見做される総理大臣が選ばれ、さらに総理大臣が分野別に実務を統括する諸大臣を選任する。日本では幹部候補であるキャリア官僚と一般職の官僚が試験を経て採用されて行政の実務を行なう。
 民間企業と日本政府とでのトップの違いは何かというと、民間企業では一番の業績としては利益をあげることで、赤字経営を続けると経営者としての能力がないとして罷免されることになるが、日本政府のトップである総理大臣は赤字財政だからという理由だけで罷免されることは余程の場合でなければないだろう。民間企業のトップは利益をあげるために人事・労務管理を自己の責任の下に行なわなければ成らず、そのために社員とは一面では利害が対立する立場に立つことになる。一方日本政府のトップである総理大臣は果たして役人たちと利害関係が本来的に対立する立場に立つのだろうか。本来総理大臣は日本国民の代理人であり、納税者の代理人でもあるから税金がムダに使われないように注意する「管理者としての注意義務」を負うはずであるが、自民党の長期政権下ではそういった意識はほとんどなかったように見受けられる。今回の民主党政権には「納税者の観点が」あるように見える。しかし総理大臣は日本国民の代理人として、役人たちを雇用して管理する立場にあるという観念はほとんど持っていなかったのではないだろうか。実務的には官僚制度が、職員の採用から人事・労務管理までを行なってきたために、自分たちの利益に敵うような雇用・労務管理を行なってきた。その結果が『天下り』であり『渡り』といった、納税者の立場から見ると税金の無駄遣いに他ならない慣行であった。
 『赤字は悪である』という強い規範意識が民間企業にあるのは、赤字が続けば企業の存続ができなくなり、社員たちの生活の道が閉ざされるからであった。赤字を出し続ければ経営トップは無能な人間と見做されて、企業から排除される。しかし日本政府のトップには『財政赤字は悪である』という強い規範意識がそもそもないようであるし、役人たちの雇用者であるという意識もないようだ。総理大臣はあくまでも一時的な「腰かけの地位」であって、本当の意味での当事者意識もないのであるから、官僚組織が勝手に自分たちに都合の良い税金無駄遣いの雇用制度や慣行を作ってもそれを正そうなどとは思いもしなかったのである。役人たちを雇用する人間であるという意識を政府のトップや議員たちが持たない限り役人たちの過剰雇用もなくならないし、飛んでもない慣行もなくならないだろう。日本政府に必要なのは、当事者意識を持った真の意味での雇用者として機能する人間なのである。地方政府についても同じである。
 高井伸夫弁護士は労務・雇用関係についてはトップの法律家であるが、就業規則については3年くらいに一度見直しをする必要があると言っている。政府関係の労務・雇用関係の制度や規則などについても純粋に雇用者の立場からそうした見直しをすることが必要であると思うが、それを役所にやらせるのは「雇われている人間に雇用制度や規則を見直させる」という大変危険なことであるから、議院制度の中にそれを取り扱う部署を作って行なうべきであろう。しかしそれを役所の組織にしては成らないという難しい問題がある。

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2009年11月 6日 (金)

民主党の事業仕分けに是非加えてもらいたい愚劣な政策

 官僚機構がムダな仕事をやっていないかという「事業仕分け」を民主党が最近始めたが、これは今まで政権党であった自民党が全く行なわなかったことであり、非常に大きな意味があると思う。この点を考慮して考えると、自民党が、民主党が批判してきたように「官僚丸投げ」で「官僚依存」の政治をやってきた大変問題のあった政党であったことは確かなことであると思う。しかし自民党そのものはそのことを全く自覚していないようである。例えば今日(2009/11/06)の国会中継を見ても、質問に立った自民党の議員が行なった質問内容は自己正当化のための言い訳でしかないように見えるのだ。また駐留米軍の費用を負担する「思いやり予算」も事業仕分けの対象になっていると報道されていたが、そもそも「思いやり予算」などという愚劣な用語を付けて平気でいた自民党の感覚にはあきれ返ってしまう。こんな愚劣かつ低劣な政党でありながら、衆院議員の選挙時には麻生首相が「政権担当能力」を自党の優位性を謳うキャッチにしていたのだから、今思うと全く笑えないジョークであった。
 ところで私がかねて大いに問題があると考えている政策に「容器包装プラスティック」のリサイクルというものがある。これは所謂エコ対策として導入されたものだが、私自身が自宅で区分して保管しゴミとして出してきた経験からいって、リサイクルには全く役立たない無意味な政策であるということである。このことは民主党の議員の人たちも、実際に自分の手で自宅で発生した容器包装用のプラスティックを分別・保管してみれば直ちに分かることである。すなわち食品用に使用されたプラスティックには、食品表示の義務づけによってほとんど印刷された紙シールが付着してあり、それを家庭でわざわざ剥がして捨てる人などはいないだろう。またお菓子などの一個一個を個包装したプラスティックにもリサイクルの表示がされているが、果たしてこんなものをリサイクルできるのだろうかと疑問に思わざるを得ないのである。
 実務的に意味のないこうした政策を平気で立案した経済産業相の官僚たちは日常生活の実態を全く理解していないので実務的には無意味な政策を、リサイクルという錦の御旗の下に実施したが、実際にその政策に意味があったかどうかを事後チェックを全く行なっていないのである。普通新しく政策を導入してそれが意図された結果をもたらしているかどうかをチェックするのは民間企業であれば当然のことであるのに、実態がリサイクルという政策立案の基本前提と全くずれても考慮しないというのは、官僚たちは一度始めたら過ちがあってもけして直さないという、飛んでもない行動特質をもっているのからであろう。官僚とは無謬の存在であるとでもいうのだろうか。
 私はかつて食品製造企業で働いていて、「容器包装リサイクル法」に基づくメーカーの負担金の支払のための報告書を作成した経験があるが、その過程で計算の方法に納得のいかないところがあったのだが、今考えてみると法律が計画していたようなリサイクルができないことを糊塗するためのものであったと判断せざるを得ないのである。このことによって私は官僚の悪質さを心底実感したのである。
 なお「容器包装リサイクル協会」というのがあって、そこに上述の計算書を送り負担金を支払わなければ成らないのであるが、この協会は恐らく経済産業省のキャリア官僚の天下りのための団体なのに違いないと思う。国民にムダなことをさせた上に、さらにムダな団体を作ってあまくだりする。こういうのは正にロクデナシのやることだ。民主党政権ではこうしたムダな政策を即刻廃止してもらいたい。

 今日(2009/11/11)リプトンのイエローラベル・ティーバッグを飲み終わって黄色のプラスティックの箱をプラスティックに分別して捨てようとしたら、縦長の箱の内部が紙でできていることに気付いた。この紙箱は表のプラスティックと糊付けされているので簡単に剥がすことができない。しかし問題は外側のプラスティックには、紙とプラスティックのリサイクルマークが印刷されていることである。先に書いたようにこの容器のプラスティックと紙とを切り離して区分して出すことは簡単ではないので、恐らく実務的にはリサイクル不可能なのである。それでもリサイクルマークが印刷されているのは、区分して回収に出すようにという趣旨なのであろうが、仮令義務化しても実際上はできもしないことを形式的に印刷するように法律で定めているというのは、私は愚劣で全く馬鹿げたことであると思う。こういうナンセンスを法律で国民に義務化してはいけないのである。法律は国民の誰でもが実行可能なことをことを定めるべきであって、愚劣なことやナンセンスなことを定めてはいけない。こういうことを高給取りのキャリア官僚が立案するなんてのは全くムダな行為であり、情けない限りではないか。

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『経済物理学』ってどこが違うの?

 今日(2009/11/06)日本経済新聞朝刊の「経済教室」に、国際基督教大学教授の海蔵寺大成氏が書いた『バブル分析 磁石の原理で』のタイトルの論文が掲載されていて、読んで見たのだが、ついつい思ったことがある。この論文は「経済物理学で考える」という特集の下に書かれたものである。ところで最近経済学にもいろいろな新種が現れているようで、『経済物理学』はその一つで、私が知っているものには他に『行動経済学』というものがある。私が持っている光文社新書で出ている友野典男氏の『行動経済学 経済は「感情」で動いている』は、どうやら従来の経済学が前提としていた『経済人』というものが経済現象を理解する上で適切ではなく、現実には人間が感情によって動く存在であることを前提にした理論を構築するべきであると考えているようだ。それに対して前述の『バブル分析 磁石の原理で』は物理学で発見されている法則を経済現象の分析に適用しようとするものである。この論文では地価などのバブル現象を、バブル期の地価の実態をグラフに表して、地価が異常な金額を示しているのが極く限られた件数であって、その分布の状態が『ベキ乗分布』という形をとっていることを示した。特殊な狭い範囲の土地にだけに投資が集中したことがバブル現象の本質であるというのである。そして何故地価がそうした特殊な形の分布を取ったのかを説明するのに、土地購入に関わる投資者を『合理的な投資者』と『ノイズトレーダー』との2種類に区分して、バブル形成に主として関わるのが後者の『ノイズトレーダー』であると理解するとバブル現象が良く説明できると書いている。その時の『ノイズトレーダー』の投資行動を量子物理学で発見された「電子自身の自転(スピン)の現象に関する理論」をベースにして説明するのである。量子物理学という最新の理論を使ったというのがミソなのである。
 ところで池田清彦氏が書いているように、学者がその存在を維持するためには論文を沢山書くことが基本であって、権威ある媒体に掲載された論文の数が何よりの評価の基準になるそうである。また大学時代に私は、目新しい理論を発表すると学者としての権威がつくので、昔は海外で発表された新しい理論を素早く輸入して「横書きから縦書きにする」即ち翻訳することが日本の社会科学系の学者の主な機能でであったとも教わったものである、
 近代経済学の前身である古典派経済学にはがその理論のモデルとしたものがあって、それはニュートン物理学であったと、私は40年以上も前に大学で教わった。しかしそのことを教えてくれたのはけして近代経済学の講義を行なっていた先生ではなくて、社会統計学の先生であった。この知識を前提にして、「経済物理学で考える」というキャッチを見ると、はてなと思わざるを得ないのである。モデルとするものが「ニュートン物理学」から「量子物理学」の知見に格上げされたからといって、改めてその経済学の理論をもったいぶって『経済物理学』と呼ぶ必要性があるのだろうか。ただ目新しいことをいっているといいたいだけの、羊頭狗肉の類いなのではないだろうかという疑問である。ニュートン物理学であろうと最新の量子物理学であろうと、モデルを物理学に求めていることでは同じなのである。
 海蔵寺教授は、以上述べたような近代経済学の理論モデルについての歴史的な事情を十分に理解した上で、『経済物理学』などという新語の下にいかにも経済学の全く新しい理論展開がなされたかのようなことを書いているのだろうか。ニュートン物理学から量子物理学への展開は確かに全く新しい分野を切り開くものであったが、『経済物理学』も物理学の新しい理論を参考にしているとはいえ、矢張り理論のモデルを物理学に求めている点では何ら変わらないのである。近代経済学の体質は本質的にはなんら変わっていないのである。

 1929年にアメリカで株式相場の大暴落から世界恐慌が始まったが、それから80年が経っている。私が大学で、経済学は経済問題の解決のための処方箋が書けなければ意味がないと教わってからも既に40年以上が経過している。昨年起こった金融恐慌の結果は世界中に渡る経済活動の低落であり大勢の失業者を生み出している。世界中の政府や中央銀行がいろいろと景気振興のための対策を取っているが、今までのところ目に見える顕著な結果は現れていない。
 ところで自然界のことであれば物理学の法則などによって対処法が考案され実施されて解決に至るだろうが、人間社会にとって最も重要な経済活動に関する根本的な問題については、残念ながら未だに効果のある解決策が見出されていないのである。量子物理学にモデルを求めた『経済物理学』が新しい経済学として現れたというが、それでも今回の金融恐慌の結果に対する有効な処方箋は出てきていない。果たして経済学は本当に進歩しているのだろうか。

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