経済・政治・国際

2009年11月 6日 (金)

2009/11/6 民主党の事業仕分けに是非加えてもらいたい愚劣な政策

 官僚機構がムダな仕事をやっていないかという「事業仕分け」を民主党が最近始めたが、これは今まで政権党であった自民党が全く行なわなかったことであり、非常に大きな意味があると思う。この点を考慮して考えると、自民党が、民主党が批判してきたように「官僚丸投げ」で「官僚依存」の政治をやってきた大変問題のあった政党であったことは確かなことであると思う。しかし自民党そのものはそのことを全く自覚していないようである。例えば今日(2009/11/06)の国会中継を見ても、質問に立った自民党の議員が行なった質問内容は自己正当化のための言い訳でしかないように見えるのだ。また駐留米軍の費用を負担する「思いやり予算」も事業仕分けの対象になっていると報道されていたが、そもそも「思いやり予算」などという愚劣な用語を付けて平気でいた自民党の感覚にはあきれ返ってしまう。こんな愚劣かつ低劣な政党でありながら、衆院議員の選挙時には麻生首相が「政権担当能力」を自党の優位性を謳うキャッチにしていたのだから、今思うと全く笑えないジョークであった。
 ところで私がかねて大いに問題があると考えている政策に「容器包装プラスティック」のリサイクルというものがある。これは所謂エコ対策として導入されたものだが、私自身が自宅で区分して保管しゴミとして出してきた経験からいって、リサイクルには全く役立たない無意味な政策であるということである。このことは民主党の議員の人たちも、実際に自分の手で自宅で発生した容器包装用のプラスティックを分別・保管してみれば直ちに分かることである。すなわち食品用に使用されたプラスティックには、食品表示の義務づけによってほとんど印刷された紙シールが付着してあり、それを家庭でわざわざ剥がして捨てる人などはいないだろう。またお菓子などの一個一個を個包装したプラスティックにもリサイクルの表示がされているが、果たしてこんなものをリサイクルできるのだろうかと疑問に思わざるを得ないのである。
 実務的に意味のないこうした政策を平気で立案した経済産業相の官僚たちは日常生活の実態を全く理解していないので実務的には無意味な政策を、リサイクルという錦の御旗の下に実施したが、実際にその政策に意味があったかどうかを事後チェックを全く行なっていないのである。普通新しく政策を導入してそれが意図された結果をもたらしているかどうかをチェックするのは民間企業であれば当然のことであるのに、実態がリサイクルという政策立案の基本前提と全くずれても考慮しないというのは、官僚たちは一度始めたら過ちがあってもけして直さないという、飛んでもない行動特質をもっているのからであろう。官僚とは無謬の存在であるとでもいうのだろうか。
 私はかつて食品製造企業で働いていて、「容器包装リサイクル法」に基づくメーカーの負担金の支払のための報告書を作成した経験があるが、その過程で計算の方法に納得のいかないところがあったのだが、今考えてみると法律が計画していたようなリサイクルができないことを糊塗するためのものであったと判断せざるを得ないのである。このことによって私は官僚の悪質さを心底実感したのである。
 なお「容器包装リサイクル協会」というのがあって、そこに上述の計算書を送り負担金を支払わなければ成らないのであるが、この協会は恐らく経済産業省のキャリア官僚の天下りのための団体なのに違いないと思う。国民にムダなことをさせた上に、さらにムダな団体を作ってあまくだりする。こういうのは正にロクデナシのやることだ。民主党政権ではこうしたムダな政策を即刻廃止してもらいたい。

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『経済物理学』ってどこが違うの?

 今日(2009/11/06)日本経済新聞朝刊の「経済教室」に、国際基督教大学教授の海蔵寺大成氏が書いた『バブル分析 磁石の原理で』のタイトルの論文が掲載されていて、読んで見たのだが、ついつい思ったことがある。この論文は「経済物理学で考える」という特集の下に書かれたものである。ところで最近経済学にもいろいろな新種が現れているようで、『経済物理学』はその一つで、私が知っているものには他に『行動経済学』というものがある。私が持っている光文社新書で出ている友野典男氏の『行動経済学 経済は「感情」で動いている』は、どうやら従来の経済学が前提としていた『経済人』というものが経済現象を理解する上で適切ではなく、現実には人間が感情によって動く存在であることを前提にした理論を構築するべきであると考えているようだ。それに対して前述の『バブル分析 磁石の原理で』は物理学で発見されている法則を経済現象の分析に適用しようとするものである。この論文では地価などのバブル現象を、バブル期の地価の実態をグラフに表して、地価が異常な金額を示しているのが極く限られた件数であって、その分布の状態が『ベキ乗分布』という形をとっていることを示した。特殊な狭い範囲の土地にだけに投資が集中したことがバブル現象の本質であるというのである。そして何故地価がそうした特殊な形の分布を取ったのかを説明するのに、土地購入に関わる投資者を『合理的な投資者』と『ノイズトレーダー』との2種類に区分して、バブル形成に主として関わるのが後者の『ノイズトレーダー』であると理解するとバブル現象が良く説明できると書いている。その時の『ノイズトレーダー』の投資行動を量子物理学で発見された「電子自身の自転(スピン)の現象に関する理論」をベースにして説明するのである。量子物理学という最新の理論を使ったというのがミソなのである。
 ところで池田清彦氏が書いているように、学者がその存在を維持するためには論文を沢山書くことが基本であって、権威ある媒体に掲載された論文の数が何よりの評価の基準になるそうである。また大学時代に私は、目新しい理論を発表すると学者としての権威がつくので、昔は海外で発表された新しい理論を素早く輸入して「横書きから縦書きにする」即ち翻訳することが日本の社会科学系の学者の主な機能でであったとも教わったものである、
 近代経済学の前身である古典派経済学にはがその理論のモデルとしたものがあって、それはニュートン物理学であったと、私は40年以上も前に大学で教わった。しかしそのことを教えてくれたのはけして近代経済学の講義を行なっていた先生ではなくて、社会統計学の先生であった。この知識を前提にして、「経済物理学で考える」というキャッチを見ると、はてなと思わざるを得ないのである。モデルとするものが「ニュートン物理学」から「量子物理学」の知見に格上げされたからといって、改めてその経済学の理論をもったいぶって『経済物理学』と呼ぶ必要性があるのだろうか。ただ目新しいことをいっているといいたいだけの、羊頭狗肉の類いなのではないだろうかという疑問である。ニュートン物理学であろうと最新の量子物理学であろうと、モデルを物理学に求めていることでは同じなのである。
 海蔵寺教授は、以上述べたような近代経済学の理論モデルについての歴史的な事情を十分に理解した上で、『経済物理学』などという新語の下にいかにも経済学の全く新しい理論展開がなされたかのようなことを書いているのだろうか。ニュートン物理学から量子物理学への展開は確かに全く新しい分野を切り開くものであったが、『経済物理学』も物理学の新しい理論を参考にしているとはいえ、矢張り理論のモデルを物理学に求めている点では何ら変わらないのである。近代経済学の体質は本質的にはなんら変わっていないのである。

 1929年にアメリカで株式相場の大暴落から世界恐慌が始まったが、それから80年が経っている。私が大学で、経済学は経済問題の解決のための処方箋が書けなければ意味がないと教わってからも既に40年以上が経過している。昨年起こった金融恐慌の結果は世界中に渡る経済活動の低落であり大勢の失業者を生み出している。世界中の政府や中央銀行がいろいろと景気振興のための対策を取っているが、今までのところ目に見える顕著な結果は現れていない。
 ところで自然界のことであれば物理学の法則などによって対処法が考案され実施されて解決に至るだろうが、人間社会にとって最も重要な経済活動に関する根本的な問題については、残念ながら未だに効果のある解決策が見出されていないのである。量子物理学にモデルを求めた『経済物理学』が新しい経済学として現れたというが、それでも今回の金融恐慌の結果に対する有効な処方箋は出てきていない。果たして経済学は本当に進歩しているのだろうか。

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2009年11月 1日 (日)

現代日本の悲劇『エリートの壊滅』

 私は現代の日本の体たらくは『エリートの堕落』に根本的な原因があるように思われて仕方がないのである。特にキャリア官僚などという輩の拝金主義はどうしようもないようだ。
 中国という国について関心があっていろいろと読んでいるが、最近読んでいる加藤徹氏の『貝と羊の中国人』(新潮新書)に次のようなことが書かれている。
 「中国には黒幕がいた。・・・・・
 この黒幕とは『士大夫』である。・・・・・
 士大夫が黒幕になれたのは、儒教のおかげであった。
 儒教の本質は『士大夫の、士大夫による、士大夫のための教養大系』であった。・・・・
 中国社会において、儒教は初め、皇帝が天下を治めるための方便だった。しかし時代がくだるにつれ、状況は変わりはじめた。中間支配階級たる士大夫層が、儒教の力を利用し、中国文明の事実上の支配者になっていった。」(P122〜123)
 そして満州人が皇帝として支那を支配したことについて次のように書いている。
 「征服者たる満州人は、科挙の制度を維持し、士大夫階級がひきつづき社会の『甘い汁』を吸うことを保障した。そのおかげで、清朝は三百年近くも続いた。」(P130)
 日本のキャリア官僚たちは正に「中国の士大夫階級」と同じ存在なのではないか。
 日本のキャリア官僚たちの行動規範が儒教によっていないことは確かであるが、長年に渡る自民党政権が彼らを甘やかしてきたために彼らが行政機構を利用しその地位によって『甘い汁』を吸ってきたことだけは確かであり、その卑しさに関わらず相変わらず自分たちをエリートであると勝手に思い込んでいるのである。もし彼らが本当のエリートであったとしたら、『天下り』や『渡り』といった単なる金儲けのための仕組みなどを作ったはずがないのである。
 加藤氏は日本のキャリア官僚の堕落について次のように書いている。
 「昨今の日本社会は、厚生年金施設の破綻問題に象徴されるように、キャリア官僚の特権化と腐敗に対して、自浄作用を失っている。」(P131)
 エリートを自認するキャリア官僚たちはそうした国民に対する背信行為を自ら改めることができなかった。それは中国の士大夫階級の行動と異なるところはなかったのである。そして自民党の議員たちは政権運営に当たって自らの無能をキャリア官僚に依存することによって誤魔化すしかなかったので、そうしたキャリ官僚を甘やかして国民の税金を無駄遣いすることに手を貸してきたのである。自民党は今民主党のやろうとしていることに対して自分たちは保守本流だとして「反対のための反対」をしようとしているが、その前に自らの過去の犯罪を認め悔い改めるべきであろう。自民党が野党として民主党の政策を批判するのは当然であるが、その前に国民に対してきちんとした謝罪を行なわなければ成らない。谷垣新総裁などはどうも人に頭を下げるのができないタイプの人間であるように見受けられるが、自民党が再生するためにはくぐらなければ成らない門なのである。本来議員というのは選挙という試練をくぐり抜けて初めてなれるエリートである。
 自民党の舛添議員は『政治家は賎業』と考えているようであるが、しかし議員には自らがエリートであることを自覚して、ノーブレス・オブリージュの意識を持って振る舞ってもらわなければ困るのであるのだが、そこにも大きな問題があるようなのだ。例えば今や政権党である民主党の実質的な最高権力者と見做されている小沢一郎議員にノーブレス・オブリージュを期待できるだろうか。雑誌WILLなどを読むと、小沢氏は『守銭奴の権力亡者』であるとしか思われない。そんな小沢氏にノーブレス・オブリージュの意識をもってもらうことなど100%無理であると言わざるを得ないであろう。現代日本における一番の問題は『エリートの壊滅』なのではないだろうか。

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2009年10月31日 (土)

道路の最高速度制限見直しの動きについて

 今朝(2009/10/30)の新聞に警察庁が最高速度制限の全面的見直しを全国の警察本部に指示したという記事が出ていたが、余りにも遅すぎる動きであった。今回の動きはやはり政権交代と関係があったのだろうか。私は安倍総理のときに官邸からのメールマガジンの購読を申し込み受取っていたが、政府に対して意見を述べることができるのを利用して、現在の道路交通行政の最高速度の制限が実態に即さないので改めるべきであるとの意見を伝えたことがあった。しかし全く動きがないので同じように民主党にも同じ件を伝えた。
 民主党のリーダーシップの有無を問わず、今回の警察庁の見直し指示は非常に良いことであると思う。しかし新聞報道は今回の最高制限速度見直しの問題の底にある一つの重要な要素を見逃している。(あるいは分かっていても新聞という立場上書けなかったのかもしれないが。)
 私が道路交通行政における低すぎる最高制限速度の設定問題についての根本的な問題としてかねて指摘してきたことは、「不適切な法律の運用が無意味な犯罪者を作っている」という根本的な問題であった。本来最高勢玄速度が適切に設定されていたならば犯罪でも何でもないことが、法律の不適切な運用によって犯罪とされて、「ねずみ取り」と呼ばれたムダな仕事を警察官にさせた上、国民に違反罰金の支払というこれまたムダなお金の支出をさせていたのである。最高制限速度が余りにも馬鹿げた低いものだったために全く無意味な犯罪者が生み出されていたのである。これは大きな目で見れば「国家の犯罪」といってよいであろう。
 実際に日常自動車を運転している人間なら誰でも日々経験していることであるが、自動車運転者のほとんど誰もが現在の最高制限速度を守って運転などしていないのであるが、だからといってそのために多くの交通事故が発生などしていなかった。ほとんど100%の人が制限速度を超えたスピードで運転していることを恐らく警察の人たちも認識していたはずであるが、それでも今まで最高制限速度を改訂しようとしなかったのは官僚制度のせいではないだろうか。最高制限速度を改訂するという話を持ち出すと、一部の国民からは大声で反対の声が上がることが予想されたので警察の腰抜けキャリア官僚たちには到底できなかったのであろう。
 今回の見直しに当たっては「実態に合わせる」ことが理由に挙げられているが、何故今までこのことが提起されなかったのかということを考えると、こういうことは政治家が矢面にたって行なわなければ成らなかったことだったのに自民党政権時代の議員は全くこうしたことの重要性には気付かなかったのであろう。私はここにも自民党が政権担当能力を失っていた証拠を見ることができると思う。

 話は変わるが、私は先日運転免許の更新を行なった。今回からIC免許証と呼ばれるICチップの埋め込まれたものになり、従来は免許証に記載されていた本籍の情報が空欄となって、ICチップに収納されることになった。それで改めて考えてみたのであるが、運転免許証になぜ本籍のデータを登録しておく必要があるのだろうか。この理由が私には理解できないのである。
 私個人としては引っ越しをする度に本籍地も変更し、常に住居地と同じにしてきている。こうした登録を続けてくると一生の間に本籍地はいくつもあった形になってしまう。一般的には本籍地とは恐らく「出生した場所」のことと考えられているのだろうが、それなら戸籍謄本に記載されていれば十分なはずである。それを警察が運転免許証にも不可欠の記載要素として登録することにしたのは一体何のためなのだろうか。引っ越しのたびに本籍も移す私のような人間は恐らく例外なのだろうから、何かあったときに運転免許の所持者の本籍のデータを使いたいと警察は考えているのだろうが、私は警察のために使えるようにはしたくない。最近個人情報ということがあたかも飛んでもなく重要なもののごとく考えられる風潮があるが、それなら誰もが私のように引っ越す度に本籍を移したらよいと思う。戸籍籐本を取るときも不便がなくて良いですよ。

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2009年10月26日 (月)

自民党の再生は困難極まるだろう

 昨日(2009/10/25)行われた参議院の補欠選挙で自民党は神奈川県、静岡県ともに民主党の候補に敗れた。今回は自民党総裁が谷垣氏に変わっての初めての国政選挙であったが、またもや自民党は完璧に負けてしまったのである。
 民主党が政権を取ってからまだ余り時間が経っていないとはいえ、民主党の国政運営にはいろいろと問題も見えてきているのだが、それでも自民党は選挙に勝てなかったのである。
 現在の自民党総裁である谷垣氏は総裁選挙の時にしきりと自民党こそが純正の保守政党であると主張していたが、残念ながら民主党との政策の違いをはっきりと国民に判るように訴えることをしなかった。谷垣氏は総裁選挙は自民党という政党内のコップの中の争いであるとしかどうやら考えていなかったように見える。だからこそ「みんなでやろうぜ」などという下らない言葉で景気付けをしていたのであろうが、有権者に自民党というものはどういう政党であるかをきちんと知らしめる機会であったにも関わらず、情けない主張を身内向けに発するだけで満足していた。その結果谷垣氏本人は確かに自民党総裁にはなったが、自民党は相変わらず有権者からは見放されているという状態が続いているのである。現在の自民党の議員たちでは、誰が総裁になっても恐らく有権者の信頼は取り返せないのではないだろうか。来年の参議院選挙では更に議員数を減らして、いよいよ落ちるところまで落ちるしかないだろうと私は予想している。自民党の現状を見る限り、そのようにしか考えられないのである。
 現在の自民党の議員の中に一人でも総理大臣足りうると有権者が評価できるような人物がいるだろうか。私には一人もいそうに思われない。安倍、福田、麻生と続いた3代の短期の自民党出身の総理は長期に政権政党であったという慣性の法則に従った惰性政権であったに過ぎなかったのであって、もう自民党に惰性で政権運営は任せられないという有権者の厳しい評価が下されたのが、この8月の衆議院選挙の結果であったのだ。これから自民党は新しい運動の力をもって政党活動を続けなければ成らないのだが、果たして自民党にそうした力は残っているのだろうか。人が一度信用をなくすると新しく信用されるためには大変な努力が必要であると言われる。現在の自民党の人たちには、民主党の「敵失」を待っているだけのような感じがするのだが、そんなことでしか挽回できないほど弱体化しているようでは自民党が政権を奪回するのは到底無理だろう。自民党は自分たちが国政に残した負の遺産を真剣に反省した上で、有権者にきちんとした新しい政策を有権者に示さなければ成らない。自民党の過去の政策の尻拭いをさせている民主党に余り偉そうなことをいうべきではないのである。自民党が行なってきた過去の官僚依存のロクでもない政権運営の結果について、自民党は一度きちんと国民に謝罪するべきである。そうしなければ、有権者は納得しないだろう。今回の参院補選の敗北を自民党は真剣に受け止めて、有権者が納得するような形で代替となる政策を打ち出していくべきであって、単に民主党の政策の揚げ足取りをするだけでは自民党は有権者の信用を勝ち取れない。しかし私の見るところでは現在の自民党にはそうしたことも期待できそうもないのである。

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2009年10月 5日 (月)

岡田新外相に是非読んで貰いたい本

 今、長浜浩明氏の『文系ウソ社会の研究』(展転社)という本を読んでいるが、私はこの本の著者を古本屋でこの本を手にするまで全く知らなかった。この本の内容は主として大東亜戦争を扱ったもので、中国や韓国政府が日本人や政府を脅すときに材料とする「日本が中国・韓国を侵略した」とする歴史認識を扱ったものである。そして日本が東南アジアを積極的に侵略したとする中国や韓国の主張は本当に正しいものなのかどうかを検証したものである。こう書くと著者は歴史家かマスコミ関係者と普通は考えるであろうが、ところが著者の長浜氏は一級建築士という理系の人間なのである。この本のタイトルの一部になっている「文系」という修飾語は長浜氏が政治家やマスコミ関係者などの人間、すなわちほとんどが文系出身と考えられる人間たちがいかに不勉強かつ論理的な思考能力に欠ける存在であったか、即ち中国や韓国が押し付けてくる「日本は侵略国家であった」とする主張・歴史認識が現実の歴史資料に照らしてみるといかに大東亜戦争の実態から外れたものであったかを理解しておらないことを指摘し、沢山の資料を駆使して大東亜戦争の実態を論証したものである。そして中国や韓国政府が日本人や政府に押し付けようとしている「大東亜戦争における日本は侵略国家であった」とする歴史認識が本当は全く実態から外れたものであったことを論証しながら、日本政府の宮沢元首相、村山元首相、河野衆議院議長、加藤代議士、外務官僚たちが中国や朝鮮の不当な歴史認識の押し付けに対して安易に妥協し、彼らに謝罪を行なってきたことを長浜氏は怒りをもって糾弾している。彼らの謝罪についてあきれ返っているといっても言い。
 韓国政府や日本のマスコミが朝鮮人女性を日本の軍隊が従軍慰安婦としての強制的に連行したという主張の嘘、支那事変に関して中国政府や日本の歴史家が主張する日本の侵略に関わるもろもろの嘘(蘆溝橋事件や南京大虐殺などの真実)について、長浜氏は資料に基づいて綿密に事実関係を検討して反論している。
 大東亜戦争の実態は中国政府が主張するような侵略戦争ではなかったとする主張は渡部昇一氏なども行なっているが、私は長浜氏のこの本を読んで大東亜戦争の実態を心底納得することができた。「大東亜戦争は侵略戦争だ」とする中国政府や韓国政府の主張・歴史認識は飛んでもない嘘であって、彼らはそれを判っていながら敢えて主張している側面がある。長浜氏によると、中国政府の語る支那事変は「嘘のデパート」であるそうだ。つまり彼らの歴史認識を日本人が共有することなどは初めから不可能であって、非常に質の悪い連中なのであるが、日本政府の議員や外交官僚などは全く不勉強で彼らの主張に対してきちんと反駁することもできなかったというのはひどい怠慢であったか、または全くのノーテンパーであったかである。
 長浜氏は東京裁判の不当性についても国際法の観点から批判をしていて、日本政府の首長が靖国神社を参拝することに苦情を言う中国や韓国政府の行動も全く内政干渉そのものの不当なものだと論証している。長浜氏の書いていることに私は完全に同意する。
 ところでこの本にはいろいろなトピックが語られているが、戦後のマスコミ、特に朝日新聞社などの大手新聞社やNHKなどが全く中国や韓国鮮政府の主張を全くそのまま受け入れた姿勢で報道をしてきたこと、つまり「証拠をきちんとあげないままに中国や韓国政府の歴史認識を丸飲みしている状態」を、理系のように厳密に証拠を元にして議論をする思考のし方からは理解できないものであるとして、全くウソを平気で垂れ流す脳みその腐った文系の情けない思考の仕方として糾弾しているのである。
 詳しい内容はこの本を読んでもらうしかないが、長浜氏が民主党の岡田氏について中国や韓国政府の歴史認識を真に受けていることを指摘していたので、私としては国益をきちんと守ってもらうために岡田氏には是非ともこの本を読んで大東亜戦争の実態を認識し直してもらいたいのである。
 最後にこの本が良い内容のものであるだけに、校正が十分でないために結構ミスプリントが目に付いたのは残念であった。

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2009年10月 2日 (金)

経済理論の口移しは恥じと知れ

 今日(2009/10/02)の日本経済新聞朝刊の『大機小機』で「一直」というペンネームの人が、民主党政権の経済政策の批判を行なっていたが、その一つ「最低賃金の引上げ」についての次のように書いていた。
 「市場メカニズムが有効に機能することを前提にすると、失業者が増えれば、つまり労働力の過剰供給が存在すれば賃金が低下し、やがて需給がバランスしてくる。最低賃金の設定はこのような市場の働きを阻害する。賃金が労働力の需要と供給を均衡させる水準まで下がらず、したがって失業が減らないという状況が続く可能性がある。」
 これは標準的な市場原理主義的な経済理論の受け売りであるが、今朝見たBSニュースのフランス版では企業の求人に失業者が殺到する場面が映っていて、賃金が20%も下っているのに求職者の競争が激しくてなかなか就職できないとのことであった。
 ところで1930年代の大恐慌時に賃金が下っても失業問題が解決しないのを見てケインズがこうした従来の正統派の経済学理論が有効ではないと判断して、政府が有効需要を創り出すことによって社会全体の経済活動を活発にして失業問題を解決しようとした。政府の有効需要政策によって経済の不況を解決するというケインズ経済学の誕生であった。その後第2次世界大戦後ケインズ主義の経済政策が正統派の経済学の理論に取り込まれて新古典派の経済学となったが、やがてこれに批判的な政府の需要政策よりもマネー・サプライの管理による経済のコントロールを重視する理論が幅をきかせるようになった。さらには市場の需給調整機能をこそ活用するべきであるとする「市場原理主義」が正統派理論の主流となって、昔に回帰したのである。
 「一直」の書いていることを、TVニュースの事実と合わせて考えてみると、例えば賃金が到底人間らしい衣生活を営むに足りない水準にまで低下して、ようやく労働力の需給が均衡した場合に、果たしてまともに失業問題が解決したと言えるのであろうか。市場がもたらすものが人間にとってどのようなものであっても、市場の解こそが「唯一正しい解決策」だと考えるのはまともな経済学者の考えることだろうか。自分はそんなことには成らないからそれでも構わないという考えが、その底にはあるのではないか。どうも最近の経済学者は倫理的な面ではかつての経済学者よりも相当程度が低くなっているように思われてならないのである。

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谷垣新総裁の不見

 自民党の新総裁・谷垣氏が八ッ場ダムの工事中止を打ち出した民主党に対抗するために地元を訪れることにしたという。TVのニュースでは谷垣氏は八ッ場ダムについて、官僚がダム建設を計画したについてはそれ相当の理由があったからだろうと述べてダム建設中止を打ち出した民主党を批判した。しかし谷垣氏が批判の中心にしているのは建設中止を行なう手続きに問題があるということだそうだが、批判の内容の中身の薄いことには呆れてしまう。
 このダムの必要性そのものについて自らは判断することもなく、曖昧に「官僚の計画」についての妥当性を推測するだけの谷垣氏の発言は全く理屈としてもほとんど意味がないし。国民に対して説得力もないものだ。先に公明党の新代表・山口氏が民主党の前原国土交通省が説明に出かける前に現地に行って住民などの話を聞いていたが、それは全く現地の人たちの不満を煽るための野党の嫌がらせ行動以外の何物でもなかった。今度は自民党の新総裁が同じことをしようというのである。いくら野党経験の少ない自民党の総裁だとしても、余りにも程度の低い行動は国民から馬鹿にされるだけである。私は今回の行動を見て、谷垣氏の見識を疑わざるを得ない。
 八ッ場ダムは自民党の官僚依存の政治姿勢を象徴するものであると私には思われる。そもそも計画されてから50年以上も完成されなかったということは、常識的に考えると八ッ場ダムの建設はそれほど緊急性はなかったということだし、完成されなかった長い年月何も問題が起きていなかったということはダムの必要性そのものに疑問を持たせるものである。そして自民党はその間のほとんどを政権を担当してきたのである。自民党は大して必要が有るとも思われない八ッ場ダムの建設を官僚がムダに行なうのを放置してきて、監督不行き届きによって官僚の無駄遣いに間接的に関与してきたのである。民主党がダム建設を中止しようとして起こる現地での混乱は、もともとは自民党政権がムダなダム建設を放置してきたために起きたものであって、本当なら自民党こそが現地の人たちに頭を下げて謝罪するべきものである。それを頬かむりして、民主党の失政だとして批判するとは谷垣氏は全く面の皮の厚い人間である。
 こうした責任の所在について論理的な思考もできない谷垣氏は全く恥知らずな発言を行なって、自民党が政権政党として無能であったことを自らが証明して見せたのである。こういう程度の低い人間を総裁に選出するしかない自民党という政党は全く救いようがない。こんな体たらくでは自民党が建設的な野党として行動することなどできるはずがないではないか。

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2009年9月28日 (月)

政治家は言葉遣いを正せ

 自民党の次期総裁として谷垣禎一元財務相が選ばれたが、谷垣氏の選挙活動中の演説や選出後の挨拶での言葉遣いを聞いていると、この人は日本の政治のリーダーとしての資質に欠けるのではないかと心配になる。政治家は言葉の使い方のプロでなければならないと私は考えている。米国のオバマ大統領の演説は自分の考えをはっきりと言っているが、その時の言葉遣いが日本の政治家の言葉遣いとは全く対照的なのである。オバマ大統領が「させてもらう」という言い方をしているとは思われない。
 谷垣氏は選ばれて自民党のトップになったのであるが、リーダーたるべき政治家が何故「させていただく」などという卑屈でいじけた、主体性というものを感じさせない言葉遣いを平気でするのか。谷垣氏は自民党総裁選任後の挨拶で「お訴えをしたい」という言葉を使っていたが、何故「訴えたい」と主体的な言い方ができないのか。こんな意気地のない人間に自民党再建ができると私には到底思えないのである。
 また谷垣氏は選挙運動中も選任後の発言でも「みんなでやろうぜ」ということを自民党再建のためのキーワードのように使っていたが、今まで自民党がやっていたようなことをこれからいくら自民党が一丸となってやったとしても自民党が再建されるはずがない。今回の衆院選惨敗は自民党がやって来た政治に対して有権者がはっK李NOといったのである。先日の日本経済新聞朝刊に東大教授の御厨貴氏が今回の自民党惨敗の意味は「自民党パージ」であったと書いているが、「パージ」とは「追放」のことである。有権者は「日本の政治の場面から自民党のあんたたちはもう出て行け」と三行半を突き付けたのである。もしこれを真剣に受け止めたのであれば、谷垣氏のように「みんなでやろうぜ」などといった自民党の議員たちに向けただけの仲間内の能天気なメッセージを総裁選のメインメッセージのように発することなどできないはずで、私には谷垣氏は全く自民党惨敗の深刻さを理解していないとしか思えないのである。
 先に述べた谷垣氏のおよそリーダーたるべき人間としての主体性の無い言葉遣いといい、現実理解能力のない知性の欠落を見ると、自民党には完全に人材が払底していると判断せざるを得ない。また谷垣氏はただただ自民党が政権党に復帰することだけが目的のように語っているが、そうした発言が国民の目にどのように受け止められるか、そうしたことにも全く鈍感で、谷垣氏は自民党という「最早政権を任せるに値しない裸の王様であることが有権者の目に明らかとなった」二流政党の二流の政治家の見本なのであろう。谷垣氏もまた、麻生前首相と同じく、「自民党は保守政党だ」と強調していたが、こんな発言が有権者に大きな意味を持つと考えているようだ。有権者である私には、ロクでもない保守党などどうでもいいし、有権者も同じ考えであろうと思う。寺山修司は「書を捨てよ、町に出よう」という題の本を書いていたが、下らないことを意味があるように語る谷垣氏も世間知らずの人間なのではないのか。それでは困るのである。谷垣さん、もっと町に出なさい。
 既に一度書いたが、「させていただく」という卑屈な言葉遣いを政治家などリーダーたるべき人間は使うべきではない。口先だけで謙遜に見せかけることが、実際にその人間をダメにしていることに気付くべきである。リーダーたるべき人間は「私はこう考えるから、だからこうしたい」と自分の意思をはっきりと表明するべきなのである。

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2009年9月26日 (土)

民主党政権の滑り出し

 八ッ場ダムの建設中止の説明をするために前原国土交通相が現地に赴くことになったが、現地の地方公共団体の責任者たちは「ダム建設中止のための説明は聞きたくない」として説明会をボイコットし、ダム建設推進の要望を前原大臣に行なった。しかしこれに対して安易に対応しない前原大臣の姿勢を私は高く評価したい。既得権を主張する有権者を甘やかしてはいけないのである。
 八ッ場ダムは1967年に建設が計画されたとのことだが、40年以上経過した現在も未だダム本体は全く建設されていない。私などの素人の考えを言うと、40年も完成を放っておいてなおそのための問題が生じていないということ事態が、八ッ場ダムはその必要性が大きくないことを証明しているのではないか。本当に必要性が高いものであったら、とっくの間に完成していなければならなかったはずである。現地の人たちはそういうことを考えたことはないのだろうか。
 国土交通省の役人たちは自分たちが一旦決めたことは変更しない、つまり「官僚の無謬性」という観念を無意識のうちに持っているから事情が途中で根本的に変わろうと、前原大臣のいう『暴走列車』として止まること無く完成まで計画を推し進めようとしているのだ。そして自民党政権の時代、自民党の議員たちは官僚に依存する形でしか政治を行なえなかったから、いわば役人に白紙委任状を渡して官僚のやることを国民に代わって指揮・監督するという自分たちの義務を果たそうとはしなかったのである。
 間違ったことを始めると、回りにいろいろと利害関係を持った人が発生するのだが、既得権を声高に主張する彼らをキチンと説得することが自民党の議員たちには全くできなかったので官僚の計画は議員によってコントロールされることがなかったのである。自民党の議員たちには物事を判断するまともな眼・見識が無かったのだ。長年政権党であったことをもって、自民党が政権担当能力を持つかのように自らも自負していたが、しかしそれは全くの錯覚で、いつの間にか自民党には政権担当能力などはなくなっていたのである。自民党は『裸の王様』になってしまっていて、小泉総理の政策がいろいろと大きな問題を引き起こしていてもその尻拭いを自らするだけの能力も自民党にはなくなっていた。国民はそのことに気付いて、先日の衆議院選挙で「自民党政権NO」という意思表示を行なったのである。『自民党惨敗』は、自民党の議員には人材が払底していることを有権者ははっきりと理解したことを現しているのである。
 今回の八ッ場ダムの建設中止のゴタゴタは自民党が置いていった厄介事であり、本来自民党に責任がある問題なのである。また公明党も自民党政権に加わってきたのであるし、今回落選した冬柴氏は国土交通相を担ってきたのであるから八ッ場ダムについても公明党は責任なしと言えないはずだ。ところが前原大臣が八ッ場ダム建設中止の説明会を行なうことになった途端に、公明党の山口代表は説明会の前に現地を訪れ反対運動の当事者たちに会って事情を聴くという行動を取って、意図的に建設中止反対運動を煽ることを行なった。全く恥知らずの行為というしかない。
 今回の八ッ場ダム建設中止のゴタゴタは、間違ったことを正そうとするとそのこと自体がまた新しい問題を引き起こすということを明らかにした。そしてそのゴタゴタの本家本元・責任者である自民党は政権を離れたから頬被りしているし、国土交通省の官僚たちもまた何ら責任を取らない。
 しかし民主党は現地の人たちがいくら陳情しても建設中止の方針を撤回してはいけない。自分たちの要望が通らない限り話し合いに応じないという現地の人たちの甘えには取り合わずに、建設推進を凍結して現地の人たちが話し合いに応じるまで粘り強く待てば良いのである。
 出発点を間違えると余計なムダなエネルギーの消耗が生じることを肝に銘じて民主党政権は新しい政策については慎重に立案・実行してもらいたい。
 今のところ民主党内閣の大臣の行動は、亀井金融担当相はともかくとして、まともな行動を取っていると評価できると思う。

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2009年9月21日 (月)

政治家に資格を求めるという提案

 今回の衆議院選挙で民主党がかつてなかった308議席の獲得という圧倒的な大勝利を収め、一方自民党は民主党の半分にも満たない議員数となった。私は自民党が官僚に依存するだけの政党であることが根本的に問題であると書いてきたが、その際に議員になるのには「選挙に受かる」という以外には何の資格も必要がないのに対して、キャリア官僚は厳しい公務員試験に受からなければならない。従って当然にキャリアになった官僚と比べたら、議員の中には圧倒的に知的レベルが落ちる者も大勢いるはずだから到底彼らキャリア官僚に太刀打ちできない、だから国会議員はダメなのだと指摘した。しかしその先の「国会議員の資格制度」といったことには私は全く考えが及ばなかった。
 今日(2009/09/21)の日本経済新聞朝刊に載った『インタビュー領海侵犯』という記事で、フランス文学者の鹿島茂氏が国がプロとしての政治家を養成する仕組みを作れと言っていた。鹿島氏によるとフランスには『国立行政学院(ENA)』という超エリート養成機関があるそうだ。そのような話はどこかで聞いたことがあったが、本当に良いことはどんどん真似をしたら良いと私は考えているくせに、そのようなものを日本でも作るということには私は全く思いも寄らなかった。官僚には厳しい資格制度があるのに、日本では政治家という職業が「選挙に受かりさえすれば馬鹿でもチョンでもなれる」ものであることに対して、国民の誰でもが政治家になることができる資格という「平等の権権」という観点からはそれも已むを得ないと私は考えていたのであった。しかしそれではいけないのだ。
 ところで民主党の鳩山代表が今回選任した新しい大臣たちはかつての自民党の大臣に比べて、能力的にも意欲の面においても格段の差があるように私には思われる。少し首をひねるのは、国民新党の亀井氏くらいか。自民党の赤城前農林大臣や、中川前財務大臣といった見るからに情けない資格欠陥の人間は見当たらないようである。福田元首相は、結果から判断すると自らが全くの見かけ倒しの中身の薄い政治家であったし、麻生前首相も期待外れのお坊ちゃま政治家であった。
 民主党の今回の多くの新しい当選者には全くの新人が多かったから、当然玉石混合であろう。単なる人気投票的に受かった人たちもいるだろうが、小泉チルドレンの多くが今回の選挙で落選したことを見ているから人気だけでは長く政治家であり続けることが困難であることをよく理解しているであろう。従って彼らは当然よく勉強をするであろうし、良き相談相手を持つようにするのではないか。小泉チルドレンは反面教師という意味で、日本の政治家に対して良い影響を与えたと思われる。
 そして現在行われている自民党の総裁選挙の実態を見ていると、例えば谷垣氏が「党内の一致協力体制確立で自民党の建て直しを図る」という主張をしているが、私には内容の無い主張に思われる。そんなことで自民党が立ち直れると本気で思っているとしたら、谷垣氏は現状分析も適切にできない「選挙に受かったという資格しかない議員」という最低レベルの議員に過ぎないことになる。自民党という狭い世界に訴えかけるのには良いのかもしれないが、そんなことでは自民党は立ち直れないだろう。もし自民党の悪い体質を体現している谷垣氏が自民党総裁になれば、民主党にとっては大慶事であろう。自民党が国民から見直されるには、どこに本当の問題があって今後どうであらねばならないか、を正しく把握してそれに対して適切な対策を打たねばならないはずなのに、「自民党こそが真の保守政党である」などという空虚な主張を繰り返していた麻生前首相と谷垣氏は全く変わるところがないのである。ここに自民党の人材払底という根本的な問題がはっきりと現れている。自民党の議員たちは自らの政治家としての資格の有無を厳しく自省して勉強し直し、再出発することこそが不可欠なのである。トヨタシステムでは問題が起きると、「何故」という疑問を5回問い掛けて現象から根本問題に至るようにするという。自民党の議員たちはそれこそこうした問い掛けを徹底的にしなければならないはずなのに、表面的な問題追及しかできていない。こうした薄っぺらい人材しかいないとすると、自民党は再建不能といわざるを得ない。

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2009年9月15日 (火)

アフガニスタンの大統領選挙の不可解

 先月行われたアフガニスタンの大統領選挙の結果がいまだに確定しない。しかしそれよりも不可解なのは、開票率が上がるに連れてカルザイ現大統領の得票率がどんどん上がり出して、当選に必要な過半数の得票率を確保したことである。われわれ日本人は、開票率が上がるに連れて特定の候補者の得票率が上がるというような事態は経験したことがないし、理屈から言っても特別の事情がない限りそういうことがありうるとは考えない。従って私には全く理解の及ばない事態がアフガニスタンの選挙では生じているのである。ぶっちゃけて言うと、この選挙結果には不正が絡んでいるに違いないということである。
 選挙は民主主義を支える基本的な制度である。いまやイスラム社会でも政治的な権力者の選任については選挙という方法が当然のこととして採用されている。ところが、イスラム社会では投票結果の確定に当たって不正が行なわれることが普通であるようなのだ。アフガニスタンの前に行なわれたイランの大統領選挙でも開票結果の確定に当たっては不正が行なわれたと落選した候補者が主張している。同じことがアフガニスタンでも行なわれているのである。私が自分で投票できるようになって以来日本では改開票結果が疑われたことはなかったし、それと比べるとイスラム社会の政治的習熟度は遙かに低いと判断せざるを得ないのである。機会さえあればイスラムの人たちは開票結果にズルをするのである。
 イスラム社会の一部の国では選挙という形だけは真似していても、その実を上げるための投票の集計を正しく行なうことができないでいるのである。自分に都合の良い結果が出るように集計を改竄することが当たり前のように行われているようなのである。なぜ正しく投票を集計しようとしないのか。民主主義を支える倫理規範が全く理解されていないからであろう。
 これはイスラム社会の伝統や文化といったものと関係があるのだろうか。イスラム社会はキリスト教社会などとは比べ物にならないくらい宗教的な束縛の強い社会である。キリスト教社会である欧米では、経営者の強欲が横行しており、キリスト教精神などといったものは何ら彼らの強欲を抑制するのに役立っていない。
 今日(2009/09/15)のNHK・BSニュースで、アメリカで日本人が移民相手に金融サービスを行なう企業を設立して、移民の人たちに好評であるという。その評判をFRBが聞きつけて、この会社に接近してきて提携することも考えられているとのことである。この会社の日本人の社長がインタビューを受けて、「アメリカでは金融機関が上流階級を相手にしたサービスには熱心でも、普通の人たちにキチンとした金融サービスを行なおうと考えてこなかった。それがアメリカでの実需を離れたマネーゲームになって現れて、今回の金融危機に繋がった。」と語っていた。事業は、日本人の考えでは,何をやっても儲かりさえすれば良いといったものではないのである。利益は社会への貢献の結果に過ぎないのである。
 アングロサクソンの「お金への異常な執着」が欧米でのビジネスを歪めているのである。最近は中国人が拝金主義に走っているとも言われる。「中庸の精神」はアジア的な考え方であったが、本家の中国では完全に忘れ去られてしまったようだ。
 民主主義の制度を支える「選挙」の結果を不正によって歪めることは、アメリカでもブッシュ前大統領の最初の当選に当たって行われたと言われるが、日本は例外として、いまや「騙しあいこそが世界標準」であるようだ。「騙される方が悪い」のだ。情けない世界になってしまった。

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2009年9月 9日 (水)

自民党の愚か極まる辻褄合わせ

 16日に行われる国会での首班選任の選挙に対して、自民党としてどのように対応するか、麻生首相を自民党の首相候補とするとした自民党執行部の方針に対して、「自民党大敗のA級戦犯には到底投票できない」という批判が噴出していたが、それが議員総会を開いて若林両院議員総会長を自民党の首班候補とすることにして何とか収まった。しかし若林氏自身が自分は自民党議員の不満を抑えるための当て馬に過ぎないという意味のことを語っている。これが野党として首班指名の国会に臨む自民党の対応策であった。
 こんなのは全くの茶番に過ぎない。真面目に自民党のエースとしての人材を首班候補に押すことをしようともしていないからである。一部の議員が麻生首相を首班候補とすることに反発して「白紙投票」をすると息巻いていたことに対して「それは政党としての自民党の国民に対する責任放棄でけしからん」うんぬんと批判した議員がいたが、彼らは今回首班候補とされた本人自身が当て馬に過ぎないと語っている事態を一体どう受け止めているのだろうか。それは愚か極まる辻褄合わせで実質的にはナンセンスそのものなのだが、それでもいいという感覚は私には「全く話にも何にもならない、国民を侮辱するものだ」としか思われない。
 他にも自民党として首班候補を選ぶ方法はあったはずだ。例えば議員総会の場で次の総裁選に立候補したいと考えている議員がいないかと執行部から参加者に聞いて、実現性は別としても自民党総裁選に立候補したいと考えている議員に手を上げさせて、複数いたなら彼らに対する模擬選挙を行なって首班候補を決めるといったやり方も出来たと思う。そうすれば全くの当て馬候補よりはよほど真剣な首班候補に投票するという政党としての意思決定になったであろう。
 当て馬首班候補の決定を執行部から提案したという事実には、長年政権党として日本政府を運営してきたという自惚れと浮世離れした感覚が現れている。こうした行動そのものが自民党への信頼を失わせるものであるとは、自民党の議員たちには全く考えが及ばないようである。かくして自らせっせと墓穴を掘っていながら、そのことには気が付かないほどに自民党の議員たちは普通の人間が持つ価値基準から離れてしまったのである。自分たちにはまともな感覚がなくなってしまっているということを、自民党の議員たちが心底きちんと認識できない限り国民が見て納得できる行動も取れないから、自民党の再生・復活もないだろうと思う。

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2009年9月 7日 (月)

日本社会におけるエリート崩壊

 民主党が政権を担当することが確定してから、官僚の天下りラッシュが起きたとのことである。「今やっておけばやり徳だ」と官僚たちが判断したのだ。民主党が天下りを全面的に禁止しようとしているからである。しかし問題の本質は官僚の天下りだけではないはずだ。大した仕事もしていない特殊法人を作って、そこに政府から税金が流れ込むようにしておいて、天下った官僚が形だけ責任者の振りをして実質捨て扶持として多額の収入を得るという、とんでもないことをするシステムを官僚たちが作って運用してきたのを自民党の議員連中は看過してきたのである。それというのも、自民党の議員たちは官僚に依存する形でしか、政策を立案することもできないほど不勉強で無能力だったからだ。そのために自民党政権の長い期間に渡って国民の税金がムダに使われてきたのである。自民党の議員たちには国民の収めた税金を有効に無駄なく使うという意識はなかったのである。税金は国民から預かったお金である、ということさえ考えたこともなくて、「国民から一旦取り立てた税金はどう使おうと勝手な自分たちのお金」と考えてきたのである。
 日本の国民には納税者意識が希薄だとかねていわれてきたが、ようやく変わりつつあるように見える。今回の自民党の衆議院選挙での大敗の基礎には、自民党の議員たちの税金に対する鈍感な意識に対する納税者の怒りがあるのではないか。今回の選挙で自民党の大物議員といわれた連中が次々と落選し、小選挙区での落選をかろうじて比例選挙で救われたという連中も多かった。彼らは「もうお呼びでない」のだが、まだそのことに気付いていないのである。東大教授の御厨貴氏は2009/0/2付けの日本経済新聞朝刊に掲載された論文で、今回の自民党の大敗について「今回は、自民党パージの選挙だった。」と総括している。国民は自民党をパージ(追放)したというのである。
 日本国民の間で自民党の信頼は全く地に落ちてしまったと思われる。麻生首相は「自民党こそが真の保守党である。」と街頭演説で有権者に訴えていたが、麻生氏は一体、この訴えかけの内容が国民に対してどのような効果的な内容を含むものと考えていたのであろうか、全く理解に苦しむのである。保守政党としての自民党の堕落と無能が国民に「自民党パージ」をさせたのである。「自民党こそが真の保守政党だ。」という訴えかけが有権者にはなんの意味も持たなかったからこそ、大敗したのである。麻生首相は国民の考えていることを全く理解していなかったのである。「保守であろうと無かろうと、国民のためになる政治を自民党はキチンと行なえ。」というのが麻生首相の訴えかけに対する国民の回答であった。そして16日に行われる首相選任の投票では、自民党は選挙の責任を取ってもう辞めるといっている麻生首相を新しい首相選びの候補にするという信じられないような対応を平気で行なおうとしている。これに対して自民党の議員からおかしいという声が上がり、白票を投じるのも已むを得ないという意見が表明されていたかと思うと、石破農相からは「白票を投じるというのは、国民に対して責任放棄だ。」というこれまた面白い意見が表明された。一体自民党議員にまともな判断力はあるのかないのか、首相が2人1年間も持たずに政権を投げ出すという体たらくが起きるのも成程と思われる迷走振りである。これを見た国民が、自民党の政権担当能力をますます疑うのも当然のことである。ここまで地に堕ちた国民の信頼を自民党はどうやって回復するつもりなのか。とうてい、無理なのではないだろうか。
 政治家に比べて官僚はしっかりしていて信頼できるとかつては考えられていたように思うが、ところが最近官僚についての評価は全く違ってしまったようだ。天下りや渡りといった、私腹を肥やすだけの行為に走って国民のことなどは考えていないと国民に思われるようになった。キャリア官僚は自分たちはエリートであると思っているのだが、実際にやっていることはエリートとは遙かに遠い低いレベルのことなのである。
 どうも最近の日本にはエリートとしての自覚を持って行動する人間がいなくなってしまったのではないだろうか。金持ちはエリートではない。日本の首相である麻生氏もとてもエリートといえる存在ではなかった。私には麻生氏には知性のひらめきも教養も感じられなかった。
 日本社会においてエリートが崩壊したのには、教養というものが価値のあるものと見做されなくなったことと関係があるのではないだろうか。そして日本におけるエリートの崩壊は世界における日本の存在価値を羽毛のように軽いものにしてしまった。エリートに尊敬するに足る人間がいない国家が世界の人々の目に存在価値を持ちえないのは当然であろう。

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2009年9月 6日 (日)

鳩山代表は「中国との対等な外交関係」を目指せ

 鳩山代表は政権担当後の重要な外交課題として「対等な日米同盟関係」を目指すと発言しているが、もう一つ重要な外交課題があると私は考える。それは中国との間にある到底対等とは思われない外交関係の再構築である。例えば日本の首相が靖国神社を参拝すると、中国政府は直ちにそれを非難するのが今まで続く習慣で、それを当然のこととしている。そして日本政府はそのことにキチンと反論するということをしてこなかった。日本政府は中国政府に対して「それは内政干渉だ。」と反論するべきなのであった。ところが実際には中国政府の主張を認めるような卑屈な対応に終始してきた。
 ところで中国政府は自国のことで何かを言われると相手に対して直ちに「内政干渉」だといってクレームを付けてきた。中国人の注目すべき体質として「自らの非は死んでも認めない」ということが指摘されている。そしてこれを指摘しているのが当の中国人自身なのである。例えば台湾の作家柏楊氏は『醜い中国人』(カッパブックス)で「中国人の第四の特徴は、死んでも自分の過ちを認めようとしない、ということだ。」(P42)と書いている。 また連根藤氏は『中国人のはらわた』(はまの出版)で、柏楊氏と全く同じことを書いている。「中国人は死んでも絶対にあやまちを認めない。自分はあくまでも間違っていないと、絶対に自分の失敗を自分のせいにはしない。」(P18〜19)連氏はこの原因を中国人の面子主義のせいだとしている。
 中国人が日中間の過去の歴史(日中戦争)を理由に、日本との対等な関係を認めないのは、それを錦の御旗にして日本人よりも中国人のほうが上位にいるという感覚を持つことができ、骨絡みの『中華思想』を心底味わえるからであろう。また中国に対する資金援助を脅し取ってきたという実益が絡んでいる。
 中国4千年の歴史において東夷(東方の蛮族)でしかなかった日本人は常に中国から文明を輸入する立場であったのに、日本は19世紀末以降西洋の侵略を受けなかったアジアで唯一の国であったし、日清戦争で中国を負かしたことは、中国人の面子にとっては到底許し難いことなのであった。それが第二次世界大戦で戦勝国となったものだから、中国は、日中戦争をネタにして日本人の負い目に付け込み、長い間日本の行動を制約して中国に都合の良いことを受け入れさせようとしてきた。大戦終了後もう60年以上もたつのに、日本人はいつまで中国に対して負い目を負い続けなければ成らないのであろうか。世界の常識からするとそれはもうとうに時効なのである。中国はイギリスにもフランスにもドイツにも中国侵略についての賠償請求など全くしようとしなかったくせに、何故日本にだけ戦時賠償を求めようとするのか。そこにあるのは中国人の「中華思想」を無残に覆したした日本人の近代国家実現に対する実績である。日本が中国に先んじて近代国家を建設したということを中国人は「中華思想」のゆえに正視して認めることが出来ないのである。柏楊氏は前掲書で「中国人は大変情緒的で、主観的な理念が非常に強い。」(P99)と書いているが、中国人の「中華思想」はまさにこの典型である。
 ところで高齢の日本人は今なお中国に対する負い目から抜け出せないようであるからもう中国との交渉には一切関与せず、若い日本人がもっときちんと中国人と話をして、「日中戦争からもう半世紀以上も経っています。その責任についても時効でしょう。歴史認識うんぬんの話はもういい加減に止めましょう」と中国人が嫌がることもはっきりと言った方がよいと思う。(福田元首相が「人の嫌がることはしない方が良いでしょ」と靖国参拝について質問された時に答えていたが、こういう感覚の老人こそが日本の国益を損ねてきたのである。)
 中国人が勝手に「中華思想」に自己満足するのは構わないのだが、それに日本人が同調するような態度を取るのは全くおかしなことである。外務省の「チャイナ・スクール」の官僚たちが中国人の中華思想に引きずられるような形で迎合してきたが、まさに売国奴の行動である。
 民主党の小沢一郎氏も中国政府に対して融和的な姿勢を示しているようだが、鳩山代表にはもっとシッカリとした対中外交姿勢を取ってもらいたい。安易に中国政府に脅されてきた従来の日本政府の姿勢は日本国民を貶めるものである。アメリカに対するのと同じように、中国に対しても「対等な関係」があるべきなのである。

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2009年9月 2日 (水)

今回の選挙は『自民党 のパージ』

 今日(2009/09/02)の日本経済新聞の朝刊で東大教授の御厨貴氏が先日の衆議院選挙の結果としての自民党の大敗について論文を寄せているが、その中で「今回は自民党パージの選挙だったと書いている。「パージ」というのは懐かしい言葉だ。
 ところで麻生総理は選挙運動での演説で「自民党こそが真正の保守だ。」と強調していたが、果たしてそのことは有権者に何か訴えるものを持っていたのであろうか。私には全く愚劣な主張であったとしか思われない。自民党が保守政党であることは国民の誰でもが知っていることであり、革新政党と間違えるような有権者は一人もいないだろう。麻生総理は一体どういうことを考えて「自民党が保守政党である」と強調していたのだろうか。国民の誰も今や日本に革命を起こしたいと考えているまともな政党は存在するとは思わないだろう。そして麻生首相が「自民党は保守である」と強調しても、そのことが自民党の良さを現しているとは国民は考えなかったから、今回の自民党大敗になったのである。自民党が保守党であることをあらためて有権者に訴えれば選挙に有利になると考えた麻生首相は、国民が自民党に愛想を尽かしたことの理由を全く理解していなかったのである。麻生総理は国民の考えから全く遊離した政治家であったのだ。以前に私は麻生首相を「おぼっちゃま君」と揶揄したことがあるが、今回の選挙で強調していることなどを見ても麻生首相が「あほたれ」、北海道言葉で「はんかくさい」人間であったことは明白である。自民党がこんな人間しか総裁に選べないほど党の体質がお粗末になってしまったからこその今回の大敗であったと思うのである。自民党は今の形のままでは恐らく再生することは不可能なのではないか。官僚に負ぶさってしか政治ができない政党だったとすっかり国民に見透かされてしまったのだから。
 新しい総理大臣を選ぶための衆議院の開催が16日に行われて、そこで民主党の鳩山代表が新しい総理大臣に選ばれることが確定したが、今回は野党としての自民党が対抗する総理大臣候補を出すについては、自民党としては新しい総裁を選ぶ時間的な余裕がないので既に選挙大敗の責任を取って退任することを表明した麻生氏を総理大臣候補にするしかないとのことだ。これは全く愚劣としか言いようの話である。まだ2週間という時間があるにも関わらず次の自民党総裁を選ぶことについて、麻生氏を初めとする自民党幹部たちは「拙速での選任は拙い」との理由で新総裁の選任を28日とした。私はこの判断のお粗末さが国民にどのように評価されるかを彼らが全く理解できないこと自体が自民党の劣化の明らかな証拠として受け止められるだろうと思うのだが、拙速を避けることと、辞めるという麻生氏を総理候補として押すことのどちらの方が一体不条理かという判断を自民党の幹事連中が間違うような事態は有権者には「やはり自民党に投票しなくて良かった。」といよいよ確信させることになるだろうと思う。自ら進んで避けられる不都合な状況を敢えて行なう、これも麻生氏の意地ですかね。正に麻生氏こそは自民党敗北のA級戦犯であろう。
 御厨教授の「自民党パージという言葉は、戦後行われた「レッド・パージ」を思い起こさせたが、パージというのは「追放」ということであるから自民党は政治の世界から一時的に追放されたということである。しかし自民党の総裁選びを呑気にたらたら行なおうという自民党幹事連中のスピード感の無さは、彼らの危機感が全く上っ面のものでしかないことを現している。自分たちで国民の信頼を失うようなこと平気で行なっている自民党の姿を見ると、自民党の議員というのはここまで程度の低い連中ばかりで、政党としても止めどもなく劣化してしまっていると考えざるを得ない。この先自民党はもう政党としてまともな勢力を持ちえないのではないだろうか。A級戦犯の麻生パージも出来ないぐにゃぐにゃの自民党なのである。

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2009年9月 1日 (火)

民主党は官僚制度の抜本的見直しを行なってもらいたい

 民主党は現在の官僚制度で良いとは考えていないようであるが、拙速は拙いので、少し時間をかけて抜本的な制度改革を行なってもらいたい。それと平行して、官僚たちが勝手に外部に作る外郭団体は徹底的に廃止して、今までそれらがやって来た事業を民間企業にアウトソーシングする形に切り替えて、キャリア官僚の天下りをなくする、といったこともやってもらいたい。自民党は官僚と密着する形で政治を行なってきたために、官僚制度の問題を真剣に改善することなどやろうにも出来なかったし、そもそもやろうという意志さえ持てなかったのである。
 政策立案などで官僚機構と対等にやりあえる能力を政党自身が持とうとしなかったことが、自民党政権の官僚依存体質をもたらしたと思うので、その点を考慮して民主党は「国家戦略局」を設けるとのことであるが、問題はキャリア官僚に対抗できるだけの能力を持った人材をどうやって確保するかである。組織を作っても、その組織が機能するかどうかは人材次第である。
 私は既に何度か書いているが、「議員は選挙に受かりさえすれば、言葉は悪いが、どんな馬鹿でもなれる」のであり、私は議員に官僚とやりあえるだけの知的能力を持っている人はあまりいないだろうと思っている。しかし議員は自分は余り利口でないと自覚していても、スタッフに優秀な人材を揃えて対応することは出来るのだから、そうしたことを適切に行なえば良いのである。アメリカの大統領の演説を專門のスピーチライターが書いていることは周知のことであるが、それが問題であると言うアメリカ人はいない。原稿に基づく演説外のスピーチで前大統領のブッシュ氏がお粗末極まりない発言をしており、日本では村井理子氏の編集による『ブッシュ妄言録』(二見文庫)が出版されている。これは実に笑える本であるのでお勧めする。
 キャリア官僚の天下りと渡りというのは、自らをエリートと認識しているキャリア連中の最低の行為であるが、自民党はこの禁止について前向きに行動を取ろうとしなかったが、それは自民党が官僚に依存してしか政治ができなかったからであろう。民主党がこれらキャリア官僚のの悪慣習を徹底的に禁止して、税金の無駄遣いを減らすとしているのは、国民が正に求めていたことである。天下りも渡りも、官僚制度の不備と密接に結び付いていたのだから、その素を断つには官僚制度の改革が不可欠なのである。官僚の抵抗が予想されるが、民主党がその強い意志を示して、人事権を適切に行使して問題官僚は降格などして力で押さえ込むことも必要になろう。そうやってキャリア官僚の意識改革を図って、国民のための公僕として働かせるのである。但しそのためには議員たちの姿勢がキチンとしていることが不可欠である。かつての自民党の族議員などという、利権漁りの行動などはあってはならないのである。

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自民党は本当に貧して鈍した

 今月(2009年9月)に開催される衆議院議員で民主党の鳩山代表が総理大臣に選ばれるが、その投票の時に自民党は過去の慣例に従って現総裁の麻生太郎氏を押すことになるが、そのことで自民党内部が揉めている。
 現在の自民党の首脳陣は9月28日の自民党総裁選挙の日程を決めたが、それでは自民党の新しい候補者が衆議院で今月半ばに予定されている首相指名の投票に間に合わないから、現在の総裁である麻生氏を首相候補にすることにならざるを得ないのである。ところが今回の自民党大敗の戦犯である麻生氏に自民党の議員たちは自民党の総理大臣候補として到底納得して投票することなど出来ないのだ。NHKのBSニュースで加藤元幹事長は「白紙投票するしかない」と語っていた。自民党の議員たちが麻生氏への投票に納得できないのは当然のことである。そして問題はこうした事態に対して良識を伴った判断が出来ず、適切な対応策を予め示すことができない首脳陣にある。
 衆議院での首相指名投票に対しての対応の方法はいくつか考えられる。
 一つは、従来通り自民党としての候補を決めて議員に投票を指示することである。つまり自民党の議員には終衆議院選挙大敗の『敗北を抱きしめて』、党の決めた候補に投票させるのである。ただしその候補には、現在の麻生総裁か、麻生氏退任後の新総裁にするかの選択がありうる。現首脳陣は前者を選んだが、それが自民党議員の不満の原因となったのだ。元首脳陣が新しい自民党の総裁選びを迅速に行なおうとしない理由は、「新総裁を拙速に選ぶのはまずい」というものであるが、これこそが自民党の問題体質を象徴しているのではないか。重要な問題が起きた時に、スピーディーに対応することが出来ないのである。物事の重要性の認識についての違いが現首脳陣と自民党議員との間にあって、新首相に戦犯・麻生氏を押すという愚を平気で行なうというのは正に茶番劇に過ぎないのだが、このことをおかしいと思わない感覚には救い難いのものがある。
 もう一つの首相選任投票への選択肢として、新首相の候補者を自民党は出さないことにするという手がある。これは正に深刻に『敗北を抱きしめて』の苦渋の選択である。この悔しさを肥やしにして自民党の建て直しに全身全霊を捧げて努力するようにに仕向けるのである。
 現在のところ自民党の首脳陣には従来のやり方を継続することしか頭に浮かばないようであるが、それこそが自民党大敗の原因となった元凶であり、このさき自民党の低落継続の原動力となるものである。こんなところに、「保守の保守足る所以」を現しても何の意味もない。自業自得の凋落を、自民党のこの体質が証している。

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2009年8月27日 (木)

国会議員選挙にネットの活用を

 日本経済新聞に現在の日本では政党も日本国民個人も自由にネットで意見を言うことができないという記事が出ていた。選挙が公示されると政党や立候補者のホームページの更新が認められないとのことである。一体どうしたことなのか。TVのニュースでは総務省の担当者が、ネットでの選挙運動には問題があるということを言っていたが、アメリカで当たり前に行われていることが日本で行なわれるとなぜ問題が起きるというのか。総務省の役人が言っていることは少しでも問題がありそうなことは国民にやらせないということである。
 江戸時代の人たちは「良いことばかりのものはない。良いことの裏には必ず悪いことがある」と知っていたが、現代の日本人は先の役人の例で見ると、世間智という面では江戸時代の人たちよりも遙かに劣ってしまっている。もし総務省の役人が言っていることが公職選挙法に定められていることに厳密に合致しているというのなら、公職選挙法そのものに問題があるということになる。もしそうであるなら公職選挙法はもっと国民が自由に選挙運動に関われるように改正されるべきであったのである。そしてそれを行なうのに主導権をとるべきであったのは与党である自民党であったと私は考える。しかし年寄りが支配する自民党では、そもそもネットと関わりがない人たちが多くてそうした改正が必要であるとの認識自体が全くなかったのではないか。そうした自民党は既に時代に取り残された政党であったのだ。長年政権を担当してきた自民党は、年金記録の問題を自ら把握することもできずにいたが、そのことが自民党の議員たちが役人をキチンと使うことができず、役人に依存するだけの政治団体であったことを国民の目に明らかにしたのであった。そうして国民の中に、自民党はもはや到底国民が政治を任せるに値しない政党であるという一般的な認識が形成されたのである。
 ところで先日の日本経済新聞朝刊に衆議院選挙の政党別の当選者数の調査・予想数字が報じられていたが、民主党が300議席を確保しそうであるのに対して自民党は150を割るという結果であった。私はこうした予想結果自体が国民の投票行動に大きな影響を与えると思うが、そのことは総務省の役人たちには問題にならない。マスコミなら良いというのだ。しかるに個人の特定候補への応援は公選法違反になると言うのである。全く「何を馬鹿なことを言っているのだ」と腹が立ってくる。自民党はこうした馬鹿なことを言う役人たちを何の問題意識もなしに認めてきたのだ。自民党の議員たちには政権党であることに慢心して、まともな判断力などなくなっていたのである。国民が自民党の人たちを見放すのも当然である。今回の選挙結果はすべて自業自得である。自民党はトコトン堕ちるところまで落ちて這い上がってくるべきである。

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2009年8月21日 (金)

「ゴミ」という言葉を勝手に限定して使うな

 札幌市では7月から家庭から排出されるゴミの一部が有料化された。目玉は焼却場で焼却処分される「燃えるゴミ」の有料化である。札幌市では3ヶ所の焼却場が稼働しているが、能力の限界に近づいてきていて現状維持、更には焼却場の1ヶ所閉鎖を目論んで「燃えるゴミ」の有料化を実施することにしたのである。横浜市では前市長の中田氏が同じく有料化を行なって7ヶ所あったゴミ焼却場を3ヶ所閉鎖し、4ヶ所で済むようにしたという。札幌市も同じことを考えたわけだ。
 札幌市のゴミ有料化についての記事が昨日(2009/08/20)の日本経済新聞朝刊に出ていたが、新聞記者も「ゴミ」という言葉について安易な使い方をしているのを見て私は一言苦情を言いたくなって、筆を取った。
 ところで私は札幌市がゴミ処理の有料化を図るとして、事前に説明会を開いていた時に話を聞きに行って、市役所の担当者たちの「ゴミ」という言葉の使い方に違和感を覚えていた。家庭から出るゴミとは、言い換えると「家庭の廃棄物」である。企業が出す廃棄物は「事業系の廃棄物」と呼ばれていて、事業者が自己処理することが法律で定められている。その中で製造業が出す廃棄物は「産業廃棄物」と呼ばれているが、実際に事業者自身で廃棄物を処理することは困難なので、資格を持った專門の業者に依頼してお金を払って処分しているのが大半である。私は製造業の会社に勤めていて実際に産業廃棄物の処理にも関わっていたから経験があるが、マニフェストと呼ばれる帳票を使用して記録を残すことが義務づけられている。ゴミ(産業廃棄物)はどれだけ出したかを事業者自身が記録することになっているのである。ここに家庭ゴミとの大きな違いがある。
 しかし製造業で出る「産業廃棄物」と「家庭から出る廃棄物」とにはもっと基本的に大きな違いがある。産業廃棄物とは「製造工程において発生するクズなどと、場合によっては不良品」であって、事業者が購入した原材料の大半は「製品」に転嫁されるから、購入した原材料の極く一部に過ぎない。ところが家庭では購入した生活に使用する商品は究極的には100%廃棄物として家庭外に排出されるのである。例えば食料品の廃棄物というと、料理のときに出たクズなど購入した内の極く一部と思われがちだが、それは誤解である。食事の時に、摂取された物は一部は身体に蓄積されるが大半は大便や小便として排出され大都市では下水道を通って下水処理場に送られて処理される。(厳密に言うと汗などの形で大気中に放出されるものもあるが) 家庭から下水道で流される物も廃棄物(ゴミ)なのである。また野菜くずなどをコンポストによって堆肥にして、家庭菜園で使用する場合もあるが、この場合でも有用な形で再利用されたとしてもゴミが菜園の土に入れられたに過ぎない。
 さて物理学の法則にE=MC2という有名な法則があるが、これはアインシュタインが発見したものでエネルギーと物質(質量)との関係を表したものである。もちろんEはEnergyの頭文字のEであり、MはMass(質量)のMそしてCはCeleritas(光速)のC、2は2乗の意味である。そしてこの法則は原子爆弾の原理を表している。エネルギーと質量とは相互に移行しうるものなのである。しかし日常生活の場においてはこのようなことを考慮する必要はなくて、我々の日常生活は『質量保存の法則』の下にある。この法則を我々の日常生活に当てはめると、次のような結論が出る。「日常生活で個人や家庭が購入した商品はすべて使用の結果、同じ質量の廃棄物となる。」 したがって原理的に言って個人や家庭が購入する商品が減らない限り、家庭から出る廃棄物が減ることはないのである。「ゴミの減量化」などは、物理学の観点からは不可能なのである。
 市などの地方公共団体が安易に「ゴミの減量化」といっているけれども、それは個人や家庭から排出されるゴミのうち分別区分で「燃えるゴミ」として出すように決めたゴミのことであって、以前には「燃えるゴミ」として出されていた「紙」や「プラスティック」がリサイクル対象として出されることになったに過ぎず、家庭から出るゴミの分別区分が変更になったからといって「家庭の廃棄物の絶対量」が減ったわけではないのである。このことは次の例によってよく分かるであろう。アメリカの映画を見るとキッチンでの料理の残渣をディスポーザー(生ゴミ粉砕機)で処理して下水に流していることがあるが、もし日本でも多くの家庭でディスポーザーを使用するようになれば「燃えるゴミ」として出される量は大幅に減るであろう。しかしだからといって「ゴミが減量された」と言えるだろうか。NOである。料理クズの出される形態が変わっただけなのである。市役所の担当者などが言う「ゴミの減量」もこれと同じなのである。
 私が違和感を覚えるのは、ゴミという概念を市などの当局が自分たちに都合の良いように使い分けていることである。ゴミを出す個人や家庭の立場からすると、分別して「リサイクル用」に出そうと「焼却用」に出そうと、「ゴミ」として出すことに変わりはない。だから「リサイクル用」に出す廃棄物も個人や家庭の立場からすると同じ「ゴミ」なのである。市の担当者は「リサイクル用」に分別して出されるゴミを「ゴミ」でないかのように考えている節があるが、それは生活者の立場からすると完全に間違っている。「ゴミ」という言葉の基本的な意味を勝手に矮小化して「ゴミの減量化」などというご都合主義で詐欺的なの使い方はやめるべきである。地方公共団体は「焼却ゴミの減量化」という正確な言葉遣いをするべきである。また新聞記者なども正確な認識をもって「ゴミ」という言葉を正確な意味で使ってもらいたい。

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選挙のネット応援は公選法違反?

 今日(2009/08/21)の日本経済新聞朝刊に「ネット応援 要注意」という大きなキャッチで今回の衆議院選挙について個人のネットで行われた候補者支援などが公選法違反に当たるという見解を総務省が示しているという。昨年行われたアメリカの大統領選挙でオバマ大統領誕生にネットが大きな役割を果たしたことはニュースで伝えられていたが、日本でのこの体たらくは一体どうしたことなのであろうか。こんな状態にしたことに対して長年政権を担当してきた自民党に私は責任があると考えるのだが、このこと自体が自民党という政党の時代遅れ・時代錯誤の体質を象徴していると思う。こんな政党が「政権担当能力」を有権者に訴えているというのは、全くのマンガといわなければならない。麻生首相はマンガには強いようだが、ネットにはそうでないようだ。
 こういう体質の人たちからなっている自民党が、若い人たちの支持を集めることができる筈はないではないか。この記事を読んだ若い人たちは自民党に対して軽蔑意外の感情をもたないだろう。自民党は最早完全に時代遅れの政党になってしまっているのである。こういうことを考えると、麻生首相は全国遊説で自民党こそが真正保守の政党であると訴えているが、自分たちの時代遅れの姿をただただ「保守だ保守だ」といっているに過ぎず、「保守というのは時代遅れのことなのか」と有権者は考えるのではないか。この姿こそがマンガであるといってよいだろう。麻生首相はマンガ好きが高じて自らがマンガになってしまったのである。
 こうした自民党の情けない有り様が有権者の目にハッキリとに見えるようになったのである。「自民党は裸の王様だ」ということが誰の目にも明らかになってしまった。自民党は解党的な出直しをしない限りもう有権者には受け入れないと思う。彼らが訴えている過去の実績とは最早「過去の失敗」に過ぎないのである。
 ところでこういった個人的な見解を発表することも公選法違反になるというのだろうか。もしそうだというのなら、そういった見解は憲法に規定された言論の自由の権利を否定するものなのである。もし民主党が政権を取った場合はこうした馬鹿げた時代遅れの公選法を直ちに改正して欲しい。

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2009年8月12日 (水)

教祖さまの政策の「とてつもなさ」

 しばらく前に近くのスーパーとホームセンターの敷地の角に各政党の候補者のポスターが出ていたが、その中で目に付いたのが『幸福実現党』のものであった。党首が「大川きょう子」とあったので、宗教団体の「幸福の科学」の総裁・大川隆法氏と名字が同じだからきっと彼の女房に違いないと思ってインターネットで知らばたら、やはりその通りであった。これだけでも私には到底許し難いことに思われたのであったが、今日新聞の折り込みに幸福実現党のチラシが入っていて、その内容を見てぶっ飛んでしまった。「まあよくも、こんなことを平気で主張しているものだ。」 これによって大川総裁の程度を判断すると、私としては到底高い評価は与えるKど出来ないない。こういう程度の低い人間が宗教団体のトップにいると言うのだから、信者でもない私ではあるが全く情けない限りである。一体どのようにすればこのような公約が出てくるのであろうか。この公約について大川総裁が何も知らないはずはないだろう。「殿、ご乱心を」といって取り押さえる人は、回りに誰もいなかったということだ。そうだ、肝心の幸福実現党の公約内容を書いておかなくちゃ。私の言う話の筋が読めないだろう。
 チラシには幸福実現党が3つの大きな公約を書いている。
 1)2030年をめどに3億人国家を目指します。
   ◯「広くて安い住宅」「塾に頼らない教育」「スピーディで快適な交通」という観点から、       一家族平均3人以上の子どもが持てる環境を整えます。
   ◯海外からの移民を積極的に受け入れます。外国人の帰化を積極的に進めます。
 2)GDP(国内総生産)世界一を実現します。
   ○消費税、相続税、贈与税の全廃や、農業分野での規制緩和で、年率3%経済成長を果たします。
   ◯これらの減税・自由化路線と、人口増政策で国力をアップしていき、DGP世界一を目指します。
 3)年金問題を完全解決し、豊かな老後を実現します。
   ◯人口増とGDP世界一を実現する過程で、年金問題や財政赤字は克服できます。
 「人口3億」というのは、現在の人口の2倍以上であるが、あと10年も経たないうちに人口が3億というと、日本人以外の移民の人口の方が多くなるのではないかと思われる。世界中の人たちが交流するのが世の流れではあるが、日本語でない言葉を話す人たちのほうが多数になるような社会は個人としては嫌である。
 また日本国民として3億人が、世界最高の物質的・福祉的レベルで暮らすとなると、経済活動による自然への影響が問題になるだろう。まず水の問題が出てくるのではないだろうか。今は日本では表立って水の問題は現れていないが、人口が3億人になった時の飲料・生活用水の需要、経済活動に伴う水の需要に果たして応えることができるのだろうか。
 3億人というのは現在の1.2億人の2.5倍の人口である。世界一のGDPというと、アメリカ以上のGDPということであって、それは現在の3倍以上のGDPということになる。したがって3÷2.5=1.2倍以上の一人当たりGDPとなるが、10年で20%というのは不可能ではないだろうが、そもそも3倍以上のGDPを生産するだけの設備を10年で作るための投資ができるのかどうか、それが問題だろう。
 威勢の良い話をするのは簡単だが、政治家と宗教家との根本的な違いは公約を実現させなければならないことだ。教祖などという宗教家は、その言うことに関して厳しく証明を求められることがないことが問題なのだ。「もっともらしい」内容でさえあれば良いのだし、普通信徒は教祖の話に対して厳しく問いかけることなどはないのではないか。そうだとすると、教祖というのは呑気な職業である。その呑気さが幸福実現党の公約に現れているように思われる。『とてつもない日本』(新潮新書)は麻生首相の書いた本であるが、幸福実現党の公約は私には「とてつもない」ものとしか思われない。麻生首相は良い意味で「とてつもない」という言葉を使っているが、私は悪い意味で使っているのである。

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2009年7月26日 (日)

日本の政治が面白くなってきた

 先日(2009/7/24)BSジャパンの「プライムニュース」で横浜市長の中田氏と開成町長の露木氏が出て地方分権をもっと進めるべきだと、具体的に問題点を上げて説得力のある話をしていたが、今日(2009/07/26)BSーTBSの「政策討論われらの時代という番組 で「注目の地方首長が提言」という話題で新潟県知事の泉田氏と杉並区長の山田氏とが出演して中央官庁の政策などを具体的な例を挙げて批判していたが、要は前に上げた番組の場合と同じように中官庁が地方の実態に構わずに細かなことまでうるさく規制するのは無駄が多いというのである。
 この二つの番組を見て私は日本の政治の状況が大きく変わってきていると改めて強く感じたのであった。少し前なら地方の首長がこういった中央官庁批判をすることは、後での中央官庁の役人の嫌がらせを恐れて到底誰もしなかったことである。それが今やそんなことは気にしないで、国民の前でどうどうと中央官庁のやる政策を批判するようになったのだ。中央官庁のキャリア官僚連中の陰湿な行動が今や、マスコミによって大きく報道される事態になったからであろう。嫌がらせをすれば、それがまた具体的に報道されて中央官庁が批判されることになるのだから、力関係が完全に逆転してしまった。はっきり言って、これは中央官庁の自業自得なのだ。ついでながら私の住んでいる札幌市の上田市長がこういう場に出てこないことから判断すると、どうやら上田市長には余り自分の意見というものがないようで、札幌市民としてはとても残念なことである。
 そして長年政権党の立場にあった自民党が官僚におんぶする形でしか統治が出来なかったことが、こうした番組によって国民の目に明らかになってしまったのである。そのくせ自民党は、今や来るべき衆議院選挙において民主党に負けそうな情勢になったものだから「民主党には政権担当能力がない」などという難癖をつけることに一所懸命で、そのこと自体がまた自民党の末期症状を現しているのだが、自民党の議員たちはもうそうしたことを冷静に判断することさえ出来なくなっている。彼らは天に向かって唾をしているのであって、それは自分に振りかかってくるだけの話なのだ。「貧すれば鈍する」という諺の正に見本そのものが現在の自民党のドタバタなのである。
 麻生首相が大雨で起こった山口県の土砂崩れの現場を実地検分するということも、選挙対策でしかないのだと国民は冷めた目で見ている。国民の目の前で裸になれば自民党への投票が増えると分かれば、麻生首相は裸になることも厭わないだろうとさえ思われる体たらくである。政治家としての矜恃も何もなくなってしまって、ただただ政権党の地位にしがみついていたいだけのパフォーマンスなのである。自分たちが政治家として国民の負託に応えていなかったという反省があれば、一旦は下野して出直すことを考えるのがまともな人間の考えることだろう。もう自民党の人たちは、完全にトチ狂ってしまって羞恥心も何もなくしてしまっている。「こんな自民党はもう要らない。自民党よ、さようなら」国民はもうそう判断してしまったのだ。自民党の議員は全員頭を剃って、目に見える形で国民に反省の気持ちを示したらどうか。

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2009年7月22日 (水)

幸福の科学よお前もか

 最近政党のポスターが目に付く。私の住んでいる札幌市の清田区の住宅地の個人宅に創価学会の太田代表の大きな顔写真を印刷したポスターが貼られていて、その家の数が案外と多いのである。札幌の大学を卒業して内地に就職し暮らしてきたが、停年退職して戻ってくるまで公明党のポスターが個人宅にこれほど貼られているのを見たことはなかった。
 近くのスーパーの敷地には主として自民党と民主党のポスターが掲示されていたのだが、最近になって初めて聞く名前の政党のポスターが出ていた。『幸福実現党』である。中年女性の顔が印刷されていて、大川きょう子と名前が出ていた。インターネットで調べると推測通り、大川きょう子氏は幸福の科学総裁・大川隆法氏の妻であった。幸福の科学は当初自民党を支持していたのだが、最近の自民党のドタバタを見て見切りをつけたとのことで、今年(2009年)になって急遽政治団体を結成し、早速先日の都議選に10人の候補者を立てたが全員落選した。しかしNHKのニュースで報じられたのによると今回の衆議院選挙には確か284名とかの候補者を立てるということであった。なかなかすごい候補者数である。今日(2009/07/22)の日本経済新聞朝刊に出ている「主要政党別の立候補予定者数」に「諸派」の立候補者数が347と出ていたが、この大半は『幸福実現党』からの立候補者なのだろう。これだけの数の候補者を立候補させるには大変な資金が必要だと思うが、『幸福の科学』の資金力は大変なもののようである。
 また幸福実現党のホームページを見ると、「憲法9条改正 北朝鮮のロケットから日本を守ります」と「消費税・相続税全廃 あなたの財産を倍増させます」と政策を掲げている。
憲法9条の改正」を政策の第一に掲げていることは大変評価できることである。ただ「消費税・相続税全廃」という政策はいただけない。むしろ宗教法人がきちんと課税されていないことを改めるということをこそ掲げるべきであろう。(全くありえないことを承知の上で敢えて書いたのである。)
 経済学者の竹内靖雄氏は「<脱>宗教のすすめ」(PHP新書)で、われわれの社会は何故か宗教を特別のものと考えて、宗教団体の実態を見逃している。宗教団体はサービス産業に過ぎず、事業を行なっているのだからその収益に対して他の事業会社と同じように課税するべきであると主張している。私も長年生きてきてその経験に基づいて判断すると、竹内氏の主張は全く妥当であると思われる。自民党は公明党の助けなしには最早政権を維持できないほどに弱体な政党になってしまったから、創価学会をバックとする公明党の手前、宗教団体への適正な課税などということは到底言い出せない。そもそも竹内氏のこの本を読むような自民党議員自体が果たしているかどうかさえ怪しいぐらいだ。自民党の議員は石橋湛山氏の爪の垢でも煎じて飲んだら良いのだ。現在の自民党の議員たちは政権党の一員たる政治家でいることに執着するだけで、本来の政治家としての役割を果たすことなどには全く関心がないように見えるというのは全く情けない限りである。こうした体たらくだから国民の信頼を失ってしまったのであって、そうしたことを理解しないで麻生首相は民主党には政権担当能力がないと貶しているが、私は自らを良く省みて言えとアドバイスしよう。麻生首相の発言などは笑止千万のものなのである。麻生首相のこの発言を国民の誰がまともに受取るというのだろうか。
 ところで宗教団体がバックにいる政党としては公明党が周知であるが、他の例として頭に浮かぶのはオウム真理教である。教祖の麻原彰晃が政治団体の『真理党』を設立して1990年の衆議院選挙に先頭に立って立候補したが、集団立候補した全員が落選した。今回の『幸福実現党』はこの事件を彷彿させるものである。果たして当選者は出るのだろうか。しかし私が気になるのは、幸福の科学総裁の大川隆法氏が自分の妻を政党の総裁にして今回の選挙を闘おうとしていることだ。これは大川隆法氏の教団を含めての私物化を証明するものではないのか。政治に市民の感覚を持ち込もうと考えているのかも知れないが、それ以前に自分の女房を政治団体のトップに据えて平気な感覚こそが大きな問題であると思う。豊富な政治資金は、宗教団体が適正な税金負担をしていないことから得られているとしたら、全く不公正な話であり、国民はこうした点にも注意することが必要なのである。

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2009年7月21日 (火)

自民党は「法治」に背いているのではないか

 今日(2009/07/21)麻生首相が衆議院銀選挙を決定することになっているが、その前に「両院議員懇談会」を開いて東京都議選惨敗及び内閣支持率の低迷について麻生首相が反省の弁を述べるということだが、そもそもこの会合は当初「両院議員総会」として請求されたものであった。しかしそこで麻生首相の責任追及・総裁辞任を求められることが自民党の内紛を国民の目に晒すことになり衆院選挙に悪影響を及ぼすことを恐れた自民党執行部が決議のない「懇談会」に切り替えたという。
 中川、加藤元幹事長が中心となって署名集めを行ない「総会」開催に必要な人数の署名を集めて執行部に「総会」の開催を請求したが、執行部はそれを「懇談会」に変更して開催することにしたのである。当初「総会」開催請求の署名をした議員の中にも麻生首相の退陣を求める動きに反発して署名を取り下げる人が出てきたが、その結果「総会」開催請求に必要な人数を下回ったのかどうかは報道されていないようだ。もし署名者の人数が必要な人数を上回っていたのなら、自民党執行部が「総会」を「懇談会」に勝手に変えるというのは「法治主義」という近代社会の基本ルールを踏みにじるものである。そうであるなら自民党という政党には近代社会の政党としての資格はない。イランの大統領選挙で開票結果が正しいものであったかどうか大いに疑わしくてイランが近代民主主義国家ではないことを国際社会にさらけ出したが、自民党の体質はイランと大して変わらないのではないか。
 こうしてますます自民党は国民の信頼を失っていくのである。最近の自民党の行動を見る限り、よくもこんな政党が長年政権党でいたものだと思わざるを得ない。長期政権に安住して自民党にはロクな人材がいなくなってしまって、程度の低い連中ばかりが「オレは議員だ」とはびこっていたのだ。自民党はもはや完全に「裸の王様」になってしまった。

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2009年7月15日 (水)

高齢化社会の抜本改革の対策は簡単だ

 今日(2009/07/15)日本経済新聞朝刊の「経済教室」で林正義一橋大学准教授が『固定資産税の活用 検討を』というタイトルで書いた論文の最初は次のように始まっている。
 「やむことのない日本の高齢化が社会保障費を拡大させている。」
 社会保障費には年金への政府支出も含まれているに違いないが、国民が年金保険料を支払うことで成り立つとする年金制度が社会保険庁の不始末のために国民の信頼を失って保険料を支払う国民の比率が低下する一方だという。それを補うために消費税を使うことが考えられ消費税率の引上げが政治的な課題として浮上して来ているが、私はもっと根本的な事柄が失念されていると考える。
 日本人の寿命が伸びて世界一になったということは、例えば65歳で停年退職して仕事を離れてから死ぬまでの期間が20年近くという長いものになって、高齢者はその長い期間年金の支給を受けて生活することになったが、その制度を維持することが国家として財政的に到底不可能になってきたのである。その根本的な問題は、十分働くことが出来る高齢者が大勢いるにもかかわらずそれらの人たちを働くことから実質的に排除しているということであると私は考える 。多くの十分に働く能力のある高齢者が働いて収入を得ることが出来れば年金の支給を受けなくても良くなり、社会保障の制度を国全体として改善できるはずだ。
 これは、私自身が60歳で停年退職して高齢者の仲間になって、身近に目に付いたことから実感したことである。高齢者については、そうでない人たちに比べて、健康面から見て労働能力における差が大きいと講習会で聞いたことがあるが、私の実感からも実際にそうだろうと思う。
 高齢者でも元気な人は75歳くらいまで働けるだろうし、働ける間働くことは本人にとっても健康のためにも良いだろう。そうやって高齢者の中で働いて稼いだお金で暮らす人が増えれば、年金の財政も改善されるだろうし、健康の維持にも役立てば医療費という社会保障費の改善にも貢献するだろう。
 ところが日本の現状は、元気で働ける高齢者が職を得て収入を得られるようになっていないのだ。政策的に一番にやるべきこと、即ち高齢者の就業対策をやらなくて、政治家も官僚も、また経済学者も社会保障の財源確保という次善の対応策のことばかりを考えているとしか思われない。それは彼らが日本社会の現実をキチンと把握していないからであろう。
 地球全体として考えると、人類は自ら生産した財とサービス以外には消費することは出来ないのであって、現在働く場がなくて年金を受給して生活している人たちは生産の場から排除されているのであるから、これらの高齢者が働いて生産に貢献するようになれば生産される財とサービスの量は増えるし、高齢者も自分の消費する分くらいは十分に生産できるはずである。
 高齢者の潜在している労働能力部分を働く場に顕在化させること、これこそが現在高齢化社会の問題とされていることを解決する一番の根本的な対策なのである。どうすれば元気な高齢者の就労の場を作れるか、この政策を最重要のものとして日本政府は取り組むべきである。

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2009年7月14日 (火)

ドタバタ自民党の醜態

 麻生首相がようやく解散時期を国民に報告できる状況になった。新聞などの報道によると、7月21日解散、8月30日投開票に決まったという。私には、これは麻生首相の意地が決めた結果であって、お坊ちゃまのダダコネにしか見えない。
 自民党内には麻生首相の下では衆議院選挙を戦えないと首相交代を求める声が高まっていた。しかしこれは正に「天に唾する」のと同じなのだが、自民党の議員の連中はそのことにさえ気付いていないようだ。そもそも麻生太郎氏を自民党総裁に選んだのは彼ら自身であったのだから、自分たちの行動の結果を自ら否定していながらその責任を何ら感じていないという、全く面の皮ばかり厚い恥知らずの行動なのである。最近の地方選挙の結果に表れた国民の意思を見て、自民党が国民の支持を失っているということを腹の底から感じざるをえなかった自民党の議員たちは完全に浮き足立って理性を失った結果がこの醜態をもたらしたのである。そうして、こうした自分たちの行動自体が、麻生首相の無能に加えて、国民の目に自民党は全く信頼するに値しない政党であるという決定的な印象を生みだしたのだ。
 そもそも麻生首相の下では衆議院選挙を戦えないという考え方自体が、自民党の議員たちが如何に国民から遊離した状態にあったかを証明するものであったし、有権者である国民を馬鹿にしたものである。今までの麻生首相の行動が不適切であったというのなら、自民党の議員たちはもっと早くに総裁の地位から解任するべきであったのだ。近づく選挙に不利になったからといって慌てて党首の顔を取り換えて、国民に対する見かけの印象を粉飾して何とか自民党を政権党の地位に止まらせ、自分たちは引き続き政権党に所属する議員の地位に止まりたいだけなのである。政治家であるということは、単に政権党の議員でいることが最大の目標であると言ったものではないはずだ。それは他人の褌で相撲を取るという安易な行動でしかない。今や自民党の議員連中には、国民の負託に応えなければならないという自覚・責任意識などはこれっぽっちも見られない。有権者は馬鹿ではないのだ。
 麻生首相は民主党を貶して、政権担当能力がないと訴えていたが、国民の目から見ると最早自民党こそが政権担当能力を失っているとしか思われないのである。安倍、福田、麻生の3代の首相が国民の眼に晒して見せたのは、自民党内部の人材の払底という事実であった。自民党所属の議員たちが、これこそは自民党で一番の優れた政治家であるとして選出した総裁が3人続けて全て外れのペケであったのだから、国民が自民党という政党に対して最早期待できないと考えたのは当然であろう。週刊誌では舛添議員の自民党総裁就任が予想されているが、厚労相として顔を売ったから有権者に受けが良いだろうというだけの思惑でそういう話が義民党の議員のあいだで出ているのなら、いよいよ国民を馬鹿にした愚劣な自民党的発想だ。正に自民党は「貧すれば鈍する」の最低の状態に落ち込んでしまっているのである。

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2009年7月 6日 (月)

自民党は粛々と身を引くしかない

 昨日(2009/07/05)に投票で、静岡県知事が川勝平太氏の当選で終わったと報道されたが、私はこの報道を聞くまで川勝氏が立候補していたことを知らなかった。川勝氏については、私は氏の著書を何冊か持っていて、名前は知っていたが、まさか民主党の候補として立候補したとは意外であった。川勝氏が自民党から立候補していたらまだ読んでいない氏の著書を読む気が失せていたであろう。私が持っている氏の著書は以下の3冊である。
 富国有徳論(中公文庫)
 「美の文明」を作る(筑摩新書)
 「美の国」日本を作る(日経文庫)
 著書のタイトルを読んだだけでも、川勝氏がどのような人間であるかはおおよそ想像がつくであろう。このような人がもし現在の自民党から立候補したとしたら、自らの信条とは全く外れた行動をしたとして人格を疑われたに違いない。
 最近の地方公共団体(名古屋市、さいたま市、千葉市)の市長選挙で自民党系の候補がすべて落選しているという。最近の麻生首相の言動を見た日本人の過半数は最早自民党という政党を完全に見限ってしまっていることは明白であると思う。そしてこうした結果をもたらしたのは自民党自体なのである。自民党は保守政党として長期に渡って政権党であり続けてきたが、同じ保守政党としての民主党に支持を奪われてしまったのだ。小泉首相の退陣以降、自民党総裁に就任した安倍、福田、麻生と3代の首相は皆、国民に醜態を晒して到底首相の柄ではないと国民から判断され、自民党は三行半を突き付けられてしまったのだ。
 長期政権の惰性が、自民党の議員の資質を決定的に低下させてしまったようだ。イギリスではブレア首相以来の労働党が今や国民から見放されようとしている。地方選挙で大敗を喫しているようだし、国政選挙が近く行なわれれば、間違いなく負けるだろうと予想されている。長く権力の場にいることは自然とその政党の所属議員に堕落をもたらすのだろう。「権力は堕落する、絶対的な権力は絶対的に堕落する。」という政治学で知られる有名な言葉がある。その通りのことが自民党に起こったのだ。自民党は自らの醜態、人材の払底を徹底的に反省して、出直すしかないのだ。今、政権党から滑り落ちないことだけ考えて下らない手を打てば、いよいよ国民の信頼を失うばかりであろう。潔く自らの失態を認めて政権を去り、出直すしか無いのである。自民党議員の皆さんは、今内部に国民が納得するような首相として相応しい人材の名前を挙げることが出来るのだろうか。週刊誌の見出しなどを見ると、何となく厚生労働大臣の舛添氏が候補として考えられているのかなとも感じられるが、私個人としては舛添氏も何となく胡散臭い感じをまぬかれないのである。
 民主党の議員たちもそれほど立派な人たちであるとは思わないが、それでも自民党の議員たちよりは少しはましなのではないかと考える。もし彼らもどうしようもないようならすぐに国民の支持を失うだろうから、そしてそのことを彼ら自身も良く弁えているだろうから、自民党の政治よりは少しはましなものになるだろうと思われる。
 とにかく自民党は今回は粛々と政権から身を引いて、人材を揃え国民の支持を得られるように出直しの努力をするべきなのである。最後の首相になりそうな麻生さんは、それにしてもお粗末であった。人間的にも薄っぺらで、こんな人しかいなかった自民党は正に人材払底の状態なのだ。

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2009年6月23日 (火)

自民党の政権担当能力? 裸の王様になった自民党

 世論調査の結果を受けて自民党はいよいよ次回の衆議院選挙で敗北する可能性が大きくなった。民主党に政権を譲らなければ成らなくなることが確実になるにつれて、麻生首相は民主党の政権担当能力を疑う発言をしていたが、残念ながら最近の自民党のドタバタを見ていると自民党自体が政権担当能力を最早持っていないのではないかと疑わざるを得ないような体たらくである。今までは自民党に対抗しうる政党が存在しなかったために自民党の政権担当能力そのものが問われることもなかったのだが、民主党に政権を奪われそうになって浮き足立ってきたら自民党の本当の実力、その情けない実態がすっかり国民の眼にさらされてしまった。その結果は、自民党にもろくに人材はいないのだという結論になったのである。自民党は裸の王様に過ぎなかったのである。しかし民主党が政権を担当するとなると、その政権担当能力が直ちに問われることになるのであり、日本国民の判定に合格しなければ民主党も長く政権を担当することはできないだろう。
 私は民主党にも余り期待しすぎないようにする必要があると思うが、少なくとも政策運営に失敗すればすぐにも自民党に国民の支持が移るということを民主党は十分に理解しているであろうから、今までの自民党政権の政治とはやり方が変わるに違いないだろう。改革の基本の一つは、自民党がやってきた官僚依存の政策運営を政治主導に改めることであるが、そのためには民主党として政策スタッフを充実しなければならない。民主党にはそのための準備ができているのだろうか。
 ところでこれを書いているとき(2009/06/23)にNHK・BS1のニュースででイギリス下院議長に46歳の保守党議員が選任されたと伝えられたが、日本ではこのようなことが起こるとは考えられていない。そこに日本の政治における問題が潜んでいると私は考える。自民党の役員のジジイどもはもういい加減に引っ込んで若い連中に任せるべきである。そういう目に見える形で自民党の体質改善を国民に示すことができないようでは自民党に国民の支持は戻らないだろう。

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2009年6月 5日 (金)

ますます奇妙な韓国人

 韓国の前大統領・盧泰愚氏の自殺に関する韓国人の反応は日本人である私などには全く理解し難いものだと既に書いたが、その後のこの事件に関する韓国社会の動きを見るとますます韓国人の奇妙さを強く感じる。6月3日韓国の検察総長が、今回の盧武鉉氏の自殺が検察官の不正資金疑惑の厳しい取り調べが原因であったとして韓国民から激しい批判を受けていることを理由に総長としての職務を適切に遂行できないといって辞表を提出した。この辞任劇に対して私が抱いた疑問は以下の通りである。
 ①盧武鉉氏の不正資金疑惑を厳しく取り調べることは不法なことであるのか。
 ②取り調べのやり方の中で具体的にどのような点に問題・不法な点があったというのか。
 ③盧武鉉氏が自殺をしたのには、何らかの理由があるはずであり、例えば氏は名誉意識が 非常に高くて検察の取り調べを受けたこと自体が堪え難いことであったとしたら、それが 検察の責任だと韓国民は言うのであろうか。疑惑を受けるようなことを起こしたのは盧武 鉉氏またはその妻であるから、当然のこととしてその責任を負わなければならないので  あって、そのことに対して本人たち以外に責めを負う人間はいないではないか。検察の追 及の過程で極端な違法な手段がもちいられた形跡があるとでも言うのだろうか。
 検察官が国家の法的秩序を維持するために、たとえ前の大統領であっても逮捕し取り調べることは当然のことであり、もし前の大統領であったということを理由に法律違反を見逃すようなことがあったとしたら、むしろそのことの方が大きな問題である。
 私はいかに盧武鉉氏が韓国民に人気があったとしても、そのことは盧武鉉氏の不正を許す理由にはなりえないのであって厳しくその責任を追及しなければならない。現在の韓国民がその理不尽な感情的・情緒的な振舞いを改めない限り韓国は本当の意味での近代国家足りえないといわざるを得ないのである。
 この事件によって、残念ながら韓国民は日本人から見て全く異質な人たちなのであることを、私は初めて実感を持って思い知らされたのであった。
 今日(2009/06/05)のNHK・BSテレビのニュースで韓国の検察総長が辞任したと伝えられたが、検察庁では盧武鉉前大統領の不正資金疑惑の捜査を今後も進めるかどうかに苦慮しているという。これは法治国家の根本を揺るがす事態である。国民の意向が捜査に批判的であることが、法律に優先するかのごとくであり、韓国民は未だに法治国家とは何かを理解していないのだし、マスコミもそういったことをキチンと韓国民に伝えようとしていないようなのである。情緒的な行動こそが韓国民の基本的な行動原理なのだ。こうした韓国民と日本人のあいだで、一体どうやって歴史認識の共通化を図ることができるといえるのだろうか。とんでもない話である。

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2009年6月 3日 (水)

GMの破綻

 一昨日(2009/06/01)GMが米連邦破産法11条の適用を申請して、GMの破綻が確定して、いったんアメリカ政府が60%の株式を保有する形で国有化されて再建をめざすことになった。日本経済新聞には、GMの最高リストラ責任者(CRO)として、アルバート・コッチ氏が就任したと報じている。コッチ氏は企業再生のコンサルティング会社、アリックスパートナーズの幹部だそうだ。こうした分野に專門化したコンサルティング会社が存在するなど、私は全く知らなかったが、アメリカではどうやらあらゆる分野のコンサルティング会社があるようだ。
 ところで私は昔自動車業界のアナリスト・アリアン・ケラー女史の書いた『GM帝国の崩壊』(草思社)を読んだが、確かGMはトヨタに世界販売台数でいずれ抜かれると書いていたと思う。もう10年以上も前の話である。また当時のロジャー・スミス会長が進めた全自動の自動車組立工場の失敗も描いていたが、私はアーサー・ヘイリーの小説『自動車』(新潮文庫)を読んで、アメリカの自動車組立工場における労働者の質の悪さに驚いた一方、トヨタシステムに関する本を読んでトヨタの工場の労働者が如何にアメリカの労働者と違うかを知った。
 全自動の自動車組立工場を夢見たGMの経営者たちは、自分たちの組立工場から労働者を最大限に排除して高品質の車を作りたいと考えたのだと思う。アメリカ企業における経営者と労働者とは、いわば不倶戴天の敵のようなものであることが『自動車』を読んでみると分かるのである。GMの経営者は自社の労働者を信用しないから、プログラム通りに作業する、反抗などは絶対しない存在であるロボットだけで自動車の組立を行なう工場を作ろうとしたのであろう。しかし自動車の組立製造ラインというのはその工程の一部でもトラブルが起きると全体が止まってしまうものであり、したがってトヨタはやたらと新しく出てきた機械設備は使わない。その機械設備が問題なく所定の機能を発揮することを徹底的に検証して確認した後にしか組立ラインには導入しなかったという。ところがGMではそういった確認抜きでロボットを導入したものだから最新鋭の全自動の組立ラインはまともには稼働することが全くなかったという。その混乱したロボットの作業の様子を、2009/06/02の日本経済新聞朝刊の特集「GM、栄光が阻んだ変革」の書き出しでは次のように描いている。
 「作業ロボットが車ではなく、互いに塗料を吹きつけるーー。1980年代のGM工場は混乱を極めていた。机上で生まれた『動かない未来工場』づくりに1兆円単位の巨額を投じ、IT(情報技術)など本業と関係が薄い企業の買収にも走った。しかし、すべて無駄。」
 トヨタの経営陣が組立の現場を良く知っているのに対して、GMの経営トップは経理出身者が多く現場を知らないために上のような馬鹿なことをして資金をドブに捨てていたのである。GMの経営トップとして有名なアルフレッド・P・スローン・Jrならけっしてしなかったであろうことを散々したのである。GMの経営陣は本当の意味で真面目に車作りをしようとは全くしなかったのである。かくして昨年度GMは世界一の自動車メーカーの地位から滑り落ちてしまった。それだけではない。企業としても存続できなくなっていた。GMは既に6兆円を超える債務超過に陥っていたという。今回のGMの破綻は消費者に対して不誠実な経営陣の自業自得だったのであり、市場はGMに退場を命じたのだ。

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麻生首相の政治外の効用

 今日(2009/06/03)朝のNHK・BSニュースで『麻生首相のおかげ?』とのキャプションで、この半年に出版された本のベストセラーのトップが漢字の解説本であったと報道された。何かと話題を提供してきた麻生首相だが、国民のためにはほとんど貢献はなかったけれども出版界には大いに貢献したのであった。これで麻生首相、内容はともかくとして歴史に名を残すことができたから、目立ちたがり屋の麻生首相としては大いに満足感を覚えたに違いない。しかし日本国民としては、情けなさを強く感じてしまうだけだ。日本の政治家には全く人材が払底しているのではないか。
 しかし人材払底は日本ばかりではないようだ。先日イギリスでは議員歳費の不当な請求によって下院議長が300年ぶりに自ら辞任を言い出さざるを得なくなったと報道されていたが、さらに労働党のスミス内相が同じ理由で辞任に追い込まれた。お金が無い訳でもない人たちが、酷く汚いお金への執着を示している。ロイヤルバンク・オブ・スコットランドの前会長が途方もない金額の年金の受給の権利を得て退職したが、経営トップを務めた人間が全く恥ずべきお金への執着をさらすのは最近の拝金主義の蔓延を示している。豊かな社会の人間というのはいよいよ卑しい人間なのだ。どうしてこういう体たらくになってしまったのであろうか。
 不景気な時世の中で、笑いは大いに日本国民の精神生活の健康を保つために役に立つものである。私は麻生首相のニュースを見て、声を上げて笑ってしまった。マンガ好きの首相には大変お似合いの内容のニュースではあった。果たしてこれは自民党の党勢回復に役に立つのだろうか、それとも決定的なな撃をあたえる一助になるのであろうか。大袈裟に考え過ぎか。それでも次の衆議院選挙の結結果がどうなるのか、大いに楽しみに待たれるのである。その結果次第では、麻生首相はまた歴史に名を残すことができるかも知れないのである。

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2009年5月24日 (日)

盧武鉉前大統領の国民葬ってなぜ?

 今晩(2009/05/24)のNHK・BSニュースで、韓国の前の大統領・盧武鉉氏の自殺に関して韓国政府が国民葬にすることを決めたという報道がなされた。不正資金疑惑の捜査が盧武鉉氏自身に及んだことが自殺の原因と考えられて、国民の一部には韓国政府に対する批判が出ているという。しかしこういう話は全くの不見識そのものであって、私には全く理解できないことだ。
 このことは、韓国人は日本人とは全く違う体質の人たちなのだと改めて私に強く印象づけたのであった。日本ではかつて田中角栄氏がロッキード事件で検察の調査を受けたし、それによって議員の地位から引退せざるを得なくなったが、そのことを日本の国民は当然のこととして誰も同情などしなかった。仮に角栄氏が自殺したとしても、そのことのゆえに検察を非難するなどはありえなかったであろう。日本人と韓国人の反応はそれほどに違っているのである。
 今回の事態は次のことを明らかにした。すなわち韓国人には「法の支配」ということについての基本的な理解が完全に欠落しており、ただただ情緒に流されて騒いでいるのである。それをさらに韓国政府が国民葬にするというのだから韓国という国にとっての恥の上塗りというべきである。韓国政府は国民の情緒的な反応に引きずられて、とんでもない政治的な判断を行なってしまった。
 こうした理不尽な韓国政府の反応に対して、徹底的に批判する韓国人はいないのか。かくしてこのような反応をする韓国人の日本人に対する歴史認識に関する批判などは全くナンセンスなものであることがはっきりしたである。このような韓国人の批判に引きずられて反省などを表明してきた日本の政治家はその不明を恥じるべきである。

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2009年5月23日 (土)

政治家はどこでも同じだ

 日本、アメリカ、イギリスといえば、民主主義が根付いている国といえるだろう。そして私は最近のニュースを見て、政治家、国会議員というのはどこでも同じなのだと強く感じている。それは悪い意味での共通性である。
 日本では自民党の古賀選挙対策委員長が今年行なわれる衆議院議員選挙に関して「投票率は低い方が自民党のためには良い」と言ったと伝えられているが、正に語るに落ちるとはこのことである。自民党の選挙責任者が「我が党は日本国民の支持を失っている。」と堂々とマスコミに話したのである。国民の支持を失ったのは、彼ら自民党の政治家が長年に渡ってロクでもない政治をやってきたからである。そのことを自民党の政治家自身が認めたのである。それならばもっとましな政治をするように改めれば良いのであり、それは自民党の内部で検討するべき事柄である。古賀議員の言葉は、たとえ自民党が政権政党の地位を失ったからといって個人としては議員という身分を失う訳ではないのだから、端的に言って政権党から滑り落ちることが残念でたならないと言っているに過ぎない。このような事態は自民党そのものの自業自得に過ぎないのだから、真面目な人間なら真剣に過去の行動を反省するだろうし、日本国民に対してロクでもない政治しかできなかったことを心底から詫びるはずである。しかしそういうことは古賀氏の口からは聞かれないのである。どうも議員というのは、自分が国民のために役に立っているかどうかなどはどうでも良いことであって、自分が議員という地位にいることができさえすれば良い、できれば政権政党に所属していたいと考えているようなのである。彼らはエリートであると自認しながら、その心構えはまるで程度が低いのである。
 最近イギリス議会の議員たちの歳費の請求に関して無茶苦茶な公私混同が見られて、イギリス国民が大変腹を立てているということが報道された。イギリスの下院議長であるマーティン氏がそのことを非難されて辞任を表明したと報道されたが、これは300年ぶりの事態であるそうだ。ノーブレス・オブリジェ(高い地位には責任が伴う)というエリートの倫理感が西洋にはあると言われていたのに、正にそれも地に落ちたというのが今回の辞任劇に象徴的に洗われている。RBS(ロイヤルバンク・オブ・スコットランド)の前会長が非常識な年金を貰うことになったという報道がこの前に行われていて、その時もイギリス国民が怒っていると伝えられたが、これも議員の歳費のデタラメ請求と根は同じなのなのであり、現在のイギリスのエリートはお金にひどく汚くなっているのである。
 またアメリカ議会の共和党の議員がオバマ大統領の政策に対して何でも反対という姿勢で非難していることが報道されているが、私は彼らの主張の内容を聞いて情けないと思わないでいられない。対立する政党のやることは、その内容の如何に関わらず何でも反対というのは、日本やイギリスの議員たちもやることは同じなのである。
 こうして見ると、日本、イギリス、アメリカという民主主義国家といって構わない国の議員たちが、そのレベルにおいてはドングリの背比べの程度の低さであることを、最近のニュースによって私は初めて強く印象つけられたのであった。どこにいても人間は変わらないのだ。このように議員という人たちが大した人物などでなく、市井の人たちと変わらない、いわば下らない連中であることを国民が知ったことは民主主義のためには良かったのかも知れない。
 今日(2009/05/23)TVのニュースで、韓国の前大統領・盧武鉉氏が自殺したと報道されていたが、女房に引きずられて不正に多額の資金を受取っていたという話も、政治家といわれる人たちの程度の低さを明らかにした。ただ盧武鉉氏の不正な資金受領が検察によって取り締まられたということは韓国の民主主義が機能していることを証明していると言う意味で、私は評価するものである。アフリカ諸国や中国では賄賂が横行しているが、それが表立って取り締まられることがないというところに、それらの国の程度の低さを現しているのである。映画の『ホテル・ルワンダ』などで軍の将軍などが当然のこととして賄賂を請求し受取っている場面が描かれているが、そうしたことがエリートによってなされる国では社会や経済の発展は望めない。政治家などの私腹を肥やすだけの日本政府の援助なども意味がない。援助をするならお金は渡さず、設備や機械などの現物の形で渡すべきであろう。勿論使い方やメンテナンスの技術指導も同時につけてやらなければダメであるが。

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2009年4月 3日 (金)

実態に合った制限速度を決めるべきである

 以下は私が日本政府の官邸に意見としてメールしたものである。以前にも現在の自動車の制限スピードの設定が実態に全くあっておらず、その間違った制限速度によってスピード違反の取り締まりが行われ犯罪者が作られているのは許せないと書き送ったことがある。今回は制限速度が抜本的に見直されるという記事を読んでまた送ったのだが、基準となる制限スピードの考え方が基本的には何ら変わっておらず(基準は40〜60kというものである)、相変わらず実態からかけ離れたナンセンスなものになっている。この機会に政府に国民の声を大勢の人が届ける必要が有ると思う。賛同する人は官邸にどんどんメールしてください。

 今日(2009/04/03)の日本経済新聞に「速度制限の抜本的見直しへ」という記事が出ていました。基準速度40〜60Kを基準にして場合によっては60kを超える制限速度にすることも可能と出ていましたが、今なお基準速度が40〜60kというのは全く実態を離れたナンセンスなものであると思います。実際に車を運転していて経験した限りでは、例えば50kの速度制限の道路を制限を守って走っている車はほとんどない。50kの自動車専用道路なら最低でも60k,速い人は80kでも運転していて、それでも普通は事故を起こしていない。私は制限速度70kでも何も問題はないと思う。こういう基準速度を誰が決めるのか、誰も守っていない基準などは私は全くナンセンスだと思う。自分で車を運転したこともないような人間が決めているのではないか。こういうナンセンスは止めるべきである。実態に合わないナンセンスな制限速度で速度違反の犯罪者を創りだすのは法治国家のあり方としても大いに問題であり、もういいかげんに止めるべきである。もっと良識を持って実態に合う制限速度を決めるなければいけない。

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2009年3月30日 (月)

『した振り仕事』繁盛記

 かねてより私は日本のキャリア官僚に対する不信感を抱いていたのであるが、雑誌『諸君!』4月号の養老孟司氏の論文『食料自給率改善に秘策あり 農水官僚を即刻、農村に”下放”せよ』を読んでいて、キャリア連中のやっている仕事の本質は「形だけやった振りをするだけの”した振り仕事”」なのではないかと気が付いたのである。私は数年前に停年退職し年金生活をしているおかげでNHK・BSが日中放送する『国会中継』を見ることができる。働いていたときは『国会中継』を放送していることすら知らなかった。これは非常に面白い番組で、面白いというのは国会議員の質がよく分かるのである。例えば社民党の党首・福島瑞穂氏の麻生首相への質問などを見ていると、まるで「自分の意見は絶対に正しいのだから、麻生首相は当然、それを受け容れるべきである」という話しぶりで、まるで駄々っ子がする意見の押し付けを見ているようである。福島党首は弁護士であるそうだが、私はこうした幼稚な質問しかできないような人間には到底訴訟を依頼する気にはなれない。さらに民主党の議員の質問によく見られるのは、単なる揚げ足取りとしか考えられない内容の質問であり、またしても質問者の知的レベルを疑わざるを得ないような下らない質問なのである。
 もし多くの国民がこうした議員の具体的な行動を見ていたら、きっと次回からそのような程度の低い議員への投票は行なわないだろうと思われるのである。しかし質問している当の議員は、自分が質問している姿がTVに映っていること自体が誇らしいものであると考えているようであり、質問内容を有権者がどのように評価するだろうかとなどとは全くは考えが及ばないようである。ということはやはりそうした議員というのは、私に言わせると初めから情けないレベルの人間なのである。
 こうした知的レベルの低い議員たちが、どうしてキャリア官僚たちに対抗できるであろうか。キャリア連中は、知的なレベルについては厳しい試験を通過してきているのである。既に何回か書いたが、国会議員は、どれほど知的なレベルが低くても(露骨に言うとどんなに馬鹿であっても)、選挙に受かりさえすればなれるのであるから、普通に考えれば国会議員たちの平均的な知的なレベルはキャリア官僚たちの平均的な知的レベルには到底及ばないはずである。ましてや最近は2世議員だ、3世議員だといって、その議員適性などは厳しくチェックされないままに安易に国会議員になる者が増えているという恐ろしい事態が生じているのである。これも露骨に言うと、世間知らずのプータロウが国会議員になっているのである。
 『国会中継』に話を戻すが、議員の質門に対して各省庁の次官などが応える場面がある。その時私が見ていて、なんでこんな人物が次官なのかと思うような人が出てきて答えていることがある。外見だけで判断してはいけないと言われるかも知れないが、しかし人物というのはある程度は外見に現れるものであると私は思う。したがって私はキャリア官僚について深い疑いを抱かざるを得ないのである。
 過去に社会保険庁の長官をした人物を私は全く知らないが、あれだけデタラメな仕事をしていた組織はおそらく”ヤミ専従”などが日常的に跋扈しており、長官だったキャリア連中は「臭いものに蓋」で「見て見ぬ振り」をしていたに違いないと私は睨んでいる。キャリア連中の仕事に対する姿勢は、基本的には「見かけの上で形だけは仕事をした振りをして真面目に仕事はしないし、難しいことはやり過ごす」というもの、すなわち『した振り仕事』こそが彼らの仕事の本質なのではないだろうか。最近農林水産省で”ヤミ専従”が大勢いると疑われて、その調査を担当した課長が実態を隠すために、実際に上がってきた調査資料を隠してデタラメな資料作成をして新聞社に渡すという驚くべき事件が発覚し、課長職を更迭されたが、これなどは私の言う『した振り仕事』などを遙かに上回る正にウルトラCの仕事ぶりであった。キャリア官僚の仕事のデタラメ振りはついにここまで進化したのである。最近何かと不祥事続きの農林水産省という組織を防衛するための行動であったと報道されているが、キャリア官僚という連中がここまでやるとなると、国民はもはやキャリア官僚たちを全く信用することなどできない。
 他方で民主党党首の小沢一郎議員の西松建設からの巨額献金事件に関する意見を聞く議員総会において、ほとんどの議員が意見も言わずに鳩山幹事長は小沢氏擁護の立場を支持しているが、国民の目からすると、億を超える多額の献金という事実があってなお問題はないというような民主党の議員の感覚は異常というしかない。また自民党の二階俊博・経済産業相も、献金額の規模は小さいといいながら西松建設から事務所賃借料相当額を個人献金に偽装して受取っていたのだから、自民党が小沢議員を批判するのは、昔の言葉で言うと「目くそが鼻くそを笑う」のと一緒なのである。こうした体たらくの国会議員がキャリア官僚連中を果たしてキチンと使えるものだろうか、大いに疑問だといわざるを得ない。怪しい国会議員たちを横目で見てほくそ笑みながら、キャリア官僚連中は『した振り仕事』でいい給料を貰い、年金もたっぷり、退職金もたっぷり、その上天下りでは、これこそ本当に『した振り仕事』繁盛記である。

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2009年3月23日 (月)

政府こそ本気で少子化の責任を取れ

 私は以前に少子化対策として育児手当てを一人月額50000円にして、国が全面的に子育ての責任を負うようにするべきだという提案を書いたが、今日(2009/03/23)の日本経済新聞に大和証券グループ本社の会長清田暸氏が私よりももっと大胆な少子化対策を提言していた。育児手当てを一人月額10万円にして、出生数の倍増をめざせと提言していたのである。最近のアメリカの証券業界の経営者というと、自分の収入を増やすことしか考えないロクデナシしかいないようだが、日本はやはり少し違うと感心した次第である。この提案は真剣に検討するに値するものだと私は考える。従来の日本政府の対策は全く及び腰で、真剣に出生率上昇を実現しようとは考えていないと思う。効果の有無に関わらず形だけやって、国民の批判に対応しようという見せかけのものに過ぎない。
 ところで昨晩NHK・BSでヨーロッパで出生率が一番高いというフランスと結んで少子化対策についての番組をやっていたが、結論的にいうと子供を育てることが負担にならない対策をフランス政府がキチンと行なっていることがよく理解できた。日本で出生率が上昇しないのは、日本政府が本気で少子化対策に取り組んでいないからであることも明確になった。麻生内閣では子育ては女性が主体だからというので小渕少子化対策大臣を選んだようだが、これなどは正に口先だけの対応に過ぎない。清田氏がいうように、至急出生率上昇のための対策を実施しないと子供を産める年代の女性は年々減るばかりで間に合わなくなるのだ。これだけは設備投資などと違ってお金を出せばいつでも増やせるといった性質のものではない。
 私は最近、麻生首相には完全に愛想を尽かしている。会社経営の経験も有って、経済などのことも分かっているようだと勝手に思い込んでいたのだが、話によると麻生氏が経営した会社はどれもロクな業績を上げていないという。どうやら麻生首相は、ええカッコしいのおぼっちゃまクンで、実は世間知らずのプータロウなのだとしか思われなくなった。日本の政治のトップに就くのが、こういう手合しかいないというのでは日本は良くなるはずがない。キャリア官僚といった手前の利益を計ることが一番の関心という連中が、エリートを自認しているような日本社会の将来にはもはや希望など持てるはずがないではないか。そうはいっても、日本がこれ以上没落する前にせめて麻生首相、育児手当て月額10万円の少子化対策ぐらい実行してください。これはきっと国内消費を増やして景気対策としても大きな効果があると思いますよ。一石二鳥の効果抜群の景気対策を見逃す手は有りません。

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2009年3月 8日 (日)

小沢代表の自民党体質とこれからの民主党

 民主党・小沢代表の秘書が企業献金容疑で逮捕されたが、小沢氏の自民党時代の行動に非常に傲慢不遜なところがあったことを知っていた私には、やはり小沢氏は自民党崩れなのだと思わざるを得ない。今回の事件に端なくも小沢氏の自民党体質がハッキリと現れたのである。私の感想は「やっぱり」である。
 小沢氏が民主党を育てて自民党に対抗できる勢力に仕上げたことを私は大いに評価するのであるが、かねてより小沢氏の体質には信用しきれないものを感じていた。西松建設からの献金相手は小沢氏に限らず、自民党にも二階経済産業大臣の他にも多数いたが、献金額からすると小沢氏が圧倒的に多い。どういうルートで入ってきたかを問題にすることは意味がない。問題は実質である。献金であればその金額こそが重要であろう。特にそれが議員個人に対するもので企業絡みのものであれば。億にも達する金額が企業から議員個人に対して献金されたとなると、そこに何らかの利益誘導があると考えるのが当然だ。
 小沢氏の2大政党時代を開いた功績は大いに評価できるとしても、今回の事件によってその先はもう小沢氏の出番はない。私は民主党にとっては、その方がよかったと思う。自民党の悪い体質を引きずっていた小沢氏からきれいに別れることができるのだから。後は残った人たちが頑張るだけである。自民党も非常に程度が低いものであったことが近年はっきりしてきたのだから、小沢氏がいなくなっても民主党は自民党に対抗できると思う。
 小沢氏なしでも政権獲得を実現できると考えることができいないようでは、民主党も全く大したことのない政党であると考えざるを得ない。背伸びしてでもこの機会を是非活かすことが出来なければならない。小沢氏なしでは何もできないというような意気地のない政党であるのならすぐにも解党をする方がよい。また自分から手を上げて小沢氏の後を継ぐという意思表示ができる人間が何人も出てくるようでなければ民主党は政党として政権担当能力などはない。最近流行の「させていただく』などという言葉を平気で使うような人間にはリーダー足りうる資格など初めからないのである。「私がやる」という主体性こそが求められている。

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2009年2月23日 (月)

経済学はなぜ共通の理解にならないのか

 アメリカは世界で最も経済学の進んだ国であろう。そしてそれはアメリカの大学で教えられている。したがって最も進んでいる経済学はアメリカの国会議員にも浸透していて良いはずだ。そうだとすれば今回の金融恐慌に起因するアメリカ経済の沈滞に対するアメリカ政府がとるべき対応について、当然民主党と共和党との間で大きな意見の相違が起きるはずがないと考えてもおかしくないと思うのだが、実際には共和党の議員たちは民主党が作成した多額の政府支出を伴う経済対策案に揃って反対した。共和党の議員たちには、かつて1930年代のアメリカの大恐慌のときに、政府は市場に介入するべきではないとした古典派の経済学に基づく対応の考え方が、今日もなおしっかりと居座っているようだ。しかも近年は「市場原理主義」の考えがが猛威を振るっていたから、尚更なのであろう。
 ところで私には、市場原理主義の考え方は、自分では具体的には何も考える必要がない思考停止の便利なイデオロギーでしかないと私には思われのである。市場に任せておけば経済行為はすべて最も効率良く遂行されるのだから、政府は市場に余計な干渉をするべきではないと考えるのが市場原理主義であるが、経済活動のレベルが急降下している現在、共和党の議員たちがそのようにのんきに考えることができるのは、そもそも彼らが職を失って喰うのに困ることなどない立場にいる金持ち連中だからなのではないか。今回の金融危機が起きたのも、彼らの信奉する市場の結果だとは彼らは考えないのである。彼ら共和党の議員たちは実際に起こった出来事には眼を閉じて見ようとせず、何も考えなくてよい「すべてを市場に任せるのが一番いいのだ」というイデオロギーに侵されている能天気な連中なのである。
 私は日本の政治家も不勉強だと思うのだが、アメリカの政治家も大して変わらないようである。キリスト教がアメリカ国民に圧倒的に刷り込まれているイデオロギーであるのと同じように、市場原理主義もアメリカ人に根強く居座っているイデオロギーであって、経済学が進歩しても、そんなこととは無関係に、不勉強な政治家たちの頭から離れることはないのだ。市場原理主義は、自分たちが住んでいるのは「市場という全能の神」が支配する理想郷であると信じることであって、宗教を信仰する人が現実に起こっていることの原因から目をそらして、この世に起こっている現実はすべて神の意思の現れだとする信仰という思考停止を選択するのと同じイデオロギー現象なのだと私には思われるのである。

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2009年2月20日 (金)

国会中継の面白さ

 年金生活に入っての効用と思ったことの一つは、日中に放送される国会中継を見ることができることであり、おおいに楽しませてもらっている。私も停年退職する前の昼間働いていた間は、国会中継が行なわれていることさえ知らなかった。
 今日(2009/02/20)も楽しませてもらったが、しかし残念ながら国会中継の質疑の内容そのものが面白いというのは少なくて、質問する議員の質が判かることが面白いのであり、ハッキリ言うとがっかりさせられることがままあるのだ。時々、実際に見ていて「なんだこりゃ」と呆れてしまい、すっかり情けない気持ちになるのである。
 例えば民主党の議員の質問には単なる揚げ足取りまたは言質取りとしか思われないような程度の低い質問がまま見られる。もう少し頭を使った、見ているわれわれ国民が鋭いと思えるような内容のある正鵠を射た質問をして貰いたいのだが、自分の考えていることは絶対正しくて、首相や大臣にはその自分の考え方に何が何でも宗旨替えさせようというだけのしつこいだけの繰り返しの質問がよくある。内容そのものの質によって知性でねじ伏せるような質問を見たいと思うのだが、知性のキラメキなど全く感じられない愚劣な質問を平気でしている。私に言わせると、「あんたは馬鹿か」と思わせるだけの程度の低い質問をしている。きっと本人の頭が全く悪いせいなのだろう、国民から自分の質問した内容が程度が悪いと馬鹿にされていることさえも判っていない情けなさなのである。こうした愚劣な質問をするものだから、質問に答える方もいい加減になってしまうのだろう、応え方は一応丁寧なのだが(世間で言う慇懃無礼)、内容的には木で鼻をくくったような内容のことを言って済ましていることがあるが、これは質問者の自業自得というものである。しかし国民、納税者という目で見ると、こんな下らないことをさせるために貴重な税金を使うのは止めてもらいたいと腹が立つのである。
 例えば今日、民主党の議員が高速道路の無料化の経済効果についての試算値をあげて、麻生首相に不況対策のための経済政策として高速道路料金の無料化を迫っていたが、建設費や補修維持費といった費用の返済・負担を無視して議論して平気でいるのだ。こういう実務的な感覚が欠如した内容の話を平気でするのは議員として不見識極まりないと言わざるを得ない。金銭感覚が欠如しているから、きっと税金の無駄遣いということもよく分からないのであろう。議員も官僚も、お金を稼ぐということを知らないから、こうした馬鹿話も平気でできるのだ。金銭感覚のない人間ばかりがずっと政治に携わってきたからこそ、日本政府が膨大な負債(国債)を抱えることになってしまったのである。そういう観点からすると、笠井潔氏の言う『国家民営化』ということも真剣に検討する必要があると思うのである。
 今日は共産党からは女性議員が質問を行なっていたが、今までも見てきた経験から言うと、女性議員の場合には自分を正義の味方と思い込んで、情緒的に偏った質問をする傾向が強いようだ。彼女たちは、福祉というと何でも国や地方政府などの公共的な負担で行なうことだけを求める意見の持ち主が多いようである。彼女たちもきちんとした金銭感覚を持っていないのである。しかしそれでは困るのだ。フリーランチなどはありえないのである。そうした基本的な認識を欠いて政治を論じては駄目なのである。金銭感覚の欠如した政策は無意味である。
 国民新党の議員が日本郵政のオリックスへの不動産売却に関して、売却後の転売の金額が郵政の売却金額からすると飛んでもない金額になっていた事実を指摘していたが、その話を聞くと全く呆れるしかない。1万円で売った資産が何千万もで転売されている。西川社長は民間出身だということだが、ことオリックスへの資産売却については到底民間出身者の行動とは思われないことをやっている。何か裏があるに違いないと推測される。今回のオリックス問題は、鳩山総務大臣が言い出したことであるが、これも民主党が対抗政党としての力を得たからではないかと私には思われる。もし参議院でも自民党が多数を占めていたら表沙汰になることもなかったのではないかと思うのである。
 ところで与党の議員が質問すると、決まって提灯持ちの質問になっている。そんな質問をしてもらうために国民は税金から議員に給料(歳費)を払っているのではないのだということを認識してもらわなければ困る。そんな質問しかしないのでは、国民に対する裏切りも同じなのである。ここにも金銭感覚の欠如が露呈している。
 国会中経を見るのは面白いが、もっともっと質疑の内容の質を向上してもらいたい。日本の社会が停滞するのも政治の質の低さが影響しているに違いないのだ。

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2009年2月19日 (木)

自民党は末期症状

 酩酊会見事件で中川財務・金融担当大臣の辞任の経過を見ると、自民党は本当に末期症状なのだなと思わざるを得ない。世界が深刻な経済危機に陥っている時に、ローマで開催されたG7の重要な会議に出席した中川大臣が、本人は否定しているが、酒に酔って記者会見に臨んで世界に醜態を去らしたのである。中川氏が酒が原因と考えられる不始末については、過去にも閣議にふらふらとして出席したといったこともあったと伝えられていたが、そのような前科のある人物を「盟友」としていた麻生首相は、酒飲み友達だから重要ポストに就けたのだろうか、とその見識が疑われる事態になっている。
 こうしたことを見ると、自民党は最早完全に末期症状であるとしか思われないのである。私は日本のキャリア官僚という連中は、自分たちは優秀なのだといった気位だけは高く、そして高い給料を得ているけれども、果たして彼らは国民のためになることを真剣に行なっているのかと考えると、到底そのようには思われないのである。年金生活に入っている私は、日中に放映される国会中継を見ることができるので時々見るけれども、そうした時に省庁の次官が答弁する姿を見ていて、とてもまともなことを言う連中とは思えないことがある。どうして国民はこんな連中に税金から高い給料を支払っているのかと腹立たしくなるのである。しかしそうした官僚連中がはびこるようになったについては、私は自民党の議員の資質の低さが大きな原因なのではないかと考える。自民党の議員たち自身がレベルが低いから、頭の良さを自負するキャリア官僚たちに馬鹿にされていいようにあしらわれ、操られているのに違いないと考えてしまうのである。前にも書いたが、議員というのはどんなに馬鹿であっても、選挙に受かりさえすればなれるのであって、その知的な資質は問われないという根本的な問題がある。
 自民党は長期に渡って政権を担当してきたのだし、官僚を使うのは議員の役目であると考えざるを得ないから、現在のように官僚たちの専横を許してきたのは自民党の官僚の使い方に責任があったと判断せざるを得ないのである。自民党の議員の知的な資質は余りにも低いものだったのではないか。そして今回の中川氏の醜態はそのことを証明しているのであって、この体たらくでは官僚たちに議員が馬鹿にされるのも当然であると思う。麻生首相の漢字知らずが報道されたが、中川氏についても衆院での来年度予算の説明の文書を読む際に、26個もの漢字の読み間違いをしていたと中川氏の辞任に関連する報道で伝えられていた。この説明文書を中川氏自身が書いていないことは漢字の読み間違いによって明らかであるが、仮に官僚に書かせたものであっても仕事に真剣に取り組んでいるような人間なら事前に目を通して自分で正しく読めないようなものはチェックしていて当然である。中川氏はそうしたことさえもやらなかったということであり、それは中川氏の仕事に対する姿勢が全くいい加減なものであったことを現している。麻生首相も中川氏も、仕事に対する姿勢は多いに疑わしいと考えざるを得ないのである。こうした不真面目な政治家が自民党という政党の代表のようになって政権運営を行なうということは、自民党が国民を虚仮にしていることである。そういう態度の政党には、国家の運営に関わる資格はない。民主党もそれほど信用できるとは思わないが、とにかく現状の自民党は政権から外れて出直すしかない。自民党の若い人たちはもっと真面目に政治という仕事に取り組むべきである。そして今までの悪い体質を根本的に転換しなければ、自民党には未来はないと悟るべきである。

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2009年2月 6日 (金)

天下り・渡りに関するキャリア官僚の答弁の愚劣

 先日国会中継で、民主党の議員が農林省のあるキャリアの渡りの実態を示して、天下り・渡りについて農林省が深く関与しているとして問題性を指摘していて、そのことを農林省は認めるべきだと追求したことに対して、農林省の次官がそのことについて回答した内容を聞いてあきれ返ってしまった。民主党の議員が1名の農林省OBの実際の天下り・渡りの実態を示して、これは本人が認めた天下り・渡りの事実であり、農林省が長年に亘って作り上げた天下りシステムが存在することを認めるべきだと迫ったが、農林省の次官は省内にそのことに関する事実を知っている者がいないし資料がないといって否定していた。
 民主党の議員が示した天下り・渡りの事実を認めた農林省OBは、おそらく「このような天下り・渡りはやってはいけないことだ」と認識・反省して、自らの不利益を考慮しないで国民に実態を明らかにしたものと思われる。これに対して、農林省次官の全く嘘で懲り固めただけとしか思われない事実関係を知らないとする発言は、納税者としての国民の立場から見ると、「このような破廉恥漢が次官になって、嘘八百をぬけぬけと語っている。」と心底怒りを禁じえないものであった。こんな愚劣な人間が次官という官僚の最高位に上り詰めることが出来たというのは一体どうしたことなのか。官僚組織のなかでだけ通じる特殊な理由があるのに違いない。こういうことを平気で口にして恥じない官僚とは、キャリア官僚たちにとっては守護神なのだろうが、まさに国民の敵そのものなのである。

 ところでたまたま読んでいた牛島信氏の『この国は誰のものか』(幻冬舎)に、官僚の民間企業に対する天下りについて書いていたところがあったので、その部分を引用する。
 「ほとんどの場合、特定の人物の優秀さを見込んで役所からもらい受けるなどという話ではなかったのだ。役所があり、そことの関係を維持する、露骨にいえば最低限苛められないように、できれば他より優遇されるように、という権力に対する一企業としての利害から受け入れたのだ。
 今でも同じことが続いている。場合によっては、天下り後の待遇を、給与の額、個室を用意すること、選任の秘書をつけること、そして車をつけることまで、文書で確認させて行われてきたのだ。」(P32)
 国民の税金が。こんな連中に対して高い給与を支払うことに使われているなど、全く許しがたいことである。彼らの仕事は国民に対して果たしてどんな役に立っているのだろうか。むしろ国民に対して害を与えているだけなのではないのか。日本のキャリア官僚などといった手合は、まったくの井の中の蛙であって自分たちは優秀で偉いと自己認識しているようなのだが、実際にやっていることは集団としての官僚組織を利用して自己利益を計っているだけなのだ。そしてこうしたことを許したのには、今まで政権を担ってきた自民党の議員たちの無能がある。自民党の議員たちは余りにも無能で不勉強、不見識なものだから、一応勉強はできて頭の良いキャリア官僚たちに実際の政治の中身を依存するしかなかったのである。そのことは今や全く明らかであると思う。議員とは、極論すれば選挙に受かりさえすれば馬鹿でもチョンでも成れる職業であることは、紛れもない事実なのである。悪知恵に長けたキャリア官僚たちには手もなく騙されてきたのであろう。
 どうやればキャリア官僚を超える知能レベルの議員を国民は選挙を通じて国会に送り込めるのか。それは克服することは非常に難しい問題だ。実務的に考えると、キャリア官僚に対抗できるだけの優秀な政策スタッフを政党として揃えることであろう。たとえ議員その人は頭が良くなくても、頭の良いスタッフを揃えればキャリア官僚の悪知恵に対抗することは可能であろう。キャリア官僚の現状を考えるかぎり、政治家は官僚を敵として対応するしかないと思う。政策を官僚に依存しないで立案できるような体制を早急に確立することに政治家は力を注ぐべきである。現在の天下り・渡りの元凶がキャリア官僚の早期退職という慣行にあることを麻生首相は認識しているようだ。そうであるなら麻生首相はその問題点を官僚制度の改革によって正すことに直ちに着手するべきである。

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2009年1月18日 (日)

『まんが パレスチナ問題』を読んで

 ガザへのイスラエル軍侵攻がようやく収まってこようとしている。私はつい最近までパレスチナ問題の歴史的な詳細を知らずに来たのだが、山井教夫氏の『まんが パレスチナ問題』(講談社現代新書)を読んで、やっと経緯が良く理解できた。
 第1次世界大戦後、パレスチナ地区は当時イギリスの委任統治領となったが、第2次世界大戦後パレスチナは暴動やテロが多発して、それに手を焼いたイギリスは委任統治から手を引くこととして国連にパレスチナの処理を任せることにしたところ、アラブ地区と、ユダヤ地区、そして国連管理地域としてのエルサレムとに分割することを国連が決めたのであるが、ユダヤ地区のその領地の大きさは人口比と違って、ユダヤ人に圧倒的に有利な形で取り決められたのであった。このことがアラブ人の怒りを買って、内乱状態となったという。
 第1次世界大戦以前のパレスチナ地区には、少数派としてのユダヤ人もアラブ人と一緒に住んでいたが、何ら問題もなく共存していたそうである。その状態を変えたのがイギリスであった。イギリスは第1次世界大戦の時にアラブ人と交わした約束を平気で破って、ユダヤ人のパレスチナ移住を無制限に認めることにするなど、二枚舌三枚舌の行動を取った。さらに第2次世界大戦後は西洋諸国が中心となって、既に述べたようにユダヤ国家の建設を認めてパレスチナの土地の分割を行なった。ユダヤ人国家としてのイスラエルの建国を後押ししたのである。そのことは既に居住していたアラブ人たちをその地域から逐い出すということであったから、アラブ人の怒りを買ったのである。
 ところでユダヤ人国家の建設に関連して山井氏は次のように書いている。
 「ユダヤ人を迫害したり虐殺したのは、いつもヨーロッパのキリスト教国じゃないか。」(P139)
 「ホロコーストの全貌が明らかになると、国際社会はユダヤ人に対して自分たちは何もできなかったと、うしろめたい気分になって、同情的になった。それでも、積極的にユダヤ人を受け入れようとする国なんてなかった。」(P142)
 山井氏は書いていないが、私は西洋における以上のようなユダヤ人排除の姿勢の裏には、「イエスを殺したのはユダヤ人だ」というキリスト教徒のユダヤ人に対する憎しみの気持ちが隠れていると考える。イエスを十字架にかけて直接に殺すことにしたのは当時のローマ帝国の総督であったピラトであるが、彼をそのように仕向けたのはユダヤ人たちであったと考えられている。従ってユダヤ人はキリスト教徒にとっては仇敵でもあるのだ。
 現在はユダヤ人とアラブ人とが直接に対決しているが、この対決の基となったものは西洋諸国のユダヤ人排除の姿勢とそのための土地をパレスチナを分割してユダヤ国家の土地に設定した西洋諸国の決定なのである。さらにユダヤ人、アラブ人ともに一神教徒という特殊な精神構造を有する宗教者であることが政治的な和解を困難にしている。なぜなら一神教徒にとっては、異教徒はすべて自らの信じる唯一の超越神に対立する存在である悪魔なのである。相手は悪魔であるから、異教徒を抹殺することは正義であると考える、従ってユダヤ人もイスラム教徒も相手に対して容赦がないのである。

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2009年1月 9日 (金)

李宗吾著『厚黒学』を読んで判ったこと

 今『厚黒学』(徳間文庫)を読んでいるが、この本の日本語訳のサブタイトルが「厚かましく、かつ腹黒く生きよ」となっているので内容も随分と俗っぽい際物の本だろうと私は思い込んでいたのだが、決してそのようなものではなくて、私にとっては非常に役立つところのあった本であった。
 この本の著者李宗吾は自分が是非とも中国史に見られる英雄豪傑になりたいと考えて、まず世間で言われる儒教関係の本、更には諸子百家の人たちの本も読んでみたが、納得のいくものが得られなかったという。そしてふと三国志に描かれている英雄豪傑である劉備や曹操などを思い出して考えてみると、彼らは全く面の皮が厚いか、もしくは徹底的に腹黒い人間たちであることに思い至った、そして英雄豪傑とは実は鉄面皮で腹黒い生き方をした連中のことなのだと悟ったという。ここにおいて李宗吾は『厚黒学』というものを発明した、と書いている。
 英雄豪傑とは一国さらには中国全体を支配した皇帝となった人間たちのことである。かくして中国に於いては彼らは例外なく極端に面の皮の厚いかもしくは腹黒い人間たちであったことを、李宗吾は発見したのであった。 中国の伝統的な正統思想は儒教であり、皇帝は天子によって有徳と認められて正統な支配者としての資格を与えられ、皇帝として選ばれたと説明するのが儒教の根本思想なのであるが、これは全くの嘘であったと李宗吾は主張している。
 そして『厚黒学』を読む進む内に次のような文章を見て、私は非常に得るところがあった。つまり西洋社会に於けるキリスト教と中国社会に於ける儒教との類似性であった。まず李宗吾の文章を引用する。
 「漢の武帝の時代にいたって六経(りくけい)(易経・書経・詩経・春秋・礼記・学教)が顕彰され、他の諸子百家が排除されたことから、孔子のみが聖人と認定され、他の諸士から聖人の称号がいっせいに剥奪された。かくして孔子は御賜(皇帝から賜った)の聖人となったのである。」(P92〜93)
 これはキリスト教がローマ帝国の国教となったのと同じような事情ではないか。かくして中世の西洋ではキリスト教徒でなければ社会生きる場所がを見出せなくなったが、それと全く同じ事態ではないか。
 「漢の武帝が孔子を尊んで聖人にまつりあげて以降、天下の言論はあげて孔子一色となり、それにあえて逆らうものはなくなった。」(P104)
 儒教が中国のキリスト教のようなものであったことは、次の文章によっても明らかである。
 「中国の聖人は、専横極まりない。かれらがいわなかったことは、後人も言及することはできなかった。もしも口にすれば、たちどころに異端の烙印を押されて総攻撃を食らう。」(P105)
 儒教は宗教的な要素もあるとはいえ、異端を許さないなどというのは、西洋社会の正統宗教となったキリスト教に似た姿勢であり、こうして儒教は社会の主要な権力基盤となるイデオロギーとなり変化を許さない膠着した社会を創り出したのである。どのような社会にも常にその社会の主流となったイデオロギーが存在するのだ。そして宗教や哲学などのイデオロギーは俗社会を側面からを支える権力補助装置として機能し、俗社会の権力とイデオロギーとはお互いに強く依存しあうようになるのである。
 「学術上の黒幕は、政治上の黒幕と同断である。すなわち聖人と君主は・・・・・、いついかなるところでも持ちつ持たれつ、あい依るのである。聖人は君主の威力にすがらずしてはあれほどの尊崇はかちえなかったし、君主といえども聖人の学説によらずしては、あれほどの隆盛はなかった。」(P107)
 しかしそういう事態の中にあった皇帝制度は中国国民にとっては災いそのものであったと、李宗吾は考えている。
 「中国の人民は数千年にわたって君主の苛酷な圧迫をうけつづけた」(P107)
 権威となった思想は、哲学であれ宗教であれ、その正当性によって社会を支配しようとする。
 キリスト教に於ける異端の問題もイエスが言い出したものではなく、その後継者たちが言い出したもので、必死に異端者狩りを行い魔女裁判を行ない、大勢の信徒をキリスト教会自体が殺したのであった。他方中国では儒教が同じような立場で機能していた。李宗吾は次のように書いている。
 「孔子自身はけっしてわれわれに圧迫をくわえることはなく、また異説の禁止もとなえなかった。しかし後継を称する人びとは誰もかれも孔子をかつぎだして一切をおさえつけ、学者の意思を孔子の範囲から一歩も外に出させようとはせず、その心中にはいつも孔子が蟠踞していた。」(P108)
 この文章の「孔子」を「イエス』に置き換えても何の違和感もないであろう。
 キリスト教はその内部に哲学的な要素として神学を発展させたが、中国では宗教的な要素は道教が担い、哲学的な要素を儒教が担当するという分担であったようだ。
 『厚黒学』を読んだことによって、儒教がいかにして中国に於いて正統思想として圧倒的な影響力を持つに至ったかを知ることができたたことは、西洋のキリスト教が果たした歴史的な意味を理解する上で私には大変役立つものであった。

白川静氏の『孔子伝』(中公文庫)を読んでいたら、「体制の理論とされる儒教も、その出発点においては、やはり反体制の理論であった。』(P19)と書いていた。 これは、キリスト教が出発点においてはユダヤ教の一カルト(分派)であったことと良く類似していて面白いところであるが、しかし現代においては儒教の実社会に於ける影響力ははるかにキリスト教に及ばないところが大きな違いである。アメリカでは未だにキリスト教原理主義者が同性愛者の結婚反対や妊娠中絶反対などといって、社会的に大きな影響力を持っているのである。

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2009年1月 7日 (水)

ペイゲルス女史の『悪魔の起源』を読んでガザ紛争を見ると

 今日(2009/01/07)ようやくペイゲルス女史の『悪魔の起源』(青土社)を読みおえた。特に「第5章 サタンの地上の王国 キリスト教徒と異端者」を読んでいて強く感じたのであるが、キリスト教神学とは確かに論理的なものではあるのだが、根拠の無い前提に基づいて憶測に憶測を重ねるだけの議論であるとしか思われず、およそ宗教的な人間でない私などは読んでいて全くむなしさを覚えるものであった。生物進化学者のリチャード・ドーキンスが『神は妄想である』(早川書房)で宗教そのものを徹底的に批判しているが、『悪魔の起源』を読んでその理由が一層納得がいった。神の存在も悪魔の存在も、天使も霊も聖書のなかに良く出てくるようだが、宗教そのものは、ペイゲルス女史の言うように「不可視の世界」についての説明を行なうものなのであり、人々に神や悪魔、霊や天使のことを話としては語ることができても、その存在の根拠を示すことはできないものである。しかし宗教的な人たちは、その内容のもっともらしさによって納得して話を受け入れるのである。しかし私はこの本の第5章に引用されていた神学の議論を読んでいて、その話には全く根拠がないと感じてしまったために、気分が白けてしまって途中で読む気が失せてくるのを抑えることができなかった。つまり宗教的な話については、初めからそれを受けいれる準備ができている人と、その内容を根拠がある話かどうかという観点から批判的に判断する人とでは、話を受け入れることに関しては全く反対の姿勢が表れるのである。私個人としては、どんなに論理的な話しぶりで語られようと、その前提となる事柄に実在の根拠がないと判断するものは受け入れる気に全くならないようになってしまっているので、私は宗教は科学的な視点から見る限りは詐欺にも等しい録でも無いものであると考えざるを得なくなっているのである。
 しかし現在でも実際には宗教は大きな影響力を持っており、最近のガザに於ける武力衝突はユダヤ教陣営とイスラム教陣営との宗教戦争であって、それゆえに単純に利害の対立による国益の衝突としての戦争とは比べ物にならないくらい、仲介などによる和解的な解決が困難な戦争になっているのである。ペイゲルス女史の次の言葉がそれを良く説明している。
 「今日に於いても、多くのキリスト教徒たちはーローマ・カトリックも、プロテスタントも、福音主義者も、東方正教会もー「異教徒たち」(その中には、世界中の非キリスト教徒も含まれる)を、「異端者たち」(すなわち、彼らと意見を異にするキリスト教徒たち)を、そして無神論者や不信心な者たちを、サタンと関連づけている。何百万というイスラム教徒も、これと同様の黙示録的ヴィジョンを用い、しかもその方向を逆転させる。すなわち多くのイスラム教徒から見れば、キリスト教徒にとっての神の民が、「大いなるサタン」の眷族となる。」(P277)
 刷り込まれた宗教的な観念によって、ユダヤ教徒にとってもイスラム教徒にとっても、異教徒の敵は全て悪魔なのであり、抹殺するべき存在である。こうした宗教的な善悪の価値判断に関連した争いを有効に解決する道を人類は未だに見出していないのである。悪魔である相手を皆殺しにしない限りは一神教徒の間の宗教戦争は決着が付かないからである。
 こうしてみると、宗教とはなんと罪作りなものなのであろうか。一神教は人間にとっては災厄そのものなのではないだろうか。

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2009年1月 6日 (火)

日本はもはや『豊かな社会』ではない

 昨年のアメリカ発の金融危機により日本の製造業の現場では、販売不振による操業度の低下により派遣社員や期間社員といった非正規雇用の社員の解雇が相次ぎ深刻な社会問題となっているが、私はこれを見て自分の認識の誤りを認めざるを得なくなった。というのは私は日本はずっと米国の経済学者ガルブレイスの言う『豊かな社会』であると考えていたからであるが、どうやら日本はグローバル化の中で社会の体質が根本的に変わってしまったように思われるのである。
 例えばかつての日本の企業経営者は、社員に高い給料を支払えることを誇りにしてきたように思うのだが、グローバル化により企業は株主の所有物という考え方を経営者は持たざるを得なくなり、従業員に支払う給料をできるだけ低く抑えて利益を増やしより多くの配当金を支払うことが経営者の最も重要な義務であると認識するようになったようなのである。日本企業の経営に当たっての株主資本主義化によって、かつての社員を大事にする日本的経営は全く隅に押しやられてしまったのである。かくして日本の企業に於いて正社員の比率が減り、派遣社員や期間雇用の社員といった非正規雇用の社員が増えていった。そうやって日本企業は労務費を抑えてきたのである。今回経済環境の悪化に伴う売り上げ減少の結果、急遽派遣契約や期間雇用契約を解除された労働者は、もともと給料が少ないために貯蓄も無いようで、寮から追い出されるとたちまち路頭に迷うという状態の人たちがほとんどのように見える。これらの人たちはまさにワーキングプアなのである。このような状態で働いている若い人たちが多い日本の社会で、彼らが結婚し子供を作り育て、教育を受けさせることなどは、到底不可能であるから、この先の日本社会では子供の出生は減り続け、少子化は止めどもなく続き日本社会の人口は減り続けることになる。従って少子化対策は、若い労働者が雇用の安定と結婚して家庭を築いて子供を育てられる生活ができるだけの収入を得られるようにしない限り、日本社会は人口減の継続の下で坂道を転げ落ちるように衰退することが不可避となるのである。国会議員などの政治家の人たちは、もっと真剣にワーキングプア対策に取り組まなければならないのだが、果たしてどれだけの深い認識をもっているのだろうか。

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2009年1月 5日 (月)

日本人の理解の及ばない民族・中国人

 李宗吾著『厚黒学 厚かましく、かつ腹黒く生きよ』(徳間文庫)を読み始めたが、読んでみて感じたことは、それほどあくどい内容のものではないということであった。李氏は論語や孟子、大学、中庸といった儒教関係の文書を下敷きにしてこの本の文章を書いているのであった。
 もともと李氏は中国史に書かれた英雄豪傑になりたいと考え、四書五経を読んで研究したのだが、サッパリ得るところがなかった。と書いている。そして更に諸子百家の人たちの本を読み、二十四史(中国歴代の正史の総称)をも読んで研究したが、それでも納得のいく結論に至らなかったが、ある時ふと三国志の小説の人物に思い当たるものがあった、という。どのように思い至ったを、李氏は次のように書いている。
 「そうか、わかったぞ。昔の英雄豪傑は、ただ面(つら)の皮が厚く、心が腹黒いだけなのだ!』(P28)
 これが李氏が『厚黒学』を発明した経緯なのであって、後はこのことをもっと具体的に説明している。李氏は自序に於いて、『厚黒学』を発明したのは清朝末年であると書いているが、新聞連載を経て本となって出版されたのは中国が中華民国となった1920年代後半であった。
 ところで中国の正史(王朝政府が作成した歴史書)は、その国の皇帝が天により選ばれた正統な存在であることを立証するためのものであった。そして論語や孟子など儒教の教えは皇帝のあるべき道徳的な姿を描いたものだと云われるが、李氏は中国で皇帝となったような人物にとってはそんなものは何の縁もゆかりもないものだと考えている。皇帝になったような英雄豪傑は、全て徹底的に面の皮が厚く、なおかつ腹も真っ黒な人物たちであったと李氏は主張するのである。李氏によると、儒教に於いてこうあるべしとされた道徳的な皇帝などは全く現実とはかけ離れたおとぎ話に過ぎないのである。
 そして少し中国の歴史を知った私などから見ると、皇帝は一般の臣民のことなどは虫けらのごときものとしか考えておらず、中国の人民たちは皇帝たちによって徹底的に虐待されてきたのである。つまり李氏の結論としては、歴代の中国の皇帝という連中は、人間としてはまともな連中では全くなかったというのである。儒教の道徳などは皇帝が実際に行なった政治に於いては何の意味も持たなかったのである。
 ところで最近中国では乳児用の粉ミルクにメラミンを混入していた事件があったが、先日ののNHK・BSニュースでこのミルクを製造していた企業が倒産したと報じていたが、その経営者は中国政府が乳児用粉ミルクの製造中止を命じる9ヶ月前に既に乳児に健康被害が発生している事実を把握していながら製造を続けていたという。これを見る限り『厚黒学』の精神はまさに今もなお中国ではしっかり生きていることが判るのである。
 そのことを私は『暗黒大陸 中国の真実』(芙蓉書房出版)という本を読んで確認したのだが、これは中国で副領事を務めたアメリカ人ラルフ・タウンゼント氏が1933年にアメリカで出版したものである。それが1997年にアメリカで再刊されたのであり、この翻訳を私は読んだのである。この本に書かれたことは全て、1931年代初めに上海副領事として中国に渡ったタウンゼント氏が2年ほどの中国滞在期間中に自分で見聞したことに基づいている。そして彼は1933年版の著者序文に於いて次のように書いている。
 「本書で中国と中国人について述べるのだが、内容がいかに過激であろうが、そのことについて謝罪するつもりは全くない。・・・・・・
  中国で現在何が起こっているかを正確に調査したら、ほとんどが見るも恐ろしい、胸が悪くなるような結果しか出てこない。中国人の行動自体が恐ろしい、胸が悪くなるようなものだから当然である。」(P4)
 そしてタウンゼント氏は、中国に関しての情報の問題を更に次のように書くのである。
 「信頼できる情報というのが実に少ないというのが、中国問題の難しいところである。」(P6)
 タウンゼント氏によると滞在当時における普通の中国人の生活とは次のような悲惨なものであった。
 「普通の中国人が、一生で一度でもいいから希望なり夢なりを抱いたことがあろうか。そんな人は聞いたことも見たこともない。ただ食べて生きていければいいのである。ただ食べて生きる、これが血塗られた彼らの歴史なのである。」(P10〜11)
 まだ読んでいる途中であるが、タウンゼント氏が中国人の特徴として書いているところを少し引用してみる。
 「(中国人は)生きるためには敵を出し抜くしかない。金持ちになれるかどうかは一に『騙しの技』にかかっているから、金持ちは貧乏人より『騙し技』が上手だ。悲しいことに私の経験上、上流階級、特に役人はそう言える場合が多い。」(P22)
 彼は中国人は根っからの嘘つきであるという。
 「中国人と付き合っての印象だが、彼らはあらゆる階層の者が、当意即妙に、耳に優しい言葉を即座に考え出す。・・・・・
  嘘八百、何でもいいから愛嬌を振りまく、自分も本当のことを言わないから、人の話も信じない。」(P22〜23)
 中国人が共同作業ができないという話は他の著者も書いているが、タウンゼント氏は以下のように書いている。
 「必要なものはすべて揃っている。しっかり監督すればちゃんと働く。仕事熱心で頭も良い。しかし致命的に欠けているものがある。それは正直と協調性である。しかもこの二つは直そうとしても直せないような気がする。大人数の仕事となると中国人だけではうまくいかない。学力を実社会に応用できないのである。が、これはまだ可愛いとして、最大の欠点は誠実そうに見えていざという時に裏切ることである。・・・・・・・
 驚くほど裏切り者が多い。」(P28)
 中国人の話す饒舌な言葉の内容の無さについてタウンゼント氏は以下のように書いている。
 「どだい言葉には何の意味もないのである。また金もかからないから言葉を湯水のように使う。些細なことを長々と論じたり、心にもない賛辞を滝のように浴びせたりするが、ウソだと顔に書いている。・・・・・際限ないお喋りには怒りまで感じ、心底、中国人を軽蔑するようになる・・。」(35)
 「中国人は人を怒らせる天才であるが、同時に『なだめ上手』でもある。」(P35)
 また中国のマスコミは不愉快な事実は伝えないという。中国共産党政権が誕生する前でもそうであったのだ。
 「当然新聞等にはサイアクの情報は出せない。中国人読者の気分を害しないよう最大限の注意を払って記事を書いているからである。・・・・・だから。たとえ公然の秘密だとしても、不快感をあたえる記事は出さないのである。」(P30)
 また中国政府の役人の信頼できないことについて次のように書いている。
 「どんな立派な政治体制でもそれを支える役人が駄目ならどうしようもない。・・・・
 (中国には)政治を任せられる正直かつ誠実な人物がいないのである。」(P37)
 タウンゼント氏は中国を相手にする場合の注意事項を次のように書いている。
 「情報が氾濫しているが、まず中国人とはどういう人なのか理解することが問題解決の糸口になる。・・・・持って生まれた性格は変わらないものである」(P39) 
 タウンゼント氏のこの本を64年ぶりに1997年に出版したのはバーンズ・レビュー社であり、その時にウィリス・A・カートという人が序文を書いているが、その内容は以下のように中国に対して痛烈極まりないなものである。
 「この50年間、中国の共産主義者は自国民を約1億人も殺害している。銃殺、縛り首、踏み殺し、引きずり殺し、殴り殺し、のこぎり挽き、切り刻み殺し、飢え死に等と、ありとあらゆる方法で殺してきた。なぜこのようなとてつもない数の人間を殺したのか。それはマルクス・レーニン主義の罪ではあるが、同時に中国文化そのものの罪でもある。なんとなれば、国民がその支配者に虫けら同然に殺され、虐待されてきたのが中国5千年の歴史であるからである。・・・・
 しかし中国は好むと好まざるにかかわらず、今日中国は世界の大国となり、将来も無視できぬ存在である。しかし中国はいつまで経っても中国であり、変わることは絶対にありえない。」(P1)
 我々日本人は、中国人の本質を正しく認識していないのではないだろうか。中国人をその歴史的背景の下にもっと我々日本人とはと違うものとして理解しなければならないと思うのである。

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2008年12月31日 (水)

キャリア官僚に責任を取らせろ

 しばらく前に舛添厚生労働大臣が、社会保険庁で給料を政府から受取りながら本来の業務には従事せず組合活動に専念していた、いわゆるヤミ専従者40名ほどを、確か詐欺罪で刑事告発することにしたと、意気込んで記者会見しているのをTVのニュースで見たが、私はこれは全くの片手落ちであると思う。なぜなら当時社会保険庁の長官や社会保険事務所の所長といった立場にいたキャリア官僚の連中は、そのことを知っていながら、臭いものに蓋で見て見ぬふりをしていたのに違いないからである。もしそのことを全く知らなかったというなら、それこそ彼らが職務怠慢であった証拠である。間違いなく彼らは監督責任を怠っていたのである。したががってヤミ専従の職員たちが刑事告発されるのであれば、その彼らの専従時代の社会保険町長官や社会保険事務所の所長たちにも舛添大臣は何らかの責任追及を行なうべきなのである。私は、それをしないのは、舛添大臣自身が、キャリア官僚たちに完全に取り込まれているからであると考えざるを得ない。
 これを言うと、舛添大臣はきっと、見て見ぬふりの職務怠慢を証拠立てるのは非情に困難で、実務的には責任追及は難しいというようなことをきっと言うだろうが、その難しいことをこそキチンとやってもらいたいのである。厚生労働省のキャリア官僚たちは過去に於いて、血液製剤のHIV汚染の問題や薬害肝炎問題など、不作為や職務怠慢によって大勢の国民に健康障害を惹起したという大きな前科があるのだが、裁判などでその責任を取らされた人間は極く限られている。これには厚生労働省の歴代の大臣が官僚依存の安易な行政を行なってきたという、政治家そのものの無能や怠慢が関係していると私には思われるが、政府関係の人たちの根本的な問題は、何か失敗をしても全て国民の税金を使って処理をするから自分たちの懐は一切痛むことがないということである。だからこそ政治家の人たちには国民の代理人として官僚たちの監督を厳しく行なってもらいたいのである。
 今回ヤミ専従者からは、支払われた給与を返還させるということであるが、こうした役人としての立場への裏切り行為を安易に見逃してきた社会保険庁長官や所長たちにも厳しい対処をするべきであって、舛添厚生労働相にはこれら官僚たちの職務怠慢に関して何らかの制裁と過去に支払った給与の一部返還を厳しく請求するように求めたい。
 政治家よ、キャリア官僚質を甘やかすな、と強く私は求めたい。そしてそれを行なうためには国会議員の人たちは自らの国民の代理人としての政治家の役割をキチンと認識して自らを厳しく律して仕事をし、日本国憲法の改正などの大きな問題にもっと積極的に動いてもらいたい。海上自衛隊をソマリア沖に海賊対策に派遣することがようやく実現するようだが、その実施に当たっても、武器の使用の範囲がどうのと言った馬鹿げた話が自衛隊内で出ているのは、政治家たちの職務怠慢のせいであることを厳しく自覚してもらわなければ困るのだ。

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今日本人に必要なのは意志力である

 出版社ワックの月刊誌WILL新春特別号(2月号)を購入したのは、田母神論文特集をやっていたからである。既に一度WILLは田母神論文特集を1月業でやっているが、それが非常に参考になったので今回も買う気になったのであった。ところで講談社の発行していた月刊誌『現代』が今月を以て廃刊となったけれども、私はWILLを買ったのは今回で二度目であるが、確かに『現代』よりも紙面は面白いと思う。 
 前回の田母神論文特集号を読んで私は、日中戦争についての歴史認識を大いに深めることができた。私は、前回号に掲載された中西輝政氏の論文を読んで、従来漠然と思っていた日本の中国侵略説を根本的に改めさせられた。人間は相手に対して悪いことをしたと思うと、自然と態度が萎縮するものであるが、中国共産党政府は日本侵略説を振りかざして「歴史認識の統一」などを名目に日本の政治家をマインド・コントロールしてきたとしか私には思われないのっである。
 最近私は、岡田英弘氏や、中国人の柏楊氏、金文学氏、黄文雄氏などの本を読むようになって中国人というものについての認識を深めることとなったが、その結果は個人的には中国人とはできるだけ付き合わない方がよいという認識になった。以上の諸氏の書いた本を読むと、中国人というのはどうにも人品卑しい連中に思われてならないのである。それは基本的には中国の皇帝支配という長い歴史、つまり歴代の皇帝支配の下では中国人民が決して幸福な人生を送っては来れなかったということに原因があるように思われる。そういう過酷な歴史があったからであろう、中国には『厚黒学』という学説が1910年前後に李宗吾という人によって発明され、本となって出版されて、当時一世を風靡したという。日本語訳は徳間書店から文庫で『厚黒学』の書名で出ている。この本の評価については善悪両方の判断があるようだが、題名の通り「徹底的に面の皮を厚くし、腹黒く生きよ」と中国人に勧めているのである。金文学氏は『中国人民に告ぐ!』(小学館文庫)の中で一項目を立ててこの本について触れているので、少し引用しておこう。「『厚黒学』こそ、中国社会を生き抜く知恵」という項目の中で金氏は次のように書いている。
 「『厚黒学』という有名な本がある。この本は1917年に刊行され、当時大変なベストセラーとなった。それから70年あまりが過ぎた90年代の中国で復刊され、『洛陽の紙価を高めた』と言われるほど、全国各階層の読者がこぞって買い求め、半年間になんと1000万部が飛ぶように売れたというから、まさしく世紀の超ベストセラーである。」(P136)
 個人の成功の仕方を指南するという本は日本でも沢山出版されているが、中国の人口がいくら多いといっても、この内容からすると異常な売れ行きといわざるを得ないだろう。二匹目のドジョウを狙って、中国では沢山の便乗本も出版されたという。先日NHのBニュースで、北京オリンピック後の北京の様子をレポートしていたが、オリンピック開催中は当局の取り締まりによって姿を消していた露店での海賊版DVDの販売が復活していると報じていたが、さもありなんと思ったものである。私は中国社会は基本的に民度が低いと思うのだが、それは中国共産党政権の国民を支配するにはその方が良いという愚民政策の結果がもたらしたものだと思われる。そうした環境が、『厚黒学』人気の基盤をつくったのだろう。
 ところで金氏によると、李宗吾が言うには「中国の政治文化史は、まさに厚黒学史だという。」現代の中共政府の指導者胡錦涛などはまさにこうした厚黒学の伝統を実践してのし上がってきた人間であろうから、われわれ日本人は大いに心して対応しなければならないのであるが、どうも日本政府の中国との外向的対応を見ていると、日本人自身が中国を侵略したというマインド・コントロールの下にあって、しかも厚かましい中国人の声高な主張に対しては受け身に終始し、全く対抗できていないとしか思われない。そういう軟弱な対応を良しとするのが外務省のチャイナ・スクールと呼ばれる官僚たちなのであるから、日本の国益を守ることなどできっこないのである。大阪府の橋本知事が、全国学力テストの結果の公表に関連して、文部科学省官僚の総入れ替えが必要だと主張したのと同様に、荒っぽい話ではあるが、外務省の中国外交担当の外交官についても総入れ替えをした方がよいと思われる。
 話は変わるが、ソマリア沖の海賊対策に中国海軍が艦船を派遣するということが決定したら、わが日本政府でも海上自衛隊を派遣する話が表に出てきたが、中国政府や韓国政府の顔色を見てからやっと艦船派遣の意思決定ができるというような現在の日本政府の意志薄弱さは、一国民として見ていて情けない限りである。しかもその後に、派遣される自衛隊員がどの程度まで武器の使用が可能かといった話が防衛省内部で問題になっているという報道がなされた。田母神論文問題でシビリアン・コントロールがどうのと騒いだにもかかわらず、こうしたことが起きているということは、田母神論文ではシビリアン・コントロールが口先だけで問題にされたに過ぎないということである。こうした体たらくは全て麻生首相など歴代の政治家の不勉強・不見識と意志薄弱がもたらした問題なのである。現地で職務遂行に当たる自衛隊員が適切に任務を遂行できるように環境を整備しなければならないのに、武器使用制限付きで送り出すとしたら麻生首相は全く何も意思決定できない意志無能力者であるといわざるを得ないのである。そもそも最近の日本で流行の「させていただく症候群」からまず政治家は脱却するべきであって、リーダーたるべきものが、「何々をさせていただく」などという受動態の言葉遣いをするべきではないのである。「私はこうする。」と自らの意志を述べて実行し、その結果について責任をとるのがリーダーなのである。私は、最近の日本の駄目さは、日本人の独立不羈の精神の欠如、意志力の弱体化に起因すると考えるものである。

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2008年12月26日 (金)

ソマリア沖ヘの海上自衛隊の派遣が遅すぎる

 今日(2008/12/26)の日本経済新聞朝刊によると、政府はソマリア沖の海賊対策として海上自衛隊の派遣を検討しているというが、実施は来年春以降になりそうだという。これでは余りにも遅すぎる。
 今回のアメリカ発の金融危機に対してはIMFヘの資金提供を素早く行なった麻生首相だが、ソマリア沖への海上自衛隊派遣はなぜもっと早く実施できなかったのか。田母神前航空幕僚長の論文問題には随分素早い対応をしたが、これは私に言わせると思想・言論の自由という憲法上の基本的な権利を無視した暴挙であって全く馬鹿げた対応であった。しかし問題は、中国絡みとなるとこんなこともはやたらと素早く対応するのに、なぜもっと日本の国益にとって深刻なソマリア沖の海賊対策として海上自衛隊を派遣するとなると、グズグズとして素早い対応ができないのか。
 中国政府がソマリア沖に艦船を派遣することになったのを見てやっとわが国も派遣して良かろう考えたようだが、情けないほど自主性にかけたこのような対応しかできないのは一体どうしたことなのか。日本は中国の属国であるかのような恥ずかしい自主独立の精神に欠けたこうした対応こそが、世界の日本に対する評価を低くするのであって、これは麻生首相の日頃の言動とは全くずれていて、麻生首相も何か中国に対しては精神的に卑屈にならざるを得ないようなところがあるように見える。なぜなのだろう。
 日中の歴史認識の統一などということは全くナンセンスであり、中国は何かと日本政府にけちをつけることで付け込むことばかりを計っているが、それも日本の政治家がそうした中国政府のイチャモンを聞き流して相手にしなければやがて中国政府も、言っても無駄と認識して言わなくなるはずなのだ。自民党の政治家も民主党の政治家も中国政府に対する認識を根本的に改める必要がある。そうしないと日本の国益を守ることもできないであろう。現在日本政府は中国に対して歴史的にも何の負い目もない状態なのである。まずその点をハッキリと認識してもらわなくては困るのだ。
 自衛隊は軍隊であり、独立した国家が軍隊を保持するのは当然のことである。先日台湾では軍事演習を行ない、中国寄りといわれる馬英九総統も視察し、中国の軍事侵略に備えると言っていた。同じ中国系民族からなる台湾人でさえ、中国の軍事力に対する対応を意識しているのであるが、責任ある政治家であれば当然考えるべき事柄なのである。
 中国共産党政府の中国は日本にとっても仮想敵国の一つであり、当然その侵略に対して軍事的な対応策は事前に策定しておかなければならないものである。仮想敵国でると想定することは、何も中国と敵対関係になって国交を絶つなどということとは全く無関係なことであって、貿易や人の行き来などのあり方は従来通りに行なえば良いのである。ただいざという時の軍事的な準備だけはしておく必要があるというに過ぎない。もし現在の自衛隊にそのための準備がないとすれば、自衛隊幹部は職務怠慢といわねばならないし、防衛大臣もその準備がキチンと行なわれているかを確認しておかなければならない。
 中国に関して話が長くなったが、ソマリア沖の海賊対策に対する日本政府の対応は国民の目から見て情けないくらいにお粗末かつ軟弱で、自民党政府は国益を真剣に守ろうという意識がなさすぎると言わざるを得ない。こうした点を見ても、自民党政府は既に政権担当能力を失っているのであり、政権の座を早く降りるべきである。

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漢字制限のナンセンス

 2008年12月26日朝刊の日本経済新聞の『ブッシュ政権の8年』を読んでいて、何ともおかしな気分になった。
 「減税と規制緩和が象徴するブッシュ政権の経済運営は、住宅バブルで好況を演出し、その崩壊でならくに落ちた8年だった。」
 この文章の中で、「ならく」という平かな表現が何とも白けた気分にさせたのである。どうして奈落という漢字を使わなかったのだろう。こんな簡単な漢字でさえも制限されているのであろうか。NHKのニュースでもよく2字の漢字表現を「漢字一字+仮名書き」で表示しているのに出くわし、何とも違和感を覚えることがある。一体何のための漢字制限なのだろうかと、そのたびに思うのである。政府が漢字制限をするということ事態が、私には許しがたいことに思われる。漢字を使うことは文化であると私は思うのだが、それを政府が制限しなければならない理由 はないと思う。いやそんな制限は許すべきではないのである。マスコミが唯々諾々と従っているとしたら、全く腰抜けの情けなさである。
 漢字制限を別にしても、最近の文部科学省のやることは全くナンセンスが多いと思う。例えば全国の学力調査の市町村別などの結果を公表してはならないという。無益な競争を防ぐのが目的だというが、競争を否定すること事態がナンセンスな発想である。日本には昔から「切磋琢磨」というよい言葉がある。これは一種の競争意識でもある。競争を意識させないようにするというのは、国民の精神を軟弱にすることであるということを文部科学省の役人たちは理解できないようだ。また文部科学省の役人たちの言うことを真に受けてこのナンセンスを押さえ込めなかった自民党の歴代の文部科学省大臣も全く見識に欠ける連中だ。安倍、福田、麻生と三代続いた首相はどれも情けないくらいに中身のない連中であったことがはっきりした。既に何回も書いたことであるが、自民党には人材が払底しているとしか思われない。それでも政権を手放したくないという権力意識だけはいっちょまえに以上に旺盛なのだ。
 ところでこういう馬鹿な感覚と驚くほど低い見識しか持てないような文部科学省のキャリア官僚たちは、大阪府の橋本知事が言うように、全員入れ替えなければならないと思う。国民や国家のことよりも自分が出世することの方がはるかに重要だというキャリアの感覚はエリート意識ばかりが増長した中身のない全く歪んだものである。出世するためには体制順応するしかないのであろうが、そのような一律思考しか認めない体質の組織が教育という重要な課題を担当するというのは全く恐ろしい限りである。「ゆとり教育」という、結果として全く愚劣なものであることが判った政策を実行して、文部科学省は国民と国家に多大の損害を与えたがその責任は誰も取っていない。役人たちは失敗を全て国民の税金で尻拭いすればいいのだから、本当の責任意識は発生しない。それを監督するのが国会議員であるはずだが、自民党の国会議員はそれをキチンと行なってこなかった。官僚に依存する形でしか仕事のできない自民党議員には、そうするだけの意識も能力も能力もなかったのであろう。
 秋田県の寺田知事が、文部科学省の指示に反して学力テストの市町村別の結果を公表したのは健全な判断であった。それに対して文部科学省は、するなという指示を無視されて腹が立ったのだろうが、自分のやっていることの愚劣さを反省する能力もなくグダグダと下らない反論を行なって、相変わらずの馬鹿さ加減である。自民党はこうした文部科学省のキャリア官僚の全員放出・解雇を直ちに実施するべきである。しかし意気地無しの自民党には到底できないであろう。
 今回の世界的な金融危機は市場原理主義の自由放任がもたらしたものであるが、日本の教育行政はもっと教育現場の自由放任にかじを切るべきであり、父兄がどの学校の教育、更にはどの先生の教え方が良いのかを認識して選ぶ選択権を持つことによって教育現場に刺激を与えるべきなのである。漢字制限などという余計なことに口出しをする不見識極まりない馬鹿な官僚に国民の税金から高給を払うべきではないのである。

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2008年12月12日 (金)

マーティン・D・ワイスの『ザ・クラッシュ』を読んで

 古本屋で目に入って買った、マーティン・D・ワイスの『ザ・クラッシュ 暴落から資産をどう守るか』(ダイヤモンド社)を読んでいるが、原書はアメリカで2003年に発刊されている。この本は小説であり、まだ最初の方を少し読んだだけであるが、目次を見た限りでも、ワイスはアメリカ社会での経済崩壊を予想していたことが分かる。そして彼の予想したとおりにアメリカ社会は今年2008年にクラッシュした。1929年の株式相場の暴落を切っ掛けにアメリカ社会は大恐慌に陥ったが、今回も始まりはウォール街であった。近代の経済社会は、金融部門の崩壊が引き金になって社会全体の経済の混乱をもたらすようである。いかに金融技術が発展してもお金そのものを商品として扱う金融部門こそが問題の元凶であり、パンドラの箱なのだ。
 目次を見ると、この本ではサブプライム・ローンのことは取上げられていないようだが、読み始めてすぐにアメリカでは大企業も平気で経理的な操作を大掛かりにやっていることが書かれているし、それを会計事務所の職員がコンサルタントとなって、見せかけの利益作りなどの手伝いを何ら悪びれることも無く、当然の事としてアドバイスする場面が描かれている。いかにもアメリカ的な情景である。エンロンやワールドコムがどのように不正な経理操作を行ない、経営トップが貪欲に会社から金をむしり取ったか、その実際が説明されている。
 アメリカ企業の経営トップなどは、企業内の権力と個人的な利得が唯一の考慮するべき事柄で、従業員の幸せなどといったことは天から視野に入ってなどいないようなのだ。この小説で描かれている企業のCEOや会計事務所の職員の行動がどこまでアメリカ社会の現実を反映しているものであるかを私は確認する手段を持たないが、今まで得てきたアメリカ社会に対する知識から判断するとワイスの書いていることはウソとは思われない。
 近代資本主義が成立する上でプロテスタンティズムが大きな役割を果たしたというのが、マックス・ヴァーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で行なった論証であり主張であるが、まさにプロテスタントの一派であるピューリタンが移住して建国したアメリカ社会における現在の起業経営者の精神は、ワイスの描くところによると、キリスト教精神とは全く無縁な貪欲だけが支配する低劣なものに堕してしまっているとしか思われない。そして会計事務所のコンサルタントはというと、経営トップの利益を計ることに役立つアドバイスをすることによって自らの存在価値を主張するだけの公共性とはおよそかけ離れた役割に専念するだけで、会計事務所がもはや社会的インフラとしての役割を自ら放棄してしまっている姿は、アメリカ社会の病理を鋭く現している。このような体質の企業しか作ってこれなかったアメリカ社会だから、製造業のような地道な企業が存続できなくなったのもけだし当然だと、私はこの本を読んで深く納得させられたのであった。
 それを単純に、製造業そのものがもはや時代遅れの存在だからと言うのは間違いであると思う。いくらお金が沢山あっても、食料や製品といった物がなければ人間の生活は成り立たない。誰もお金そのものを消費して生活することなどできないのだ。お金と交換して手に入れることができる財やサービスといった実物が供給されない限り、お金は人間の生活のためには役に立たないのである。アメリカは強いドルによっていくらでも財を輸入することができるという恵まれた立場にあったために、財を供給する製造業がひどく弱体な国家になってしまったのだ。今後ドルが世界通貨としての信任を失えば、財貨を輸入することもできなくなる。そうなった場合にはアメリカ人はどうやって生活物資を手に入れることができるのだろうか。
 アメリカの企業社会は今や『まともさ』という価値観を踏みにじってしまったのである。『お金を儲けることがすべてである』とする価値観によって運営されていたからこそ、GMもフォードもクライスラーも、燃費の悪い大型車ばかりを作って、利益率の良くない燃費の良い車には見向きもしなかったのだ。アメリカ発の金融危機の波及によって世界中で自動車ローンも供給が滞り自動車販売が落ち込み、社会全体として不景気となりガソリンなどの石油製品の販売が急速に落ち込んだ。そのため、現在はたまたま原油が暴落しガソリン価格も下っているが、間違いなくオイルピーク(原油生産がピークに達して生産量が下り始める事態)は近いうちにやってくる。そうなるとまた原油価格は上昇し始めるだろうし、ガソリン価格もまた上がり始めて、燃費の良い車が売れる主流となることは間違いないだろう。その時にアメリカのビッグスリーには売れる燃費の良い小型車があるのだろうか。しかしそのことを心配する前に、この先そもそも存続できるかどうかが危ぶまれる状態になってしまっている。

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2008年12月 9日 (火)

最近の金融技術の発展を説明する本を読んで

 倉都康行氏の『金融史がわかれば世界がわかる 「金融力」とは何か』(筑摩新書)を読んでいて途中で放っていたのだが、アメリカ発の金融危機が発生して改めて読み始めたのだが、奇妙な感覚を覚えた。
 第1次世界大戦の後、アメリカの大恐慌を経て金本位制の下で英国のポンドから米国ドルに国際通貨の役割が移転したが、やがて米国の国際通商赤字のためにニクソン大統領時代の1971年に米ドルを金から切り離さざるを得なくなった。金兌換の停止と呼ばれるもので、いわゆるニクソン・ショクがそれであった。しかしそれでも米ドルが国際通貨の役割を果たすことは現在まで続いている。その間に米国での1987年のブラックマンデーや1992年のポンド危機、1997年のアジア通貨危機、1998年のロングターム・キャピタル・マネジメント(LTCM)の破綻といった危機は起きていたが、それが世界中に及ぶ金融危機にまで発展することは無かった。ところが今回のアメリカ発の金融危機は1929年の大恐慌にも匹敵する重大なものである。そしてアメリカでは今回の金融危機を予想する本が出版されていた。米国人チャールズ・モリス氏のThe Torillion Dollar Meltdown(「兆単位のドル融解」 日本語タイトル『なぜ、アメリカ経済は崩壊に向かうのか 信用バブルという怪物』日本経済新聞出版社)が出版されていて、出版後の9月にアメリカで金融危機が発生したのである。モリス氏は見事に金融危機を予想して的中させたのである。その原因は金融技術の発展による異常な信用膨張にあるというのが、モリス氏の書いているところである。
 ところで倉都氏の上記の本でも、金融工学の発展に対して出された危険の指摘や氏自身の指摘も書かれている。それらは次のようなものである。まず氏自身の指摘から引用する。
 「オプションがヘッジ機会を提供する役割を持っていることは既に述べたとおりだが、それは逆に見れば、先物取引と同様に少額の資金で巨額の額面の取引ができることになる。これは利便性と裏腹にあるリスクである。容易に投機的な取引を生むことになるからだ。さらにオプション取引においては、買い手の潜在的な損失は支払ったオプション料だけに限定されるのに対して、売り手の潜在的なリスクは事実上無限大となることさえある。」(p170)
 「(金融の)新技術はむしろ(金融機関の)経営に厄介な代物であった。市場の微小な変化でも損益が大きく変動することもあれば、複雑な取引によってリスクの所在が不明確であることもある。さらにトレーダーによる不正行為が発見しにくい、といった問題もあった」(p171)
 以下は金融技術の発展に対して他の人たちから出されると予想される危険性について氏が説明したものである。
 「先物やスワップ、オプションさらに証券化といった金融技術は、・・・むしろ金融システムを脆弱化させたのではないかとの見方もあるかもしれない。時には市場変動を増幅し、またある時は経済の混乱要因となり、さらに金融経営を揺るがして国全体の経済活動を麻痺させてしまうこともあるんではないか、という疑問を抱く人もあろう。」(P174)
 この後半の疑問は既に現実となって今や世界経済を混乱に陥れている。ところが倉都氏はそのようなことは無いのだとして、次のように書いている。
 「たとえばオプションなどの技術を使ったトレーディングが、一国の経済や金融を破綻させる力があると考えるのは過大評価である。金融技術の特性は、むしろ破綻の可能性がある事象を市場という表舞台に引き摺りだすところにある。平穏な、そして健全な社会に混乱を引き起こす力は、金融技術には備わっていない。
 金融技術は、むしろ本来的に金融システムを安定させる力を持っているものだ。」(P175)
 しかし今回の米国発の金融危機は、倉都氏のこの楽観的な見解が全くの間違いであったことを証明した。
 確かに金融技術自体にはそんな力は無いのかも知れないが、それを使う人間の弱さが今回の金融危機を引き起こしたのでは無いか。パニックは人間の想像力が引き起こすものである。そうした人間の弱さを考慮しなければならないのは、自然科学の力を利用する場合にも言われていたことである。原子爆弾はそれ自体で自動的に爆発することは無い。敵が核弾頭を搭載したロケットを発射したかも知れないと疑う人間の想像力がボタンを押させるのだ。
 最近の人間は常に新しいものを求めるようになっているが、例えば現在我々が食べている植物などでも最初に食べた人間は恐怖感を持っていたのでは無いか。長い歴史的な経験によって安全であることが検証された物を現在のわれわれは食べているのである。新しいものにはつねにリスクが潜んでいると考える想像力が必要であると思う。
 私はお金を扱う職業には、どこかに胡散臭い部分があると昔から思っていた。金融技術は、本当の意味で人間にとって役に立つ価値を生み出しているのだろうか。テレビの発明は人間にとって新しい価値を生み出したが、そのような意味での価値を最近の新しい金融技術は生み出してはいないのでは無いだろうか。既に存在するお金を配分し直しているだけのゼロ・サム・ゲームであるものが多いのでは無いか。
 銀行が新しい事業を行なう人間のために資金を供給して利息を貰う、あるいは新規の工場設備のための資金を融資して事業拡大を可能にする場合には、金融も実質的な意味を持っているが、クレディット・デフォルト・スワップという新しい金融商品は、債務不履行に対する保険のような物だという。そして実際に証券などを保有していなくても、それを買うことができるのである。実際の元本金額をはるかに超える金額で利用されていたという。この場合は投機として利用されていたのである。
 人間は歴史に学ばなければならないと思う。そのことが忘れられて、リスクを拡散することによってリスクを低減するという新しい金融技術(金融工学)が魔法の杖のように便利なものと考えられて金融機関によって利用されたのだが、そこには大変なリスクが潜んでいたのであった。いかにリスクを拡散してもリスクそのものは決してなくなるわけでは無く、それが想定以上に発生した場合には。むしろ新しい金融技術によって作られた商品の信用崩壊を増幅させる結果となり、市場には買い手がいなくなってその商品の価値を失わせてしまったのである。その結果、そうした金融商品を保有していた投資家や金融機関は莫大な損害を被ることとなったのである。
 かつての日本では、良いことだけというものは無い、良いことが大きければ大きいほどその裏には大きな悪いことがあると一般の庶民は考えていた。この智慧を現代人は失ってしまっている。学者などは特にこの智慧を身に付けなければならないと私は思うのである。少なくとも倉都氏にはこの智慧は見られない。

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2008年12月 8日 (月)

日本人の資質の高さ

 今日(2008/12/07)のNHK・BSニュースとドキュメンタリーで思いもしなかったことを知らされた。
 お昼に放映されたジンバブエについてのニュースで、その地でコレラが蔓延しているが医療設備の不備のために治療もできないために亡くなっていく人が多勢いるとのことであった。そのニュースではジンバブエはかつては豊かな農業国であったのだが、今や国際社会からの援助に完全に依存するようになってしまっているそうで、それはジンバブエ政府自身が自国の経済基盤を徹底的に破壊したからであると伝えていた。今やインフレ率は天文学的な数字になっているという。
 政府が自国の経済基盤を破壊するなどというのは、かつての共産主義国家が集団農場という考え方に凝り固まって集団農場に農民を帰属させてその労働意欲を奪って農業基盤を破壊したというソ連や中国の例があるが。それでもジンバブエほどではなかっただろう。ジンバブエの例で私にもハッキリと解ったことは、独裁的政治指導者が政府を私物化している国では、国家というのは独裁者個人の懐を肥やすために掠奪するための対象でしかないということである。彼ら独裁政治家は自国の経済的成果、つまりパイを大きくしてからその分け前にあずかるなどという殊勝なことは考えも及ばないのであって、とにかく目の前にあるものを権力すなわち暴力によって取上げることしか考えていないのである。国民が飢え死にしようと、そんなことはどうでも良いのだ。ムガベ大統領などは、その統治の結果を考えると銃殺ものであると私は思うが、国際社会はムガベ大統領の行動に対して全く何の影響も与えられないでいる。
 ところで国民国家というのは独立不可侵の存在であって、その国の指導者がどんなにあこぎなことを国民に対して行なっていても、外部から介入してはならないのが原則なのだ。だから北朝鮮の金正日は国民を飢え死にさせても、国防費にお金をかけることを優先させることができるのである。誰も金正日にそれをさせないようにすることはできないのだから。
 ジンバブエのような国に対して、国家に対する援助金の提供などは全く意味がないのだから、ジンバブエに援助するとしたら援助事業そのものにはジンバブエ政府には一切関与を許さずに、すべて援助国自体で直接に援助事業を行なうしかない。ジンバブエ政府が、それを拒否するのなら援助など一切行なうべきでは無いのだ。日本国民の税金がムガベ大統領の懐に入るのを分かっていて黙って見ているなどは、日本の納税者に対する裏切り行為である。現在ジンバブエに対して日本政府からの援助が行なわれているのかどうかを私は知らないが、もしジンバブエ政府に援助資金を渡しているのなら、直ちにそれを止めるべきである。 アフリカではジンバブエに限らず、多くの国で同じような国内情勢の不安定により多くの難民を生み出している。国家を名乗りながら実際には政府がまともに機能していないのであり、そうしたところは国家の統治機構が実質的には崩壊してしまっているのである。そしてその原因は基本的には住民の民度の低さにあると言えるだろう。
 さて夜に、ブラジルで日本からの移住者が森林保護を兼ねる農業開発事業「アグリフォレストリー」を行なっていた。アマゾン川流域には広大な熱帯雨林が広がっているが、それが不法に伐採されて農地利用される形で森林面積が年々減少しているという。そこに長年ブラジルで農業に携わってきた日本人移住者が「アグリフォレストリー」という名前のやり方で、現地の人たちび森林を守りながら農業も行ない形で経済生活の向上を手伝っているという活動状況のレポートが放映されていた。森林破壊の原因の一つは、農園に雇われて農業労働に従事していた現地の人たちが自作農となって農業を行なう場合、焼き畑農業のやり方しか知らないために森林を破壊するという事があった。それは彼らが農業を行なう上での知識を全く教育されていないからであった。
 松下電器(現在はパナソニック)では、新人の社員に仕事をさせる前には必ず職務教育をまず行なって、その後に仕事をさせたと聞いたが、キチンとした仕事をさせるためには先ず仕事の前に職務に関する知識をキチンと教え込むことが重要であると考えたからであった。現在自ら「アグリフォレストリー」を行ないながら、ブラジルの現地の人たちに具体的にそのやり方を指導している日本人入植者の人のたちが行なっているのも、松下の考え方と共通のものであろう。ブラジル現地の人たちにキチンとした仕事をしてもらうためには、まず教育し、指導しなければならなかったのだ。そして教育したことが実際にキチンと行われているかを確認するために、定期的に現地を訪れて進み具合をチェックしているのであった。こういうやり方というのは、まさに日本流といっていいものでは無いか。ここに見られるのは日本人の資質,民度の高さである。西洋人のように自然を攻撃的に成果を絞り出すだけの対象と考えるのでなくて、自然と共生して行こうという考え方は、やはり日本人の伝統が生きているといって良いものであろう。このドキュメンタリーは非常に感動的であった。
 またブラジルはアフリカとも違っているが、それはブラジル国民の民度がアフリカ人のそれよりも上だからであろう。教育されていることの成果なのである。ただアフリカ人の欧米への留学生は、アフリカに帰って高い地位についても結局は私腹を肥やすような行動しか取らないようであるが、それはアフリカの住民全体の民度の低さがそのような事態を生み出しているのであろう。名目だけは政府があっても、実質的には政府の機能を果たしていないアフリカ諸国が国内経済を発展させて、国民の生活レベルを向上させることなどは、その実状を知ると全く不可能であるように私には思われるのである。

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2008年12月 5日 (金)

田母神懸賞論文問題が明らかにした日本政治の機能不全

 懸賞論文問題に端を発した田母神航空幕僚長の解任事件についての特集を含む雑誌WILL2009年1月号は、私には非常に有益なものであった。その中で西尾幹二氏の論文『何に怯えて「正論」を封じたか』は、特に得るところが多かった。西尾氏が田母神論文の趣旨である『日本が侵略国家であったというのは濡れ衣である』に対して書いた氏の意見・歴史認識は次のようなものである。
 「『日本は侵略国家であったのか』という問いにもう一度答えよう。日本は侵略された側の中で、侵略されずにれずに残った最後の砦だったのである。」
 イギリスを初めとする欧米帝国主義諸国がアジアをほとんど完璧に植民地化した時に、唯一植民地にならなかったのが日本であって、植民地にならなかったがゆえに欧米の帝国主義勢力と対抗しなければならず、それが結果としては日本による台湾、朝鮮、満州などの植民地化となったが、日本は大東亜戦争という名目で欧米帝国主義国への対抗戦争を始めた。その結果はアメリカの挑発に乗って太平洋戦争に拡大し、結果は日本の敗北となり、アメリカによる占領となった。しかしその結果は、アジア諸国の独立を齎したのである。
 ところでアメリカの日本占領時にマッカーサー将軍の率いるGHQは日本国内の出版物に対する検閲を行い、言論統制を行なった。しかし大方の日本人はこのことを知らないし、私も長い間知ることがなかった。このアメリカ占領軍による言論統制については江藤淳氏が『閉ざされた言語空間 占領軍の検閲と戦後日本』(文春文庫)を書いており、第一部が「アメリカは日本での検閲をいかに準備していたか」、第二部が「アメリカは日本での検閲をいかに実行したか』とわけて書かれている。もしこうした言論弾圧の事実を日本人が知っていたら、日本人のアメリカという国に対する評価は今とは違っていたのではないだろうか。アメリカは今も民主主義の伝道者のごとく振る舞っているが、実際に日本で行なったことは民主主義を裏切る言論弾圧であったのだ。
 私が西尾氏を一番強く意識するのは、ニーチェの翻訳者としてである。ニーチェの本の翻訳は複数出版されているが、『この人を見よ』や『アンチ・クリスト』などでは私は西尾氏の翻訳が一番良かったと思う。西尾氏は保守的な思想の持ち主と考えられているが、彼が書いている具体的な内容は穏当なものであるし、「日本を侵略国家とする歴史認識」に対するWILLでの反論は大いに納得のい行くものである。村山冨一というおよそ見識というもののない政治家が勝手に語った、法的な拘束力も何のない自虐的な妄論をなぜ自民党の連中は何らの疑問も持たずに妥当な歴史解釈としてずっと持ち上げてきたのか。中国や韓国が自分たちに都合が良いからと機会があれば利用するのに対して、何ら反論することもしなかった自民党の連中もまた歴史とは何かということの理解力もなく不勉強極まりない人間たちであったからだ。その愚かさのために日本人は、中国や韓国に自分の作り上げてきた財産をむしり取られてきたのだが、かれら政治家はいつも国民の税金という人の褌でしかことを行なわないから、お金の本当の重要さなどもまた理解できないのだ。最近のキャリア官僚は本当にロクでも無い無責任な人間ばかりだと思うのだが、彼らを使うべき政治家連中が程度が低すぎることの必然の結果なのであろう。揮発油税の暫定税率の問題が取上げられてからその解決策として用途を道路建設から一般財源に変更することになったにも関わらず、今また自民党は道路建設にこだわって用途制限で対応するようなことをしているが、こうした対応が自民党の信用を失わせることに気が付かないほど自民党の連中は愚かなのだ。もう本当に『死ぬまで治らない◯◯』と言うしかない体たらくである。こういう◯◯どもが、大変な不況を迎える日本の政府を担当する政党の議員たちなのだから、日本の景気回復のための実効性のある対策も到底期待などできない。少しはましかと思われた麻生首相もおぼっちゃまクンでしかなかった。日本の政治の機能不全は眞に深刻である。

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2008年12月 3日 (水)

アフリカの賄賂社会の凄まじい実態

 今日(2008/12/03)NHK・BSで放送された世界のドキュメンタリー『体験ルポ 賄賂社会の実態』を見て、その内容の凄まじさに驚いた。このルポはアフリカでいかに賄賂が蔓延し社会を駄目にしているかを描き出しているのだが、実際に賄賂が受け渡されるその現場が多く録画されていたから非常に迫力があった。そして良く分かったのだが、アフリカが経済的に発展できないのは、政府そのものが徹底的に腐敗しているからである。アフリカの政治家は私腹を肥やすために政治家になっただけの人間ばかりなのだ。いや政治家ばかりではない。政治家がそのような人間ばかりであるのは、アフリカ人一般がそのようなタイプの人間ばかりだからであると考えるべきであろう。だからアフリカに住んでいる人たちの誰もが賄賂との関わりなしでは生活できないのである。個人がタクシー営業を続けるためにも毎日警察に賄賂を渡さなければならないし、家を建てようとすると、あちこちから賄賂を要求する人たちが現れ、払わないと妨害される。問題は今は賄賂を要求される側であっても、いつか賄賂を取れる立場になればすぐに賄賂を取ることを当然のことして人に賄賂を要求し取るようなるだろうというのがアフリカ人の実態であるということだ。
 昔奴隷貿易が行われていた時に、奴隷を引き渡したのはその人たちの酋長だったというが、それが事実であっただろうことがこのルポルタージュを見て納得できた。そしてアフリカではその強欲の伝統が連綿として続いており、賄賂が蔓延しているのだ。
 社会全体が豊かになるためには、その社会においてきちんと生産活動が行なわれ財とサービスの供給が行われなければならない。社会全体として考えれば、生産されなければ消費できないことは自明のことだが、アフリカでは誰もそのように社会全体のことを考えることができないから、自分個人の目先の利益しか考えられないのだ。そして政治家を初めとして社会のトップにいる人間が私腹を肥やすことしかしない社会では、まともに生きようとする人間など誰も出てくるはずがない。反政府組織というのが出てくるのも当然であろうし、また反政府組織が政府を乗っ取れば彼も以前の政府関係者がしたのと同じように政府の金をかすめ取り賄賂で稼ぐことをするのだ。このように個人の利益を不正な手段で得るしか豊かになれないという考える人間ばかりがアフリカの国々で政府を運営しているのなら、先進国がいくら経済的に援助をしても、そのお金が政府関係者や援助先の詐欺師たちの手元に入るだけでは、いつまでたっても社会のための投資に回らないのだから経済発展など到底望むべくもないのだ。
 こうなると一切現地の政府には援助金を渡さずに、援助する国が直接に現地で事業を行なうしかないだろう。そういう形でなければ援助しないと援助先の政府にはっきり言うべきである。援助のために送られるお金が有効に使われることを担保するためにはそうするしかないし、それが援助する国の納税者に対する援助国政府の義務であるから、そのようにしかできないと援助国はアフリカの援助先の政府にハッキリと言えば良いのだ。そしてそれを拒むアフリカの政府には援助は一切行なわないことを徹底するのである。これを日本だけが行なうことが問題であるならば、国連でそのようにすることを取り決めれば良い。公共のインフラの整備がアフリカの経済開発のためには不可欠と思われるが、それらを援助国自体が計画を立てて直接に実施すれば、経済発展のための成果は着実に上がるだろう。それが、先進国の援助金がアフリカにおいて間違いなく目的に適った使われ方をする唯一の道であると私は考える。現地政府の政治家の私腹を肥やすだけと分かっていてアフリカの政府に援助を行なうのは、日本の納税者に対する裏切り行為である。たとえ中国政府がアフリカでどれほど影響力を強めていようと、中国政府と同じやり方をするべきではないのである。

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2008年12月 2日 (火)

田母神元航空幕僚長の独占手記を読んで

 新聞の広告で、ワック社刊行の月刊誌『WILL』2009年新年号に田母神元航空幕僚長の独占手記が掲載されているのを見て、早速購入し読んだ。『WILL』を買ったのは初めてであったが、紙質が良いのが気に入った。
 この号には問題となった田母神氏の「中国侵略は濡れ衣だ」という主張が書かれている懸賞入賞論文も併載されている。独占手記を読んだ感想として、まずその文章が解りやすく論理明快に書かれていることに感心した。また田母神氏の防衛省追放の経緯を読んで、彼を懲戒処分に処することを避けるために勝手に停年退職扱いにした防衛省、日本政府のやり口には、「臭いものには蓋」の意気地のない姿勢を見せられて、麻生首相もこの程度かと、全く情けない限りであった。田母神氏の処分のし方については、麻生首相も事前に相談を受けて承認を与えていたはずだから、ハッキリとものを言う麻生首相の口の聞き方を評価していた私も、ここにおいて彼の本性を見た思いであった。麻生首相が田母神氏の懸賞論文そのものを読んだのかどうかを私は知らないが、もし読んでいたら、「村山談話」を日本政府として正式に覆す必要を感じただろう。個人的にはそう思っても、行動に踏み出すだけの度胸はなかったのか。
 村山富市氏などは、多分日中戦争の歴史的な事実については何ら深く知らないままに、左翼的意識によって生じた中国共産党への共感ゆえに全く安易に、「日本軍の中国侵略」という認識を形成したに違いないのであるが、それを保守政党である自民党が何らの違和感も持つことなく引き継いできたこと自体が、また非常に大きな問題なのである。自民党の政治家連中も全く不勉強でいい加減な人間ばかりで、簡単に中国側のマインド・コントロールに引っかかってしまったのだ。日本人が受けたマインド・コントロールは中国共産党政府によるものばかりではない。初めは占領国でやがて軍事同盟国となったアメリカによるマインド・コントロールにも深く侵されているのである。独立した国家が何らかの自衛のための戦力を持たなければならないことは自明であるのに、日本は日米同盟による米軍の軍事力に頼るだけの自主性のない国家になってしまったのだが、このようになったのには自民党の責任が圧倒的に大きい。なぜなら戦後日本政府をずっとし切ってきたのは自民党だったからだ。ところが小泉首相以後の安倍、福田、麻生と3代の首相を見ると、3人が3人とも日本という国のリーダーとしての資質を疑わざるを得ない人間ばかりである。何度も書いたが、自民党にはもはや人材が払底しているとしか思われないのである。
 『WILL』のこの号には屋山太郎氏が地方分権を進めるためには中央官庁の地方ブロック局を解体することが不可欠であることを書いている。そしてこれを実現するのは政治家以外にありえないのだが、麻生首相のやり方では到底できないと批判している。麻生首相が今なお官僚の本質を理解していないからだという。官僚に自ら権限を手放させることなど絶対に不可能で、政治家が決めて官僚に有無を言わせずに実行するしかないのである。責任者である政治家にそれができないところにこそ問題があるのだ。面従腹背をする官僚たちを徹底的に排除するだけの腹が政治家にないから、官僚に舐められるのだろう。
 話が横にそれたが、私も今回の田母神手記と論文によって、日中戦争に関して始めて知ったことが多かったのだが、文部科学省が検閲している義務教育の教科書が間違った史実を載せることを強制しているとしたら、それを許してきた政治家たち、特に自民党の歴代の国会議員たちには大きな責任があるのだ。許してきたのも彼らの全くの不勉強のためであるとしたら、もはや言うべき言葉もない。
 そして私が一番問題だと考えるのは、自衛隊員はすべて政治家が決めた歴史認識を無条件に受け入れ、自分で学んだことに基づく歴史認識をもってはいけないという自民党や民主党を含む国会議員たちのファシズム的な考え方である。国会議員の中に田母神氏の論文発表を思想信条の自由の権利という観点から支持し、問題なしとした人がほとんどいなかったことである。さらに恐ろしいのは、マスコミのほとんどが同じ考えであったことだ。かれらは民主主義の何たるか、その基盤としての思想信条の自由という権利を全く理解していないのである。日本の国会議員やマスコミ関係者の見識などは全く頼りにならないものであることが、ここにはっきりと示されたのである。 
 また田母神氏の後任として選任された外薗健一郎氏は就任後の会見で、田母神氏の行動について国民に対して詫びたが、私は「村山談話」の根底にある日本は侵略国家であったとする歴史認識を出世のためなら唯々諾々と受け入れるような人物が果たして部下の自衛隊員たちから心からの信頼を得られるのか、大いに疑問に思うのである。自身の確固たる考え方を持たない、風見鶏の人間ばかりがリーダーたるべき地位にいるようになったら、日本は本当に卑しい国に成り果てるだろう。今やキャリア官僚たちは出世することだけが目的の情けない連中ばかりのようだし、エリートたるべき人間の堕落の結果は、韓国からは国連の事務総長は出ても日本人は及びでないという体たらくに現れていると私は考えるのである。そして政治はダメでも、経済はといわれた日本も、今や田母神問題をキチンと受け止めて、政府の対応を批判する経済界のリーダーも存在しない。日本経団連の御手洗会長などはもっとハッキリ物事を言う人だと私は思っていたが、残念ながら期待外れであった。憲法上の権利としての思想信条の自由の観点から日本政府を批判することぐらいはできたはずだ。中国との経済関係のためには日本人の誇りも何もないのだ。

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2008年11月28日 (金)

金融商品の摩訶不思議

 先に私は、米国人のチャールズ・M・モリスの書いた『なぜ、アメリカ経済は崩壊に向かうのか 信用バブルという怪物』(日本経済新聞出版社)を以前に読んでいたのに内容をさっぱり思い出せないと書いたが、今回もう一度読み直してよく分かってきた。この本を最初読んだ後に小幡績氏の『すべての経済はバブルに通じる』(光文社新書)と神谷秀樹氏の『強欲資本主義 ウォール街の自爆』(文春新書)を読んだのが効いたようだ。
 私はかねてから金融業には何か胡散臭いところがあると感じていたが、これらの本を読んでその感じが正しいものであったことを知った。
 今日(2008/11/28)たまたま古本屋で岡内幸索氏の『証券化入門 第2版 資産価値に基づくファイナンス手法のすべて』(日本経済新聞社)を購入したのだが、この本にはCBO(Collateraized Bond Obligation)やCDO(Collteraized Debt Obligation),
CLO(Collteraized Loan Obligation)などは説明がでていたが、今回の金融危機で大きな役割を果たしたCDS(Credit Default Swapp)は出ていなかったから、CDSは2000年以降に出てきた新しい金融商品なのであろう。モリスによると、CBOは投資銀行が開発したもので、債券を裏づけとしており日本語訳では「債権担保債務証書」と呼ばれ、CDOは商業銀行が開発してローンを裏づけとして「ローン担保債務証書」と呼ばれ、この二つを纏めてCDOと呼ばれるようになったと書いているが、『証券化入門 第2版』での岡内幸索氏の説明とは少し違いがある。
 ところで私は証券化商品と言われるものの一部は、「親亀の上に小亀が乗り、さらにその上に孫亀が乗る」ような、その根拠が怪しげなのものではないかと疑っていたら、モリス氏も同じ比喩を使って次のように書いていた。
 「要するに、これらの少数の金融機関と投資家の間で金融派生商品がつぎつぎに売買されていき、利益が計上されていく間に、亀の上に亀が乗り、そのまた上に亀が乗っていったような形で、じつに不安定な負債の塔、それも巨大な塔が作られてきたのである。」(P186)
 取引の当事者はほとんどが、「かなり少数の世界的な商業銀行、投資銀行、ヘッジファンド」だったそうである。かの世界最大の銀行といわれたシティバンクが倒産の危機に瀕してるが、まさにこの例なのだろう。
 CDS(信用デフォルト・スワップ)という商品は、証券が不履行になった時に元本を支払うという保険のような商品であるそうだが、摩訶不思議なのは、その商品を買うのに実際に対象となるもとの商品を所有していることは条件ではないので、誰でも買うことができ、したがって発行済みの元の商品の何倍もの金額になりうることである。これはもう無茶苦茶な話であって、不履行さえ起きなければ引き受け手にとっては大変な儲けになるが、万一不履行が起きると大変な損害が発生するのである。
 詳しくはモリスの本に当たってもらうとして、話は変わるが、私が疑問に思ったことは、世界で中央銀行と呼ばれるもののほとんどがすべてが『物価水準の安定化』のみを政策目標にしているとのことである。日本が1990年にバブル崩壊で金融危機に陥り、銀行の不良債券処理の不手際のために長い不況を経験することになったが、株式バブルと土地バブル破裂がその原因であったこと、即ち過剰流動性による資産バブルが原因であったことは最早周知なのに、なぜ米国では住宅バブルが発生していることが分かっていながら、米国連邦準備委員会FRBは日本のこの経験に学ばなかったのかということである。その点ではグリーンスパンFRB前議長の責任は大きいとモリスは書いているが、彼が議長であった間は、アメリカ経済は好調を続けていたために、グリーンスパンの評判はまことに高いものであった。バブルの間は経済は好調に見えるものだ。モリスは、実際にはグリーンスパンの失策が今回の世界的な金融危機を招いたと述べている。日本銀行の超低金利政策も、円キャリー取引を通じて世界に流動性を供給することとなり、結果として今回の金融危機に結びついているそうだが、そうだとすると当時の日銀総裁や政策委員などは果たして本当に金融のプロだったといえるのかどうか私は大いに疑問に思っている。現在の彼らは日本のバブル崩壊の経験に学ぶところが果たしてどれだけあるのだろうか。日銀の政策目標は『物価の安定』だと、◯◯の一つ覚えで仕事をすればいいというものではないだろう。私に言わせれば、そんなもので到底プロフェッショナルとは言えないのである。大学の先生のような人間ばかりではダメで、もっと銀行界や証券界など実業界の経験者が政策委員などにも必要だと思われる。そういう観点からすると、現在の白川日銀総裁は大人しすぎて私は評価できない。もっと迫力のある人間が必要だと思う。

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2008年11月24日 (月)

宗教指導者という恥知らずども

 まず最初に言っていくが、私は一神教は人間にとっての最大の災厄であると考えている。しかし普通個人が宗教的であることは、無宗教であるよりも良いことであるかのように考えられているようだ。だから宗教学者の阿満利麿氏の『日本人はなぜ無宗教なのか』や『人はなぜ宗教を必要とするのか』(いずれも筑摩新書)のような本が書かれるのだが、これらの本にあるのは宗教を信仰することが良いことであるとする考えである。一神教のような宗教を日本人はほとんど信仰していないが、そのことは世界標準からは離れたことで、文化的に劣ったことであるかのように書く日本人がいるが、私は無宗教と言われる日本人の方がむしろ文化的には世界で一番進んでいると考えるものである。
 なぜ宗教は良いものと考えられているのだろうか。そして一神教は多神教よりも高級な宗教であると考えられている。果たしてそうなのだろうか。
 経済学者の竹内靖雄氏は『<脱>宗教のすすめ』(PHP新書)を書いて宗教は人類に害をなしたと主張しているし、生物学者のイギリス人リチャード・ドーキンスは『神は幻想である』(早川書房)を書いて、神というその存在を証明などできないものを信じることの無意味さ、また判断力もない子どもたちに宗教を植え付けることの悪を主張している。竹内氏は宗教の中ではキリスト教が人類にとって最悪のものであったといっているし、ドーキンスも宗教は倫理の基準ではありえないし、人間をダメしたと書いている。
 今日(2008/11/24)のNHK・BS1で自爆テロを行なって亡くなった2人の少女に関するレポートを放送していたが、私は彼女らに自爆テロを勧めた宗教指導者を到底許すことができない。その人間はきっと彼女らよりも相当の年配者であったろうが、なぜ自分自身がやらない(できない?)ことを少女などにやらせて平気でいるのかと思うと怒りが込み上げてくるのだ。自分は宗教指導者だから人に命令するのが役割だと考えているのだろうが、そのように勝手に考えて恥じないところが私には許せないのである。このように思うのには、春江一也氏の小説『上海クライシス』(集英社)に出てきた、中国の新疆地区で少女に自爆テロを指示した宗教指導者の男のことが強く印象に残っているからである。この小説で描かれたその男は実にいやらしい人間に描かれている。実際に自爆テロを命令する連中がどのような人物であるかを私は知らないが、自分は死なないで若い人たちに死ぬことを命じるような人間は恥知らずのロクデナシ以外の何ものでもないとしか思われない。
 イスラム社会では、イスラム教を信じるかまたはそのフリをするしか生きていく術はないのだろうが、そのように宗教上の自由のない社会では宗教上の高い地位に就くことは権力を握ることであり、生活の上でも良い目を見ることができるということなのであろう。社会的に高い地位に就くことを単に自分の利益のためとしか考えないのは、宗教的指導者であっても変わらないのだと思う。『自己愛』は、凡人には当然しごくのことであって、それ以外のあり方はないのだ。だから人間は、宗教的であろうとなかろうと、安易に権威に従ってはならないのと私は考える。
 ローマカトリック教会の教皇などは、最近はともかく、歴史上において堕落の限りを尽くしてきた連中であった。中丸明氏『絵画で読む聖書』(新潮文庫)によると,ローマ教皇たちは神父たちには結婚を禁じていながら、ローマ教会内部を売春宿のごとくに仕立て、自分たちはたくさんの私生児を作り、梅毒にかかった教皇も大勢いたし、金儲けのためには免罪符の販売という恥知らずな行為も平気で行なったのであった。全能で唯一絶対の神を背景に、絶対的な権力を握った時には,人間は必ず堕落する。プロテスタントでも同じことが起きている。カルヴァニズムで有名なジャン・カルヴァンがその人である。カルヴァンという人間がいかに卑劣な人間であったかについては、シュテファン・ツヴァイクの『権力と闘う良心』(いすず書房)を読んでもらうのが一番良い。下劣な人間が絶対的な権力を握って社会の指導者になると、その社会がいかに息が詰まるような暗くて生き難いものになるかが良く描かれている。
 イスラム教も同じく唯一神を信仰する宗教であるが、残念ながら現状では自然科学の面で立ち後れ、経済面でも軍事面でもイスラム教国はキリスト教国の後塵を拝することになっている。そのいらだちが、欧米諸国に対する自爆テロといった形でのヤケクソに繋がったのだろうが、そのような野蛮なことしかできないところにイスラム社会の弱さが現れている。欧米社会への嫌がらせの先に一体何があるというのだろうか。もっと地道に努力するべきなのだ。
 テロ活動によって欧米諸国の上に立つことなど不可能であろう。女性への教育を否定さえして女性の能力を活用できない状態でどうしてイスラム諸国が欧米諸国の上に立つことなどできるのだろう。こうした自らの愚かさを克服できないでいながら、欧米諸国の風下にいることを許せないなどという馬鹿げたプライドは持つだけ無駄なのだが、そうしたことを理解できないところに宗教的な偏りの恐ろしさがある。そしてそれをイスラム信徒にもたらしているのは、イスラム教指導者たちなのだ。彼らの愚かさを果たして誰がどのようにして正すことができるのだろうか。宗教指導者の愚かさという問題は、ユダヤ教でもキリスト教でも同じように存在するのだが、今や社会的な影響力という面でユダヤ教でもキリスト教もはるかに弱体になっていて最早問題たりえなくなっているのが現代の欧米社会の実態なのである。

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2008年11月22日 (土)

麻生首相も結局おぼっちゃまくん

 今回の世界金融危機に対処するために民主党から第2次補正予算案を国会に提示するように求められた麻生首相が、民主党の小沢代表には過去に大連立の話の前科があるから信用できないといって見送ったということが報道されていたが、これを見て私は麻生首相もなんだかんだ言っても結局ボンボンではないかと、いままであった支持の気持ちをすっかり喪失してしまった。麻生首相にとっては、過去の恨みの方が国民に対する責任よりも重要だというのだ。これは日本の政治の最高責任者の言うべき言葉ではない。およそ情けない限りの、女々しい心情の表明であった。
 私なら、もし小沢氏の主宰する民主党が第2次補正予算の成立を無意味に妨げたのであったら、国民に向かってその非を強く訴えて、衆院解散・総選挙の切っ掛けにして民主党を追い落とす方向で動くだろう。国民にとって最も重要な政策を、ただただ党利党略のために妨げたことが国民の目に明らかになっていれば、民主党は勝てないと判断する。
 ところが麻生首相は最近の迷走を見る限りどうやら全く自信を失ってしまっていて、政治状況を正しく判断する能力までも失ってしまっているようである。漢字の読み間違いに見られる教養のなさばかりでなく、日本の政治をあずかるトップとしての気構えさえもお粗末な人間であることを自ら宣伝してしまったのである。私は自民党は人材不足であると思っていたが、いよいよどうしようもないほどの、人材払底ともいえるような状態であるようだ。これほどまでに日本の政治を主導するだけの能力をもつ人材に欠けているのなら、自民党は潔く政権を民主党に引き渡すべきである。このような危機の時代に、自民党のような頼りにならない政党は引っ込んで、出直しのための政党再建を計ることこそが日本国民に対する責任を果たすことである。政治的なリーダーシップを発揮するだけの能力もないくせに、政権政党だけには留まりたいという虫のいい考え方はすぐに捨て去るべきだ。
 私は民主党が代わって政権についたからといって、現在の危機にうまく対処できるとは思わないが、安倍、福田、麻生と3代続いた内閣が国民に安心感を与えることのできる政権運営をできなかったのだから、それは自民党は政権党としての不適任を自ら証明したに等しい。自民党は今や、そういった情けない無能な政党に成り下がってしまったのである。
 昔TVで放送していた御坊茶磨こと『おぼっちゃま君』のアニメは大変面白かったが、残念ながら麻生おぼっちゃまは最早見るに絶えない、見苦しいものでしかないのである。

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世間知らずは官僚では

 麻生首相の「医者に世間知らずの人が多い」という発言についていうと、私もどこかで聞いた覚えがある内容ではあるが、それよりも人数も多いしもっと問題なのは「役人の世間知らず」の方ではないだろうか。最近の具体例を以下に挙げてみる。
1)財務省職員の居酒屋タクシー事件
 全く恥知らずな話だし、何万円もするタクシーを平気で使うところにはコスト意識がまるっきり欠如している。このように金銭感覚が麻痺しているのでは財務省の職員として失格である。また財務省では毎日遅くまで残っていると仕事を良くしているように評価されていたのだろうか。もしそうだとすると財務省というところの管理者の労務管理もいい加減そのものであるし、むしろいつまでも職場に残っているというのは、私などに言わせると、能力のない証拠であると判断するのだが、その辺にも「役人の世間知らず」がほの見える。
2)農林水産省の事故米処理
 食品として使用できない輸入米を返品もしないで保管していたことは、食品製造業の会社で働いていた人間からすると全く理解できない行為である。民間会社では品質不良の原料が納入されたら直ちに納入業者に返品する。また事故米にかかる保管費用という余計な出費が全くの無駄遣いだとは誰も考えなかったのも驚きである。そんな扱いは民間では当たり前のことだ。また事故米を買い取った業者が、誤魔化して食用に転売することがありうるということを予想して事前に対策を打っておくこともしなかったのも、全くの世間知らずな行動であった。そういうごく当たり前のことを知らず、予想もしなかった農林水産省の役人及び歴代の大臣こそは、情けないほどの世間知らずのプー太郎である。どうしてこんなことがありえたのだろうか。
3)あちこちの役所で見られた裏金造り
 予算として回ってきたお金を、役人同士の付合いや飲食などに使うために、平気で一部を誤魔化して猫ババして貯めておくという、民間ではおよそ考えられない行為があちこちの役所でまかり通っていた。預かったお金は自分たち役人のものだからどう使おうと構わないのだという、「占有」と「所有」との本質な違いを理解しない不勉強、世間知らず。ここに見られるのは、国民の税金を適正に使わなければならないという意識の完全な欠如である。裏金として使うというのは、納税者としての国民から見ると、一種の窃盗である。
 麻生首相は、上に述べたような『役人の世間知らず』ということは、全く意識しなかったのだろうか。麻生首相には、役人は自分たち政治家の手足となってやってくれる仲間という意識が強いのではないのか。だから『役人の世間知らず』は目に入らなかったのであろう。 国民から見ると、政治家と役人とは裏で手をつないでいる『同じ穴のムジナ』でしかないのである。そして政治家自体に世間知らずの人が多いのではないか。最近増えているという、2世議員、3世議員などのボンボン育ちには特に世間知らずの人が多いように思われるのであるが、麻生首相も該当者でしたっけ。

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2008年11月20日 (木)

海賊退治のための自衛隊派遣を急げ

 以下は官邸宛に送ったメールの内容である。
 「ソマリア沖でサウジアラビアの国営石油会社の大型タンカーが海賊に乗っ取られたというニュースをTVで見たが、日本に荷物を運ぶ船舶も多く被害に遭っているという。日本政府は自衛隊の艦船を派遣して、海賊の掃討を計るべきである。自衛隊の海外派遣については国内法上の問題があるが、そういう問題を民主党とも良く打ち合わせて早急に法律改正を行ない自衛隊の艦船を派遣して日本へ荷物を運ぶ船舶でなくても、海賊行為から守ってやり海賊の船舶を攻撃して破壊し掃討するべきである。これに当たって武器の使用をためらってはいけない。」
 日本の自衛隊の海外派遣は、こういう機会を利用して世界の秩序の維持に役立つことを目的にして行なうことを、海外、特に中国や韓国に対して知らしめるべきである。ニュースによると韓国は既に幹線を派遣したという。
 日本が海外に軍隊を派遣する時は、純粋に国益の確保のために已むを得ない場合に限るべきであり、もはや日本という国にとって他国の侵略などは意味がないことを世界に知らしめることは重要なことである。今は無意味なためらいなどをする場合でないし、できるかぎり早期に海上自衛隊の艦船の派遣を実施するべき時期なのであって、麻生首相はどうどうと自衛隊派遣を行なうべきである。

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2008年11月19日 (水)

現在の金融危機は予見されていた

 2008年11月18日の日本経済新聞朝刊に載っていた『一目均衡』というコラムに、現在の金融危機を予見していた人間がいたことが紹介されていた。今回の金融危機は100年に一度の危機だという専らの評価であるが、今から80年ほど前にアメリカに端を発した世界恐慌についてはすでに大勢の経済学者が研究しているし、それ以降も日本のバブル崩壊後の不況やアメリカのITバブル崩壊後の不況、1997年のアジアの通貨危機に発する不況など多くの不況が起きている。それらについての経済学者の研究も進んでいるはずだから、経済恐慌についての原因の把握も出来ているはずだと私は考えていたが、今回の記事で初めて現在の金融危機を予見していた人間がいたことを具体的に知った次第である。
 それにしても、わが日本銀行の政策委員会の委員たち、総裁、副総裁、審議委員、監事、理事、参与といった人たちは金融のプロを自負しているのだろうが、その人たちの中に今回の金融危機を予見して国民や国会議員などに危機が迫っていることを警告する行動を取った人がいたという話を聞かない。つまり日本銀行には人数だけは大勢いても、いざという時にはその人たちは何ら役に立たなかったというのが実態である。
 ニュースなどを見ると彼らは経済情勢を見極めるなどというコメントを良く記者団に語っているが、具体的に危機が迫っているということはけして言わない。言えるだけの自信を持った人間がいないのだろう。それは立場上言えないということなのであろうか。もしそうなら、経済情勢を見極めるなどといったことは言わない方が良い。なぜなら本当に重要な事柄について彼らが責任を持って語ることをしないのなら、何のために高い給料を貰って仕事をしてるというのか。私に言わせれば、いざという時に役に立たないのであれば役立たずの連中に捨て金を与えているのと同じだからである。
 狼少年にはなれないという言いわけは聞きたくない。経済についてのプロフェッショナルというのは、その持てる知識を使って世間の人に先んじて問題を発見することができる人のことを言うのだと私は理解しているからである。事後に後講釈を言うだけなら高い給料を貰う資格などはないのだ。世界中には恐らく何万人もの経済学者やエコノミストがいるはずだが、ほとんどの人が役立たずだったことを今回の金融危機は示したのである。
 ところで先の日本経済新聞の記事に書かれていた、今回の金融危機を予見した人物というのは、金融史が專門のイギリスの歴史学者ニーアル・ファーガソン氏だそうだが、彼は「歴史を学んでいないからだ」と言っているという。その記事には次のように書かれている。
 「同氏がモルガン・スタンレーの首脳に『今に金融危機が起きる』と忠告したのは06年のことだ。同氏の研究によると、世界の金融危機に時期や規模の規則性はない。だが、端緒だけは共通だ。『危機感が最も薄れた直後に起こる』」
 経済現象は人間の行動が作ったものであるから、人間の行動の結果として経済危機も起きる。人間性の理解が重要なのである。今回の金融危機の切っ掛けは、住宅バブルが引き起こした安易なサブプライム・ローンの貸付であった。そして住宅バブル崩壊を受けてサブプライム・ローンの貸付の不履行が多発しそれがまた住宅価格を引き下げるというスパイラル現象を呼び起こし、それが更に金融工学という現代の魔術によって作られた証券化商品の価格崩壊に繋がって、投資家に莫大な損失をもたらしたのである。かくして金融危機が起こったのであった。
 アメリカではJ・K・ガルブレイスの大恐慌研究『大恐慌1929年』が有名だが、大勢の経済学者がこの世界大恐慌を研究しており沢山の本が出版されている。ということは経済恐慌はどのようにして起こるかという原因も最早研究し尽くされているといってもよいのではないのか。もしそうなら今回の金融恐慌もその発生は当然予見されていて然るべきなのである。そうでなければ学問の価値などない。景気の絶好調の先に危機が起きていることは、日本で1989年にバブル崩壊が起きたことからも分かることだ。しかし景気が良い時には誰も悪いことは考えたくないようで、特に経済政策に関与している人たちの間ではそういう気持ちが強いようである。しかしバブルが原因の好景気の結果としての経済危機を予見することは、経済危機が金融危機を切っ掛けにして発生することからすると、当然予想され社会に広く公表されるべきことであったはずだ。それが為されなかったことこそ、今後究明されるべき重要な研究課題だと私は考えるが、どうだろう。

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役所は規制の結果に責任をとらない

 今回の世界的金融危機は経済学の言葉で言うと『市場の失敗』と言われるものであるが、他方で日本の実態を見ると,『規制の失敗』といえるものが目につく。例えば最近NHKのBSニュースでポストドクといわれる理工系の大学院卒業生の仕事が少なくて不安定であること、つまり大学院卒業生の過剰現象が見られる一方で、産科医が不足しているために妊婦の死亡事故が起きるという現象が起きている。いずれも文部科学省が監督している大学の学部の定員の認可制度が関係しているようだ。医者に関しては厚生労働省も関係している。そして問題なのは、こうした結果に対して文部科学省も厚生労働省も何ら責任をとろうとしないことである。いや、責任などとれもしないことを勝手に統制しているのだ。こういう行為を、普通は恥知らずで無責任な行為と言う。
 そもそも私は、なぜ大学の定員を文部科学省や厚生労働省が統制するのだろうか、と疑問に思う。果たしてその必要があるのだろうか。この件に関しては、私は全く余計な統制・規制であると考える。大学院に進みたい人間は自分で将来仕事に就けるかどうかを良く考えて決めるべきであり、医者などについても同じだ。つまり個人が自分で良く考えて進む道を決めるべき問題なのである。そして大学はそれらの個人の希望に応じて入学させれば良いのだ。ポストドクや産科医の現在の状況を見れば、役所の官僚たちに将来を正確に見通すことなどできないことは明らかである。それらは本来個人の責任で対処するべき事柄なのに、余計な介入・規制を役所が行なっているのである。マクロ経済について、その運営に政府がある程度関与して景気変動に対処するのは当然であるとしても、特定の職種に対して政府がコントロールしようとするのは全く余計なお世話というべきである。統制はするがその結果に対しては責任は取らない、などという仕事を役所は国民の税金に基づいて行なっている。これは全く無駄な仕事であり、最低の話だ。
 私は最近のキャリア官僚連中というのは、無能でありながらプライドと給料だけは高い厚顔無恥な人間ばかりではないかと思うようになっている。私のこの認識を覆すような行為を見せてくれるキャリア官僚はいないのだろうか。先ずは天下りを完全に自らの発意で止めることを実現して見せてくれ。そうしたら私もキャリア官僚を信用しよう。

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2008年11月17日 (月)

日本経済新聞『春秋』記者の不見識は底抜けだ

 2008/11/8の日本経済新聞朝刊の『春秋』では、防衛省の田母神前航空幕僚長の歴史認識を取上げて自衛隊内部の大きな問題として書いているが、私はこれを書いた記者自体の不見識こそが大きな問題であると思う。
 既に私はブログで、田母神氏の歴史認識を非難する意見こそが日本国憲法の思想・信条の自由の権利を弁えない愚論だと書いておいたが、政府見解と異なる歴史認識を自衛隊員は一切もってはいけないという意見を第一面に平気で書いた日本経済新聞『春秋』の記者の見識は全く情けないほどにレベルが低いものであると言わざるを得ない。
 自衛隊員は国防に従事する国家公務員であるが、そもそも国家公務員はすべて日本政府の見解に同意しなければならない人間であるのか、という根本的な問題がある。そういう意見は一体何処から出てくるのか。それは日本国憲法に定める国民の思想・信条の自由を否定する許しがたい意見である。自衛隊の職員が国防を任務としているからには、その職務に日本という国・政府に反対する思想・信条を有する人間が従事することが許されないことは当然である。しかしだからといって、自衛隊員に憲法で認められている一切の思想・信条の自由がないということはありえない。政府見解と違う意見を持ってはいけないというのは、自衛隊員はすべて思想的に金太郎飴のような存在でなければならないということだが、そもそもそういうことを考えること自体が民主主義社会には相容れない考え方であって、戦前の日本の政府が進めた思想統制社会をよしとする時代錯誤な考え方なのである。自衛隊員であっても、反日本という思想以外のものであれば、どのような考え方をしていようと構わないのであって、日本という国を守ることに専念する意思と軍人としてのプロフェッショナルな技能こそが彼らに求められる第一番のものである。自民党政権の時は自民党の政治的見解と同じ見解をもつものだけが自衛隊員であることを許され、もし民主党が政権党になったら自民党の見解と同じ見解をもっている自衛隊員はダメだということになるのか。そんな馬鹿なことはない。
 日本経済新聞『春秋』の記者は、俗受けする安っぽい見解を書いて平気でいるが、そうしたことが普通にまかり通るということは、日本経済新聞の記者全体の見識のレベルを疑われることでもあるのだ。下らない思想統制を求める日本経済新聞記者の程度の低い意見などを掲載したことを日本経済新聞社は大いに恥じるべきである。
 私に言わせると、村山首相時代のただただ卑屈な歴史認識は政府見解としては全く不適切なものであって、そのような情けない日本人の誇りを失わせるような間違った歴史認識は早急に改めるべきものである。イギリスはインドを植民地として統治してきたが、そのことを日本政府のように卑屈に謝罪しているか。アヘン戦争についてイギリス政府は中国に謝罪しただろうか。そうした点を全く棚上げしたイギリス政府の姿勢を完全に認めることは出来ないにしても、日本政府の中国に対する姿勢は余りにも卑屈でおかしい。歴代の自民党の政治家たちの中国に対する姿勢には、何か裏があるのではないかと疑わざるを得ないのである。中国への援助に絡んで大いに怪しいものがありそうに思われるのである。

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2008年11月15日 (土)

官僚の不祥事に対する退職金の不払いは当然だが

 かねてより私は官僚に対する退職金支払いには問題があると思っていた。刑事事件を起こした官僚が事件が発覚する前に自己都合退職して退職金を受取った場合に、退職後にその不祥事が判明しても退職金を取上げることができないという規則であったのは、人事管理として全くおかしなものであった。今回やっとそのことに気が付いて、政府が国家公務員退職手当法を改正することにしたと報道された。
 今までそういう人事管理上の不合理に全く気が付かなかったというのは、国会議員には、社会的な常識に大いに欠ける人が多かったということである。また頭の良いはずのキャリア官僚がそのことを自ら取上げて正そうとしなかったのは、許しがたい不作為であるし、日本国民に対する裏切り行為である。
 最近2世議員、3世議員といった世間知らずのボンボンが議員になることが多くなっているようだが、こうしたボンボンは企業で働くことなど全く経験していなければ、社会を見る眼もないわけで、そういう人たちが政治的な決定に関わってくるというのは怖いと思う。自分のそういった弱点を理解して、信頼できる秘書や相談できる友人などを回りに確保するだけの知性があれば良いのだが、ボンボンにはなかなかそうは行かないだろうと思う。2世、3世議員には、唯我独尊のお山の大将で、人の話など聞きたくないという人間が多いのではないか。
 ところで国家公務員退職手当法を改正するというニュースの中で、防衛庁の田母神俊雄前航空幕僚長への退職金支給に対する国民の批判ということが書かれていたが、私は改めてこの批判の不合理さについて批判したい。
 まず防衛省に勤める人間が、日本という国家に反感や反対の思想を持つことは許されないことで、そのことは国防という特殊な職務に従事する以上は何ら憲法で定められた個人の思想・信条の自由という規定に違反するものではないと考える。しかし歴史認識ということ、特に今回の「日本は中国を侵略した」という政府見解とことなる田母神氏の歴史認識をもって防衛省職員としての資格に悖るとする政府や国会議員などの考えは根本的に間違っていると私は考える。「大東亜戦争においてを日本は中国を侵略していない」とする田母神前航空幕僚長の考え、歴史認識は、防衛省職員としての国防という職務を遂行にする上において何ら妨げになるものとは私は考えない。田母神氏の歴史認識は、憲法で定められた個人の思想・信条の自由という規定によって当然に保護されるべきものであり、政府の閣僚や、自民党の議員、その他の日本人のどれほど多数が、政府見解に反するその他の理由で、不快に思おうが、批判される筋合いものなどではない。そういう深く物事を考えることもしないで批判するような連中こそが、日本国憲法の基本理念を理解していない自らの不明を恥じるべきなのであり、強く批判されるべきである。

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定額給付金に見られるキャリア官僚の無能さ

 定額給付金の支給に関連して振込め詐欺が予想されるからといって、総務省がインターネットを使って注意を呼びかけているというニュースがTVで伝えられていたが、どうやら最近は重要なことはホームページを使って知らせることで事足りるとキャリア官僚連中は考えているようだ。しかし振込め詐欺の対象になることの多い高齢者が、果たしてどれだけパソコンを持っていて、しかもインターネットに接続しているというのだろうか。そういうことは全く考えようともしないようだ。私は実効性のない仕事はしないのと一緒だと考えるものである。
 私は現在61歳で、パソこンを持っていてインターネットにも接続しているが、過去に総務省のホームページを見ようと思ったことは一度もない。ホームページに載せたから、国民に周知したと考えるのは役人の勝手だが、実際的な観点からいうと、ホームページ掲載などは私は役人連中の勝手な言い分でしかないと考える。総務省とすれば、手間も費用もかからない一番簡単な周知の方法だろうが、ほとんどの国民は総務省のホームページなど見ようと思っていないだろうし、実際に見てもいないだろう。実際の効果からすると、ホームページに載せるというのは、まさに官僚連中のマスターベーションに過ぎない。ほとんど何の効果もないホームページへの掲載であっても、それでも官僚の立場からすれば、国民に知らせるという重要な仕事をしたという形にはなる。いわば自分たちが仕事をしたことの姑息なアリバイ作りである。
 こういうことをすることも全く意味がないと私は言わないが、このように実務的な観点からすると実効性のほとんどない仕事であっても、何かをしたというアリバイにだけはなるという仕事を、その省の大臣までが平気で認めてもらっては困るのである。そのことがTVや新聞のニュースを通じて報道されるから、それによって実効性が保たれるというのなら、他人の褌で仕事をしているに過ぎない。そういう認識を官僚連中には持ってもらわなければ困るのである。
 厚生労働省での血液製剤による肝炎やHIV感染の問題など、具体的な処置に関する不作為、つまり何をすれば良いのか分からないためと思われる不作為、もっとはっきり言えば実務的な対応に対するキャリア官僚の無能が見られたが、今回の定額給付金の支給に関しても、そのゴタゴタぶりは現場の実態を知らない内弁慶のキャリア官僚たちが実務的に全く無能であることを証明した。どうして実際にお金の支給を行なう市町村の現場に行って話を聞いたりしないのか、私は不思議でならない。計画を立てて他人にやらせることが高級な仕事であるとキャリア官僚たちは誤解しているのである。仕事に実効性を持たせようと考えるなら、彼らは現場を重視するトヨタ式の考え方を徹底的に身に付けて行動するべきなのである。自分の手を、文字を書く以外のことにも使えるようでなければ人間としてかたわだと私は考えている。現在のキャリア官僚たちはかたわの仕事にしか目に行かないほど、その精神は腐っているのだ。

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2008年11月14日 (金)

市場原理主義は思考停止ではないのか

 いよいよ金融サミットがアメリカのワシントン市で、先進国7カ国と中国やインドなどを含む20カ国の首脳が集まって開催される。ヨーロッパ諸国は金融機関への規制強化が不可欠と考えているが、アメリカのブッシュ大統領は金融市場の規制強化には慎重な姿勢である。ブッシュ大統領がそのように考えるのは、アメリカの主流の経済学の基本イデオロギーである『市場原理主義』を信奉しているからと考えられる。TVニュースを見ているとフリー・マーケットの重要性を訴えていることから、そのように推測できるのである。
 ところで私はブッシュ大統領が自由な市場の重要性を強調するのも、単に主流の経済学の基本的な考え方がそうであるからであって、自らが真剣に考えた末にそう主張しているとは到底考えられない。ブッシュ大統領はそんなに物事を深く考えるタイプの人間ではないからである。むしろ何も考えないタイプの人間であるように私には見えるのである。
 私は『市場原理主義』はけして純粋に科学的なものなどではなくて、経済学者が持ちやすいイデオロギーであると考えている。それは、制約のない市場が、経済的な成果を最大限に実現する唯一の手段であると考えるイデオロギーであり、したがってそのように考える限りそこから先のことは具体的に考える必要がなくなるから、それこそが経済学者の思考停止の元凶になっているのでないかと私には考えられるのである。
 今回の世界金融危機も、私は『市場原理主義』が元凶であったと考えている。製造業を知っている人間は、製品の品質こそが最も重要な要素であると考えるから、今回の金融危機の引き金になったサブプライム・ローン債権を含む証券化商品には、その品質に大きな問題があった、即ちそれらの証券は格付け会社によって高い格付けを得ていたが、実はそれらに含まれるリスクが曖昧なままで取引されていた、と考える。しかも、取引されていること自体がその証券の安全性を保証するように見なされるという杜撰なリスク認識が取引する投資家の間で定着してしまっていたのである。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」を地で行く形で、巨額の取引が大掛かりに行なわれていたのである。そしてこれは自由なマーケットで行われていた取引なのであった。
 製造業が生み出す商品は、基本的には見えるからその品質が解りやすいのだが、金融商品には目で見て分かるというところがない。紙に印刷された支払いの約束の内容こそがその商品の実態なのである。そして約束には不履行のリスクが必ず含まれる。国の政府が発行する国債でさえも、絶対の存在ではないのである。
 金融工学の発達の結果色々な債権を折り込んで作られた証券化商品が、その一部でも支払い不履行になると、同じタイプの証券はすべて同じリスクを持ったものと見なされて、一斉に取引されなくなってしまった。含まれている債権の実態が正しく反映されて認識されることなく、一律にリスクの怪しい支払い不履行の証券になってしまったのである。これらの証券の売り買いに関わっていた人たちは、金融業界のプロと言われる人たちであったのだが、実は金融工学によって作られた新しい証券に関しては、正確な商品知識など持っていなくて、実際には素人と変わらない存在であったのだ。そういう人たちの間で巨額の証券の売買が行なわれていたのである。手に取ってその品質を確認することが出来ない新しい金融商品、それに含まれるリスクが現実のものとなった時に、金融業者、投資家の間には疑心暗鬼しか存在しなくなった。つまり互いの間の信用が失われてしまったのである。互いの間の信用が失われれば、取引は行なわれなくなる。金融商品の市場における価格が成立しなくなったのである。取引されない金融商品は無価値であるから、それらの金融商品を持っている金融業者や投資家は莫大な損失を抱えることとなった。ここに莫大な金額の不良資産の山が築かれることとなった。こうして現在の金融恐慌が起きたのである。
 以上が、私の理解する今回のアメリカ発の金融危機の発生の経過である。金融業者や投資家の間で自由に行われていた取引の結果が、今回の金融危機をもたらしたのだから、普通に考えれば今までの金融市場のあり方には大いに問題があったと考えるはずだが、アメリカのブッシュ大統領はそのようには考えないのだ。そして◯◯の一つ覚えのように、ブッシュ大統領は自由市場を規制することは良くないと主張している。それをブッシュ大統領に言わせているのが、『市場原理主義』というイデオロギーなのである。ブッシュ大統領は、よく理解してもいないイデオロギーをおうむ返しに口にしているだけなのであるが。
 イデオロギーというと、昔はマルクス主義がその代表例であったが、現代はその位置を『市場原理主義』が占めているといって良いだろう。市場の重要性は理解していても、私はそれが万能であるとは考えない。実際に今回の金融危機は『市場原理主義』のイデオロギーが元凶であると私は考えている。こうした問題が起こっても、『市場原理主義』を唱える人間というのは、思考停止に陥っている人間であるといって良いのではないだろうか。

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麻生首相の教養の低さに幻滅

 昨日(2008/11/13)の日本経済新聞朝刊に『首相 誤読連発』というタイトルで麻生首相の漢字の読み間違いを伝える小さな記事が出ていた。私は麻生首相の国会中継などで見る発言の率直な語り口を買っていた。前首相の福田氏の発言には、全く自分の意思が感じられないために、ひどく失望させられたから、対照的な麻生首相の発言の仕方は私には非情に好ましく思われたのであった。
 麻生氏がマンガ好きであることも、彼の個性として面白く受け止めていたのだが、今回の記事を見て麻生首相の評価を変えざるを得なくなった。マンガが好きでも構わないが、彼が読み間違えたという漢字の実際を知ると、余りにもお粗末で、教養の欠如を感じざるを得ないのである。
 安倍内閣の時に、松岡農林水産相が自殺した後に後任となった赤城氏が顔に絆創膏を貼るという情けない姿で姿を見せるということがあったが、余りにもレベルの低い人物であることを自ら宣伝するような人間が平気で大臣に選ばれるという自民党の体質、安倍首相の判断力を見て私はもう自民党は完全に自壊しつつると判断せざるを得なかった。そして福田氏という、結果としてリーダーとしての資格にかけていたことが判明した人物が首相に選ばれて、1年後には政権を投げ出すという事態になった。私はいよいよ自民党もご臨終だと思った。
 そして麻生氏が首相に選ばれたのであったが、私は麻生氏の率直な話のし方に好感を持って少しはましな人物が自民党にもいるのだと思ったのであるが、今回の記事を読んでその期待も完全に裏切られてしまった。漢字の中には読むのが非常に難しいものがあるが、今回報道された漢字はそういったタイプのものではないのだ。大学まで出ていて、『頻繁』や『未曾有』や『踏襲』などという高校を卒業していれば誰でも読めるはずの漢字を正しく読めないというのだから、麻生氏の教養は恐らくひどくレベルの低いものなのだろう。やはり自民党は人材が払底しているのだとしか思われない。(ところで『払底』というこの漢字、』麻生首相は正しく読めるのかしら)

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2008年11月12日 (水)

田母神前航空幕僚長の歴史認識に関連して

 「大東亜戦争は侵略戦争ではない」という田母神前航空幕僚長の認識は、本当にそれほど問題なのだろうか。私は、本当のプロフェッショナルは、実務的な面での能力が問われれば良いのであって、その思想を問うことは必要がないと考える者である。政府に勤める人間はすべて政府の基本方針の基礎にあるものの見方にすべて右へ倣えでなければいけないとするのは、思想信条の自由を謳った日本国憲法に違反することだと私は考える。たとえ軍隊であっても、すべての人間が金太郎飴のように思想統一されていなければ成らないと考えるのは根本的に間違っている。プロフェッショナルな軍人としての訓練によって、軍事行動に当たって有効な軍事行動が取れれば良いのであって、そこに思想が介入することはプロの軍人として許されないことであるとキチンと弁えさせれば良いのである。日本経済新聞の2008/11/12の社説では『田野上氏だけなのか心配だ』とタイトルを付けていたが、こんな下らないタイトルを付けること自体がこの記者の考え方の浅いことを示していると私は思う。プロフェッショナルとしての訓練を徹底して行なっていれば、思想がどうのこうのと余計な心配をしなくて済むはずである。そうでないような人間、つまり本当のプロフェッショナルでない人間が軍人としての高いポストを占めることがないようにこそ防衛省は人事管理を行なうべきなのである。
 私は浜田防衛相のようなキチンとした認識を持たない政治家が、姑息な対応をすることこそが問題だと考える。このような問題が起きた時には、必要なだけの徹底した議論を行なうことが不可欠なのに、田母神氏が自分の思想について正面から対決姿勢を示して説明することを避けようとして田母神氏を停年退職させるという、情けない対応しかできなかったことは防衛相としての能力不足を身をもって証明したものと私は考える。麻生首相はこのような情けない人間を防衛相に任命したことを恥じて、直ちに花田氏を罷免すべきである。

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2008年11月 8日 (土)

投機資金の退潮による価格下落の意味

 ニュースによると原油価格は最近60ドル台に下落した。小麦粉などの農産物の価格も、アメリカ初の金融危機の発生後、大きく下落している。その原因として、金融危機によって投機資金がそれらの市場から引き揚げられたことと、景気後退による需要の減少予測があるという。
 ところで最近の経済学の主流は、『市場原理主義』による経済運営、すなわち経済活動への政府の規制の撤廃を良しとするものである。ここで私はそういった経済理論を主張する経済学者に聞きたいのだが、しばらく前に見られた投機資金が流入したことによる原油価格や小麦価格などの上昇は、人間の生活を支えるものとしての経済活動にとってどのように良い効果をもたらしたというのであろうか。その理由をハッキリと説明してもらいたいと思う。
 また今回のアメリカの金融危機の原因の一つに、超低金利の日本の円が海外の金融機関などによって借り出されて、海外でドル資金に変えられて金融投資や投機に使われたという、いわゆる円キャリー取引の存在が言われるが、このことに対して超低金利と金融緩和を旨とする金融政策を実施し続けた日本銀行には何の責任もないと言うのだろうか。市場原理主義の考え方に基づく限り、資金がどのように使われようと日本銀行は関知しないと言えるだろう。確かにその通りなのだが、果たしてそれで済む問題なのであろうか。私には疑問に思われるのである。
 金融工学によって新しい証券化商品がつくられるようになり、それが金融業界に莫大な利益をもたらしたのだが、その結果としてアメリカ発の金融危機が発生し、今度は莫大な損失を金融機関にもたらし、アメリカでは純粋な証券会社が消滅してしまった。信用紙幣による貨幣制度は、紙幣の発行に対する制約が基本的にはないので一国内の経済活動に対しては過剰な貨幣供給をもたらしがちで、それが民間の経済活動の活性化に繋がる一方、行き過ぎるとインフレをもたらすことになる。中央銀行の大きな役割として、インフレ防止が言われる所以である。
 金融市場の市場原理主義を認めたアメリカは、住宅市場のバブル発生が景気の上昇をもたらす効果に幻惑されて、金融工学の精華であるサブプライム・ローン債権を組み込んだ証券化商品のリスク管理が出来ていないことを看過して金融危機をもたらした。金融業界の莫大な利益の跡には、今度は莫大な損失が発生したのである。そもそも金融取引による莫大な利益とは、何だったのであろうか。それは単なる数字でしかなかったのではないか。金融商品の価格は、それを支える背景となる実態、例えば貸付債権などを持っていなければ成らないと私は考えるのだが、それを単なる数字とみなすのが最近の金融工学の基本的な考え方なのではないのか。そこに、投資家たちが共同幻想を抱くようになった時の危険の根源が存在すると思われる。
 またアメリカのように国際決済のための基軸通貨を自国の信用紙幣で提供する立場にある場合は、紙切れのドル紙幣で他国から商品やサービスを輸入することができるので、経済的には非常に得な立場にあることになる。信用貨幣制度は、紙幣の印刷という貨幣創造によっていつでも過剰流動性を市場にもたらすことが出来るのである。これが近年のバブルの発生を容易にする基礎条件になっている。ヘッジファンドなど、投機を含む金融活動を行なう投資家が資金調達を容易に行なえる環境を作っているのが、信用貨幣制度であると私には見えるのであるが、金融市場においても市場原理主義を基本的に容認する立場で中央銀行が金融政策を実施するか限りは、今回と同じような金融危機は将来にも発生しうると考えられる。これに対して、中央銀行は政府と連携して金融市場でまともな金融取引が行なわれるようにルールを定めて、監視する必要があると思われる。特に金融工学によって新しい証券化商品が流通することに対しては、リスクが隠れて見えないようなことが起きないように、リスク分析を行なえるようにして厳しく監視するべきではないだろうか。

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日本の経済学者の物足りなさ

 08年11月3日の日本経済新聞朝刊の『エコノミクス・トレンド』に若田部昌澄・早大教授の『「大恐慌に学べ」の虚と実』という論文が掲載されていたが、2回読んだが、内容にはとても物足りなさを感じた。アメリカの色々な学者の書いた大恐慌に関する著書や論文でなされた説明を紹介しているのだが、いかにも自分のお勉強の成果を誇示しているようにしか感じられず、余り感心しなかった。そもそも若田部氏のこの論文には、今回の危機の根本にあると考えられる原因について、自分の考えが全く示されていないのである。私が昔、大学で経済学の講義を聞いた時に、内海蔵一郎という先生は、日本の経済学とは講壇経済学であり、海外の学者の書いた本の内容を日本語にして祖述するだけだといっていたのを、この論文を読んで奇しくも思い出したのであった。日本の大学では同じことが相変わらず行われているのだ。
 私は今回の金融危機の根本的な原因として、次の二つのものがあると考える。一つは、過剰な流動性が簡単に存在しうる信用紙幣という制約の少ない貨幣制度の下に金融部門にも「市場原理主義」が導入されたことであり、二つ目はアメリカでは近年金融工学の成果としてはやされ、金融技術の改革の名の下に証券化が大変に進んだが、リスクがよく見えない金融商品が専門機関による格付けのバックアップによってリスク無視の売買が投資家の間で横行したことである。
 そして今回の危機の実体的な根拠は、住宅バブルの崩壊が存在したことであり、そのために貸し倒れとなったサブプライム・ローンの貸付債権が証券化という技術革新の下で大量の金融商品に含まれることになったからである。貸し倒れとなったサブプライム・ローンの貸付債権がそれが組み込まれている金融商品のリスクがどれだけのものであっても、それが当該金融商品の取引価格に正しく反映されることが出来ていれば今回の危機の規模はこれほど大きなものにならなかったはずである。しかしリスクがすっかり隠れてしまっている状態では、投資家の誰も当該金融商品を買おうとはしないから流通できなくなり取引価格は成立せず、暴落したのである。
 今回の金融危機が起きた後には、世界中の株式市場で株式相場は暴落したが、それでも取引は行なわれており株式の取引価格は明らかであった。サブプライム・ローンの証券化商品と株式との違いはそこにある。株式は特定の企業の資産価値を反映するものと考えられており,その企業の業績が悪化すれば株価は下がるし、逆に上がれば株価は上昇する。サブプライム・ローンの証券化商品にはそのような対応関係が基本的にはないのだ。
 貸付債権には必ず貸し倒れのリスクが存在するのであるが、アメリカで住宅価格がバブルで上昇していた時には、たとえ貸付金が貸し倒れになっても、担保として差し押さえた住宅の処分によって貸付金が回収できたので、サブプライム・ローンの提供者には実質的に貸し倒れリスクは存在しないと同じであった。住宅バブルをもたらしたものは、住宅価格の上昇が長期にわたって続いていたために、住宅取得という個人の投資が、住宅価格の上昇による利得を期待した「投機」にも成っていたということである。ガルブレイスの『大恐慌1929』によれば、1929年の株式相場崩壊が起きる前にはアメリカ中を投機熱が覆っていたという。
 「大恐慌に学ぶ」としたら、金融恐慌の前には社会全般に渡る投機熱があることを知れば充分であったのであり、しかもそれを知ることは誰にとっても難しいことでも何でもなかった。誰でも大恐慌についての本や論文はいくらでも読むことができたのである。FRB前議長のグリーンスパン氏は当然そんなことは知っていたはずだが、そのことを彼が指導した金融政策にはなんら反映させなかった。グリーンスパン氏が「バブルの危険」を指摘することは、バブル時の経済繁栄を自己の金融かじ取りの業績として誇示できる機会を逃すことであったから、到底、狼少年にはなれなかったのだろう。先日ようやくアメリカ議会に証人として呼ばれた時に、彼は自分の判断には誤りがあったことを認めたのであった。
 若田部教授のこの論文の趣旨は、大恐慌時の政府の対応策を述べることであって、今回の金融危機の原因はそもそも対象ではないのかも知れないが、そうだとしても私にはもっと自分自身の意見が表明されて然るべきだと感じられるのである。

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2008年10月31日 (金)

農林水産省に食品の監督資格はあるか

 今日(2008/10/31)のTVニュースで、農林水産省は米の輸入を再開すると発表したが、それと同時に今まで品質不良米であっても返品してこなかったのを、今後は返品すると言う。私に言わせると、「何を今更」である。今まで不良米を返品もせずに抱え込み、保管してきたという、民間企業では信じられない行動を取ってきた農林水産省の官僚たちは,私から見れば「全く世間知らずのプータロウ」としかいいようがない、救いようのない連中である。
 ところがこのような世間知らずの農林水産省に所属する連中が、最近あちこちで露見している品質を偽る産地偽装や毒物の混入事故が起きた企業に対して、こともあろうに改善命令を出したりして指導しているのである。彼らに果たしてそんなことをする資格があるのだろうかと、私はあきれ返っている。それは、味噌も糞も一緒くたにした言い分だと言われるかも知れないが、不良品の輸入米についての処理の仕方を見て、その余りのずさんさ、いい加減さにあきれ返った私に言わせれば、農林水産省の役人たちは余りにも無知でまともな仕事などできない、したがってただ飯食いの穀潰しといってもよい連中としか形容のしようがない者たちなのである。
 最近私は、役人というのは見かけだけは仕事をするふりをして時間を潰し(最近はうまいことにパソコンに向かってさえいれば、いかにも仕事をしているように見えるのである)、実際には実態のない無駄なことをして給料を貰っている連中なんだと思わないでいられないのである。日本の国がダメになった要因の大きな一つは、役人たちの堕落、サボタージュにあるのではないだろうか。
 ところで輸入した不良米の取り扱いについての責任問題は果たしてどうなったのか。この責任をとった人間は農林水産省にいるのか。組織で仕事をしてるから個人の責任など問えない、という言いわけが通るような形で仕事をさせてはいけないのである。『責任の細分化』、つまり常に仕事の結果について個人の責任が明確になるように仕事をさせなければ成らないのであるが、こんなことをいうと、それでは役人などやっていられないという連中がきっと出てくるに違いない。そういう連中はどんどん辞めてもらえばいいのである。民間企業のように利益という形で、仕事の成果を計ることが出来ない役所こそは「個人責任の明確化」が必要なのである。
 役所の最高責任者は大臣であり、基本的には政治家がその地位に就くのであるが、政治家自体が、役人の仕事の責任の取らせ方について私の言ったような認識を持っているかどうかが、疑問なのである。政治家がしっかりしなければ、役人はこれからも変わらないだろう。楽して金を稼ぐのに良いというくらいの意識しか持たない連中の天国、それが役所だ、ということになってしまう。

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麻生首相に期待するところ

 私は自民党支持者ではないが、麻生首相を好ましく思っているところがある。それは、はっきりと自分の考えに基づいて発言することである。前任者の福田首相には、当初賢人的な風格があるかに思っていたが、それは全くの幻想, 期待外れであった。最後には私は福田氏を「意思能力の全く欠如したグズ」としか評価しなかった。一国のリーダーたる立場にいる人間が、重要な事柄についてあたかも自分とは関係がないかのような口調で語るのを聞いて、全く責任感がないように感じて、自分の人を見る眼のないのに落胆してたものだ。その点で麻生首相はハッキリとしたものの言い方をする、それは一国のリーダーとしての資格の一つを満たしていると思う。
 ところでそういう自分の考えをハッキリと示したのが、今回の3年後の消費税率引上げの必要の見通しである。私も已むを得ないところもあるかと思うのであるが、税率アップのためには以下に述べるような問題点に対して麻生首相にはキチンと対応してもらわなければ成らない。
 私は2年前に停年退職して札幌に戻ってきたが、自家用車を持っていたから登録の変更をしてナンバープレートを変更しなければ成らなかった。まず車庫証明を取るために警察署に行って所定の書類を貰い記入して提出し、警官が駐車現場の確認に来た上で車庫証明をもらった。それから、その書類をもって運輸局に行って、登録変更の手続き書類をもらい記入して提出し、届け出を行なった。そして思い掛けない事実を知ったのである。
 それは、ナンバープレートを支給するのは何とか協会、自動車重量税のための登録をするのは別の何とか協会であったことだ。その二つの協会共に運輸局のすぐ近くに立地している。ナンバープレートの交付も、重量税の請求業務もともに運輸局の主要な業務であると私は考えるが、それが外部の協会に委託されているのである。こうしたことは自分自身で車の登録を申請した者でなければ到底知りえないことである。普通、自家用車などを購入した時には、購入者は購入先の業者に手数料を支払って代理人になってもらって登録の手続きやナンバープレートの申請・受取りをしてもらうから、知りようがないのである。
 そもそもなぜ、ナンバープレートの交付や重量税のための登録業務を運輸局は自ら行なわずに外部に設立した協会などに委託して行なわせているのか。これは国土交通省の官僚の天下りのための協会でしかないのではないのか。こうしたことを行なっている国土交通省の官僚たちのことを、こうした事実を知った国民は果たして信用することが出来るだろうか。公明党の冬柴氏が国土交通省の大臣をしていた時、道路特定財源を使った道路整備計画を批判されて、無駄のないように精査した結果の計画であると答弁していたが、上述のようなことをしている官僚の行なった精査などは私は全く信用することは出来ない。民主党の小沢代表は役所関連の公共団体の全廃を語っていたが、私もそれは妥当だと思う。外部委託することが必要ならば、公共団体などを取引相手にせずに、民間企業からのアウトソーシングにすれば良いと考える。取引相手の民間企業の信頼性をキチンと調査して取引するようにすれば済む話なのである。そうすれば大幅に国費の支出を減らせると思う。
 キャリア官僚たちを私は最近ロクデナシ連中としか思わなくなっている。キャリアの同期の一人が事務次官になるとその他の同期の連中が全員退職する慣行があって、その退職する官僚のための受け皿が必要だから公共団体が必要だなどというのは、キャリア官僚連中の勝手な言い分に過ぎないのだが、そういった慣行が税金の無駄使いという大きな問題の元凶になっているのを政治家は今まで放置して解決しようとしてこなかった。それは、はっきり言ってキャリア官僚に依存しなければ政治が出来ないほど国会議員のレベルが低かったからではないのか。麻生首相にはこうしたキャリア官僚のデタラメを廃絶することにおおいに力を揮ってもらいたい。

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2008年10月28日 (火)

伊藤ハムの経営トップの愚劣さは底抜けだ

 ニュースによると、今回の伊藤ハム東京工場での井戸水のシアン化物汚染に起因する製品事故について、同社では調査委員会を設けて調べるという。私はこれを見て、あきれ返った。ロクデナシのキャリア官僚連中がやるようなことを、つまりトップの責任回避を図るための方策としか考えられないことを平気で行なっているのである。
 伊藤ハムの経営トップが先ずやるべきことは、今回の事態を招いた責任は経営トップの品質意識の低さにあったことを認めてすぐにも退任することである。それが伊藤ハムに勤める多くの社員に対する品質意識の向上のために一番効果があるやり方である。経営トップの日頃の品質意識に欠ける行動が、社内に品質問題に対する鈍感な行動を作り出したのであるから。経営トップにある本人にその認識が全く欠けていること自体が、今回の事件の根本原因なのである。
 伊藤ハムの経営トップは、恐らく製造現場に足を運んだこともほとんどないのだろうと私は推測する。製造業の企業のトップが自社の製品を作っている製造現場について深い知識を持っていないことは、私に言わせると製造業の経営トップとしては失格なのである。更に問題なのは、どうしてこのような人間が経営トップになることができたのかということである。現在同社が同族会社かどうかなど私は知らないが、もし同族会社でなかったとしたら、今回の事件に対する感度の低さから感じるのは経営トップが社内政治を生き残ってきただけの内弁慶な人間なのではないかということである。そもそも経営者の資格がない人間が経営トップを勤めることができるような会社には長い目で見て発展性はないと思う。

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2008年10月18日 (土)

今こそ株式投資の絶好の機会である

 今日(2008/10/18)の日本経済新聞朝刊にアメリカの有名な投資家ウォーレン・バフェット氏の発言が載っていた。バフェット氏はニューヨーク・タイムズ紙ヘの寄稿のなかで次のように語ったという。
 「私は米国株を買っている。」
 これこそは株式投資の本道を行くものである。今はだれもが株式相場の暴落に畏れをなして株式市場から急いで離れようとしているようだ。そのために手持ちの株をたたき売っているのである。しかしここで立ち止まってよく考えてみるべきなのである。物を買う時には誰でも出来るだけ安く買おうとするだろう。例えば今はやりの液晶テレビを買おうとする人は、ヨドバシカメラに行き、ビックカメラに行き、そしてヤマダ電機にも行って価格を調べ・比較して出来るだけ価格の安いところで買おうとするだろう。それが消費者としては当たり前の行動だ。
 ところで株式を買う場合には、投資をしようとする人間の行動はこれとは全く逆になる。今が株価の安くなっている時であることは誰もが認めるであろう。つまりかってないほどに今なら株を安く買えるのである。今こそは株の買い時ではないのか。なぜ株式の場合、その一番安く手に入る時に人は買おうとしないのだろうか。今株を買って5年も持っていれば、間違いなく50%以上値上がりするだろう。場合によっては2倍にもなるかも知れない。
 かつてアメリカの大恐慌は10年以上も続いたし、日本もバブル崩壊後10年以上も不況が続いたが、今はもうそんなに長く不況が続くことはないと考えられる。アメリカ政府にしろ、ヨーロッパのフランス。ドイツ、イギリスなどの政府も金融不安に対する政府の対策をかつてないほどに素早く打ち出している。5年もすれば今の金融不安に基づく不況も解消していると考えて間違いないと思う。ということは5年後には株価は今とは比べ物にならないくらいに上がっているはずである。
 安い時に買うことは、株式投資においても原則なのだが、なぜか人々は株式相場が上昇をし始めたと確信できるまでは株式を買おうとは考えないのだ。しかしこれはよく考えれば全く愚かな行動なのである。今のような時期こそが株式投資の絶好の機会なのである。
 ウォーレン・バフェット氏は上記の寄稿において次のように書いているという。同じことはNKH・BSニュースでも伝えられていたが。
 「投資のルールはシンプルで、他の人が欲張っている時には恐れ、他の人が恐怖にさいなまれている時に強欲になることだ。」
 こういったことは、株式投資について書かれたまともな本ならすでに書かれていることなのである。市場を恐怖感が覆っている今のような時に、冷静に投資ができる人ならひと財産を築くことが出来るのは間違いないと思う。
 私も投資できるお金があれば、特定銘柄については判断しかねるので、長期運用を方針とするタイプの株式投信を買う。

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2008年10月17日 (金)

キャリア官僚と中国人の共通点

 厚生労働省、農林水産省、外務省、経済産業省などの官僚の行動を見ていて、最近ふと中国人との共通点を思い当たった。歴史的に見ても、もともと日本の官僚制度は中国の官僚制度の模倣から出発している。最近の日本の彼らは、私から見るとまともに仕事をしているようには全く思われない。
 まず厚生労働省だが、その所管する社会保険庁が過去にまともに仕事をして来なかったことは消えた年金データで明らかになった。これはキャリア官僚が直接行なっていたことではないが、社会保険庁の長官をずっと務めてきたのはキャリアの連中であった。彼らは、ただノホホンと長官職を勤めて高給を食んでいたのだ。社会保険庁の業務が適切に行なわれているかを管理監督する立場にいたのにも拘わらず、神輿の上に乗って国民のためにはなんの役にも立たないままに時間を浪費していただけだった。そうしたキャリア連中の業務怠慢の下に、社会保険庁の職員たちは厚生年金保険料の基礎になる基準報酬額の積極的改竄にはげんでいたが、それは見かけ上の収納率を改善して自己の成績を上げようという全く利己的な理由のためであった。そうしたことをすることは国民への裏切りであり、公務員として許しがたい所業であることも全く意識されなかったという体たらくであった。キャリア官僚という上のやることを見ていると、そうなるのも必然だったのではないだろうか。
 また農林水産省での最近の輸入した事故米についての取り扱いを見ると、官僚たちは国民の税金をただただ無駄に使うだけの仕事をしているとしか思われない。そもそもなぜ農薬などの残留値が高くて食用に適さない輸入米を返品もしないで保管し、工業用に販売するなどといった無意味なことを行なっていたのか。輸入義務量を出来るだけ安く達成するために敢えて不良の米を輸入していたのだろうか。そうした点についての報道が何もないのはメディアの怠慢なのではないのか、と私は不審に思っている。もしそうだとしたらいかにも役人らしい全く姑息なことをしたものである。しかし報道によると今後は事故米は返品することにしたという。私は長年食品業界で仕事をしてきたから、民間企業では納品された原料が不良品であれば当然のこととして返品するのを見ていたから、そうしたことさえも考えつかなかったという官僚の発想は全くあきれ返るものである。これほどにも常識のない連中が役人として仕事をしているというのは、私には恐ろしいかぎりである。というよりも国民として情けないかぎりというべきか。
 外務省の官僚たちのなかには「チャイナ・スクール」という日中友好に特別の思い入れを持った人たちがいて中国との外交関係で勢力を持っているそうだが、私が最近中国に関して学んだことから判断すると、彼らは実質的に中国政府の利益代表に堕しており,日本国民にとって害をなすだけの存在であるとしか思われない。それならば彼らは中国に国籍を移して、中国外務省から給料を貰って仕事をするべきなのだが、日本国民の税金から払われる給料で働きながら国益を害することに熱心にいそしんでいるのである。中国政府が歴史教育を名目にして中国の若い人たちに意識的な反日教育を施していることについても、内政不干渉の名目で黙っているようであるが、それなら中国政府が日本の政治家の靖国神社参拝について口出しをすることに対してハッキリと内政干渉だと言い返すべきなのに、彼らにはそういうことを言うだけの勇気もないようである。国益に反する彼ら官僚たちのの不作為を我々国民は厳しく弾劾する必要があるのだが、日本国民自身が中国に対して奇妙に罪悪感を持っているのはまさに一種のマインド・コントロールだと思う。マスコミも国民に対して正しい歴史を伝えていないのである。中国はアヘン戦争に関連してイギリスに対して日本に対するようにいつまでもしつこくイチャモンを付けているだろうか。全く何も文句を言っていないのに、なぜ日本に対してだけはネチネチと絡んでくるのか。中国にとって日本はかつての朝貢国であったという中華意識がそうさせるのであろう。中華意識は中国人にとっては骨絡みの無意識なのである。こうした中国に対しては日本人は徹底的にNOをいう強い意志を持って当たるべきなのである。そうすれば途中で中国政府も諦めるはずだ。弱腰と見ると、とことんつけ入るのが中国人なのだから。
 経済産業省については、私はプラスティックの再利用という全く馬鹿げたリサイクルを直ちに止めるべきであると思う。それは官僚自身が実際にプラスティックごみの分別を自らやってみればすぐにも分かることである。食品に使用されるプラスティック容器には必ず表示のための紙ラベルが付着しているから、それを再利用するためにプラスティックだけ原料として取り出すなどということは到底できるはずがないことが分かるはずだ。現実を無視した机上の空論は国民に無用な負担を強いるだけで、全くの無駄にしかならない。そうでないというなら、その証拠を示してもらいたい。役人の得意な馬鹿馬鹿しい屁理屈はごめんである。まともな実際的な論理で説明をしてもらいたい。
 また警察に関して、私は交通違反の項目の一つであるスピード違反の基準となる速度制限の値が全く実態からかけ離れていて、現状ではその異常な制限値がスピード違反という犯罪を生み出す元凶になっていることを理解するべきである。実際に車を運転してみれば分かることだが、車を制限速度以内で運転している人はほとんど、99.9%いないと自分の経験から断言できるし、恐らく現場の警官自身も解っているはずだ。こうした異常な事態は直ちに改善するべきであるのに、全くそうした動きは見られない。こうしたことを放置しているかぎり、私の意見では、警察のキャリア官僚はまともに仕事をしていない。このことについての不作為は、キャリア官僚の成績に何ら影響を及ぼさないからであろう。しかしこれは実質的には国民に対する裏切りである。
 以上私が官僚たちを最近全く信用しなくなった原因について書いたが、本題である官僚たちの中国人との共通点を最後に指摘する。それは、「中国人は死んでも自らの過ちを認めない」ということである。この「自らの過ちを新でも認めない」という特徴は、全く日本の官僚たちにもそのままそっくり当て嵌まると私には思われるのである。彼ら官僚たちが自分たちの過ちについて、それを自ら認めて謝ったことがあるだろうか。唯一の例外は、防衛省の前事務次官であった守屋氏くらいではないのか。彼は自分の過ちをキチンと認めたが、ほとんどのキャリア官僚たちは自らの過ちは絶対に求めようとしないようなのだ。こういうところだけは中国人にしっかりと同調しているのだ。これも歴史的な腐れ切った体質なのであろうか。

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2008年10月 1日 (水)

団塊世代の特殊性と最近の世界的金融危機

 われわれ団塊世代は全く奇跡的な世代であるとつくづく思う。戦後の混乱して食べるものにも困る時代に生まれ、高度経済成長を経験し、石油危機を経験し、バブル時代を経験し、バブル崩壊とその後の経済低迷を経験し、イスラムテロを経験し、そして今、大恐慌にも匹敵しかねない金融危機を経験している。アメリカ議会では通過すると思われていた金融安定化法案が議会で否決され、その結果ニューヨークの株式市場は大暴落をした。一生の間でこれほどの経験をした世代などは歴史上にも存在しないのではないか。アメリカ議会の行動を見ると、人間は進歩するのだろうか、と思わずにはいられない。アメリカ議会の議員は自分の議員という地位を確保するために金融安定化法案に反対したのである。過去の経験で学んだはずだからもう大恐慌などというものは起こらないだろうと考えられていたのに、同じことが起きかねないという状況になっている。
 私は個人的に、お金そのものを商品として扱う仕事には何か胡散臭いところがあるとかねてから考えている。「お金がお金を生む」というのが金融業であるが、これをマルクスの式を援用して図式化すると次のように表現できるだろう。
 G  → G'
 しかしこれは正確ではない。もう一つ間にかませる必要があるのだ。
 G  → GW  →G' (GWは「金融資産」を意味する)
 例えばわれわれが普通に使っている銀行預金でも利息が付いてお金は増える。しかしそれは銀行においてあるかぎり我々にとって貨幣(お金)そのものではない。預金という金融資産なのである。貨幣(お金) は直接に増えることはないのである。常に何らかの形の資産に一端変わって(お金から預金という金融資産に変わるように)から、現金(お金)に戻る時に増えることができるのである。お金を人に貸せば、それは貸付金という金融資産に変わってしまう。貸付金は100%確実に戻ってくるという保証はない。つまり貸し倒れるというリスクがあるのである。貸付金の利息は、貨幣を使用する便宜を他人に移転したことと、その貸付金が帰ってこないことがあるかもしれないというリスクに対する補償であると見なすことができるだろう。個人と違って企業は業務を行なう上で多額の資金を必要とする。それを多数の個人を相手にして借入れ契約を結ぶ形で調達することは手間がかかるし、費用も高くなるから、金融機関から纏めて調達することが便宜である。一方金融機関は多数の個人から預金の形でお金を集めることは得意であり、個人から集めたお金に対して利息を払うことで報いる。銀行預金という言葉は、我々が銀行にお金を預けている、つまり現金を預かってもらっているだけだと考えられているが、実は「いつでも自由にお金(現金)を引き出せる」という権利の金融資産を取得したと考えることができる。定期預金は一定期間お金を引き出さないという条件で現金引き出しの権利を取得し、その引き出しをしない期間に応じてより高い利息を得るものである。
 銀行は沢山の人から預かったお金を個人や企業に貸し出す。すなわち貸し付けたお金の代わりに貸付金という金融資産を取得し、利息を借り入れた人や企業から受取る。サブプライムローンは住宅貸付であるが、低所得の貸付金の返済に問題の起こりうる人たちに対する貸付金で、返済不能になるリスクが高い分だけ貸付利息が高い。しかしこうしたリスクの高い貸付であっても、住宅価格が上昇し続けていた環境の中では貸し倒れても銀行は住宅を担保として取得すればそれを売却することによって貸付金を回収できると予想できたので、実質的には貸し倒れの損失のリスクを回避することができたのである。サブプライムローンを元にして証券化というやりかたで新しい証券が作られたのであるが、それはリスクがないような金融資産であるとして投資家に売りに出されたのであるが、そこには大きな欺瞞というべきものがあったのである。
 GWの根拠という観点から見ると、1対1の関係で生じる貸付債権はその根拠が明確であったが、サブプライムローン債権を取りまとめて証券化したものには購入者に理解できる確たる根拠が見えないものであった。この辺の詳細については小幡績氏の『すべての経済はバブルに通じる』(光文社新書)に詳しいので、参照されたい。
 ところでアメリカで住宅価格が上昇し続けていたというのは、住宅市場がバブルの状態であったということである。住宅価格というのは、土地の価格プラス建物の価格の合計である。工業製品であれば、その販売価格には「製造原価と創造された付加価値」とが含まれているが、付加価値は購入者が認めることによって作られるものであり、購入者がそれを認めなければ存在しないものである。住宅について原価とは何というと、それは整地費用と建設費用であろう。しかし土地の価格のうちで整地費用の占める比率は小さいし、土地はそもそも人間が作り出したものではない。従って土地そのものは本来、原価ゼロである。従って既存の住宅価格が上昇し続けていたというのは、住宅の付加価値部分が膨らみ続けてきたということである。付加価値は、幻想、共同幻想とでも言うべきものであると思う。人間があるものに価値を見出すということには、客観的な根拠は何もないのである。だからバブルが生じるのだ。昔言われた「交差点、みんなで渡れば怖くない」と同じなのである。
 つまり証券化という形が債権としての根拠を不明確にし、住宅価格がバブルによって付加価値分が肥大していた、この二つが今回のアメリカの金融危機の根本原因であったといえよう。

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2008年9月27日 (土)

食品業界の経営者の質の悪さと中国の民度

 私は食品業界に20年以上勤務して停年退職したが、食の安全性がことさらに問題となるようになったのはイトーヨーカ堂が販売した中国から輸入されたほうれん草に農薬が基準を超えて残留していたことが判明して問題になってからではなかったかと思う。私が在職していた会社もヨーカ堂に製品を納入していたから、その時は大変であった。それまでは聞いたこともなかったトレサビリティという言葉を初めて聞かされて、ヨーカ堂の食品関係のすべての取引先にはトレサビリティのシステムを整備するように求められたのである。これはコンピュータに仕入れデータの入力から製品の原料使用明細までをキチンと登録しておかないと対処できないから、小企業ではなかなか対応が困難であろう。そしてその時に私が思ったのは、これからはキチンと品質管理ができない食品会社は存続することが難しいだろうということであった。ましてや品質に関して誤魔化しを行なったりしたら、企業の存続は直ちに不可能になるだろうとも思った。
 今回の三笠フーズの問題についての報道を見てきて、そこの社長が儲けるためにやったと警察の取調べに対して供述しているが、私が思ったようなことはこの社長には全く思いも及ばなかったようだ。北海道のミートホープも倒産したし、地鶏と偽って販売したり、中国からの輸入ウナギを国産と偽って販売した会社も恐らく取引先を失って事業の継続はできなくなっていることであろう。食品の品質を偽っていることが一度バレたら、日本では食品関連企業は存続ができなくなるのだ。一時的に儲けることと、事業を継続的に存続させることとどちらが重要かの判断もできないほど経営者のレベルが低いのだ。
 ところで中国で現在問題になっている乳製品へのメラニン混入は日本で行なわれている食品偽装とはレベルの違う悪質さだ。メラニンが人間の健康にとって非常に有害であることは広く知られていることであるのに、それを平気で原料に混ぜて使っていたのである。酪農家は生乳に混ぜてたんぱく質が豊富であるように見せかけていたという。乳児の死亡や健康被害を引き起こした粉ミルクを作っていたのは中小企業などではなかったというところに中国企業の経営者の質の悪さが現れている。いずれはバレることが当然予想されるのに経営者はそんなことなど考えもせずに、ただただ目先利益が上がれば良いと考えていたのである。その結果は、中国でつくられた乳製品を使用している食品の全世界的な輸入禁止措置であった。中国製品では、玩具への鉛の使用をはじめとして、健康に対する配慮のなさがすでに前から問題になっていたが、今度は食品という直接的に口に入るものが問題を引き起こした。恐らく乳製品以外でも厳重な品質チェックを輸出前に中国国内で行なうようにしないと、中国産の食品の輸出はできなくなってくるだろう。
 中国国内では農村部と都市部の所得格差の大きさが大きな国内問題になっているが、今回の問題は中国農民の農産品への需要が減少して経済的な困難を引き起こすことにも成るのではないだろうか。グローバリズムの中で発展してきた中国経済ではあるが、中国人の常識は国際常識から見て大いにレベルが低いことが今回のメラミン混入問題で世界の人たちの目に明らかとなった。このことの中国経済に及ぼす影響は大きいだろう。ボディブローのように効いてくるのではないか。大国を自負する中国の民度は全体的に見る限りどうやらまだまだひどく低いようである。

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2008年9月19日 (金)

日本の官僚は最早救いようがない

 今日(2008/09/19)午後3時のBSニュースで農林水産省の太田大臣が三笠フーズなどの工業用米の流用事件の責任を取って辞任を表明した。太田大臣は当初この事件について「大したことでもないのだからガタガタ騒ぐな」という趣旨の発言をしていたが、後になって謝罪を行なった。そして今日の日本経済新聞では福田首相が18日に白須農水省事務次官の更迭を決めたということが報道されていた。白須次官は11日の記者会見で農水省には責任はないと発言していたが、その後白須次官は発言撤回を行なっている。今日大田大臣は閣議後に辞意を表明したのだが、恐らく閣議の場で叩かれたのであろう。臨時国会の開催後には衆議院の解散総選挙が予想されており、その時に太田大臣をこのまま放置しておいては自民党に不利であると判断されたのではないか。いかにも尊大な太田議員には自分の言動が総選挙に悪影響を及ぼすだろうということも予想できなかったようで、完全に墓穴を掘ってしまったようだ。また同じニュースの放送の中で、厚生労働省の舛添大臣が年金保険料の基礎と成る標準報酬額の減額操作について現在受給中の人を最優先で救済するという発言をしていた。さらに総務省の増田大臣が、地方に置かれている省庁の出先機関の整理について、省庁の抵抗が強くてまともな回答がない状態だから政治的な対応をするしかないという発言を記者会見で行なっていた。
 農水省の白須事務次官の責任回避発言は、官僚の組織防衛発言以外の何ものでもないのだが、キャリアという連中がこれほど露骨に恥知らずな発言をするというのは全く呆れる事態だし、そのうえ後になってその発言を撤回するに至っては白須氏は恥というものを知らない最低の人格の持ち主だと言うことを自ら宣言したも同じである。こんな人物は果たしてまともに仕事をしてきたのだろうかと大いに疑われる。そしてこうした人物が高給を食んでいるなんて、納税者としては全く勘弁が成らないことである。こうした事態を放置したことが太田大臣の辞職に繋がったのであろうが、先の「ガタガタさわぐな」発言も白須氏あたりに吹き込まれて行なったのではないかと推測される。太田氏も全く見識のない人物だったことは明白だし、このことが明らかにしたのは、自民党には最早人材が払底しているということである。
 農林水産省、厚生労働省、財務省さらに防衛省とこれだけ不祥事が続くとなると、日本の官僚組織は今や最低の職業倫理意識しか持っていない連中の「楽してお金を稼げる場所」に堕してしまったことを示しているのではないか。
 前に私は、大学同期の男が、今でも官僚の中には「国士」といえるような人間もいるという発言をしたのに対して、最近の役所の不祥事を見