書籍・雑誌

2009年10月10日 (土)

『「武士道」解題』の著者を当ててください

 先日古本屋で『「武士道」解題 ノーブレス・オブリージュとは』(小学館)という本がたまたま目に入って買ったが、この本の著者は全く意外な人であった。その名前を明かす前に、この本の中に書かれている文章をいくつか引用してみる。
 「まことに残念なことには、1945年(昭和20年)8月15日以降の日本においては、そのような『大和魂』や『武士道』といった、日本・日本人特有の指導理念や道徳規範が、根底から否定され、足蹴にされ続けてきたのです。」(P9)
 「いま日本を震撼させつつある学校の荒廃や少年非行、凶悪犯罪の横行、官僚の腐敗、指導者層の責任回避と転嫁、失業率の増大、少子化など、これからの国家の存亡にもかかわりかねないさまざまなネガティブな現象も、『過去を否定する』日本人の自虐的価値観と決して無縁ではない、と私は憂慮しています。そして、この傾向をこのまま放置しておけば、日本だけではなく世界全体が不幸になる、と心の底から危惧しているのです。」(P10)
 以上の引用した二つの文章の内容からすると、著者は右翼的な思想をもった日本人であろうと想像されるに違いないが、実はこの著者はクリスチャンなのです。なぜクリスチャンがこんな右翼的なことを書くのだろうか、と皆さんはきっと疑問に思われるに違いないであろう。果たして日本人以外の誰が『武士道』を題にしたこんな本を書くだろうか。
 ところがここで種明かしをすると、この本の著者は実は台湾の元総統の李登輝氏なのである。しかしこの本には翻訳者の名前が記されていないから李登輝氏自身が日本語で書いているのである。台湾には年配の人の中に日本語を話せる人がいるという話は私も何かで読んだ覚えがあったが、まさか日本語で本まで書く人がいるとは私には驚きであった。李登輝氏が自身について次のように書いていたので、その理由が判った。
 「私が旧制の京都大学に進んで、『農業経済学』という学問分野に生涯を捧げようと決意したのも、そのような(一般教養を重視する)流れの中で、新渡戸稲造先生の哲学・理念やその人格に、読書と思索を通じて強い影響を受けたからにほかなりません。」(P19)
 ところで大東亜戦争の前に朝鮮と台湾は大日本帝国に併合されその一部になった。大日本帝国に併合されて、植民地ではなく、日本の領土の一部になったのである。インドはイギリスに侵略されて植民地となり大英帝国を構成する一部となったが、台湾や朝鮮が大日本帝国の一部に繰り込まれたのとは根本的に異なるのだ。そしてその成り立ちは、日本の台湾や朝鮮に対する統治の面において英国のインドの植民地支配とは大きな違いをもたらしたのであった。そのことに対する評価について、李登輝氏は次のように書いています。
 「戦後、台湾に戻ってからも、新渡戸先生をはじめとする日本の大先達たちが、いかに真剣かつ真摯に台湾の経済的自立のために献身的な努力を捧げてくださっていたかが痛いほどよくわかり、本当に日本文化のもとで基本的な教育や教養を受けてきて良かったなあ、としみじみ思い返したものです。」(P19)
 そして日本の統治に対して李登輝氏は率直に次のように感謝の意を述べています。
 「私ばかりではなく、古き良き日の輝かしき日本の『伝統』に触れることのできた世代は、大なり小なり、『台湾の今日あるは日本のおかげ』と感謝しているのです。」(P20)
 ついでに韓国人の朴泰赫氏が書いた『醜い韓国人』(光文社カッパブックス)から朝鮮における日本の統治についての文章をいくつか紹介しておきたい。
 「李朝末期までは、常人は、教育をまったく受けることができなかった。しかし、日本統治時代に入ってから、私の小、中学校時代には、とくに都市部では両班、中人、常人、奴婢の階級差が平等化され、常人階級の子どもたちの学歴が高まるようになった。」(P23)
 「日韓併合以前の韓国の山々といえば、乱伐したり、燃料にしたりしたために、ほとんどがはげ山だった。日本統治時代には植林が進んだので、多くの山々が緑に覆われるようになっていた。」(P26)
 「日本は、日本統治時代に韓国(北朝鮮もー引用者注)に大きな投資を行なったために、韓国が惨めだった状況から一足飛びに近代化したことは、どうしても否定できない事実である。日韓併合後、日本人は鉄道、道路、架橋、用水路、植林、河川整備、堤防、港湾、学校施設の建設をはじめとする、大規模な公共投資を始めた。」(P36)
 大日本帝国には、帝国大学とよばれる国立大学があった。東大、京大、北海道大学、九州大学などがそうであるが、日本は台湾や朝鮮を併合した後に、それぞれ一つづつの帝国大学を創ったのである。欧米の帝国主義国家で果たして植民地に大学を作った例はあるのだろうか。この事実について、韓国人の大学教授である崔基鎬氏はその著『歴史再検証 日韓併合』(祥伝社黄金文庫)において次のように書いている。
 「(朝鮮)総督府は義務教育のみならず、高等教育の充実にも力を注ぎ、1924年には、京城(けいじょう)帝国大学が創設された。ちなみに台北(たいほく)帝大の創設はその4年後の1928年であり、ともに大阪帝大の1931年、名古屋帝大1939年より早かった。」(P55)
 この二人の韓国人の日本に好意的な内容の著作は果たして日本からの何らかの利益提供などがあってなされたものなのだろうか。李登輝元総統が日本に対して好意的に書いていることにも何かの裏があるというのだろうか。その辺は自分で上に紹介した本を読んでもらって判断をお願いしたい。
 ところで李登輝氏は同じ中国人でありながら大陸の中国人に対して非常に厳しい評価をしている。たとえば、
 「私が大陸の中国人のことをあまり評価しない裏には・・・・・・。まさに、『論語読みの論語知らず』で、口先ばかり。そして平気で嘘をつく。
 中国文化はなぜこうまで腐り切ったのか。理由は極めて明快です。言行不一致、言っていることと、やっていることが全く違うからです。」(P54)
 「そもそも『中華人民共和国』という擬制そのものが、根本的に嘘ではないですか。・・・いったい何万人、何百万人の無辜の民を殺してきたというのですか。」(P56)
 なおついでに韓国人の中国人についての評価も紹介しておこう。韓国人の朴泰赫氏は中国人について次のように書いている。
 「中国人の顕著な特徴は、無秩序で、汚なく、けたたましく、騒々しいことだ。まったく自己本位で、派閥を組んで争うことを好む。いつも人を妬んで、自制心を欠き、人の悪口ばかり言っている。ホラを吹く。体面ばかり重んじて、いたずらに誇り高い。協調精神を欠いていて、自分の過ちを認めようとしない。」(P49)
 台湾人は中国人そのものだし、韓国人は長らく支那の王朝に朝貢する立場にあって、中華思想と支那文明の強い影響下にあった。そのような台湾人と韓国人がともに大陸の中国人について非常に厳しい見方・評価をしているのである。
 日本人は従来の中国人に対する見方を根本的に改める必要があるのではないか。「自分の過ちを死んでも認めない」のが中国人の性格なのであるから、彼らと歴史認識の共通化を図るなどは天から諦めた方が良いのである。
 同じ中国人でありながら、大陸の中国人と台湾の元総統・李登輝氏とでは全く日本に対する理解が違っているのである。戦前日本人が中国に対して侵略を行なったという点については、よくよく事実関係を確認することが必要なようである。過去に日本政府を代表する人たちが安易に侵略を認めて謝罪をしてきたことについては今後は改めることが必要であると思う。中国の共産党政府が押し付ける歴史認識にわれわれ日本人は安易に同意することなどできないし、してはいけないのである。

 ところで雑誌WILLの8月号であったと思うが、渡部昇一氏がNHKが大日本帝国時代の日本の台湾統治に関する特別番組を放映したことについて、その内容が偽りであるとして批判する公開書簡を発表していたが、その問題点とはインタビューした台湾の人たちの発言内容が操作されて放送されていて、日本の台湾統治政策について悪かったとして語った点ばかりを選んで放映して、良かったと語った点を全く紹介しなかったことである。放送された内容を見て取材を受けた台湾の人たちがNHKに騙されたといって怒っているとのことであった。これこそは李登輝氏が憂慮している日本人の中にある『自虐的な価値観』の現れであるが、NHKのように影響力の大きなメディアがこうした体たらくではどうしようもないのである。
 中国や韓国が何かと騒ぎ立てる『靖国神社』の問題について、李登輝氏は次のようにはっきりと、両国の行動を批判している。
 「昔のことにとらわれるあまり、中国や韓国の人が日本の問題にくちばしをさしはさむのは、間違いだと思います。
 私自身はクリスチャンですが、日本人として戦死した兄が祀られている靖国神社には、当然参拝したという気持ちをもってきました」(P132)
 そして日本の政治家たちが中国や韓国のさしはさむくちばしにひるんで靖国参拝を避けることを次のように批判しています。
 「戦犯が合祀されているといった事情があるのはわかりますが、一国の首相が何もこそこそとすることはないのではないでしょうか。」(P131)
 ところで『戦犯』という問題の事態を引き起こしたのはアメリカであった。アメリカの肝いりで行なわれた東京裁判で日本の軍人が『戦犯』すなわち戦争犯罪人とされたのだが、果たしてアメリカには他国の人間を戦争犯罪人として裁く資格があるのだろうか。アメリカも一時期はイギリス、フランス、スペインなどと並ぶ帝国主義国であったのだ。19世紀末に闘われたスペインとの戦争でアメリカはフィリピンを奪ったが、太平洋戦争の結果フィリピンはようやくアメリカから独立することができたのである。ところが当時のアメリカはスペイン人の軍人を戦争犯罪人として裁いたりなどしなかった。大日本帝国の軍人だけを狙い撃ちにする極東軍事裁判(東京裁判)だったのである。そもそも戦争そのものは国際法上犯罪ではないのである。
 東京裁判を扱った田中正明氏の『パール判事の日本無罪論』(小学館文庫)に、戦争犯罪についての法的な意味が説明されている。
 「戦争の勝敗は時の運で、正・不正は勝敗の外にあるはずだ。敗れたがゆえに罪悪なのではない。勝ったがゆえに正義なのでもない。『法は一つ』である。・・・
 ・・・これまでの国際法には、戦争そのものを犯罪とするような規定はどこにもない。戦争そのものは法の領域外に置かれているのである。・・・・ただ戦争遂行の方法だけに、法的規律が存在するのみである。」(P18〜19)
 かくして李登輝氏も戦争犯罪人というものについて正しく理解をしていないのであるが、それはそれとして中国人でありながら李登輝氏は日本人の『自虐史観』をおかしなものと考えているのであり、中国や韓国に靖国問題でくちばしをいれさせてきた日本の政治家などは今までおよそ不勉強で軟弱な精神の持ち主でしかなかったのである。この際に遅ればせでも新渡戸稲造氏の『武士道』を読んで、シッカリと性根の座った考え方を身に付けてもらわなければ困るのだ。特に新しく首相となった鳩山氏や外相の岡田氏などは是非とも早急に『自虐史観』から抜け出してもらって、国益を損なわないように中国や韓国との外交に当たってもらわなければならない。

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2009年8月28日 (金)

岩波書店に対する信頼が揺らいだ

 今日ブック・オフでR・F・ジョンストンの『紫禁城の黄昏』(祥伝社)2巻本を見つけて買った。この本は既に岩波書店から文庫で出ていたのだが、私は買ったまままだ読んでいなかった。ところが渡部昇一氏だったと思うが、ジョンストンのこの本は非常に貴重な内容を持っているが、岩波書店版は重要なところをカットした簡略本であると先日渡部氏が書いていルのを読んだのだが、なるほど文庫本は1巻である。渡部氏は中国共産党政府にとって「不都合な真実」が書かれているので岩波書店はカットしたのではないかと推測しているが、革新派と見做されてきた岩波書店が中国に気を使ったせいではないかとその理由を渡部氏は考えている。中国という国・政府は知れば知るほど危ない存在だと私は思わざるを得ないのだが、現在真っ最中の衆議院選挙の街頭演説で共産党の志位委員長が日本の軍事費5兆円をムダ遣いと槍玉に挙げているが、中国の最近の軍備増強に対して何らの警戒感も抱いていないのは政治家として余りにも不見識であると言わざるを得ない。世界中でイスラム原理主義者の自爆テロや海賊行為などが頻発しており、こうしたことに対して対岸の家事のようにのほほんと構えているわけには行かないはずである。戦前の日本の軍部の独走には政治的な対応に大いに問題があったことは事実であるが、だからといって一切の軍助力なしで日本が国家としてやっていけると考えるのは無責任である。武力を全面的に否定する現在の日本憲法は早急に改正する必要がある。他国の善意に信頼して軍事から手を引くというのは全くの空想的平和主義であって、北朝鮮の核兵器と大陸間弾道ロケットのことを考えるだけでも危機感を持って当たり前なのに志位委員長は鈍感そのものだ。政治家として幼稚すぎて話も何もあったものではないのである。
 また社民党党首の福島瑞穂氏は弁護士とのことだが、核兵器の放棄を唱えるのはともかくとして国家にとっては軍事力が不可欠であることを全く理解していないというのは、政治家として根本的に問題があり、私は失格であると考える。政治家失格と考えるだけでなく、私は弁護士としての氏の資質をも疑わざるを得ないのである。福島氏は年齢的に見ても、とうに夢見る年齢を過ぎているのであるのに、世界の現実というものを直視し、理解することができないでいる。これを見ると私は福島氏には或いは特異な知的な障害でもあるのではないかと疑ってしまうのである。こうした党首を戴く民主党が日本国民の支持を得られないのは当然ではないか。国民の知的レベルを低く見過ぎているようだが、むしろ社民党という政党の構成者の知的レベルこそが低くてお話にならないのである。
 話が私が書くつもりの本題から外れてしまった。
 かつて岩波書店といえばその本の質については安心できる出版社であると一般に受け止められていたのだが、私は最近の個人的な経験からその点について深く疑うようになってしまった。具体的に言うとディケンズの『オリヴァー・トゥイスト』を私は講談社文庫の小林滋氏の翻訳で読んだが非常に優れたものであったと思う。ところで一寸興味があったので私は岩波文庫の『オリヴァ・ツウィスト』を買って一部を読み比べて見たが、その翻訳の余りの出来の悪さに驚いた次第であった。また昔高校の国語の教師が米川正夫の翻訳をけちょんけちょんに貶していたが、ドストエフスキーの小説の文庫を岩波書店はその米川の翻訳による訳でつい先日までに出していたことを知っているので、私は岩波書店の見識を最近疑うようになってきていたのである。そこにR・F・ジョンストンの『紫禁城の黄昏』の文庫についての大きな問題点を知って、いよいよ岩波書店に対する私の信頼は低下してしまったのである。

追記:
 祥伝社から出版された『紫禁城の黄昏』を読み始めたが、最初に渡部昇一氏の監修者まえがきがあって、そこに岩波文庫の『紫禁城の黄昏』の訳者たちには翻訳者の資質を疑わせるところがあるという指摘があって(さすがに渡部氏は英語の先生である)、具体的にその例が原文とともに引用されていたが、それを見ると確かに基本的な英語の単語の使い方を理解していないことが疑われる。したがって本文を読む気がなくなって、せめてあとがきをと思って読んでみると、てにおはの使い方が明らかにおかしいところが2ヶ所あった。P501の「溥儀の自伝に当時『人民日報』の記者であった・・・」の「に」はその一つであるが、これは「は」でなければ文章として意味が通らない。
 また訳者たちは「のちに傀儡皇帝となって祖国を裏切った第一級漢奸ではあるものの、共産党の指導によって『真人間にたちかえった溥儀』」(P501)と書いているが、これも良く考えると全くおかしな話である。そもそも溥儀は満州族の出身であって、満州族は中国本土を侵略して植民地として中国皇帝となり長年に渡り中国を支配したが、その地位を追われて満州に帰り再び満州の皇帝の地位に就いたことがなぜ「祖国を裏切った」ことになるのか。満州族にとってもともと中国本土は植民地であって祖国などではないのだ。「祖国を裏切った」というのは中国共産党の連中が勝手に誤解して思っただけのことなのである。P500に「彼(溥儀)が一戦犯の身分から人間改造を終えて人民共和国の一市民となった」と訳者たちは書いているが、「植民地の支配者」の地位から「中国という国の一市民」にしてもらったのに「満州に帰ってそこの皇帝の地位に就いた」ことが「祖国を裏切るという犯罪」であったと訳者たちが考えたのだとしたら、訳者たちはいつ中国共産党の代理人になったのだろう。もし「祖国への裏切り」というのは中国共産党の考え方であって、自分たちはそうは思っていないと訳者たちが考えているのなら、そのことをはっきりと書いておくべきではないか。
 渡部氏が岩波文庫では原本にある11もの章が省略されたことなどに対して「岩波文庫訳は、中華人民共和国の国益、あるいは建て前に反しないようにという配慮から、重要部分を勝手に削除した非良心的な刊本」(P9〜10)と書いているが、訳者たちがあとがきに書いていることからも岩波文庫のこの翻訳は明らかに中国共産党の意向を慮って原書の価値を貶めたものであると断じざるを得ない。
 また訳者たちはあとがきで、何か気の利いたことを書きたかったのだろう、私には良く理解しかねるおかしなレトリックや表現が使われている。自分たちが意気がるのは勝手だが、読者をたぶらかして偉ぶるのは利口な人間のやることとは思われない。出版社の担当者というのは、単なるメッセンジャーボーイに過ぎないのか。受取った原稿を印刷部所に回したらそれでおしまいではなかろう。本文であれあとがきなどであれ、おかしなことを書いていたら指摘するくらいは仕事のうちではないのか。
 かくして岩波文庫の『紫禁城の黄昏』は、岩波書店に対する私の評価を随分と低くした本となったのである。

追記2:
 今全訳版の『紫禁城の黄昏』(祥伝社)を読んでいるが、岩波文庫版では省略された第1章から第10章のうちの2章までを読み終わったが、岩波版では訳者たちが省略した「主観的色彩の強い前史的部分である第一〜十章と第十六章」の第2章までを読み終わった。ここまで読んだ限りでは清朝の皇帝制度についての思い掛けない歴史的な実状などが説明されていて、省略する必要などは全く無いしむしろあった方が読者のためにはおおいに有益であると思う。省略が適切と判断した訳者たち(入江曜子氏と春名徹氏)の判断力を私は深く疑うものである。また全訳版の訳者・中山理由氏が著者のジョンストン氏がChinaと書いたものを岩波版の訳者たちは「中国」と翻訳していることを批判しているが、ジョンストン氏は当時使われていた「中国」という中国語の単語は現在普通に使われている国家としての中国を表す言葉とは違っていて、「『中央の王国』または『中の国土』というほどの意味」しか持たないと第8章で説明してわざわざ、中国史上初の統一王朝である秦が素になっているChinaといわゆる「中国」とを氏の本では使い分けているのである。
 また『中国文明の歴史』(講談社現代新書)の中で著者の岡田英弘氏は「中国」という言葉について「その最初の意味は『国』の『中』である。『国』は、日本語の「くに」を意味するより以前に城壁をめぐらした『みやこ』を意味した。」(P12)と書いており、「中国」が全国を現す称呼として使われるようになったのは19世紀の末から20世紀にかけてであると書いている。そして『支那』という称呼については、それが古い漢訳の仏典に使われた言葉であるといい、ヨーロッパ人の「チーナ」という発音と似ていることから日本人が使い出したのだという。そして「それ(日清戦争)以後年々増加した(清国からの)留学生は、日本人が自分たちの故郷を『支那』と読んでいることを、留学してみてはじめて知った。これまで清国には、皇帝が君臨する範囲を呼ぶ称呼がなかったので、はじめは日本人の習慣に従って、自分たちの国土を『支那』、自分たちを『支那人』と呼んだ。」(P18)とのことである。
 従って中山氏はジョンストン氏の意向に従ってChinaを「シナ」と訳しているが、岩波版の訳者たちはジョンストン氏の説明が出ている第8章を省略したものだから、平気でジョンストン氏の意向を無視してChinaを「中国」と訳している。
 ところでシナという言葉を蔑称と考える人たちが日本の一部にいるようであるが、先の岡田氏の説明によれば、それは全くの誤解なのである。原著者の意向を踏みにじって平気な翻訳者というのは許されるものなのだろうか。これによっても岩波版の訳書『紫禁城の黄昏』は大いに問題のある本なのである。現在のものは絶版にして、省略なしの完全版で、訳者も替えて出し直すべきであろう。

追記:
 加藤徹氏の『貝と羊の中国人』(新潮新書)を読んでいたら、次のような文章が出てきた。
 「・・・シンガポール人の多くは、自分たちは華人であって『中国人』ではないと主張する。狭義の『中国』は、中華人民共和国および中華民国の略称であり、イデオロギーや政治思潮のニュアンスを含むからだ。
 この点は、アメリカの華僑・華人も同じである。彼らは用心深く『中国』という自称を避ける傾向がある。現地で発行する中国語新聞は『華字新聞』、中国語は『華語』と言い換えられる。『中国』は、透明中立の地域名ではなく、中華人民共和国ないし中華民国という、イデオロギー的な国家のにおいをもつ呼称だからだ。」(P43)
 「いっぽう、『われわれは華人であって、中国人ではない』と主張する在外華人は、シンガポールやアメリカなどに、たくさんいる。彼らから見ると、祖国を支配する政権と祖国そのものは、必ずしもイコールではないからだ。」(44)
 加藤氏の以上の指摘は、岩波文庫の『紫禁城の黄昏』では、著者のジョンストン氏が注意深くChinaと『中国』とを区別して使用していたのを無視して、一律に『中国』と訳して表示していたのが大きな誤りであることを別の面から証明している。そしてそのことは、岩波書店のイデオロギー的偏り(岩波書店の中国共産党独裁政権への肩入れ)を見事に象徴しているのである。

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2009年7月16日 (木)

『日本を貶めた10人の売国政治家』を読む

 自民党の最近のドタバタ、特に東京都議選での惨敗後の右往左往を見ていて、ちょうど新刊として出たばかりの小林よしのり編『日本を貶めた10人の売国政治家』(幻冬舎新書)が面白そうなので購入した。歴代総理を点数付けした本に、福田和也氏の『総理の値打ち』(文春文庫)があるけれども、こちらは「売国政治家」という観点からの複数人による採点結果を基にして、政治家ワースト10を選んだものである。ちなみに採点者の名前を書いておくと、小林よしのり、副島隆彦、大原康男、田久保忠衛、堀辺正史、西尾幹二、関岡英之、潮匡夫、小谷野敦、勝谷誠彦、木村三浩、宮城能彦、長谷川三千子、高森明勅、宮台真司、高山正之、八木秀次、富岡幸一郎、業田良家、西村幸祐の諸士である。恥ずかしながら私個人としては半数近くの人は知らない人たちであった。
 選ばれた個々のワースト政治家について書かれた文章の前に採点者たちの座談会が載っている。座談会は、小林よしのり、長谷川三千子、高森明勅、富岡幸一郎、勝谷誠彦の5名で行われた。
 行われた議論を読んでいて違和感を覚えたのは「日本の国体」という言葉を使った議論であった。そもそも「日本の国体」とは何を言うのかが私にははっきりと分からない。「アメリカの国体」や「中国の国体」などという言葉が使われるのを私は寡聞にしてかつて聞いたことがないから、「国体」というのはどうやら日本に独特のものであるらしい。私にも何となく分かるのは、天皇制に関係しているらしいということである。日本の天皇制に比較的近いと思われるのは、イギリスの王室の制度であるが、日本の天皇家が日本国の創造神話に出てくる神様と血筋の関係にあって2000年以上の歴史を有するのに比べれば、英国王室の歴史はそれほどではない。ただ現在天皇制も英国の王室制もともに「立憲君主制」の下にあって「君臨すれど統治せず」を原則にしているために政治的には何ら実権を有していない点は共通である。
 ここで私は確認のために「国体」という言葉について辞書を引いてみたら、新潮国語辞典では「国家を統治権の存立状態によって分ける区別。君主国体、共和国体、貴族国体がある。」と説明されており、大辞林第三版(三省堂)では、同じような説明の他に、「天皇を倫理的・精神的・政治的中心とする国のあり方。第二次大戦前の日本で盛んに用いられた語」と説明されていたが、どうやら座談会で使われていたのはこの意味の「国体」であったようだ。しかしこのような意味での「国体」を現代の日本の若い人たちのほとんどは私と同じように理解していないだろうし、今どきこの意味において問題にしてもらっても、私は意味がないと思う。日本国の創造神話の神々の末裔としての天皇などは、ただのお話としてはともかく、民主主義政体の現在の日本にとっては実質的な意味を持たないし、政治的に無害な存在としての天皇制以外のものはもはや有害なだけでしかないと考えるからである。この点が、この座談会出席者と私の考えが根本的に異なるところである。
 次に出席者の話に出てきて驚いたのが、戦前の宮内省には6000人を超える職員がいたという話で、私の感覚からすると異常に多い人数だと思う。現在は「1000人ぐらいしかいません。」と不満な口調であるが、私には何故そんなに大勢要るのかと理解に苦しむところである。寺尾善雄氏の『宦官物語』(河出文庫)を読むと、清朝の皇帝は衣服の着替えも全て宦官にしてもらっていて、自分ではやってはいけないことになっていたという。中国の皇帝は、完全なる生活能力の無能力者に仕立てられていたそうで、「宦官の規模を縮小した清朝においてさえ、「宮廷の正常な運営には三千人は必要とするのに、いまは二千人しかいない」とある。明の末期には女官九千人、宦官は十万人いたという・・」(P51)から、中国の宮廷に比べたらまだまだましかも知れないが、政治権力の実権から切り離された戦後の宮内庁と戦前の宮内省とを比べて職員の数が少ないなどというのは全くおかしな議論である。宮内庁の職員の数の話も「日本の国体」に間接的ながらかかわる話だとすると、どうも座談会出席者の観念する「日本の国体」というのは私には危なかしい話に思えて仕方がないのである。
 ところで新潮国語辞典でも大辞林第三版でも、「国体」という言葉の意味の第一番に上げているのは「くにがら」という説明であったが、この意味でなら「日本の国体」を大事にしようとすることには私も大賛成である。アメリカのような国の「くにがら」はやはり日本人の体質にはそぐわないところがある。しかし野球のメジャー・リーグの試合の前に「ゴッド・ブレス・アメリカ」を選手も観客も全員が立って歌うのは、見ていて羨ましく思う。日本の現在の国家ではこういうわけにはいかない。スポーツ観戦用に第2の国歌を作っても良いと私は考える。
 さて次にこの座談会で行われた議論の中で私が納得しかねるものとして、軍隊の話がある。私が大学時代に講義の中で聞いた話の中で、「ああ、そうなのか」と思ったものに「軍隊の銃口は国外に向けられているだけではない。国民に対しても向けられることがあるのだ。」というのがあった。この「国民にも向けられる軍隊の銃口」ということについて、この座談会の出席者たちは、現在の政治家たちはみな「軍隊は暴走するものだ」という固定観念に囚われていて、そのために自衛隊の強化・装備の充実に及び腰で、国際政治の実態に眼を閉じていると非難しているが、まず最近のチベット暴動、新疆ウイグル自治区での暴動などで明らかなように政治権力者が軍隊に命じて国民に銃口を向けさせることはありうることであって、軍隊の暴走などとは何ら関係なしにそういうことは起こりうることなのである。「軍隊の銃口が国民に向けられる」場合の大半は政治権力者の命令に従う場合であろう。軍隊は、警察と並んで国家の暴力装置であって、政治権力者の考えに従って対外的にも対内的にも軍隊は動員されるものなのであり、それは当たり前のことなのだ。「軍隊の暴走」は、政治権力の弱体な状態が引き起こすものなのである。この座談会の出席者たちには政治学の基本が理解できていないのである。
 『日本を貶めた10人の売国政治家』をまだ途中までしか読んでいないが、少々引っかかるところがあったのでその点を以上で書いてみた。

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2009年7月10日 (金)

『「正義の味方」の嘘八百 昭和史のバランスシート』を読む

 谷沢永一氏の『「正義の味方」の嘘八百 昭和史のバランスシート』(講談社文庫)を読んでいるが、この本は購入してから随分寝かしてあった。それは、本のタイトルが酷く際物的であると感じられて買ってはみたもののその後手が伸びなかったのである。ところがある時手に取ってふと解説を読もうとしたら、書いていたのが意外やショートショートで有名な星新一氏であった。星氏がこの本を随分と褒めていたので、それで大いに読む気をそそられたのである。私は谷沢氏の本を相当買ってあって、『悪魔の思想』(クレスト社)や『こんな日本に誰がした 戦後民主主義の代表者 大江健三郎』(クレスト社)など何冊か読んだが、谷沢氏の本で特に強く印象に残ったのは『聖徳太子はいなかった』(新潮新書)であった。私はこれによって歴史というものが過去にそれぞれの時代に書かれた記録を基準にして解釈されており、昔書いた人が意図的に嘘を書いている場合がありうるので、それを見破ることが歴史家の重要な任務であるという谷沢氏の主張に大いに目を開かれたのであった。聖徳太子もそういった当時の政治的な理由で創造された偶像であるという。
 また日本の歴史を初めて書いたものとしてわれわれが中学校などで教えられたのは、古い順に「古事記」次いで「日本書紀」であったが、岡田英弘氏の『歴史とはなにか』(文春新書)には、「日本書紀」がまず書かれて、その後100年ほど後に「古事記」が書かれたという。そして『古事記』は一種の偽書であるという。歴史というのは怖いものだ。
 谷沢氏によると、聖徳太子のことが書かれているのは『日本書紀』だけで、それ以外の歴史書には一切出てこないという。また聖徳太子そのものは人間とは思われない能力の持ち主で一種のスーパーマンとして描かれているが、良く考えてみるとそんな人間などいるはずもないと判るのだが、学校で教えられていることがまさか嘘であるとは誰も、特に子供は思わない。だから日本人は誰も聖徳太子の実在を疑うことなど無かったのだが、歴史家はその国家的な嘘を見破ったのである。
 ところで『「正義の味方」の嘘八百 昭和史のバランスシート』は内容そのものも面白いのだが、それと同時に谷沢氏の言葉遣いにも思い掛けない面白さを味わうことが出来た。この段落の初めを私は「ところで」という言葉で始めたが、話題を変える時に昔の人が良く使った言葉に「閑話休題」(かんわきゅうだい)というのがあるが、谷沢氏はこれにうまく読みを付けて使っていて、それがなかなか面白いのである。具体的にそれを示そう。()は付された読みである。
 ①「閑話休題(むだばなしはさておき)事程左様にわが国上代貴族は、質素で、小心翼    々たる集団に過ぎなかったのである。(P40)
 ②「閑話休題(もとへもどって)事程左様に日本人は、年功序列をもって逐次的に昇って いくことこそ、社会的に望ましいと考えており・・・。」(116)
 ③「閑話休題(それはそれとして)事程左様に、昭和十年代の軍需景気は市民生活を豊かにし、郊外住宅を外へ外へと広げていった。」(P187)
 なお念のために「閑話休題」を国語辞書で引くと、新潮国語辞典では、「(物語類で、話をもとに戻す時に用いる語)無駄話はさておいて、それはさておき、さて」と説明している。最近の作家ではこの言葉を用いる人を見ないが、私はなかなか味があって面白いと思う。
 なお谷沢氏の本の面白さの一つは、自分の意見をはっきりと述べ、徹底的に批判することであり、日本人には少ないタイプの人間である。私が感心したその例をこの本から拾って下に示す。
 「『いのちとかたち』(書名、新潮社)で山本健吉は、ハッタリ評論家の常として、(藤原) 道長が同時代に関白と尊称されていた、などと思い切り良く断定したが、それは根拠のな い”知ったがぶり”である。」(P57)
 これに対して山本健吉がどう反応したのか、大いに気になるところであるが、谷沢氏が名誉毀損の裁判を受けたという話も聞かないから、しっぽを巻いて黙っていたのだろうか。
 もう一つ例を挙げよう。
 芭蕉七部集のなかの『猿蓑』という俳集に「たび踏みよごす黒ぼこの路」という句があるそうだが、『日本古典文学大系』のなかで中村俊定がこれにつけた解釈について、江戸時代の実態を全く理解しないで書いていると論証反駁した上で、谷沢氏は「中村俊定は俳集訳者として失格なのである。」(P186)とはっきりと書いている。かくて中村俊定は完全に学者としての面目を失したのである。なかなか出来ることではない。
 ところでこの本は昭和57年(1982年)に出版されたものだが、谷沢氏の書いた次の文章は日本経済の当時の好況の経済状態を見事に反映したものであった。
 「まず、一般的に、もっとも幸福な世代と考えられているのは、戦後派であろう。戦後に生を享け、高度成長期にもの心がつき、現代を謳歌している世代は、日本史上、もっとも生きるのにやさしい、豊かな安定した社会に生きているわけであり、人類史上、最高の幸福を満喫していると言っても過言ではないはずである。
 今日の日本ほど、豊かで、人間味溢れる、安定した社会というものは、日本史上一度もなかったし、現在の世界中、どこを捜してもない。」(P243)
 これはまさにガルブレイスの言うところの「豊かな社会」そのものであったのだが、翻って現在の社会経済状況を見ると全く様変わりしてしまった。全く反対の生きにくい社会に落ち込んでいるのである。
 谷沢氏は昭和十年代の軍需景気について次のように書いていたが、まさにその危うさは現代の大恐慌以来の世界不況を予言するところがものであったのだと私には思われるのである。谷沢氏は次のように書いている。
 「社会全般が軍需景気を謳歌し、国民が小市民生活に酔っている間に、恐るべき破局は醸成されつつあった。」(P187)
 「好景気に浮かれていると、思わぬ落とし穴が待ち受けているという教訓にはなろう。」(P190)
 バブル崩壊後の長期不況の後、ようやく景気が回復しだしたと日本国民が安心し始めた時に、今度はアメリカで金融恐慌が勃発しそれが招いた世界不況によって日本の経済はもはや「豊かな社会」などとは到底言うことの出来ない悲惨な経済状況に陥ってしまった。日本が経済的に惨めな状況になったために多くの若い人たちは結婚して子供を育てられる状況にはなくなっている。そしてその政治的な責任を自民党は問われているのだ。次の政権を担うのは民主党だという大勢が示すものは長きに亘って政権を担当してきた自民党の責任である。それを自覚したら、自民党の議員たちは自分たちには最早、到底政権を担当する資格はないと認識されるはずだし、その責任を取って潔く下野すべきなのだが、恥知らずにも政権党に止まろうと躍起になってジタバタしている。正に厚顔無恥の連中ばかりなので、この醜態こそが国民の支持を失う大きな要因になっているのである。
 谷沢氏はこの本のなかで石橋湛山氏を「石橋湛山こそ、日本思想史上、まことに稀有の思想家であった。」と高い評価を与えているが、石橋湛山は自民党の政治家であったのだ。ところが最近の自民党の総裁となった人たちは、石橋の足下にも到底及ばない情けない連中ばかりであった。自民党の議員の質は情けないほどに劣化してしまっているのである。

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2009年3月 4日 (水)

スーザン・ストレンジ女史の『カジノ・キャピタリズム』

 今スーザン・ストレンジ女史の『カジノ・キャピタリズム』(岩波書店)を読んでいる。この本のサブタイトルは「国際金融恐慌の政治経済学」となっている。この本の後、女史は『国家の退場 グローバル経済の新しい主役たち』(岩波書店)と『マッド・マネー 世紀末のカジノ資本主義』(岩波書店)を出版して、1998年10月25日に亡くなった。ちょうど今回のアメリカ発の金融危機が起きる10年前であった。彼女の国際金融恐慌という予測は的中したといえるだろう。
 『カジノ・キャピタリズム』は昔一度読み始めたのだが、あまりピンとこなくて途中で投げ出しておいたものである。しかし最近の金融危機が私にこの本を手に取らせることになった。
 『カジノ・キャピタリズム』がイギリスで出版されたのは1986年である。そして2年後には『マッド・マネー』が出版されたのだが、『マッド・マネー』の書き出しは以下の通りである。
 「なぜ狂気なのか。私の見るところ、金融市場を国家的、国際的規制当局のコントロールの及ばぬはるか先にまで突っ走らせてしまうのは、『大いにばかげて』いたし、今もそうだからである。」(P1)
 昨日のBSニュースで、アメリカの保険会社AIGが08年10〜12月期に616億6千万ドル(約6兆円)という巨額の赤字を出し、通気での最終損益は992億ドルの赤字だという。AIGはアメリカ政府から300億ドルの追加の金融支援を受けることになったが、この巨額赤字の大きな原因となったものにクレジット・デフォルト・スワップCDSという損失補償の保険商品があった。金融危機発生後、金融商品の価値の低下は止まるところがなかったためにかつては多額の利益を生んでいたCDSが今度は多額の損失を生む基となったのである。CDSは最新の金融商品であった。近年主流の経済学が主張した「市場原理主義」の下、「金融市場を国家的、国際的規制当局のコントロールの及ばぬはるか先にまで突っ走らせてしま」った結果が今回の世界的規模の金融危機を生み出してしまったのである。
 女史はカジノ・キャピタリズムという言葉まで作って、金融市場の異常な状態を10年以上前に指摘していたが、このようなことを指摘した経済学者などは他にいないのではないか。また金融市場の異常な状態をカジノ・キャピタリズムと命名したのは、われわれが今回の金融危機の発生を目撃した現在、全く言い得て妙である。金融市場の異常さを女史は次のように書いている。
 「西側の金融システムは急速に巨大なカジノ以外の何物でもなくなりつつある。毎日ゲームが繰り広げられ、想像できないほど多額のお金がつぎ込まれている。
 ・・・・これらの市場では先物を売買したり、オプションあるいは他のあらゆる種類の難解な金融新商品を売ったり買ったりすることで将来に賭をできる。遊び人の中では、特に銀行が多額の賭をしている。・・・この世界的な金融カジノの元締めが大銀行と大ブローカーである。・・・・・・・
 現代の銀行員やディーラーは、昔のひとが考える金融の世界や典型的銀行とは全く別の世界で働いている全く別の人間であるかのように見える。・・・・国際金融システムを賭博場と非常に似たものにしてしまった、何か根本的で深刻な事態が起きたのである。」(P1〜2)
 シティグループやAIGの政府の支援なしでは立ちいかない苦境、ナスダック元会長バーナード・マドフの500億ドルの詐欺、破綻したイギリスの銀行RBSの元会長サー・フレッド・グッドウィンの年間9千万円に上る年金などを見ると、女史の上の文章は金融業界の問題状況をよく伝えていることが分かる。
 ところで女史は国際金融システムはグローバル化した経済の最も基本的で重要なインフラであると考えている。
 「国際金融システムは、それがひとたび混乱すると、次から次へ拡がっていく伝染病のように国際政治経済を悩ますさまざまな問題を生じさせる根幹なのである。」(P6)
 世界中で金融機関が不良債権によって貸し出し能力を制約されて、実態経済を収縮させることにってしまっている。女史の書いている通りにこことが起こっているのである。
 女史は経済過程を市場だけで独立したものとは考えていない。国家の規制なしの市場というのはありえないと考えているようだ。
 「通貨システムには国家(政治)権力と市場の両方が存在しなければならない。・・・・通貨システムは、どの貨幣を使わなければならないか、あるいはどの貨幣を使ってよいかを定め、合意された通貨取引の執行を強制する国家権力が存在しない限り、効率的に作動しえない。」(P36)
 最近の現実によって、国家の規制をなくして市場にすべて任せれば一番良い結果が得られるとする『市場原理主義』は間違いであることがはっきりして、中谷巌氏は『資本主義はなぜ自壊したのか』(集英社インターナショナル)を書いた。宣伝によると、これは氏の「懺悔の書」であるそうだ。
 さらに女史は金融取引において技術進歩が盛んに進められていることを理解していた。まだ金融工学という言葉はこの時には使われていなかったので「金融技術」という言葉を使っているが、デリバティブという言葉も使っていない。女史が新しい金融商品をどのように考えていたかを示す文章を引用する。
 「最近のアメリカン証券取引所では新しいオプション市場がブームになっている。オプションは、競馬、トランプめくり、サイコロころがし、ルーレット円盤のがらがらなどのギャンブルとほとんど変わらない金融取引である。」(P75)
 賭事そのものがオプションの本質だというのである。 
 彼女は『カジノ・キャピタリズム』の後に書いた『マッド・マネー』のなかで金融業界の異常さを指摘していた。1997年はアジアで金融危機が生じた年で、そのためにアジア経済は大きな打撃を受けていた。
 「アジアでは・・・きわめて多くの人が失業に直面した。何年もの苦労の上に築いた家族経営の多くが破産に追い込まれた。」(P2)
 しかるにその同じ年にアメリカの金融業界の人たちはどういう状態であったか。全く対照的であった。女史はそれを次のように描いている。
 「株式相場から手厚い報酬を得たのは彼ら(ウォール街の株式ブローカー)だけではない。投資銀行家やファンド・マネージャーの手にしたボーナスは想像を絶して、えげつないほどの巨額である。」(P2)
 先に書いたRBS元会長の巨額の年金も同じようなものだ。かくして女史は「金融市場の状態は何らかの緊急の治療を必要としている」(P1)と判断している。彼女の判断が正しかったことは、10年後にアメリカ発の金融危機によって証明された。彼女は見事に10年も前に、金融危機が起こることを予見していたのである。こうしたことを予想しても普通は狼少年扱いされるだけであるから、大学で講義している経済学者などは書かないようだ。しかし本当に経済を理解していれば、経済の現状に潜む問題を見ることができるのだし、その確信を書くことを恐れない。このような能力は女史が正真正銘の経済学者であることの証拠であるといってよいであろう。

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2009年2月 4日 (水)

ベイン・カー『柔らかい棘』を読む

 アメリカは訴訟社会とも言われ、弁護士の多い国柄だからだろう、訴訟を扱った小説が多い。リーガル・サスペンスとも呼ばれる。私が初めて読んだ小説はスコット・トゥローの『推定無罪』(文春文庫)ではなかったかと思うが、残念ながらその内容は最後の真犯人以外は全く覚えていない。最近はジョン・グリシャムなどが良く読まれているようだが、私はグリシャムの小説を読んでいない。彼の小説に基づく映画『レイン・メイカー』は非常に面白かったので、少し読み始めたのであるが最初を少し読んだだけで、結局最後まで読まなかった。最近読んで非常に面白いと思ったのは、W・バッファの刑事裁判ものである。最初に読んだのは『弁護』(文春文庫)であった。彼の本は全て文春文庫で出ているが、面白いので全部読んだ。
 私は『弁護』によって、アメリカの刑事裁判の本質を知ることができたと思う。アメリカでは検事側が容疑者を訴えた犯罪についての実行者であることを陪審員に対して証拠を示して「合理的な疑い」のないところまで明らかに立証しなければならないのに対して、弁護側は検事側の立証には「合理的な疑い」の余地があるということを示して、陪審員が容疑者の犯罪実行について少しでも疑わせ、有罪評決に躊躇させることが必要なのであって、それ以上の立証を行なう必要はないのである。陪審員は、検事側の立証において「合理的な疑い」が存在するかぎりは有罪評決をしてはいけないと事前に教育されているのである。こうした基本的な知識を持って読むと読まないとでは、リーガル・サスペンスの面白さを味わうのに大きな違いが出ると思う。
 ベイン・カーの『柔らかい棘』(講談社文庫)は、医療過誤を扱った裁判小説だが、この本では企業としての弁護士事務所が良く描かれていて、儲かる訴訟事件こそが好ましいものなのである。弁護士事務所にとっては正義などはどうでもよく、訴追側であれ被訴追側であれ、どちらを担当しても勝訴してできる限り多額の弁護料を得られるようにして利益をあげたいのである。
 『柔らかい棘』では、弁護士事務所に所属するピーター・モスは、前回扱った医療過誤訴訟で手痛い敗北を喫して精神的に打ちのめされ、以後医療過誤訴訟は扱わないと強い決心をしたのであったが、たまたまやってきた中年女性のテリー・ウィンターが依頼しようとした乳癌の診療医者が前回敗訴した相手の医者ウォレス・ボンダラントだったことが引き金になって、その訴訟を引き受けることにする。ピーターはカルテなどの提出を求めて調査に入るが、明らかに発見できたはずの乳癌を見逃したことが医療過誤に当たるとして訴訟を提起するのだが、ボンダラントがコロラド州医師会の会長をしているなど、訴訟相手としては手ごわい相手である。ベイリーはその点について次のように書いている。
 「あなたが相手にする残酷でタフな敵は、特別なルールに守られています。特別なルールとは、医療ミスはやむをえないとする風潮であり、医者のすることに間違いはないという過信です。・・・陪審員だって医師に無条件の敬意を抱いていて、救いがたいミスでさえ許している人もいるくらいです。」(P16)
 依頼者のテリーと言う女性は非常に個性的な人間だが、裁判が始まる頃に勝手にメキシコのほうにロクデナシの夫の目を逃れるために娘を連れて出かけていって、ピーターは苦労をするのであるが、思い掛けないボンダラント医師の不法な行為が明らかにして陪審員からの支持を得て有罪の評決を得るのである。しかしさらに思い掛けない事態が発生する。
 大部の本であるが、全く途中で飽きることもなく最後まで一気に読まされる、良くできた小説である。

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2008年11月23日 (日)

『強欲資本主義 ウォール街の自爆』を読み終えて

 今日(2008/11/23)、神谷秀樹氏の『強欲資本主義 ウォール街の自爆』を読み終わったが、この前に小幡績氏の『すべての経済はバブルに通じる』(集英社新書)とチャールズ・R・モリスの『なぜ、アメリカ経済は崩壊に向かうのか 信用バブルという怪物』(日本経済新聞出版社)を読んでいたが、『なぜ、アメリカ経済は・・・』の方は、なぜか内容をほとんど思い出せないのである。もう一度読み直してみようと思っているが、その前に私は竹田茂夫氏の『信用と信頼の経済学 金融システムをどう変えるか』(日本放送出版協会)を読んで、金融について勉強し直しておこうと思っている。
 ところで神谷秀樹氏の『強欲資本主義 ウォール街の自爆』は非情に面白いものであるが、一番印象に残ったのは、アメリカの金融業界の経営者及び社員の強欲さについての神谷氏の描写であった。それは、それほどまでにひどい状態なのかと、到底われわれ日本人には信じられないものであった。いかにも肉食人種のどう猛さはかくや、とでもいうべき精神状態がそこに現れているように私には思われたのである。もともと歴史的にもアメリカはピューリタンの国なのだが、キリスト教信仰などは彼ら経営者たちの考え方と行動にはなんの影響も及ぼしていないのだ。プロテスタンティズムの倫理こそが近代資本主義の精神の根本を作ったとするマックス・ヴェーバーの理論は、現在のアメリカ資本主義に関する限りその実態とはなんらの関わりもなくなっており、いまや完全に破綻してしまっている。アメリカの金融業界は、厚顔無恥の人間でなければいたたまれない場所になっていたのだ。
 なお先日ビッグスリーの経営トップが政府からの財政的支援を求めるためにアメリカ議会の公聴会に呼び出されていった。その時に民間航空機を利用しないで会社所有のジェット機を利用したことで彼らは議員たちから叱正を受けていたが、そこにもアメリカの経営者たちの我々日本人には理解しがたい精神構造が表れていた。思うに、おそらく彼らのジェット機利用という浪費は一種のステータスシンボルなのであろう。
 市場経済、商品交換経済の社会では、経済を動かす原動力はお金(貨幣)であり、そこにこそ金融業の存在理由があるのだと私は考えているが、一方モノとサービスの売買とは何ら関係のない、キャピタルゲイン狙いの資産取引もお金(貨幣)を媒介として行われていて、この取引はお金(貨幣)を増やすことだけを目的とするものであって、人間生活の必要や利便の提供などにはが何ら関係を持たない取引である。そして現代社会では、この利殖のための金融取引が、人間の生活に直接関係するモノとサービスの取引の金額をはるかに超える規模で行われているのである。そしてこの取引の基礎になっている金融商品の評価額が大きく下がった時には、今まで行われてきた取引を支えていた市場参加者の間の信用関係が崩壊して、取引が成り立たない状況を引き起こす。そこにおいて金融商品所有者の手元に莫大な金額の評価損、損失が発生するのである。
 『信用と信頼の経済学 金融システムをどう変えるか』の書き出しは、今回の世界金融危機を今後を考える上で大いに参考となる事態の描写から始まっている。それを以下に引用する。
 「・・・1998年夏から秋にかけて、米国のヘッジファンド(政府の規制を受けない、富豪たちのための利殖ファンド) であるLTCM(ロングターム・キャピタル・マネージメント)が破綻に瀕して、国際的な金融市場が機能停止するのではないかと思われたことがあった。ニューヨーク連邦準備銀行(連銀)や連邦凖部理事会によって、LTCMは救済され、この危機が現実のものになることはかろうじて回避されたが、国際債券市場における流動性の枯渇(債券の買い手がなかなか見つけられない)というかたちでいまだにこの事件の余波が残っている。」(P7)
 武田氏のこの本の初刊の発行日は2001年6月30日であるから、LTCMの破綻からおよそ3年後である。今回の金融危機は、一ヘッジファンドが破綻するどころではない、これとは比べ物にならない大きな規模の根本的な危機である。銀行や生命保険会社を含む世界中の金融機関が損失を被ったといって過言ではない、とてつもない規模のものなのである。だから世界中の政府が公的資金を金融機関に注入するといった形で救済に乗り出していて、それでも銀行の企業への貸し渋りが問題になって実態経済の停滞・縮小が危惧されている。世界中で金融危機への対応が行なわれているが、それが果たしてどれだけ有効に機能するのかが誰にも判断できないのである。既に企業の破綻や事業の縮小による失業の増加が経済統計にも現れてきており、将来の不安に怯えて庶民の家計は支出を絞るようになってきた。LTCMの破綻時には見られなかった現象である。LTCM破綻の影響が3年にも及んだことを考えると、今回の金融危機の影響はもっと長引くことが予想されるのだ。それに対抗するためには、政府がよほどの対抗策を講じなければならないだろう。アメリカでブッシュ大統領からオバマ新大統領への政権交代という、偶然とはいえ良い材料が存在することは、世界にとって幸運といえるものである。1929年アメリカ発の大恐慌の再来だけは避けれられるだろうと思われる。

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2008年11月20日 (木)

マイクル・クライトンの『ネクスト』を読んで

 先日新聞でマイクル・クライトンの死亡記事を読んだ。ちょうど彼の最後の作品『ネクスト』(早川書房)を読みかけていたところだったが、今日(2008/11/20)やっと読み終わった。彼の最近の小説はテクノロジーの最近の発展により世の中がどのように変わりそうかを想像して描いていて、大変参考になる。この本の前に彼は『恐怖の存在』(早川書房)を書いて、地球温暖化問題を含む気候変動問題を扱っている。気候変動問題をネタにして金儲けを企む団体が、最新のテクノロジーを使って人工的に気候を変動させて被害を発生させて危機感をあおり広く研究費をせしめようとする話であるが、彼の小説に出てくるアメリカ人を見ると、アメリカ人というのはとにかく金儲けにしか関心がないのかと、その心情の貧しさを実感せざるを得ないが、今回の本の話でも同じことを感じた。しかしクライトン自身は、技術的にできることは何でもしようとするアメリカの科学界の風潮とは一線を画しているようだ。
 実業界の取引関係の基礎を支えているのは法律であるが、今回の遺伝子技術に関して今や裁判所の判例自体が大いに問題を生み出す基になっているとクライトンは考えて批判している。小説の中でクライトンは架空の遺伝子裁判の場面を描いて判事にアメリカの裁判判例を批判させているが、クライトンは小説が終わった後のあとがきで以下のように書いている。
 私は知らなかったのだが、アメリカでは遺伝子特許が認められているそうで、彼はその不当であることを説明し、遺伝子特許を廃止するべきであると書いているのである。
 「遺伝子は自然に属するものだ。・・・・自然に属するものを所有していいはずがない。・・・・遺伝子関係の特許は、そういう根本的なルールを踏みにじるものである。
 遺伝子特許については、・・・・どこにも発明の要素はない・・」(P322)
 またクライトンによると、現在のアメリカの大学自体の体質は営利企業のそれと変わりがないとのことである。彼のこの指摘は私にはまったく意外であった。
 「今日、大学はみずからが営利事業を拡張し、利潤の追求に走っている・・・」(P329)
 そしてアメリカの大学における医学研究環境の現実は以下のようなものであるそうだ。
 「いまや、医学研究には秘密主義が蔓延し、それは医学の進歩を妨げている。 かつては俗世から隔絶され、研究の楽園であった大学は、いまでは商業主義の巣窟と化した。楽園はもうない。かつては人道主義第一だった科学者たちは、もはや利益と損失を第一に考えるビジネスマンだ。」(P330)
 この文章を引用していて、私は昔読んだノーベル経済学賞受章の経済学者ポール・サミュエルソンの書いた『経済学』(岩波書店)のなかに引用されていた次の文章を思い出し、なるほどと思った。
 「アメリカのビジネスはビジネスである」
 かつては大学は、単なるビジネスの場とは考えられていなかったのだが、今や大学の運営者は、大学を単なる利潤追求のビジネスの場と考えるようになってしまったのだ。
 日本の国立大学も、独立採算が求められてきているようであるが、文部科学省の役人たちもアメリカの悪い影響にどっぷりと浸かってしまっているのではないか。
 ところでクライトンの書いたような社会性のあるエンターテインメントが日本の出版界には少ないように思われるが、残念なことだ。
 なおクライトンは前著の『恐怖の存在』では、資料を掲げて地球温暖化は科学的に確定した事実であるかどうかを疑っているが、日本では政治家にしろ官僚にしろ、また民間企業の人間もすべてが地球温暖化を全く疑うことなしに受け入れていて、私には日本は環境ファシズムといっても良い状況になっていると思われるのである。例えば先日の日本経済新聞朝刊一面の『春秋』を書いている記者は、地球温暖化を疑うことはそれ自体が罪悪であるかのような書き方をしていた。彼にとっては地球温暖化は疑うべからざる科学的な真実なのであるが、私はクライトンの意見のほうを信用する。
 また容器包装リサイクルの実態を見ると、官僚たちは現実を無視して、天下り利権のために公益団体と称するものを作っては国民の税金を無駄遣いして平気でいるとしか思われないのである。錦の御旗となった環境保護、地球温暖化防止の取り組みは政治家や官僚たちの税金無駄遣いの元凶になっていることがますます明らかになってきている。政治家も官僚も、多額の税金を使えば使うほど自分たちの存在価値が証明されるると思い込んでいるようなのだ。だから科学的な事実という裏づけがあるとされる地球温暖化対策などは税金を使うための持って来いの材料なのである。

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2008年10月31日 (金)

マックス・ヴェーバーに対する本格的な批判の書

 社会学者の橋爪大三郎氏は、『世界がわかる宗教社会学入門』(筑摩文庫)においてマックス・ヴェーバーとカール・マルクスを社会学の双璧と評価しているが、ヴェーバーがその論文『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(岩波文庫ほか)で主張した「プロテスタントに特有の『禁欲』の考え方が、資本主義成立にとって不可欠だった」(P23)と書いている。しかしこの説明は少し不十分である。ヴェーバーがプロテスタンティズムの倫理の重要な要素として先ず最初に挙げたのは、プロテスタンティズム発生の歴史的順序からしてルターがドイツ語に翻訳した聖書で世俗的な職業を表すのに使用した『召命』(ドイツ語のBeruf)という言葉であり、ヴェーバーがそれは画期的なものであったとして評価したことを、橋爪氏は看過している。キリスト教は、それまで職業によって金儲けすることを否定的に評価することはあっても、ルターのように宗教的に見て全く問題のないことと見なすことはなかったのである。しかしそういうローマ・キリスト教会自体が、免罪符の販売という形で金儲けに走るという言語道断な恥知らずな行動に走ったことは有名な歴史的な事実である。
 ところでマルクスの主著である『資本論』については、注に引用された歴史的文書の内容が不正確であるという批判が学者によって為されているが、ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』についてそのような批判を行なった学者の存在を今まで私は寡聞にして知らなかった。橋爪氏も「ヴェーバーの学説は、社会科学の定説です」(P270)と書いているくらいである。実際にヴェーバーのこの論文には、沢山の注が付されているが、その注の内容自体が場合によってはウンザリするくらいの分量で、この論文を読み通すのはなかなか大変なのである。そしてこれくらいしつこい論文なら多分間違いもないだろうと普通の読者なら思ってしまうだろう。私もそうであった。ところがここにヴェーバーの論文には重大な資料操作上の誤りがあると主張する本が現れた。羽入辰郎氏の『マックス・ヴェーバーの犯罪 「倫理」論文における資料操作の詐術と「知的誠実性」の崩壊』(ミネルヴァ書房)がそれである。
 その内容をこれから紹介したいと思うが、まず羽入氏のマックス・ヴェーバーに対する彼の学者としての評価が面白いのでそれを紹介しよう。
 「マックス・ヴェーバーというのは、一つのことをきちんと生涯かけて調べていった人間 ではない。そういうタイプの学者ではなく、あちこちをつまみ食いした人間である。」(P20)
 ヴェーバーは、世俗的な職業を『召命』(Beruf)、神によってその人が召し出されたものとして宗教的に正当化したのは、マルティン・ルターの行なったドイツ語訳の聖書においてであったと、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で最初に指摘したとされるが、実はルターについての歴史的事実はそうではなかったと羽入氏は、ルターの聖書ドイツ語翻訳の歴史的な事実経過を詳細に原本に当たって調べた結果に基づいて反論している。ルター自身はBerufという言葉を使ったことはなく、ルターの翻訳が後に他の人たちによって改定されていくなかでBerufという言葉が使用されるようになったというのである。この論証の詳細は『マックス・ヴェーバーの犯罪』を読まれたい。
 またプロテスタンティズムの流派の主流の一つカルヴァニズムが資本主義的企業活動を積極的に促したということをヴェーバーは歴史的な事実として書いているが、これもまた全くの間違いで、ドイツの神学者カール・ホルの以下の文章が正しいとすると、カルヴァニズムは資本主義的活動を徹底的に抑圧していたのである。
 「17世紀中頃までのカルヴァン派の教会ほどに、山上の垂訓での主の言葉に本気でしたがって生きようと努力した教会は、したがってまた「資本主義」に対してこれほど激しく戦ってきた教会もまた存在しなかったのである。」(『M・Wの犯罪』P134)
 カルヴァニズムの租であるジャン・カルヴァンがどのように非人間的な人物であったかについては、シュテファン・ツヴァイクの書いた伝記『権力と戦う良心』(みすず書房)を読めばよく分かるし、そのコチコチに凝り固まった原理主義的人物像からは資本主義に対する敵意以外の評価はとても考えられないものである。このことは、案外ヴェーバーも人を見る目がなかったのかも知れないと思わせるものである。
 さらにヴェーバーは、資本主義精神を体現する歴史的に代表的な人物としてアメリカ人のベンジャミン・フランクリンを例に引いて書いている。ヴェーバーはフランクリンについて、いかにも彼が宗教的な人間であるかのように『改信』や『天啓』といったキリスト教の用語を使って説明しているが、実際に『フランクリン自伝』(私が読んでいるのは、旺文社文庫のものである)を読んでみると、フランクリンは到底真率な宗教的人間とは思われないのである。ヨーロッパ文化圏に属していたフランクリンであるから、自伝において「わたしはすべて神のお導きによって、そのときどきあたっていろいろな方法をとり、それが成功したのである」(P7)と書く一方で、倫理というものについて、「(神によって)禁じられているから悪いというのではなく、また命じられているからよいというのではない。ただあらゆる事情から考えて、そういう行為が人間の本性にとって悪いことだから禁じられるのであり、よいことだから命じられるのではないか、という考え方を持つようになった。」(P97〜98)と書いている。キリスト教社会であるアメリカで生まれたフランクリンがキリスト教、特にプロテスタンティズムの考え方に影響を受けなかったことはありえない。しかし根っからのプロテスタントであったかというと、彼の自伝を読む限り疑問がある。習慣的な思考によって、「神のお導き」といった言葉を使ったとしても、それをもってフランクリンを心底宗教的な人間であったと決めつけることは出来ないだろう。むしろ彼はキリスト教社会で生まれ育った人間にしては珍しく、キリスト教によって全面的にマインド・コントロールされてはいなかった人間であったように思われるのである。ところがヴェーバーの書くところ、フランクリンはプロレスタントの典型であり全き宗教人間なのである。同じ伝記を読んで、フランクリンの宗教性という単純な事実について、どうしてこれほどの差が生じるのであろうか。ヴェーバーの読解力には問題があるのかもしてないと疑わせるものがあるのである。
 ルターにおける聖書翻訳での『召命』berufという言葉の使用、カルヴァン派教会の資本主義の促進、宗教人間の典型フランクリンというヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の基礎となる事実の間違いは、羽入氏の言うようにヴェーバー論文における根本的な問題の存在を示していると思われる。ヴェーバーの論文に特徴的な、余りに詳細に書かれた議論に人は圧倒されて、ヴェーバーの議論に問題があるかどうかを検証しようとする意欲を失わってしまうのだ。見方によっては、羽入氏の言う「ヴェーバー一流のこけ脅かしの詳細な議論」は学問の邪道なのかも知れない。しかし学問の一部には「重箱の隅をつつくような事実探索」が必要であることは、羽入氏の『マックス・ヴェーバーの犯罪』自体が示しているのではあるが。
 ところで単純な話だが、Max Weberがドイツ人である以上、日本語での表記は、ドイツ語の発音に基づくマックス・ヴェーバーが適当であると私は考えるのだが、なぜかウェーバーという、恐らく英語読みの表記が少なくない。これらも原語の発音に近い表記優先というルールがあっても良いのではないか。

 最後に、橋本大三郎先生、羽入氏の以上のような指摘をどのように評価しますか。それでもまだ、橋爪先生、あなたは「ヴェーバーの学説は、社会科学の定説です」と言い続けますか。

追記:(2008/11/03)
 上記文章においてベンジャミン・フランクリンについて書いた時には、私はまだ『フランクリン自伝』を最後まで読んでいなかったのであるが、今読み終えてみて改めてフランクリンの宗教に対する意識がよく分かった。自伝において自分の仕事などが上手くいった時の経験を語る時に彼はよく「神のお導きにより」とか「神のお恵みにより」とかという表現を使っており、また神の存在を信じているということも書いていて、彼は確かに敬虔な人間ではあったと思う。しかしだからといって「改信」だとか「天啓を受ける」だとかといった大袈裟な宗教的な体験などは全く経験したこともなくて、キリスト教社会において普通のキリスト教徒がキリスト教を信じているのと同じようなレベルでキリスト教徒であったに過ぎない。フランクリンが「勤勉」や「節約」を強く説いているからといって、それは職業を『召命』として強く認識していたからであるというよりも、それらの徳が人生における成功に強く繋がっているという至極功利的な理由から説かれているに過ぎないのである。以上のような実態からすると、ヴェーバーが、まさにプロテスタント的な人物でその典型であるとして紹介しているフランクリンは全く本人の関知しないような人間なのである。なぜヴェーバーはこのような単純な事実を読み間違ったのであろうか。

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2008年10月19日 (日)

余りにもひどい柘植義久氏の日本語

 柘植久慶氏の『断末魔の中国』(学習研究社新書)を読み終わって、先に書いたことに追加することがどうしても必要であると判断してこれを書くことにした。
 この本を読み終わって、私はいよいよ呆れてしまった。到底プロの文筆家といえるレベルの文章ではないのである。既にこのブログで紹介した中国人と結婚して北京に住む星野ひろみさんの『だから中国は救われない』(KKベストセラーズ)は、彼女の初めての著作で、文章については添削をしてもらっているというが、柘植氏の文章と比べてはるかにまともな日本語に仕上がっている。柘植氏はもう相当のの数の本を書いているはずだが、この本を読んで日本語としてまともな体をなしていないところが余りに多いので、よく恥ずかしくもなく出版したものだと、大いに感心した次第である。私は学習研究社の担当者の責任をも問いたいと思うが、強面の柘植氏に暴力でも揮われるのを恐れて何も言えなかったのであろうかと勝手に邪推してしまった。
 私がこの本を読んで感じた柘植氏の文章のひどさを項目として書くと3つほどになる。
1)柘植氏は「てにをは」などがきちんと使えない。
 例文1. 「いったん食料の輸入国に転じ、輸出が不調になったら最後、これまでのおかし な統計の数字の矛盾が噴出し、経済の崩壊が一段と加速させるに違いないであろう。」(P42)
  「経済の崩壊が一段と加速させる」は「崩壊」が何を加速させるのか全く不明であり、これは「崩壊が一段と加速する」と書くべきものであろう。
 例文2. 「それに似ているのがヴェトナムの国営企業だが、中国を比べたらその不正は まだ可愛いものだといえる。」(P73)
  「中国を比べたら」は「中国と比べたら」であろうが、これは誤植か。
例文3. 「中央政府の役人を含めて、中国の役人たちが一番美味しいのは、やはり金融 機関に喰らいついた場合だ。」(P88)
  「中国の役人たちが一番美味しいのは」というのは、どうも意味が不可解である。日本語として誰にでも意味が通じるためには「中国の役人たちにとって一番美味しいのは」とでも書くべきではないか。
 例文4.  「中国の大都市の街角を歩くと、明らかな偽物----コピー製品が至る所で見出すことが出来る。」(P103)
  「コピー製品が」ではなくて「コピー製品を」であろう。
  例文5. 「スポーツ新聞がいみじくも『ディズ似ランド』を見出しを付したように」(P104)
  これも単なる誤植なのだろうか。「『ディズ似ランド』の見出しを付した」が正しいのだろう。
 例文6. 『中国の資源探査は、80年代からこの方面でも実施し始めた。』(P146)
 資源探査が主語で、何を実施し始めたというのだろうか。「中国は資源探査を」ならば、日本語として意味は通じる。
2)柘植氏の文章には日本語としての言葉遣いや、文章における言葉の置く位置の不適切さが目立つ。
 例文1. 「音楽などではダヴィングしたCD」(P103)
 CDについては普通ダヴィングとは言わない。コピーするというのだから、「コピーした偽造CD」とでも書くべきだろう。
 例文2. 「たしかに中国では政府主導によって、海賊版撲滅キャンペーンを行ない、トラ クターが没収したCDなどをぶち壊している。」(P104)
  こういうところで「ぶち壊す」などという言葉は、私には日本語としては到底適切なものには思われない。
 例文3. 「このうち4台から5台(の車)は、爆弾を仕掛けられた可能性があったが、残りは明らかに自然発火による炎上だと思われた。」(P105)
 「自然発火」という言葉は、森林の火災などの場合に使うが、自動車が不良部品を使われたために発火現象を起こしたとしても、これに「「自然発火」という言葉を当てはめて表現するのは日本語として不適切である。
 例文4. 「もちろん偽物を見抜くには、外見だけではないから難しい」(P110)  
 これは中国の歴史遺物を偽物かどうか見抜くことの難しさについて述べたものであるが、よく意味が通らない。柘植氏は外見が妥当なものであっても、それ以外の実質が偽物であることがあるので難しいといっているのである。この後で柘植氏は歴史的な銀貨を例に挙げて、いくら形や寸法など外形が正しく作られていても、使用されている銀が昔のものと違っていることがあり、そうなるとそれは偽物なのだ、と説明している。「外見だけではないから難しい」では言葉が足りないのである。「偽物を見抜くには、外見以外にも実質的な要件をも理解していて確認しなければならないから大変なのだ。」とでも書くべきであろう。
 例文5. 「勉強とは来日の目的だけで、伝手を頼って一目散に働きに出る。」(P112)
 これは日本への中国人留学生について書かれた文章であるが、「勉強とは来日の目的だけで」は事態を正確に表現していない。「勉強は表向きの目的にすぎず』と書けば読者もすっと理解できるはずだ。
 柘植氏の文章の問題の最後のものを指摘する。
3)日本語の言葉の意味を理解しないで使用していることがある。
 以下に記載する三つの文章には、いずれも「確率」という言葉が使われているが、その 内の一つでは明らかに間違った使い方がされている。それがどれかを当ててください。
 例文1. 年間180万人が癌と診断され、そのうちの140万人が不十分な治療により死亡する。これは驚くべき確率である。」(P168)
  この文章には事実関係に関して基本的に大きな問題がある。柘植氏は中国政府が発表する統計数字はすべて嘘だと書いているのだが、それならこの数字自体も嘘かも知れない。また癌で死亡した人が、不十分な治療のために死んだと書いているが、適切な治療をしていても癌患者は死亡するし、そもそも「不十分な治療で死んだ』という統計的な根拠は何処にあるのだろうか。
 例文2. 「こうした女性(売春婦のこと)がエイズや他の性病を持っている確率が高いため、絶対に部屋に引き入れてはならない。」(P198)
 例文3. 「食事で汚染食品を口にする確率がきわめて高く、」(P206)
 この三つの例のなかで「確率」という言葉が明きらかに不適当なのは、例文1であり、「確率」ではなくて「比率」と書くべきなのである。どうやら柘植氏は確率というものの意味をしく理解していないようである。
 以上において私は柘植氏の本の文章に関する日本語としての不適切な表現を具体例をひいて指摘してきたが、「てにをは」についてまだまだ沢山問題箇所がある。とにかく読んでいて、日本語としての文章の質が低すぎると言わざるを得ない。柘植氏はプロとしての文章修業を改めてやり直す必要があると思う。今のようなやっつけ仕事で、読者からお金を取ろうというのは失礼きわまりないと思う。

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2008年10月18日 (土)

大江健三郎は偉大な作家か

 今日(2008/10/18)の日本経済新聞朝刊の最終面の「文化」という紙面に「初の東アジアフォーラム」の記事が載っていた、9月30日から10月4日まで韓国で、日本、韓国、中国の文学者が集まって語り合ったという。ノーベル文学賞受賞作家の大江健三郎氏も出席したとのことである。
 まず個人的なこととして、大江健三郎氏に対する私の読書歴を最初に書いておきたい。私は大江健三郎氏の本を何冊か持っているが、まだ1冊も読み通したものがない。大江氏の小説は、色々な場で日本文学の中で読むべきものとして選ばれ紹介されている。福田和也氏が『作家の値打』(飛鳥新社)で『万延元年のフットボール』を大江氏の最高傑作と評価していたので、私も古本屋で買って置いてあるのだが、なかなか読む気にはならないままに現在に至っている。この節の最初に読書歴と書いたが、大江氏の本は実は何にも読んでいないのである。この先読むことがあるとしたら『万延元年のフットボール』くらいであろう。
 ところで最近谷沢永一氏の『こんな日本に誰がした 戦後民主主義の代表者 大江健三郎への告発状』(クレスト社)を読んだのだが、大江氏のエッセイや、ノーベル文学賞受賞時の『あいまいな日本の私』などを引用しながら、大江氏の反日本的な考え方を徹底的に批判している。日本人が丸々1冊の本を個人の批判のために書いたという例は他にもあるが、ノーベル賞受賞者をとことん批判したのは初めてではないか。
 ところで私は大江健三郎氏を卑劣な人間として批判した本をこの前に既に読んでいた。編集者で書評家でもあった安原顕氏は『ぜんぶ本の話』(ジャパン・ミックス)の一番最初に「大江健三郎『垂れ込み事件』の眞相」という題で、大江健三郎氏のチクリをばらした。まず安原氏の大江氏に対する評価を引用する。
 「大江健三郎はデビュー以来、進歩的文化人(朝日、岩波、NHKの御用文化人)として戦後民主主義者を標榜し続け、一貫して差別撤廃、平和憲法死守、人権擁護の立場を取ってきた。しかし、このことはあくまでも表面上の立場であり、大江健三郎とは実は、病的なほどの権威主義者であり(断っておくが、ぼくはそのこと自体を批判する気は毛頭ない。それこそ個人の自由だからだ)、自分への批判は断固許さぬファシストなのだ。」(P10)
 安原氏が大江健三郎を許しがたい人物と判断することとなったチクリ事件とは、次のようなことである。
 「七十四年秋、ぼくが中央公論社の文芸誌『海』の編集者をしていた頃、『レコード芸術』のコラムで、たまたま大江健三郎、小田実の著書『状況へ』『状況から』を、徹底的にぶっ叩いたことがある。すると、大江健三郎は、その批判に関する反論を、あろうことか、当時の勤務先、中央公論社社長、嶋中雄二と『海』編集部安原顕への連盟宛の「手紙」として送り付けてきたのだ。平たく言えば『垂れ込み』である。」

 大江健三郎氏は、有名作家であるという出版社に対する自分の優越的立場を悪用して、安原氏の批判を封じ込めようとしたのだ。これはまさに一種の言論抑圧そのものである。大江氏の信奉する戦後民主主義の趣旨に完全に反するものではないか。
 これを読んで私はすぐに福沢諭吉のことを思い出した。福沢諭吉は『痩せ我慢の説』という論文において、勝海舟と榎本武揚とが幕臣であったにもかかわわらず明治新政府の要職についたことが武士の本旨に背くものであるとして非難した。武士の本旨は「痩せ我慢をすることだ』と諭吉は考えている。そして諭吉はこの論『痩せ我慢の説』(彼が思いがけずも大変節的な心情の持ち主であることを私はこの論文で知ったのだが)を公表する前に海舟に送って意見を求めた。これに対して海舟が諭吉に送った手紙の一節を以下に引用する。
 「行蔵は我に存す 毀誉は他人の主張、我に与(あずか)らず我に関せずと存候(ぞんじ そうろう)」
 海舟は『論語』を基にする『行蔵』という言葉を使って、「私を使ってくれる人がいたから働いただけだ、私を非難するのは他人の勝手である。私には関係がありません」といって諭吉に自由に世間に発表するように返事をしたのである。
 まず諭吉が論文を公表する前に、非難した相手に対して自分の意見に対する相手の意見を求めたのは、いかにも武士らしい精神の現れと思われる。現在ここまでする人間はいないだろうが、大江健三郎氏がとった行動は、全くいやらしく卑劣なものであると言わざるを得ない。この行動から判断すると、大江氏の戦後民主主義者という自己規定は残念ながら肯定的な評価に値しないと考えざるを得ない。ノーベル文学賞にも当然値しない作家である。日本人としても、恥さらしそのものである。
 谷沢氏は大江健三郎氏が、日本に対する批判・悪口を専ら海外での発言の場でハッキリと表明しながら、日本国内では曖昧な言い方で誤魔化すという大江氏の軟弱な精神を、実例を引用して批判しているが、それと安原氏に対するチクリとは同じ精神構造に発するものであると思われる。
 そして最後にごく私的な私の大江氏に関する印象を書くが、大江氏の最近の写真を見て次のように思った。その写真では、大江氏は黒縁の丸い眼鏡をかけて目を細めて映っていたのだが、まるで年老いたムーミンの惚けた顔ソックリだな、というのが私の印象であった。残念ながら大江健三郎氏は、歳を取ってそのよい内面が自然と外面に現れるようなタイプの人間はではけしてないのだ。腐った精神が表によい印象を表すはずがないではないか。

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2008年10月17日 (金)

柘植久慶氏の支離滅裂

 柘植久慶氏が海外で傭兵隊に参加した経験があることは知っていて、彼が本も書いて出版していることも知っていたが、今回初めて柘植氏の『断末魔の中国 粉飾決算国家の終末』(学研新書)を呼んでみて、その内容の支離滅裂に驚いた。言葉使いの不適切さも含めて、その具体的な内容について以下に書いてみる。
 「手長蝦も、そうした例外に洩れない」(P25) これは「例に漏れない」が正しいのであって、こうした言葉の使い方自体が全くの例外、というより全くの初歩的な誤りである。プロの文筆家としては恥ずかしいことこの上がないものである。またこの本の担当者は果たしてこの原稿を一度でも読んだのだろうかと疑わざるを得ない。担当者というのは、単なるメッセンジャーボーイではないはずだ。
 「中国人の食生活で無視できないのは、豚肉の価格なのは確実だ。」(P33) 
 この「なのは確実だ」という表現は日本語としておかしいと思う。「豚肉の価格である。」とでもするべきである。絶対に間違いかといえば、そうでないといえるかも知れないが、不自然な日本語であることは確実だ。
 中国での生活水準の上昇は、肉食の増加をもたらしており、それは中国での養豚の増加に繋がる。ところがその問題点として柘植氏は「肉を1キログラム生産するのに、穀物を10キログラム飼料として用いるという点だろう。」(P36)と指摘した上で、養豚の増加が環境汚染に繋がるとして次のように書いている。
 「中国の場合は大規模な養豚所より、農家が残飯を使用し数頭単位で飼うことが多いだろうから、農村ではかなりの環境汚染が生じてくる。」(P37)
 つまり中国では養豚の拡大も、農家の副業として残飯を使用する形で行われることが指摘されているが、そうであるなら予想される飼料としてのトウモロコシの逼迫による「肉1キロに必要な穀物10キロ」という「重要な意味」は、中国には当て嵌まらないのではないだろうか。ところが柘植氏は39ページで次のように書いている。
 「中国での豚肉の消費量は、この経済成長が続く限り、右肩上がりの数字を示す。そうなると養豚が広い範囲で進められ、トウモロコシの不足をきたすことになる。何しろ養豚の原価の80%は、飼料の価格と言われているほどだからである。」
 私には中国における養豚に関する柘植氏の論理はメチャクチャであるとしか思われないのである。
 また養豚の拡大がもたらすと考えられる中国での環境汚染に関して柘植氏は次のように書いているが、指摘した内容は全く正確さを欠くものであった。。
 「豚の糞尿は小川に流れ込み、沼や池で富栄養化しアオコが発生する原因となる。病原菌の巣となったそうした沼や池は、そこに生息する魚介類を汚染してゆき、病気を発生させたりときに死者まで出す、といった寸法だ。」(P37)
 柘植氏はアオコが「病原菌の巣」となると理解しているが、ウィキペディアで調べると、アオコの問題点は、1)遮光による水草などの光合成の妨害、2)酸欠による魚などの死亡、3)アオコの種類によっては毒素を出す、の3点が指摘されており、「病原菌」が問題なのではない。柘植氏においては、科学的な事実の確認が全くお粗末なのである。
 柘植氏は中国における水汚染について次のように書いているが、この文章の最後を皆さんは正しく理解することが出来るだろうか。
 「第二の中国を滅亡させる要因は、水の豊かな地域に存在する『毒水』の問題だろう。これは静かに流域住民の健康を害し、農地を汚染して農作物を有害を生産する。」(P41)
 これには二つの誤植があるのではないかと思う。「有害な農作物を生産する。」が正しいのであろう。こうした誤植に気が付かないというのは担当者の職務怠慢であろう。
 次の文章は不適切な言葉の使い方である。
 「ところが技術が伴わない生産業は、・・・」(P54)
 普通「製造業」とはいっても、「生産業」などとは言わない。辞書にもこんな言葉は出ていない。こうした文章を平気で書くようでは、プロとはいえないと私は思うが、担当者も何も言わなかったのだとしたら、学習研究社は出版社として救いようがない会社である。こうしたところに会社のレベルがハッキリと現れるのだ。
 次の文章を私はキチンと理解することができなかった。
 「中国は更に面倒な条件が加わる。それは経済成長とバブルが同時に進行し、インフレーションをカムフラージュするためである。不動産と株のバブルが存在し、資金が飛び交っている始末だから、紙幣など片っ端から流通市場が吸収しているのが現状だ。」(P60)
 柘植氏が言う「面倒な条件」とは何かを私は全く理解できないのである。「インフレーションをカムフラージュする」というのは、「実際には存在するインフレーションを、存在しないかのように誤魔化す」ということなのだろうが、バブルというのは基本的に資産インフレーションのことである。しかし柘植氏がいいたいのは、生活物資におけるインフレーションのことのようなのだ。柘植氏いはそうした点についての区別や正確な理解がどうやら欠けているのではないかと思われる。
 次の文章で書かれた柘植氏の感覚も私には全く理解できない。
 「中国での貨幣の流通は、だいたい日本の20倍に感じる。」(P60)
 一体どうやったら、人間に貨幣流通が20倍もに感じられるのだろうか。摩訶不思議というしかない。
 次の文章の表現にも私は、大変な抵抗を感じる。
 「中国経済は右肩上がりを続ける、というのが中国人の大半の甘い予測である。いざとなれば政府が何とかするとの彼らの思考回路が、手痛い損害を被ることになるだろう。」(P61)
 「思考回路が、手痛い損害を被る」とは一体どういう意味か。「思考回路がもたらすものは手痛い損害であろう。」というのなら私も理解できるのであるが、「思考回路そのものが手痛い損害を被る」などということは私には到底想像も及ばないことである。
 次に示す柘植氏の文章は、かれがその前に述べていることとは全く繋がらないのである。
 「つまり中国においては、株価と不動産価格があたかも経済の両輪のように、活発に動いていることになる。」(P65)
 ところが64ページで柘植氏が指摘していことは、中国では07年度に証券口座の数が異常といっていいほどに増加して、中国人の人口の10%もの数に達したということだけであって、株式市況については柘植氏は何も触れていないのである。従って「株価と不動産価格』と書いても、不動産の価格は別として株価については具体的な事実は何も示されていないのだ。
 まだ三分の一程しか読んでいるないが、それでもこれだけのおかしな点が存在するのである。
 柘植氏は傭兵の訓練もしたそうだから、肉体的にも強面で、出版社の担当者などはとても意見など言えない雰囲気なのだろうかと、私は勝手に想像してしまったが、文筆者として最低限のレベルの文章を書くべきだと思う。率直に言って、柘植氏は安易に書きなぐっているといわざるを得ない。私は今読みかけのものは別として、今後、柘植氏の本を買って読もうとは全く思わなくなってしまった。

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2008年9月17日 (水)

ユーモア小説『ミス・ジュリア 真夏の出来事』が良かった

 全く知らなかった作家の本を買って読んでみたら、面白かったというのは本好きの快楽である。先日(2008年9月15日)古本屋で買って一気に読んだのが、アン・B・ロスの『ミス・ジュリア 真夏の出来事』(集英社文庫)であった。
 ところでミス・ジュリアは少し前にご亭主を亡くした60代の女性なのである。それがなぜMISSなのか。この小説の原題はMISS JULIA SPEAKS HER MINDとなっているから日本語の題名もけして間違ってはないのだが、ミスというとわれわれ普通の日本人は未婚の女性をさすものと思うだろう。私もそうで、英和辞典を調べてみたが、夫を亡くした女性にもMISSを使うという説明も見当たらない。またこの小説の中ではミズと言う呼び方も、ミセスという呼び方もジュリアに対しては使われているので、翻訳者の方にはMISSの使われ方について説明してもらえたら良かったのだが。
 ジュリアは44年間連れ添った夫ウェスリー・ロイド・スプリンガーが心臓病で自家用車の中で急死した後、8月の暑い日に夫の愛人であったという女性が突然訪ねてきて、いきなり自分が職業訓練を受ける6週間ほどの間ウェスリー・ロイド・スプリンガーの隠し子である9歳の子供を預かってくれるように頼まれて吃驚仰天する。女は一方的に子供を押し付けて車に乗っていってしまう。子供は夫と同じウェスリー・ロイドという名前であったので、ジュリアはやがてリトル・ロイドと呼ぶようになる。子供は猫背で痩せて貧弱な体つきをしていた。初めは夫の隠し子ということで嫌がっていたジュリアも次第にかわいいと思うようになっていくのであるが、この小説で面白いのはアメリカの田舎の町の人々の生活習慣などが細かに描かれていることである。ジュリアの夫は銀行家で死んだ時には沢山の遺産を残したのだが、生きている間はしみったれて少ない生活費を毎週ジュリアに手渡すといった人物であった。この小説においては彼女の通う長老派のキリスト教会が大きな役割を果たしている。私はキリスト教に深い関心を持っているので、教会についても色々書かれていて大いに参考になった。以下ではその点を中心に書いていく。
 ジュリアは多分高校卒であると思うのだが、私が認識しているよりも普通のアメリカ人よりは知的であった。ジュリアは長老派教会のレッドベター牧師について次のようにいっている。
 「レッドベター牧師は徹底したカルヴァン主義者で、自説を裏づける聖書の一節を見つけるのが、ウェスリー・ロイドとおなじくらいうまかった。」(P88)
 アメリカのキリスト教はピューリタンに依る国造りの伝統からプロテスタンティズムが基本なのであるが、普通の信徒がカルヴァン主義というようなことをそんなに深く理解してるとは私には思われないのである。従ってジュリアの上の認識は私には意外であった。
 またジュリアは一般信徒が牧師に盲従する傾向を次のように指摘している。
 「レッドベター牧師がどんな立場をとろうとも、教会のメンバーの大半がそれを受けいれることはわかっている。信徒たちは、いわれなく群れ(フロック)と呼ばれているわけではない。」(P99)
 群れ(フロック)の英語はFLOCKであるが、羊や牛の群れなどに使われる言葉で、大人しく誘導される存在を表している。昔、確か『羊のようなアメリカ人』という本が出版されていたことを覚えているが、今なお教会がからんでくるとアメリカ人は羊のような存在のようである。宗教は人間をマインドコントロールするためには非常に便利な道具でもあるのだ。
 また次のようなジュリアの考えを知ると、彼女がけして単純な保守派ではないことがよく分かる。
 「どうしてキリスト教徒のなかには、いつもだれかやなにかに反対せずにはいられない人がいるのだろう、とわたしは考えた。人権差別廃止やウーマンリブに反対するかと思えば、性教育や世俗ヒューマニズムを槍玉にあげる。国際協調を唱えたり、ただ民主党員であると表明しただけで抗議を受ける場合もある。そしてこんどは、国を廃虚とし、キリスト教信仰を破壊しているのは、ほかでもない人工妊娠中絶と同性愛者である、ときた。わたしは、そんなありそうもない話に夢中になるよりは、カルヴァンやノックスの教えに深く信頼を置いている。」(P216〜217)
 ただジュリアのこの考えの中で不思議に思うのは、カルヴァン主義者は基本的に聖書原理主義者であるから、ジュリアのリベラルな考えとは相容れないはずであることだ。それにジュリアがカルヴァン主義であるのなら次のような疑問を持つことも不思議なのである。  「夫は長老派の信者ですもの。すなわち、神に選ばれた人間なの。でも、神がどうやってお選びになるのか、その過程については、やや疑問が残りますけどね。」(P196)
 カルヴァン主義の根本的な教義は「予定説」と呼ばれるものである。「予定説」とは、神は自分の意思によって救われる人間と救われない人間とを予め選んでいるというもので、「選択」は現実の生活における行動とは無関係であるとカルヴァンは考え、予め選んでいることを彼は「予定」と呼ぶのである。ジュリアがカルヴァン主義者であることは上の文章で明白であるのだが、上述のような「神の選択」に関する疑問の話をするのを読むとジュリアがカルヴァンの予定説について一部疑問を持っていることは明白である。ジュリアのカルヴァン主義の立場もけして揺るぎないものではないことが解るのである。
 プロテスタントの本質は、教会で牧師などのいうことよりも聖書に書かれていることを重視することであるのだが、ジュリアはその聖書に書かれていることにたいしても結構批判的な目を持っているのだ。レッドベター牧師が「家庭の価値こそ、つまり、聖書の家族の価値こそがたいせつである」(P127)と言うと、ジュリアは「いったいどの聖書の家族についてお話なさっているのです?」(P127)と反論するのである。そう反論したときに彼女の心の中にあったのは次のような聖書に書かれている家族についての事実であった。
 「聖書のなかの多くの家族によって示されている、あらゆる不義、兄弟殺し、近親相姦、殺人、多妻、嫉妬、そして野卑そのものを頭に思い浮かべて。」(P127)
 ジュリアのような普通の主婦だった女性がこのように聖書を批判的に見ているというのは本当にありうることであるのかどうかは私には解らないが、このような意見には作者のアン・B・ロスの本音が出ていると考えてよいだろう。作者はジュリアに次のようなことを考えさせることによって、キリスト教の教義の底には基本的に「女性蔑視思想」があることを批判しているのである。
 「子は父の罪に苦しむ、と聖書にはあるけれど、残念なことに、夫の罪に苦しむ妻についてはひとことも触れられていない。」(P102)
 またジュリアの家のお手伝いリリアンに次のようなことをいわせているが、これも教職にある者についての強烈な批判である。
 「牧師さんのなかには、みこころを知ることにかけちゃあ最悪って人がおりますけん。自分の意思と神の意思をごっちゃにしとられます。・・・・牧師は、主のお導きを受けてわたしはこうなった、て言うとですから。・・・・あたしたちはみんな、牧師がなにに導かれたかわかっとりましたよ。そして、それはぜったいに神さまじゃありましぇん!」(P100)
 どうやら作者は教会及び教職者というものにたいして全く信頼を置いていないようである。しかしアメリカ社会においてはキリスト教は今なお圧倒的な影響力を持っているのである。この本の中には「テレビ伝道師」というのが出てくるが、これもまたとんでもないロクデナシとして描かれている。
 この小説はエンタテインメントとして非情に面白いものであると同時にアメリカ社会の実態を垣間見せてくれる非常に優れた小説でもある。

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2008年2月13日 (水)

図書館の検索システムについて

 以下は今日(08年2月13日)にここに載せるために書いたものであるが、事情が少し変わったので、札幌市の中央図書館長との面談を求めることは少し延期することにした。しかし今更書き直すのも面倒なので、ここにそのまま掲載することにした。
   <札幌中央図書館で館長に面談を求める>
 私は明日(08年2月14日)に札幌市の中央図書館に出かけて、館長に面談を求めることにした。理由は現在札幌市の図書館で利用に供されている本の検索システムに大きな問題があることについての話をするためである。なぜこんなことをしようと考えるようになったかの経過を以下に書く。
 私は一昨年の暮れに停年退職して札幌に38年ぶりに戻ってきて、清田区に住んでいる。ライフワークとして一冊本を書こうと考えていて、その関係もあって近くの清田図書館を良く利用するようになった。そうしている内に自然と図書館の検索システムを利用するようになったのであるが、やがて検索結果が表示される画面を見ていておかしいなと思う事態に遭遇した。最初にそういった経験をしたのは生物学者の池田清彦氏の本を検索して画面に表示された結果を見ていた時である。図書館利用者が使用する検索用のコンピュータは二つあり、一つは画面表示される「あいうえお」表示の仮名を指先でポイントしてデータを入力するタイプ、もうひとつはキーボードを使用して入力するタイプである。私は後者を利用しているが、「著者名(1)」に「イケダキヨヒコ」と入力して検索結果を見たら、池田氏の書いた本の他に、彼が翻訳していると思われる本がいくつか表示された。池田清彦氏が書いている本には本の名前と一緒に著者名として「池田清彦」と表示されている。ところで「翻訳していると思われる本」があったと書いたのは表示されたデータに外国人著者の名前の他に池田清彦氏の名前が表示されているものとされていないものとがあったからである。「著者名」の入力によって「翻訳書」が検索・出力されるというのは私には不可解である(「翻訳者」を著者というのはどうかと思うからだ)が、現在の検索システムを作るに当たっては検索範囲をそのように決めたのであろう。しかし検索・表示された結果に「池田清彦」の名前が表示されなければ本当に彼が翻訳したのかどうか不安である。このことに気がついたので清田図書館の職員に問題の画面を見てもらっておかしいのではないかと指摘したところ、女性職員が職員用の検索システムで同じ本を検索したらそちらの方には池田清彦氏の名前がちゃんとと表示されていた。したがって表示された結果はデータとしては間違ってはいないのであるが、利用者用のシステムの表示のプログラムにはミスがあったということなのだが、表示されるべきデータが表示されないということはそれ自体が問題である。女子職員は中央図書館にこのことを伝えるといっていた。その後作家の大庭みな子さんの名前で検索システムに入力した結果表示されたデータを見ていて、またもやこれは何だろうと思う現象に遭遇した。「安部公房全集○巻」という本が表示されたのである。考えられるのはこの巻に大庭さんが解説を書いているだろうということである。この場合も「解説:大庭みな子」とでも表示が出ていれば何も疑問を持つことはない。図書館の検索システムは情報システムであり、その表示する内容は必要かつ十分なデータを表示しなければ欠陥システムである。表示された内容について確認することができず、なんだろう、本当だろうかと首を傾げざるを得ないようなものでは落第といわざるを得ない。この時点で私は札幌市役所のホームページに市長宛の提案や意見を送ることができることを知っていたので、以上のような実情を書いて現在の図書館の検索システムは欠陥品だと指摘するメールを07年10月に送った。そして10月26日に中央図書館の管理課総務係の小野良智という人から、市役所の担当部署から回答するように指示を受けたということと、検索結果の表示のないことについて調査中で、その結果を踏まえて改善するというメールが送られてきた。私はしばらく時間を置いて8年1月中旬に清田図書館で司馬遼太郎、池田清彦、大庭みな子の三名の名前を順番に入力して改善されているかどうかをチェックすることにした。その結果池田清彦氏の翻訳書については以前は表示されていなかった名前が表示されているものがあったから確かに部分的には改善されていたが、以前には気がつかなかった大きな問題にも改めて気がつく結果となった。その点を具体的に以下に記載する。
 主に司馬遼太郎氏関係の本について書くことにする。
1)検索システムではコンピュータの置かれている図書館に収蔵されている本を対象に検索する場合と、札幌市の全部の図書館に収蔵されている本を対象に検索する場合の二つの検索が選択ができるが、私は図書館全体を対象にする形で「著者名(1)」に「司馬遼太郎」と入力して検索してみた。その結果は1132件がヒットされたが、「一覧ボタンでは300件を表示します」という通知が出て、300件だけのデータが表示された。残りの832件は表示されないようである。こんな中途半端なデータ表示ではデータ処理システムとしては落第である。(このことについても後で記載するメールを送り小野良智氏に回答を求めた。)
2)司馬遼太郎氏の本に「街道をゆく」という紀行のシリーズがあって朝日新聞社の文庫で50冊近くにわたっている。ところがこのシリーズの本については「街道をゆく3巻」というように巻数が表示されるだけである。はたして表示されたこのデータは利用者の立場から見て本を探すのに役に立っているといえるであろうか。このシリーズにはかならず紀行先が分かる書名が付いていて、例えば「街道をゆく40」は「台湾紀行」が書名となっている。利用者が本を探す場合には「街道をゆく40」の表示だけでは意味がなく「台湾紀行」の書名こそが役に立つデータなのである。必要不可欠なデータを入力しなくて情報システムをきちんと管理しているといえるであろうか。
3)検索結果の一覧に「桑原武夫伝習禄」という本が「梅棹忠夫共編」として表示されたので、何だろうと思って一件表示画面に切り替えると、「梅棹忠夫共編、司馬遼太郎共編」と出ていた。一覧画面の方で司馬遼太郎が表示されないのも問題であるが、普通共編者を表示する場合「梅棹忠夫、司馬遼太郎共編」と書くのが日本語としては正しいと思う。私は図書館がこんなずさんな言葉遣いをするのは大変問題であると思う。
4)一覧表示には文芸春秋の司馬遼太郎全集が表示されたが、その表示内容は「司馬遼太郎全集○巻」というように、巻数を表示するだけである。これでは利用者にはその巻にどんな作品が収録されているかが分からない。こんなデータは利用者の立場からすると全く役に立たないのである。収録されている作品が分かるように表示されない限りは利用者にとってはクズデータであるが、図書館が本を管理するためには確かに役に立つだろう。
5)一覧表示に「人物中国の歴史3」と言う本が表示されていたが、その著者名のところには「集英社」という出版社名が表示されていた。一見表示の画面に切り替えてみても、一切具体的に個人の著者名は表示されていない。複数の著者がいるのなら、その人たちの名前を表示するべきである。私はここにもこの検索システムを運用している人たちのずさんさを見るのである。
6)一覧画面に「日本歴史を点検する」という本が「海音寺潮五郎」の名前が著書の場所に出る形で表示されていたが、一件表示画面に切り替えると「海音寺潮五郎対談、司馬遼太郎対談」と著者欄に表示されていた。これも日本語の表記としては「海音寺潮五郎、司馬遼太郎対談」と表示するべきである。一体どういう人間がこんな表記を平気でするのだろうか。全くあきれ返ってしまう。
 次は池田清彦氏の場合であるが、
7)一覧表示には「生命 21世紀のキーワード インターネット哲学アゴラ」は著者名欄に「中村雄二郎」の名前が表示されていたが、一件表示画面に切り替えると池田清彦氏の名前も出ていた。複数の著者の場合はそのすべてを表示するべきである。
 大庭みなこさんの場合について書くと、
8)一覧表示に「芥川賞全集8」が表示されたが、一覧表示の画面に切り替えても大庭みな子の名前は出てこない。私は大庭さんが「三匹の蟹」で芥川賞を受賞したことを知っているから、きっとこの巻にそれが収録されているのだろうと思うが、こうした複数の著者の作品が掲載されている本の場合は収録されている著者名と作品名が表示されなければデータとしては欠陥であるというしかない。
9) 一覧表示に「現代日本文化論2 家族と性」が表示されたが、著者名が全く表示されていない。一覧表示画面に切り替えても大庭みな子はもとより一人の著者名も表示されていない。
10)大庭みな子さんが翻訳したと思われる本が沢山表示されているが、大庭さんの表示はなく、一覧画面に切り替えてもやはり表示はない。
 この結果を私は8年1月17日にメールで札幌市長と中央図書館の管理課総務係の小野良智氏宛に送って回答を求めたが、小野良智氏からは長く回答がなかった。
 こうしているうちに、私には現在の検索システムの根本的な問題点が見えてきた。それは、利用者にとって本当に必要な情報を提供するという考えが基本的に抜け落ちているということであった。またこのシステムを作った人たちはほとんど本を読むこともない人たちなのではないだろうと想像する。そういう人間が本を扱うシステムを作ること自体が間違いなのである。岩谷宏という人が『パソコンを疑う』という本の中で、業務処理シスステムはだれが作るべきかという問いを挙げ、その回答として、「業務を行う人自身が作るべきだ」と書いているが、その趣旨は「一番実情を知っている人がシステムを作るのが良い」ということである。したがって図書館の検索システムは利用者の意見を広く取り入れて作らなければならないのである。
 現在のシステムは、単に図書館側が本を管理するということだけ考をえて作った検索システムなのである。そこに大きな問題があるのだ。
 ここにおいて私は図書館の検索システムの基本思想がどうあるべきであるかに気がついたのである。図書館で人が本を借りるというのはどういうことなのかということについて、今までと違う視点が必要であるということが私には分かったのである。
 「本とは何か?」 その正しい答えは「本とは、作品というソフトウェアを収録した容物(ハードウェア)である」というものである。利用者が図書館から本を借りるとき、本というハードウェアを借り出すという形を取ってはいるが、実は「作品」というソフトウェアを借り出しているというのが本質であり、ソフトウェアこそが本の本体なのである。「本は作品というソフトウェアの容物(ハードウェア)に過ぎない」という観点に立つと現在の図書館の検索システムの根本的な欠陥が理解できる。例えば作品には長編もあれば短編もある。長編小説は数巻に渡ることがあっても、作品というソフトウェアと本というハードウェアとは一対一の関係にあるから、本というハードウェアを対象にする検索システムでも利用者にとっては何も問題は生じない。しかし短編小説となると直ちに問題が生じる。例えば私は泉鏡花が好きであるから彼の全集を一部持っているが、岩波書店の全集の11巻は短編集である。著者名を泉鏡花として検索すると、一覧画面には「泉鏡花全集十一」として表示される。この巻に「星女郎」という短編小説があるが、もし日本文学専攻の大学生が「星女郎」という短編を読もうと思ってその作品を現在の検索システムで検索しようとしてもできない。それを収録した本は確かに図書館にあるのであるが、現在のシステムはハードウェアとしての本を単位として検索するようにできているために、「星女郎」という小説(ソフトウェア)を検索することができないのである。またアンソロジーという形の複数の著者の作品を収録した本があるが、そうした本に収録された作品は全く現在の検索システムでは作品名を入力しても、著者名を入力しても検索結果には出力されない。こうしたことを解決するためにはハードウェアとしての本の管理システムと一体の形でソフトウェアとしての作品のデータを入力した管理システムを作る必要がある。そして利用者の立場からすると、作品を対象とする検索システムこそが本当に役に立つものでなのである。
 また検索画面の入力項目ももっと分かりやすいものにすることが必要である。現在の検索システムの検索項目の表示は次のようになっている。
  書名(1)
  書名(2)
  著者名(1)
  著者名(2)
  著者名(3)
  出版社名
  分類番号
 ところで書名1と2、著者名1と2と3の使い分けの仕方がどこにも表示されていないから私は未だに分からない。今まで使い分ける必要もなかったから図書館職員に聞いたこともないのだが、説明書きがないこと自体おかしいと思う。本の検索システムは本屋にもあり、紀伊国屋書店にあるものも使用したことがあるが、書名を入力する場所が2つあったり、著者名を入力する場所が3つあったりすることはなかった。
 また現在の図書館の検索システムのように著者名を入力すると①その著者の書いたもの、②その著者の翻訳したもの、③その著者に関連する他の著者の書いたもの、の3種類の本が検索されて出てくるというようなこともない。翻訳した本はその人が書いた本ではないし、著者に関連して書かれた本はその人が書いた本ではない。このシステムを作った人たちは著者名という言葉の意味も正しく理解していないとしか思えない。現在の検索システムの検索の仕方は私には異常としか思われない。
 「著者名(1)」に入力するすると、その本人が書いた本が検索・表示され、「著者名(2)」に入力すると、その人が翻訳した本が検索・表示され、「著者名(3)」に入力すると、その人に関連する本が検索・表示されるのなら著者名の入力場所をを3つに区分することには意味があるし、図書館のシステムとしては必要でさえあると思う(ただし「著者名(2)」は「翻訳者名」とし、「著者名(3)」は「関連人名」とでもするべきであろう。伝記を書かれた人がすべて本を書いているとは限らないから著者という言葉を使うのはおかしい)。たとえばアインシュタインは自分でも本を書いているが、彼について書かれた本も多い。アインシュタインの書いた本で一般の人が読むようなものは「晩年に想う」といった本であろうが、「相対性理論」に関する本は理科系大学生以外はほとんど読まないであろう。したがって一般の人にとってはアインシュタインについて書かれた本を検索するのに役に立つ「関連人名」のような入力場所は不可欠である。
 また一般の利用者とすれば「分類番号」などで検索するよりも、作品の「内容分類」を登録して検索することができるようにするほうが余程実際的である。一般の利用者が「分類番号」で検索することなどほとんどないと思う。
 先に挙げた検索結果の実例を見ると、システムそのものの問題と同時に、運用上の問題があることが分かる。登録するデータの入力に当たっては、日本語としてまともな言葉遣いをしてもらわなければならない。
 ところで私が上に述べた「作品」を対象にする検索システムを作るのは簡単ではないだろうが、今の札幌市の図書館の検索システムには非常に問題があり、いずれ作り直すことが必要である。その時には私の主張する「作品」を対象にするシステムを作るべきであると考えるが、どうも図書館の人たち(特に上位の地位に居る役人たち)は私の考え方に拒否反応を持っているようにしか思われない。それというのも、1月が過ぎても私が1月17日に送ったメールに対して札幌市の中央図書館の管理課総務係の小野良智氏からは何の返事もないために、更に2月2日に送ったメールに対して回答を求める旨のメールを送った。これに対しても何の反応もないために、私は中央図書館に直接おもむいて館長に面会を求めることにしたのである。果たして面会に応じてもらえるのだろうかと疑問に思うが、面談を拒絶された場合には札幌市にはオンブズマンの組織もあるのでそれも利用してみようかと考えている。まあ、あまりむきにならず愉しみながら色々手を尽くしてやれるだけやってみるつもりである。

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2008年2月11日 (月)

D・W・バッファのリーガルサスペンスが面白い

 この一週間ほどD・W・バッファのリーガルサスペンスを続けて三冊読み、今は四冊目の『遺産』を読んでいる。読んだ三冊の順番は、『訴追』(文春文庫)、『弁護』(文芸春秋)、『審判』(文春文庫)であるが、『弁護』が彼の一番初めの著作である。すべて弁護士ジョーゼフ・アントネッリが主人公の物語である。
 リーガルサスペンスといえば、E・S・ガードナー、スコット・トゥローやジョン・グリシャムなどの作品が有名だが、私はあまり読んでいなかった。ところがたまたま目にして買ったD・W・バッファの『訴追』は私には面白くて、ついつい次から次と読むことになってしまった。単なるミステリー以上の内容を含んでいるのである。
 私はバッファによって初めてアメリカの裁判制度についてハッキリとした認識を持つことができた。バッファの描いている裁判は刑事事件であるが、それはまさにゲームそのものなのである。 
 まずアメリカの陪審制度のもとでは刑事裁判がどのように行われるかについてバッファは次のように書いている。
 「検察官はその主張を立証しなくてはなりません。被告弁護側はなにひとつ立証する責任はないのです。」(『弁護』P10)
 では被告弁護人のやるべきとはなにかというと、
 「検察官の主張に対して、投げかけうるかぎりの合理的な疑問を投げかけることがきみ(弁護士のこと)には求められている。」(『弁護』P11)
 こうした検察官と弁護士の法廷内での行動に対して陪審員のやるべきことは何かというと、
 「陪審員・・・・・。法廷にいる者のなかで法律についてはなにも知らず、被告人がやっ たことについてはなにひとつ知らない人間たちだけが、重大にして唯一の決定を行なう(有罪か無罪かを決める)・・。
 そのなにも知らないということが、彼ら(陪審員)が公正にして公平であるための条件なんですがね。」(『弁護』P12)
 しかし陪審員制度については次のような根本的な問題があるのだ。検察官と弁護士の法廷における行動の有効性は、陪審員の『説得されやすさ』の利用にかかわるテクニックの良否にかかっているのである。
 「そのなにも知らないということが、彼ら(陪審員)の説得されやすさを成り立たせるための条件なんだよ。」(『弁護』P12)
 こうした裁判の仕組みの中で弁護士のやるべきことは次の通りである。
 「わたしは最善の弁護を行こなうことを期待されている。合理的な疑いが存在することを明らかにするよう求められている。」(『弁護』P11)
 被告の犯罪行為に関して検察官が行なう立証に対して、弁護士は証人に対する質問を行いその回答内容によって陪審員に合理的な疑問が存在することを認識させればよいのである。検察官の立証に合理的な疑問がある限り陪審員は有罪評決を行ってはならないからだ。合理的な疑いの存在を確信させること、それが弁護士が勝つための基礎なのえある。
 そしてアメリカで行われる裁判においては主客が転倒しているとバッファはいう。
 「法律家をスター扱いし、被害者と被告人をほんの端役としてしか扱わない司法制度」(『弁護』P292)
 刑事裁判とは本来犯罪の事実関係を明らかにして、犯罪者に対して法律に照らした適切な処罰を科すことが目的である。しかしバッファによればタテマエはそうでも実態はそうではないのだ。
 「法そのものが、罰せられて当然の人間を無罪放免する確かな道をひらいていてくれているのだ。かつてのわたしは、依頼人が潔白であるがゆえに決して敗訴することのない弁護士になりたい、と思った。が実際には、相手側がわたしの依頼人の有罪を立証することを妨げることしか頭にない弁護士となった。」(『訴追』P10)
 「自分がどちらの立場にいるかは関係なかった・・・。いったん法廷にはいれば、勝つことしかわたしの頭にはないのだ(『訴追』P169)
 「問題は裁判に勝つこと、それだけだ。勝つことだ。われわれはゲームをするんだ、で、こう考える。きみが勝てばおれは負け、おれが勝てばきみは負け、と。」(『弁護』P291)
 こうした感覚は日本人には違和感があるだろう。しかしアメリカの裁判制度を支えている検察官や弁護士の意識は日本人の想像を超えるものである。同じ裁判といっても、文化の違いが参加する司法当事者の意識を変えている。
 裁判とは関係のない次のような文章はアメリカのピューリタニズムを伝えていて面白いと思う。主人公の弁護士アントネッリの母親を描いたものである。
 「母にとっては、すべて、つねに、正しくおこなわなくてはいけなかった。不適切なことはいっさい許されない。赤の他人にうしろ指を差されるようなことはしてはいけない。座るときも歩くときも背筋を伸ばし、言葉は正確に発音し、つねに礼儀を守り、決して癇癪を起こしてはならない。」(『審判』P202よ
 私はアメリカは準宗教国家であると思っているが、アントネッリの部下であった元弁護士エリオットの次のような発言は非常に興味を引くものである。弁護士などは宗教性とは無縁になってきているようである。
 「人は論理的根拠もないことを、いとも簡単に信じてしまうものじゃありませんか? 一例が宗教です、どの宗教がということではなく、すべての宗教がそうでしょう?」(『審判』P381)
 高学歴になればなるほど宗教との懸隔が生じるようである。先日英国国教会のカンタベリー大司教が、英国内のイスラム教徒には現在のとは別の法律適用が必要ではないかと発言して英国民の顰蹙を買っていたが、私はこのニュースをを見てカンタベリー大司教の見識のなさを実感したものである。こんな程度の低い人間が宗教界の最高の地位にいるということは、一体どうしたことなのだろうか。宗教者などは知性を必要としない職業なのだろう。私はW・M・ホートンという人の書いた『キリスト教は文明を救いうるか』(中公文庫)という本を持っているが、カンタベリー大司教のニュースを見たら納得がいった。こんな誇大妄想を抱けるのも知性が低いからであるに違いないと私は思う。またキリスト教徒の傲慢さがよく現れていると思う。

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2008年1月24日 (木)

根本的な欠陥がある図書館の検索システム

 以下は北海道立図書館宛に送ったメールである。最近効率図書館を利用するようになってそこで利用者のために提供されている検索システムに根本的な欠陥があることに気づいたのである。そのことを知らせるために送ったのである。

 私は札幌市の清田区真栄に住んでいますので、清田区役所にも近いため清田図書館をよく利用します。図書館の検索システムを利用しているうちに、初めは検索結果の画面表示に不具合があることに気づき市長宛のメールにそのことを書いて送ったりしていましたが、最近もっと根本的な問題点があることに気づきました。そのことを確認するために北海道立図書館の検索システムを確認してみようかと考えたのですが、道立図書館で開いている「インターネット資料検索講座」の申込書の用紙を見ていてその必要もなさそうであると判断しました。というのも「蔵書検索システム」とか「図書館の所蔵を調べる」、「新刊書の検索」といった文字を見て結局私が確認しようと思ったことが推測でき、出向いてまですることはないと考えたからです。
 私が最近気がついた現状の図書館の検索システムの根本的欠陥について具体的に説明します。従来の図書館の検索システムはハードを対象としたシステムであって、ソフトを対象としたものではないということです。つまり現状のシステムは「ハードとしての本」を管理するという視点にのみ基づいて創られていて、利用者にとってはこれでは片手落ちなのである。利用者が本を借りるということは、現象としてはハードとしての本を借り出しているのであるが、しかし良く考えてみると本質的にはソフトウエアとしての作品を借り出すのに、その容物としての本(ハード)を借りだしているに過ぎないのだ。しかし図書館は貸し出しの手続きや貸し出し済みの本や在庫の管理のためにはハードとしての本を管理しなければならず、業務を行うためには当然ハードとしての本を管理する仕組みがなければなならない。しかし利用者が借りだす物の本質は作品、すなわちソフトウエアなのであるから、利用者のための検索システムはハードとしての本を検索するだけでは不十分で、それ以上にソフトとしての作品を検索することが出来なければ意味がないのである。このことを具体例で示すと、私は泉鏡花が好きなので全集本の何冊かを持っている。岩波版の鏡花全集第11巻には「星女郎」という短編が収録されていますが、もしこれを読みたいと思った場合現在の検索システムによって探しだすことが出来るだろうか。実際にやってみたがそれは出来ないのである。「著者名」や「著書名」で検索することは出来ても、「作品名」で検索することは出来ないのである。札幌市の検索システムで著作者の欄に「泉鏡花」と入力すると、検索結果の中に岩波版の鏡花全集11巻が出てくるが、全集本などの場合は第何巻という表示が出るだけで収録されている作品は一切表示されない。利用者は作品を読みたいと思って本を借りるわけだから、短編小説などの場合は本に収録されている作品が表示されなくては探すことが出来ないのである。この場合探している作品を掲載した本を図書館は所蔵しているのであるが、作品のデータベースがないために収録してある本を見つけることが出来ないのである。したがって図書館の検索システムは「本を中心とした検索システム」の他に「作品を中心とした検索システム」が不可欠であると私は考える。そして作品を中心としたシステムでは検索結果として表示された情報の中に何と言う本に収録されているかという情報が表示されなければならない。借り出すためには本を指定しなければならないからである。集合論的に言うと「作品を中心とした検索システム」の内容の方が範囲が広く、「本を中心とした検索システム」の内容は前述のシステムのサブシステムという位置づけになろう。
 従来の本の管理システムはどちらかというと図書館の管理者寄りのシステムであって、利用者に本当に役立つシステムとしては作品の検索システムでなければならないのである。特に科学系の論文を検索して探すことを考えた場合、当然論文(作品)を対象とした検索システムでなければならないことは明白であるし、文科系の論文に付いても同じことである。大学の図書館の検索システムなどはもうすでにこのような形になっているのではないだろうかと推測されるがどうだろうか。
 ところでもっと実際的な観点に立って言うと、一般の図書館の検索システムがそのように作品中心のシステムになった場合、高齢化社会ということを考慮すると、それぞれの本の印刷文字の大きさ(ポイント数)を表示することが不可欠であると思う。高齢者は出来るだけ大きな文字で読みたいと考えるからである。
 また本や作品のデータを入力するには手間がかかるが、市町村の図書館ごとにそれを行うのは無駄であるから、北海道なら北海道立図書館が設置したサーバーに本と作品に付いてのマスターデータの入力を行い、道内市町村の図書館は本を購入したらそのサーバーからマスターデータを引っ張ってきて利用する形にしたらよいと思う。そして図書館の検索システムは道がきちんとしたものを創って市町村にそれを使わせるという形にするのが無駄がなくてよいと思う。
 なおコンピュータのシステム作成に当たっては、私は岩谷宏さんの意見を取り入れたほうがよいと思う。岩谷さんは『パソコンを疑え』(講談社現代新書)で、業務用プログラムは誰が作るべきかという問いを出し、その回答として業務を実際に行う人間自身が造るのがよいと答えている。それは業務の内容を熟知している人が自分で作るのがプログラム内容としても実際にベストだからだ。これを実際に私は自分の仕事についてFilemakerProというデータベースソフトを使って実行してみて、その主張の正しさを確認した。実際に図書館の検索システムのプログラムを造るにはプロのSEやプログラマーが作業せざるを得ないが、プログラムの基になる仕様を決めるに当たっては図書館の担当者と一緒に利用者も加わって作業することが不可欠であると考える。従来のシステム作りは恐らく図書館関係者だけで行ってきたものと推測するが、それが利用者の視点を欠くことにつながったと思われるのである。
 以上、図書館の一利用者として気づいた点を参考のために連絡いたします。

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2008年1月19日 (土)

知的生産のための場としての図書館の変革

 以下は札幌市長宛てに送ったメールであるが、内容を一部補充している。
 停年退職してから図書館をよく利用するようになったが、その過程で図書館の書籍検索システムに大きな問題があることに気がついた。その原因としては、図書館管理者がハードとしての書籍の管理という観点からしか検索システムを作らなかったことである。本の管理システムではあっても、作品の管理ステムではないのである。利用者の視点が全く考慮されていないのだ。本の貸し出しという行動を外見的に見ると「本というハード」を借り出しているが、その本質は「ソフトとしての作品」を借り出しているということなのであるから、ソフトの管理システムこそが充実していなければならないのだ。

    知的生産のための場としての図書館の変革を行なわなければならない
 先日NHK・TVの本の紹介番組にたまたま江戸川乱歩賞を受賞した若い人がでていて、図書館で作品を書いたという発言をしていた。そういえばマルクスも大英博物館の図書室で執筆していたことを思い出した。つまり図書館は本を借りたり読んだりするだけの場所でなく、知的生産のための場でもあるということに思い至ったのである。私個人もライフワークとして本を書くことを考えているが、その場合に手書きで執筆するつもりはなく、このメールを書くのと同じようにパソコンを使うつもりである。そういう観点からすると私の近くにある清田図書館にはパソコン用電源の設備がないし、出来ればインターネットに接続できるようになっていて欲しい。こうしたことが市民の知的生産に貢献して、誰かベストセラーでも書けばその収入から市民税も潤うことにもなるだろう。
 執筆のための調べものをしたりするのに図書館の本を利用することが出来るから知的生産のための場としては図書館は理想的である。ところが実際に何回か使用してみて現在の図書館の書籍検索システムには根本的な欠陥があることに最近気が付いた。それは現在のシステムが書籍というハードを管理することだけを頭において作られており、ソフトとしての作品を管理することを完全に失念していることである。具体的に言うと例えばある作家の短編小説を読みたいと思った場合に、現在のシステムはハードとしての本の管理を前提にして作られているために、短編小説のような作品は検索して探しだすことが出来ないのである。短編小説は一冊の本のなかにまとめて収録されており、本の題とは関係がないものがほとんどである。本が複数の作品を収録している場合、本の中にある作品を全部エータとして入力して作品のデータベースを作り、それを検索できるような仕組みになっていななければ検索できない。本来書籍とはソフトとしての作品を収録したハードであって、利用者が本を借りるのもソフトとしての作品を読むための容物として借りだすに過ぎない。したがって図書館がハードとしての本を管理することと同時に、というよりそれ以上にソフトとしての作品を管理することの方が利用者の立場からするとずっと実際的に重要である。ある作者の全集本の場合には、検索結果には著者名全集の何巻と記載されているだけでどんな作品がその巻に収録されているのかは表示されない。こうした場合どうやって自分が読みたい作品を探しだせば良いのだろうか。現物に当たるしかないのだ。これでは検索システムの意味がない。そのことを図書館の管理者は認識して、図書館管理の目的をソフトとしての作品の管理に重点を置くように大転換しなければならないと考える。

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2007年12月21日 (金)

小説『ヒューマン・ステイン』を読んで(その2)

 フィリップ・ロスが小説ではフォーニアやレスターの個人的な事情を詳細に描いているのに対して、映画で描かれる個人的な事情はほとんどコールマンの育ちについてだけであり、物語としての深さや広がりは小説の方がずっと面白いのであるが、映画ではそうした点までを描ききるのはやはり無理であろう。
 大学教授であった教養ある男コールマンが大学を追放されたことが切っ掛けとなって、文字も読めない無教養な34歳の中年の清掃婦フォーニアと愛人関係になるのであるが、しかし二人の関係はそれぞれにとってそれまでの男と女の関係としてみると大いに心を満たしてくれるものであった。大学を辞める前のコールマンとその妻アイリスの関係はすでに冷えきったものになっていたし、フォーニアは彼女を愛情を持って一人前の人間として扱ってくれるような関係を持つことができるような状態ではなかった。彼女を単にセックスをするためだけの対象以上の存在として扱ってくれるのはコールマンが初めてであったのである。小説ではフォーニアは背の高い痩せぎすだが巨乳の大して美人ではない女性として描かれているが、映画のニコール・キッドマン扮するフォーニアは圧倒的にセクシャルな女性であって、エロチックな魅力にあふれた、男なら誰でもセックスしたいと思うような女性である。その点では映画の方が面白いし、やはり映画の女の主人公は美人でなければならないのである。コールマンとフォーニアの関係は狭い大学町ではやがて皆に知られるようになり、既に大学をやめているコールマンのところに匿名の嫌がらせの手紙が送られて来るのであるが、その手紙を専門家に筆跡鑑定させて確認した結果それを送ってきたのは昔コールマンが採用した文学評論のフランス人女性教授であることが判明する。(コールマンにはその前に既にその手紙の筆跡から誰であるかは明らかではあったのだが)この話は林秀彦氏がその著『ジャパン、ザ・ビューティフル』(中央公論社)で書いているアングロ・サクソン民族の嫉妬心の強さをまさに証明するようなもので、その匿名の手紙は女性教授デルフィーヌ・ルーが嫉妬心に駆られてコールマンに送ったものであった。また小説ではデルフィーヌ・ルーが自分にふさわしい男性と付き合うことを考えて作成した文章を、間違って『ニューヨーク書評誌』でなくて大学内の学科スタッフ宛全員にメールしてしまうという喜劇的状況が描かれているのでが、このエピソードは映画には出てこない。人が他人の生き方に干渉したがるのは何故かに対する答えがこのエピソードの中にある。デルフィーヌはその時点では付合っている男性がいなかった。自分の生活に満たされないものがあったのである。もし彼女に付合っている男性がいて、満足の行くセックス・ライフを送っていたらコールマンに余計な干渉などしなかったに違いない。コールマンとフォーニアは男と女の関係としては満足の行く状態にある中でレスターによって思い掛けない交通事故で殺されてしまったが、それでも最後には心のなごむ生活の中で幸せであったと思う。コールマンはユダヤ人であると偽って生きることにしてからは、黒人の兄から出入り禁止を言い渡されて、母親、兄、妹との付合いがなくなってしまっていた上に妻アイリスとの仲が冷えきっていたし、子供たちとの関係も良くなかったから家族的なつながりのない寂しい状態にいたのでフォーニアとの関係はそうした感情的な満足を与えてくれるものとなったし、フォーニアは全く孤独で人間としてもさげすまれるような状態にあったからコールマンに大事にされるという関係の中で人間としての矜恃をようやく持つことが出来たのであった。
 ところでセックスというのは、結婚内であろうと結婚外であろうと、本来全く当人同士の間のプライベートなな事柄であるのに、なぜ人間は他人の性関係にかくも深い関心を抱くのであろうか? 私はその根底には、自分のセックス・ライフに満足を見いだせないという個人的な理由が存在すると考えるが、それを解決する方法は個人それぞれが満足の行く性関係を持つことの出来る社会状況を作りだすことであると思うのである。しかし現実には人間は自分たちが作った性道徳などに束縛されてセックスに満足を見いだせない状態にあって、その解決は「性の革命」によるしかないであろう。そのための一番参考になる本としては私は大庭みな子さんの『女の男性論』(中央公論新社)を勧めたい。その本の最初のエッセイ「幸福な夫婦」に示された夫婦のあり方(したがって性道徳のあり方)は、多分現在の日本人にはまだ受入れがたいものに思われるであろうが、私は正しい方向であると確信する。
 小説『ヒューマン・ステイン』は物語そのものとして面白いだけでなくアメリカ社会の精神的な歪みなどを深く描いていて大いに勉強になった。私はフィリップ・ロスの小説は『さよなら、コロンバス』(集英社文庫)しか読んだことがなく、その内容さえすっかり忘れているが、以前ものすごく面白いと聞いていてまだ読んでいない彼の『素晴らしいアメリカ野球』(集英社文庫)を是非近いうちに読もうと思う。しかしこのような面白いと言われる小説が絶版になっているようで、書店で入手できない日本という国は文化的には問題があると私は思う。
 なお先に触れた林秀彦氏はオーストラリアでの10年以上に渡る生活に基づいてアングロ・サクソン民族・西洋人の精神構造は日本人とは全く異なるものであり、日本人はそのことを正しく理解しなければならないと書いている。私はその違いの原因の根底には一神教信仰(超越的かつ絶対的な唯一神という観念)があり、さらに言うと精神分析もそれと大いに関わりがあると考えるもので、その点は今後さらに研究してみたいと思っている。

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2007年12月20日 (木)

小説『ヒューマン・ステイン』を読んで(その1)

 この文章を書くために『ヒューマン・ステイン』を映画化した『白いカラス』を見直した。見る前に思っていた印象よりもずっと良い出来で、またこの先にも見てみたいと思う映画であった。
 私は最近エンターテインメント以外の小説をほとんど読んでいなかったのであるが、アメリカの小説家フィリップ・ロスが20世紀最後の年2000年に出版した『ヒューマン・ステイン』(集英社)を読んで、物語りの内容としても非常に面白くて、時に夜更かしをしてしまったくらいであった。アンソニー・ホプキンスとニコール・キッドマンが出演した映画『白いカラス』が非常に面白かったので原作も読んでみようと思ったのが切っ掛けであるが、映画と小説との表現の違いを改めて認識させられた。
 映画『白いカラス』で小説との違いが一番現れていたのは、映画の最初の画面で、主人公のコールマンがフォーニアを送っていく場面で、暗い道をヘッドライトのついたクルマが正面い現れる場面からやがて雪の積もった道路を走っている場面にかわり、そしてフォーニアの元夫レスターが運転する赤いトラックが正面衝突するような形で近づいてきたためそれを避けようとしてクルマが道路から飛びだして地面に激突し二人は死亡するのだが、この場面は小説では後半になって描かれている。しかし映画のその場面は非常に印象が強いもので、映画の導入部としては非常に良い出来栄えであったと思う。ただし小説では愛人関係にあった二人が一緒に死んだことが狭い町で憶測を呼び、フォーニアが運転中のコールマンにフェラチオをしていたという噂がすぐに流れたと書かれていた。運転中の男に女がフェラチオをするというのはアメリカのポルノ映画に出てくることがあるが、こうした噂がすぐに流れるというのは、アメリカ人がいかにセックスに囚われているかを表しているのではないか。日本では運転中のフェラチオが噂になるとは思われない。
 また小説では描かれているベトナム帰還兵の精神的な狂気の部分が映画では表現し切れなかったのやむを得ないと思うが、しかし『白いカラス』は基本的に原作を忠実に描いている。男と女の関係の重要さと人種差別とが主題であるが、最近アメリカ映画を見て目に付く家庭内暴力や「性的虐待」もストーリーには深く関係している。家庭内での親子間のセックスの問題としては日本国内では「母子相姦」が問題にされることが多いようだが、アメリカでは父親または継父と娘との間の「近親相姦」が多いようで、金持ちの継父が10歳前後のフォーニアの性器に指を入れるという性的虐待が行われ、性交を迫られた14歳の時フォーニアは家出をしたのであった。私が最近見た映画で近親相姦のテーマを扱っているものというと、『Uターン』や『サイダー・ハウス・ルール』があるが、最近読んだ小説ではテス・ジェリッツェンの『聖なる罪びと』(文春文庫)がこのテーマを扱っている。『サイダー・ハウス・ルール』(小説は文春文庫)では、季節移動労働者の父親と娘、『聖なる罪びと』では上流階級の父親と娘の間の近親相姦である。これらの小説で見る限りでも最底辺の人間から上流階級まで、階層を問わずにアメリカでは近親相姦が行われているようである。しかしこれはどうもフィクションだけの話ではなくて、アメリカ社会の実態を反映しているようなのである。日本の母子相姦が暴力とは余り関係がないのに対して、アメリカの近親相姦は父親が暴力によって娘を犯す形をとっているというのは、いかなる文化的な違いによるものであるのか。キリスト教、もっと一般的に一神教の文化とその社会の人たちの精神構造とにかかわりがあるのだろうか。私個人としても調べてみたいと思っている。
 ところで映画『白いカラス』のタイトルは、小説の『ヒューマン・ステイン』とは全く違っている。人種差別を扱っているからこういうタイトルになったのだろうが、確かに主人公のコールマンが実は肌の色の白い黒人である事を利用して白人(ユダヤ人)を騙って生きてきたことが物語の基本的な背景になっているので、『白いカラス』はそのことを象徴的に表現しようとしたのであろう。しかしこのタイトルは私には何か随分安っぽく感じられたのであったが、小説を読んで主人公の女性フォーニア・ファーリーがある協会に飼われているプリンスという名のカラスと親しくて、その関係を描いている場面も出てきたので気持ちの上で少しは納得が行ったのであった。
 コールマン・シルクは地方の大学の古典文学の教授であったが、長期欠席の学生を皮肉って使ったspookという言葉が、本来の「幽霊」という意味を「黒人」の蔑称の意味に曲解して学生が行った人種差別という申立てが大学内で支持されたためにコールマンは自ら退職したのだが、妻のアイリスがそのことに対する怒りのために脳血栓で死亡した後2年間、彼は引きこもって一人暮らしを続けていたのであった。
 ところがある時郵便局で清掃をしていたフォーニアと出会い、71歳の彼と34歳の彼女とは愛人関係になったのである。フォーニアは文字が読めなかった。(このことは映画では触れられていないが)そのために彼女は最底辺の仕事にしかつけず、コールマンの教えていた大学の清掃の仕事にもついていたのであった。フォーニアは結婚して2人の子供もいたが、ベトンム帰還兵である夫のレスターから激しく暴行を受けるようになり離婚したのであるが、その後事故で子供二人が焼死したことからレスターは彼女を付け回している。二人の子供の死亡にはフォーニアに責任があったと彼は思い込んでいるのである。レスターはベトナム帰りの帰還兵でPTSD(心的外傷後ストレス障害)と診断された心に深い傷を負った人間であって、正常な社会生活に適応できなかったためフォーニアと一緒に経営していた農場が破綻してしまった。小説では彼は同じベトナム帰りの連中としか付合いがないのである。ロスは彼らベトナム帰還兵の精神状態を細かに描いていて、それを読むと映画『ランボー』のスタローンが社会と折り合っていくことができないことがよく理解できる。

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2007年12月 5日 (水)

『ヒューマン・ステイン』を読んで

 前に『白いカラス』という映画を見て面白かったので、その原作であるフィリップ・ロスの『ヒューマン・ステイン』(人間のシミ、集英社)を図書館から借りてきてきて読んでいる。映画と比べると当然筋の展開の時間的な流れなどは大きく違っているが、基本的な設定は同じだ。映画ではコールマンという古典文学の老教授をアンソニー・ホプキンスが演じていて、彼がふとしたことから郵便局で掃除をしてところで見たことが切っ掛けとなって知りあう中年の女性フォーニアをニコール・キッドマンが演じている。フォーニアは小説では余り美人に描かれていないが、映画のニコール・キッドマンは汚れ役ながらとてもエロッぽい雰囲気があって小説よりも断然存在感がある。映画ではそこまで表現されていないが、71歳のコールマンが34歳のフォーニアとセックスするに当たってはバイアグラを使用していることを自ら語っている。バイアグラの使用は確か『恋愛適齢期』という映画の中でジャック・ニコルソンも語っていたと思うが、これらによってバイアグラが高齢者の性生活を救っていることが改めてよくわかった。
 小説の方はまだほんの初めの方しか読んでいないが、映画を見てこの小説の主題がわかっているから書くと、コールマンは大学入学以来ユダヤ人ということで通してきていたが、実は肌の色の白い黒人なのであった。ところが講義への長期欠席者二人に対して皮肉って使った『スプーク』という言葉が人種差別だと騒がれて、妻は亡くなり本人も大学を去ることとなる。自らが黒人であった人間が黒人差別ということでやり玉に上がって大学から追放されるのである。ところで追放の原因となった彼の問題とされた言葉は次のよう発言の中で使われたものだった。「誰かこの人たちを知っているかい? この人たちは存在しているのかい、それとも幽霊《スプーク》なのかな?」 spookというこの単語を辞書で調べると最初に出てくるのは「幽霊」という意味であるからこれが本義なのであるが、俗に「黒人」の蔑称として使われることがあり、たまたま長期欠席者の二人が黒人であったために揚げ足取りで問題化されたのであった。言葉は多義的でもあるから、悪意で受け止められるととんでもないことになる。特に人種絡みだとそうなるアメリカの実情は我々日本人には理解できない怖さである。
 ところで私はキリスト教とセックスの関係に深い関心を持っているので、この小説を読んでいてそういう観点からすぐにキリスト教のセックス観がよく現れている表現にくつか気がついたのであった。
 「そのもっと前、穢れは性欲のみであった時代のコールマン」(P28)
 老人のコールマンのフォーニアとのセックスを次のように表現されている。
 「その獣性の残滓、自然の事物の残滓」(P44)
 「セックスという汚染物質、人間という種を脱理想化して常に我々の物質性に気づかせてくれる救済的な堕落」(P50)
 セックスを罪と考えるキリスト教の基本的な考え方、人間の動物としての機能を精神と比べて劣ったものとする考え方がこうした表現にはハッキリと表れている。しかし私から見るとこれは全くの偏見であるのだが、そのことをキリスト教徒は何も疑うことなく2000年もの間連綿と引き継いできたのである。性欲と同じような欲望である食欲はなぜ穢れたものではないのか? いや中世では食欲のないことは聖なるものに近づく道でさえあった。食欲のないことは聖女であることの印でもあったのだ。(カレン・アームストロング『キリスト教とセックス戦争』柏書房) 人間の持っている精神だけが神聖なもので、動物として持っている機能は食欲も性欲もけして褒められたものではなかったのである。「性欲を克服すること、禁欲」こそがキリスト教のセックスに対する根本教義なのであった。夫婦の間のセックスでさえも生殖という目的以外ですることは罪であり、生殖を目的として夫婦の間でセックスする場合でさえも快楽を感じることは罪であるとキリスト教会は見なしてていた。この何たる異常さ。その意味ではキリスト教会はセックスに深く囚われていたのであった。
 『ヒューマン・ステイン』については一端ここで筆を置くこととし、また全部読み終わった時点で続きを書いてみたい。

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