書籍・雑誌

2009年12月 7日 (月)

トルーマン・カポーティの『カメレオンのための音楽』

 コープさっぽろ藤野店で買い物をしてちょっとトイレを借りようと思った。トイレの入り口の左側の壁に簡単な本棚が置いてあって、古本が並べられている。買った人はユニセフへの寄付金として1冊当たり50円を入れるようにと募金箱が置いてある。私はいつもざっとどんな本が置いてあるかを見ることにしているが、残念ながら今までほとんど買いたいような本が置いてあった試しがない。たいていの本は古本屋でも置いていないような相当に酷い状態のものなのだが、今回は1冊だけ、あれ!と思った本があった。アメリカの作家のトルーマン・カポーティの『カメレオンのための音楽』(早川書房)という短編集であった。私は結構頻繁に古本屋に顔を出す方だが、今まで一度も古本屋で見たことがない本であったので早速買ったのだが、あいにく50円の持ち合わせがなかったので已む無く100円玉を入れたのであった。しかしこの本は掘り出し物だろうと思う。ちなみにアマゾンで検索したらヒットして、早川文庫で2002年11月に出版されているようだ。私の買ったのは1983年に出版された単行本である。ところがこの翻訳をしたのが小説家の野坂昭如氏であったので、ちょっとビックリした。野坂氏が翻訳をしていることを私は知らなかったのである。
 ところで私は先日カポーティの伝記映画『カポーティ』を見たばかりであったが、映画によるとカポーティは話し方の口調が少し普通の人とは違っていたようであった。主演したフィリップ・シーモア・ホフマンが今まで彼の出た映画の中では聞いたこともないような話し方をしていたのであった。ホフマンを映画で初めて見たのは私の好きな映画『セント・オブ・ウーマン・夢のかおり』で、アル・パチーノとクリス・オドネルが主演していた。彼は金持ちの甘やかされて育った高校生の役をやっていたが、まさか主役をするような俳優には思えなかった。2度目に見たのはパトリシア・ハイスミスの小説『リプリー』が原作の『太陽がいっぱい』のリメイク映画『リプリー』で、ホフマンはマット・ディモン演ずるリプリーに殺されるこれまた金持ちの息子フレディ・マイルズ役をやっていたのであった。
 カポーティは多作な小説家ではなかったようだが、今手元にある『カポーティ短編集』(筑摩文庫)の翻訳者河野一郎氏の解説を読むと、カポーティの処女作である短編集Other Voices,Other Roomsが1948年にアメリカで出版されたときには読書界に衝撃を与えたことが伝説になっているという。この処女作は新潮文庫から河野氏の訳で『遠い声、遠い部屋』の題で出版されている。
 私が初めて読んだカポーティの小説は『草の竪琴』(新潮文庫)あるが、映画『グラスハープ/草の竪琴』がカポーティの小説に基づいたものであることに気付いたからであった。映画そのものも面白かったので、読もうと思ったのである。カポーティの小説に基づく映画『ティファニーで朝食を』はオードリー・ヘップバーンが主役を演じて有名だが、この原作の小説は新潮文庫から滝口直太郎氏の翻訳で出ていたのだが、どうも私は滝口氏の翻訳が好きでないのでまだ読んでいない。今思いついてアマゾンで検索したら、村上春樹氏の新訳で新潮文庫から出ていることを知ったのでこれを読んでみようと思う。カポーティの最も有名な小説『冷血』(新潮文庫)の翻訳は現在は佐々田雅子さんによるものだが、その前は滝口直太郎氏の翻訳であったので私は持っていなかった。随分と翻訳者にこだわるようだが、理由があるのだ。
 ドストエフスキーの小説の翻訳も昔は岩波文庫でも米川正夫氏の翻訳で出ているものが多かったようだが、高校の国語の教師が米川氏の翻訳を糞味噌に貶していたので私は読まなかった。『カラマーゾフの兄弟』は大学時代に始めて読んだのだが、最初に角川文庫で出ていた中山省三郎氏の訳で読み、次に大学卒業後に読んだのが新潮世界文学全集での原卓也氏の翻訳であったと思うが、最後に読んだのは集英社の世界文学全集での江川卓氏の翻訳であった。江川氏の訳を読んで、私は『カラマーゾフの兄弟』を小説として本当に面白く読めたと思う。江川氏の訳で3回は読んでいる。この経験によって、私は翻訳によってこんなにも小説の面白さが違うもののかと感じ入った次第であった。最近亀山郁夫氏の『カラマーゾフの兄弟』の新しい翻訳が話題になっているが、私はまだ少し読んだだけだが、ロシア人独特の長たらしい名前を一部省略して短く表記するなどして確かに読みやすくなっている。ネームバリューのあった岩波文庫の翻訳小説も、私が自分で読んで最近気が付いたのだが、残年ながら翻訳の質という点では大いに問題のあるものがいくつかあった。
 話が随分それてしまったが、カポーティの『カメレオンのための音楽』は短編集であり、1編を読むのも簡単だし、野坂昭如氏の翻訳もどんなものか大いに興味もあるので読んでみよう。そして河野一郎氏の訳した『カポーティ短編集』には『カメレオンのための音楽』に含まれる四つの短編も入っているから、翻訳を比べてみるのも面白いと思っている。小説の場合、翻訳者の日本語の能力によって面白さが本当に違ってくるのである。

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2009年10月10日 (土)

『「武士道」解題』の著者を当ててください

 先日古本屋で『「武士道」解題 ノーブレス・オブリージュとは』(小学館)という本がたまたま目に入って買ったが、この本の著者は全く意外な人であった。その名前を明かす前に、この本の中に書かれている文章をいくつか引用してみる。
 「まことに残念なことには、1945年(昭和20年)8月15日以降の日本においては、そのような『大和魂』や『武士道』といった、日本・日本人特有の指導理念や道徳規範が、根底から否定され、足蹴にされ続けてきたのです。」(P9)
 「いま日本を震撼させつつある学校の荒廃や少年非行、凶悪犯罪の横行、官僚の腐敗、指導者層の責任回避と転嫁、失業率の増大、少子化など、これからの国家の存亡にもかかわりかねないさまざまなネガティブな現象も、『過去を否定する』日本人の自虐的価値観と決して無縁ではない、と私は憂慮しています。そして、この傾向をこのまま放置しておけば、日本だけではなく世界全体が不幸になる、と心の底から危惧しているのです。」(P10)
 以上の引用した二つの文章の内容からすると、著者は右翼的な思想をもった日本人であろうと想像されるに違いないが、実はこの著者はクリスチャンなのです。なぜクリスチャンがこんな右翼的なことを書くのだろうか、と皆さんはきっと疑問に思われるに違いないであろう。果たして日本人以外の誰が『武士道』を題にしたこんな本を書くだろうか。
 ところがここで種明かしをすると、この本の著者は実は台湾の元総統の李登輝氏なのである。しかしこの本には翻訳者の名前が記されていないから李登輝氏自身が日本語で書いているのである。台湾には年配の人の中に日本語を話せる人がいるという話は私も何かで読んだ覚えがあったが、まさか日本語で本まで書く人がいるとは私には驚きであった。李登輝氏が自身について次のように書いていたので、その理由が判った。
 「私が旧制の京都大学に進んで、『農業経済学』という学問分野に生涯を捧げようと決意したのも、そのような(一般教養を重視する)流れの中で、新渡戸稲造先生の哲学・理念やその人格に、読書と思索を通じて強い影響を受けたからにほかなりません。」(P19)
 ところで大東亜戦争の前に朝鮮と台湾は大日本帝国に併合されその一部になった。大日本帝国に併合されて、植民地ではなく、日本の領土の一部になったのである。インドはイギリスに侵略されて植民地となり大英帝国を構成する一部となったが、台湾や朝鮮が大日本帝国の一部に繰り込まれたのとは根本的に異なるのだ。そしてその成り立ちは、日本の台湾や朝鮮に対する統治の面において英国のインドの植民地支配とは大きな違いをもたらしたのであった。そのことに対する評価について、李登輝氏は次のように書いています。
 「戦後、台湾に戻ってからも、新渡戸先生をはじめとする日本の大先達たちが、いかに真剣かつ真摯に台湾の経済的自立のために献身的な努力を捧げてくださっていたかが痛いほどよくわかり、本当に日本文化のもとで基本的な教育や教養を受けてきて良かったなあ、としみじみ思い返したものです。」(P19)
 そして日本の統治に対して李登輝氏は率直に次のように感謝の意を述べています。
 「私ばかりではなく、古き良き日の輝かしき日本の『伝統』に触れることのできた世代は、大なり小なり、『台湾の今日あるは日本のおかげ』と感謝しているのです。」(P20)
 ついでに韓国人の朴泰赫氏が書いた『醜い韓国人』(光文社カッパブックス)から朝鮮における日本の統治についての文章をいくつか紹介しておきたい。
 「李朝末期までは、常人は、教育をまったく受けることができなかった。しかし、日本統治時代に入ってから、私の小、中学校時代には、とくに都市部では両班、中人、常人、奴婢の階級差が平等化され、常人階級の子どもたちの学歴が高まるようになった。」(P23)
 「日韓併合以前の韓国の山々といえば、乱伐したり、燃料にしたりしたために、ほとんどがはげ山だった。日本統治時代には植林が進んだので、多くの山々が緑に覆われるようになっていた。」(P26)
 「日本は、日本統治時代に韓国(北朝鮮もー引用者注)に大きな投資を行なったために、韓国が惨めだった状況から一足飛びに近代化したことは、どうしても否定できない事実である。日韓併合後、日本人は鉄道、道路、架橋、用水路、植林、河川整備、堤防、港湾、学校施設の建設をはじめとする、大規模な公共投資を始めた。」(P36)
 大日本帝国には、帝国大学とよばれる国立大学があった。東大、京大、北海道大学、九州大学などがそうであるが、日本は台湾や朝鮮を併合した後に、それぞれ一つづつの帝国大学を創ったのである。欧米の帝国主義国家で果たして植民地に大学を作った例はあるのだろうか。この事実について、韓国人の大学教授である崔基鎬氏はその著『歴史再検証 日韓併合』(祥伝社黄金文庫)において次のように書いている。
 「(朝鮮)総督府は義務教育のみならず、高等教育の充実にも力を注ぎ、1924年には、京城(けいじょう)帝国大学が創設された。ちなみに台北(たいほく)帝大の創設はその4年後の1928年であり、ともに大阪帝大の1931年、名古屋帝大1939年より早かった。」(P55)
 この二人の韓国人の日本に好意的な内容の著作は果たして日本からの何らかの利益提供などがあってなされたものなのだろうか。李登輝元総統が日本に対して好意的に書いていることにも何かの裏があるというのだろうか。その辺は自分で上に紹介した本を読んでもらって判断をお願いしたい。
 ところで李登輝氏は同じ中国人でありながら大陸の中国人に対して非常に厳しい評価をしている。たとえば、
 「私が大陸の中国人のことをあまり評価しない裏には・・・・・・。まさに、『論語読みの論語知らず』で、口先ばかり。そして平気で嘘をつく。
 中国文化はなぜこうまで腐り切ったのか。理由は極めて明快です。言行不一致、言っていることと、やっていることが全く違うからです。」(P54)
 「そもそも『中華人民共和国』という擬制そのものが、根本的に嘘ではないですか。・・・いったい何万人、何百万人の無辜の民を殺してきたというのですか。」(P56)
 なおついでに韓国人の中国人についての評価も紹介しておこう。韓国人の朴泰赫氏は中国人について次のように書いている。
 「中国人の顕著な特徴は、無秩序で、汚なく、けたたましく、騒々しいことだ。まったく自己本位で、派閥を組んで争うことを好む。いつも人を妬んで、自制心を欠き、人の悪口ばかり言っている。ホラを吹く。体面ばかり重んじて、いたずらに誇り高い。協調精神を欠いていて、自分の過ちを認めようとしない。」(P49)
 台湾人は中国人そのものだし、韓国人は長らく支那の王朝に朝貢する立場にあって、中華思想と支那文明の強い影響下にあった。そのような台湾人と韓国人がともに大陸の中国人について非常に厳しい見方・評価をしているのである。
 日本人は従来の中国人に対する見方を根本的に改める必要があるのではないか。「自分の過ちを死んでも認めない」のが中国人の性格なのであるから、彼らと歴史認識の共通化を図るなどは天から諦めた方が良いのである。
 同じ中国人でありながら、大陸の中国人と台湾の元総統・李登輝氏とでは全く日本に対する理解が違っているのである。戦前日本人が中国に対して侵略を行なったという点については、よくよく事実関係を確認することが必要なようである。過去に日本政府を代表する人たちが安易に侵略を認めて謝罪をしてきたことについては今後は改めることが必要であると思う。中国の共産党政府が押し付ける歴史認識にわれわれ日本人は安易に同意することなどできないし、してはいけないのである。

 ところで雑誌WILLの8月号であったと思うが、渡部昇一氏がNHKが大日本帝国時代の日本の台湾統治に関する特別番組を放映したことについて、その内容が偽りであるとして批判する公開書簡を発表していたが、その問題点とはインタビューした台湾の人たちの発言内容が操作されて放送されていて、日本の台湾統治政策について悪かったとして語った点ばかりを選んで放映して、良かったと語った点を全く紹介しなかったことである。放送された内容を見て取材を受けた台湾の人たちがNHKに騙されたといって怒っているとのことであった。これこそは李登輝氏が憂慮している日本人の中にある『自虐的な価値観』の現れであるが、NHKのように影響力の大きなメディアがこうした体たらくではどうしようもないのである。
 中国や韓国が何かと騒ぎ立てる『靖国神社』の問題について、李登輝氏は次のようにはっきりと、両国の行動を批判している。
 「昔のことにとらわれるあまり、中国や韓国の人が日本の問題にくちばしをさしはさむのは、間違いだと思います。
 私自身はクリスチャンですが、日本人として戦死した兄が祀られている靖国神社には、当然参拝したという気持ちをもってきました」(P132)
 そして日本の政治家たちが中国や韓国のさしはさむくちばしにひるんで靖国参拝を避けることを次のように批判しています。
 「戦犯が合祀されているといった事情があるのはわかりますが、一国の首相が何もこそこそとすることはないのではないでしょうか。」(P131)
 ところで『戦犯』という問題の事態を引き起こしたのはアメリカであった。アメリカの肝いりで行なわれた東京裁判で日本の軍人が『戦犯』すなわち戦争犯罪人とされたのだが、果たしてアメリカには他国の人間を戦争犯罪人として裁く資格があるのだろうか。アメリカも一時期はイギリス、フランス、スペインなどと並ぶ帝国主義国であったのだ。19世紀末に闘われたスペインとの戦争でアメリカはフィリピンを奪ったが、太平洋戦争の結果フィリピンはようやくアメリカから独立することができたのである。ところが当時のアメリカはスペイン人の軍人を戦争犯罪人として裁いたりなどしなかった。大日本帝国の軍人だけを狙い撃ちにする極東軍事裁判(東京裁判)だったのである。そもそも戦争そのものは国際法上犯罪ではないのである。
 東京裁判を扱った田中正明氏の『パール判事の日本無罪論』(小学館文庫)に、戦争犯罪についての法的な意味が説明されている。
 「戦争の勝敗は時の運で、正・不正は勝敗の外にあるはずだ。敗れたがゆえに罪悪なのではない。勝ったがゆえに正義なのでもない。『法は一つ』である。・・・
 ・・・これまでの国際法には、戦争そのものを犯罪とするような規定はどこにもない。戦争そのものは法の領域外に置かれているのである。・・・・ただ戦争遂行の方法だけに、法的規律が存在するのみである。」(P18〜19)
 かくして李登輝氏も戦争犯罪人というものについて正しく理解をしていないのであるが、それはそれとして中国人でありながら李登輝氏は日本人の『自虐史観』をおかしなものと考えているのであり、中国や韓国に靖国問題でくちばしをいれさせてきた日本の政治家などは今までおよそ不勉強で軟弱な精神の持ち主でしかなかったのである。この際に遅ればせでも新渡戸稲造氏の『武士道』を読んで、シッカリと性根の座った考え方を身に付けてもらわなければ困るのだ。特に新しく首相となった鳩山氏や外相の岡田氏などは是非とも早急に『自虐史観』から抜け出してもらって、国益を損なわないように中国や韓国との外交に当たってもらわなければならない。

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2009年8月28日 (金)

岩波書店に対する信頼が揺らいだ

 今日ブック・オフでR・F・ジョンストンの『紫禁城の黄昏』(祥伝社)2巻本を見つけて買った。この本は既に岩波書店から文庫で出ていたのだが、私は買ったまままだ読んでいなかった。ところが渡部昇一氏だったと思うが、ジョンストンのこの本は非常に貴重な内容を持っているが、岩波書店版は重要なところをカットした簡略本であると先日渡部氏が書いていルのを読んだのだが、なるほど文庫本は1巻である。渡部氏は中国共産党政府にとって「不都合な真実」が書かれているので岩波書店はカットしたのではないかと推測しているが、革新派と見做されてきた岩波書店が中国に気を使ったせいではないかとその理由を渡部氏は考えている。中国という国・政府は知れば知るほど危ない存在だと私は思わざるを得ないのだが、現在真っ最中の衆議院選挙の街頭演説で共産党の志位委員長が日本の軍事費5兆円をムダ遣いと槍玉に挙げているが、中国の最近の軍備増強に対して何らの警戒感も抱いていないのは政治家として余りにも不見識であると言わざるを得ない。世界中でイスラム原理主義者の自爆テロや海賊行為などが頻発しており、こうしたことに対して対岸の家事のようにのほほんと構えているわけには行かないはずである。戦前の日本の軍部の独走には政治的な対応に大いに問題があったことは事実であるが、だからといって一切の軍助力なしで日本が国家としてやっていけると考えるのは無責任である。武力を全面的に否定する現在の日本憲法は早急に改正する必要がある。他国の善意に信頼して軍事から手を引くというのは全くの空想的平和主義であって、北朝鮮の核兵器と大陸間弾道ロケットのことを考えるだけでも危機感を持って当たり前なのに志位委員長は鈍感そのものだ。政治家として幼稚すぎて話も何もあったものではないのである。
 また社民党党首の福島瑞穂氏は弁護士とのことだが、核兵器の放棄を唱えるのはともかくとして国家にとっては軍事力が不可欠であることを全く理解していないというのは、政治家として根本的に問題があり、私は失格であると考える。政治家失格と考えるだけでなく、私は弁護士としての氏の資質をも疑わざるを得ないのである。福島氏は年齢的に見ても、とうに夢見る年齢を過ぎているのであるのに、世界の現実というものを直視し、理解することができないでいる。これを見ると私は福島氏には或いは特異な知的な障害でもあるのではないかと疑ってしまうのである。こうした党首を戴く民主党が日本国民の支持を得られないのは当然ではないか。国民の知的レベルを低く見過ぎているようだが、むしろ社民党という政党の構成者の知的レベルこそが低くてお話にならないのである。
 話が私が書くつもりの本題から外れてしまった。
 かつて岩波書店といえばその本の質については安心できる出版社であると一般に受け止められていたのだが、私は最近の個人的な経験からその点について深く疑うようになってしまった。具体的に言うとディケンズの『オリヴァー・トゥイスト』を私は講談社文庫の小林滋氏の翻訳で読んだが非常に優れたものであったと思う。ところで一寸興味があったので私は岩波文庫の『オリヴァ・ツウィスト』を買って一部を読み比べて見たが、その翻訳の余りの出来の悪さに驚いた次第であった。また昔高校の国語の教師が米川正夫の翻訳をけちょんけちょんに貶していたが、ドストエフスキーの小説の文庫を岩波書店はその米川の翻訳による訳でつい先日までに出していたことを知っているので、私は岩波書店の見識を最近疑うようになってきていたのである。そこにR・F・ジョンストンの『紫禁城の黄昏』の文庫についての大きな問題点を知って、いよいよ岩波書店に対する私の信頼は低下してしまったのである。

追記:
 祥伝社から出版された『紫禁城の黄昏』を読み始めたが、最初に渡部昇一氏の監修者まえがきがあって、そこに岩波文庫の『紫禁城の黄昏』の訳者たちには翻訳者の資質を疑わせるところがあるという指摘があって(さすがに渡部氏は英語の先生である)、具体的にその例が原文とともに引用されていたが、それを見ると確かに基本的な英語の単語の使い方を理解していないことが疑われる。したがって本文を読む気がなくなって、せめてあとがきをと思って読んでみると、てにおはの使い方が明らかにおかしいところが2ヶ所あった。P501の「溥儀の自伝に当時『人民日報』の記者であった・・・」の「に」はその一つであるが、これは「は」でなければ文章として意味が通らない。
 また訳者たちは「のちに傀儡皇帝となって祖国を裏切った第一級漢奸ではあるものの、共産党の指導によって『真人間にたちかえった溥儀』」(P501)と書いているが、これも良く考えると全くおかしな話である。そもそも溥儀は満州族の出身であって、満州族は中国本土を侵略して植民地として中国皇帝となり長年に渡り中国を支配したが、その地位を追われて満州に帰り再び満州の皇帝の地位に就いたことがなぜ「祖国を裏切った」ことになるのか。満州族にとってもともと中国本土は植民地であって祖国などではないのだ。「祖国を裏切った」というのは中国共産党の連中が勝手に誤解して思っただけのことなのである。P500に「彼(溥儀)が一戦犯の身分から人間改造を終えて人民共和国の一市民となった」と訳者たちは書いているが、「植民地の支配者」の地位から「中国という国の一市民」にしてもらったのに「満州に帰ってそこの皇帝の地位に就いた」ことが「祖国を裏切るという犯罪」であったと訳者たちが考えたのだとしたら、訳者たちはいつ中国共産党の代理人になったのだろう。もし「祖国への裏切り」というのは中国共産党の考え方であって、自分たちはそうは思っていないと訳者たちが考えているのなら、そのことをはっきりと書いておくべきではないか。
 渡部氏が岩波文庫では原本にある11もの章が省略されたことなどに対して「岩波文庫訳は、中華人民共和国の国益、あるいは建て前に反しないようにという配慮から、重要部分を勝手に削除した非良心的な刊本」(P9〜10)と書いているが、訳者たちがあとがきに書いていることからも岩波文庫のこの翻訳は明らかに中国共産党の意向を慮って原書の価値を貶めたものであると断じざるを得ない。
 また訳者たちはあとがきで、何か気の利いたことを書きたかったのだろう、私には良く理解しかねるおかしなレトリックや表現が使われている。自分たちが意気がるのは勝手だが、読者をたぶらかして偉ぶるのは利口な人間のやることとは思われない。出版社の担当者というのは、単なるメッセンジャーボーイに過ぎないのか。受取った原稿を印刷部所に回したらそれでおしまいではなかろう。本文であれあとがきなどであれ、おかしなことを書いていたら指摘するくらいは仕事のうちではないのか。
 かくして岩波文庫の『紫禁城の黄昏』は、岩波書店に対する私の評価を随分と低くした本となったのである。

追記2:
 今全訳版の『紫禁城の黄昏』(祥伝社)を読んでいるが、岩波文庫版では省略された第1章から第10章のうちの2章までを読み終わったが、岩波版では訳者たちが省略した「主観的色彩の強い前史的部分である第一〜十章と第十六章」の第2章までを読み終わった。ここまで読んだ限りでは清朝の皇帝制度についての思い掛けない歴史的な実状などが説明されていて、省略する必要などは全く無いしむしろあった方が読者のためにはおおいに有益であると思う。省略が適切と判断した訳者たち(入江曜子氏と春名徹氏)の判断力を私は深く疑うものである。また全訳版の訳者・中山理由氏が著者のジョンストン氏がChinaと書いたものを岩波版の訳者たちは「中国」と翻訳していることを批判しているが、ジョンストン氏は当時使われていた「中国」という中国語の単語は現在普通に使われている国家としての中国を表す言葉とは違っていて、「『中央の王国』または『中の国土』というほどの意味」しか持たないと第8章で説明してわざわざ、中国史上初の統一王朝である秦が素になっているChinaといわゆる「中国」とを氏の本では使い分けているのである。
 また『中国文明の歴史』(講談社現代新書)の中で著者の岡田英弘氏は「中国」という言葉について「その最初の意味は『国』の『中』である。『国』は、日本語の「くに」を意味するより以前に城壁をめぐらした『みやこ』を意味した。」(P12)と書いており、「中国」が全国を現す称呼として使われるようになったのは19世紀の末から20世紀にかけてであると書いている。そして『支那』という称呼については、それが古い漢訳の仏典に使われた言葉であるといい、ヨーロッパ人の「チーナ」という発音と似ていることから日本人が使い出したのだという。そして「それ(日清戦争)以後年々増加した(清国からの)留学生は、日本人が自分たちの故郷を『支那』と読んでいることを、留学してみてはじめて知った。これまで清国には、皇帝が君臨する範囲を呼ぶ称呼がなかったので、はじめは日本人の習慣に従って、自分たちの国土を『支那』、自分たちを『支那人』と呼んだ。」(P18)とのことである。
 従って中山氏はジョンストン氏の意向に従ってChinaを「シナ」と訳しているが、岩波版の訳者たちはジョンストン氏の説明が出ている第8章を省略したものだから、平気でジョンストン氏の意向を無視してChinaを「中国」と訳している。
 ところでシナという言葉を蔑称と考える人たちが日本の一部にいるようであるが、先の岡田氏の説明によれば、それは全くの誤解なのである。原著者の意向を踏みにじって平気な翻訳者というのは許されるものなのだろうか。これによっても岩波版の訳書『紫禁城の黄昏』は大いに問題のある本なのである。現在のものは絶版にして、省略なしの完全版で、訳者も替えて出し直すべきであろう。

追記:
 加藤徹氏の『貝と羊の中国人』(新潮新書)を読んでいたら、次のような文章が出てきた。
 「・・・シンガポール人の多くは、自分たちは華人であって『中国人』ではないと主張する。狭義の『中国』は、中華人民共和国および中華民国の略称であり、イデオロギーや政治思潮のニュアンスを含むからだ。
 この点は、アメリカの華僑・華人も同じである。彼らは用心深く『中国』という自称を避ける傾向がある。現地で発行する中国語新聞は『華字新聞』、中国語は『華語』と言い換えられる。『中国』は、透明中立の地域名ではなく、中華人民共和国ないし中華民国という、イデオロギー的な国家のにおいをもつ呼称だからだ。」(P43)
 「いっぽう、『われわれは華人であって、中国人ではない』と主張する在外華人は、シンガポールやアメリカなどに、たくさんいる。彼らから見ると、祖国を支配する政権と祖国そのものは、必ずしもイコールではないからだ。」(44)
 加藤氏の以上の指摘は、岩波文庫の『紫禁城の黄昏』では、著者のジョンストン氏が注意深くChinaと『中国』とを区別して使用していたのを無視して、一律に『中国』と訳して表示していたのが大きな誤りであることを別の面から証明している。そしてそのことは、岩波書店のイデオロギー的偏り(岩波書店の中国共産党独裁政権への肩入れ)を見事に象徴しているのである。

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2009年7月16日 (木)

『日本を貶めた10人の売国政治家』を読む

 自民党の最近のドタバタ、特に東京都議選での惨敗後の右往左往を見ていて、ちょうど新刊として出たばかりの小林よしのり編『日本を貶めた10人の売国政治家』(幻冬舎新書)が面白そうなので購入した。歴代総理を点数付けした本に、福田和也氏の『総理の値打ち』(文春文庫)があるけれども、こちらは「売国政治家」という観点からの複数人による採点結果を基にして、政治家ワースト10を選んだものである。ちなみに採点者の名前を書いておくと、小林よしのり、副島隆彦、大原康男、田久保忠衛、堀辺正史、西尾幹二、関岡英之、潮匡夫、小谷野敦、勝谷誠彦、木村三浩、宮城能彦、長谷川三千子、高森明勅、宮台真司、高山正之、八木秀次、富岡幸一郎、業田良家、西村幸祐の諸士である。恥ずかしながら私個人としては半数近くの人は知らない人たちであった。
 選ばれた個々のワースト政治家について書かれた文章の前に採点者たちの座談会が載っている。座談会は、小林よしのり、長谷川三千子、高森明勅、富岡幸一郎、勝谷誠彦の5名で行われた。
 行われた議論を読んでいて違和感を覚えたのは「日本の国体」という言葉を使った議論であった。そもそも「日本の国体」とは何を言うのかが私にははっきりと分からない。「アメリカの国体」や「中国の国体」などという言葉が使われるのを私は寡聞にしてかつて聞いたことがないから、「国体」というのはどうやら日本に独特のものであるらしい。私にも何となく分かるのは、天皇制に関係しているらしいということである。日本の天皇制に比較的近いと思われるのは、イギリスの王室の制度であるが、日本の天皇家が日本国の創造神話に出てくる神様と血筋の関係にあって2000年以上の歴史を有するのに比べれば、英国王室の歴史はそれほどではない。ただ現在天皇制も英国の王室制もともに「立憲君主制」の下にあって「君臨すれど統治せず」を原則にしているために政治的には何ら実権を有していない点は共通である。
 ここで私は確認のために「国体」という言葉について辞書を引いてみたら、新潮国語辞典では「国家を統治権の存立状態によって分ける区別。君主国体、共和国体、貴族国体がある。」と説明されており、大辞林第三版(三省堂)では、同じような説明の他に、「天皇を倫理的・精神的・政治的中心とする国のあり方。第二次大戦前の日本で盛んに用いられた語」と説明されていたが、どうやら座談会で使われていたのはこの意味の「国体」であったようだ。しかしこのような意味での「国体」を現代の日本の若い人たちのほとんどは私と同じように理解していないだろうし、今どきこの意味において問題にしてもらっても、私は意味がないと思う。日本国の創造神話の神々の末裔としての天皇などは、ただのお話としてはともかく、民主主義政体の現在の日本にとっては実質的な意味を持たないし、政治的に無害な存在としての天皇制以外のものはもはや有害なだけでしかないと考えるからである。この点が、この座談会出席者と私の考えが根本的に異なるところである。
 次に出席者の話に出てきて驚いたのが、戦前の宮内省には6000人を超える職員がいたという話で、私の感覚からすると異常に多い人数だと思う。現在は「1000人ぐらいしかいません。」と不満な口調であるが、私には何故そんなに大勢要るのかと理解に苦しむところである。寺尾善雄氏の『宦官物語』(河出文庫)を読むと、清朝の皇帝は衣服の着替えも全て宦官にしてもらっていて、自分ではやってはいけないことになっていたという。中国の皇帝は、完全なる生活能力の無能力者に仕立てられていたそうで、「宦官の規模を縮小した清朝においてさえ、「宮廷の正常な運営には三千人は必要とするのに、いまは二千人しかいない」とある。明の末期には女官九千人、宦官は十万人いたという・・」(P51)から、中国の宮廷に比べたらまだまだましかも知れないが、政治権力の実権から切り離された戦後の宮内庁と戦前の宮内省とを比べて職員の数が少ないなどというのは全くおかしな議論である。宮内庁の職員の数の話も「日本の国体」に間接的ながらかかわる話だとすると、どうも座談会出席者の観念する「日本の国体」というのは私には危なかしい話に思えて仕方がないのである。
 ところで新潮国語辞典でも大辞林第三版でも、「国体」という言葉の意味の第一番に上げているのは「くにがら」という説明であったが、この意味でなら「日本の国体」を大事にしようとすることには私も大賛成である。アメリカのような国の「くにがら」はやはり日本人の体質にはそぐわないところがある。しかし野球のメジャー・リーグの試合の前に「ゴッド・ブレス・アメリカ」を選手も観客も全員が立って歌うのは、見ていて羨ましく思う。日本の現在の国家ではこういうわけにはいかない。スポーツ観戦用に第2の国歌を作っても良いと私は考える。
 さて次にこの座談会で行われた議論の中で私が納得しかねるものとして、軍隊の話がある。私が大学時代に講義の中で聞いた話の中で、「ああ、そうなのか」と思ったものに「軍隊の銃口は国外に向けられているだけではない。国民に対しても向けられることがあるのだ。」というのがあった。この「国民にも向けられる軍隊の銃口」ということについて、この座談会の出席者たちは、現在の政治家たちはみな「軍隊は暴走するものだ」という固定観念に囚われていて、そのために自衛隊の強化・装備の充実に及び腰で、国際政治の実態に眼を閉じていると非難しているが、まず最近のチベット暴動、新疆ウイグル自治区での暴動などで明らかなように政治権力者が軍隊に命じて国民に銃口を向けさせることはありうることであって、軍隊の暴走などとは何ら関係なしにそういうことは起こりうることなのである。「軍隊の銃口が国民に向けられる」場合の大半は政治権力者の命令に従う場合であろう。軍隊は、警察と並んで国家の暴力装置であって、政治権力者の考えに従って対外的にも対内的にも軍隊は動員されるものなのであり、それは当たり前のことなのだ。「軍隊の暴走」は、政治権力の弱体な状態が引き起こすものなのである。この座談会の出席者たちには政治学の基本が理解できていないのである。
 『日本を貶めた10人の売国政治家』をまだ途中までしか読んでいないが、少々引っかかるところがあったのでその点を以上で書いてみた。

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2009年7月10日 (金)

『「正義の味方」の嘘八百 昭和史のバランスシート』を読む

 谷沢永一氏の『「正義の味方」の嘘八百 昭和史のバランスシート』(講談社文庫)を読んでいるが、この本は購入してから随分寝かしてあった。それは、本のタイトルが酷く際物的であると感じられて買ってはみたもののその後手が伸びなかったのである。ところがある時手に取ってふと解説を読もうとしたら、書いていたのが意外やショートショートで有名な星新一氏であった。星氏がこの本を随分と褒めていたので、それで大いに読む気をそそられたのである。私は谷沢氏の本を相当買ってあって、『悪魔の思想』(クレスト社)や『こんな日本に誰がした 戦後民主主義の代表者 大江健三郎』(クレスト社)など何冊か読んだが、谷沢氏の本で特に強く印象に残ったのは『聖徳太子はいなかった』(新潮新書)であった。私はこれによって歴史というものが過去にそれぞれの時代に書かれた記録を基準にして解釈されており、昔書いた人が意図的に嘘を書いている場合がありうるので、それを見破ることが歴史家の重要な任務であるという谷沢氏の主張に大いに目を開かれたのであった。聖徳太子もそういった当時の政治的な理由で創造された偶像であるという。
 また日本の歴史を初めて書いたものとしてわれわれが中学校などで教えられたのは、古い順に「古事記」次いで「日本書紀」であったが、岡田英弘氏の『歴史とはなにか』(文春新書)には、「日本書紀」がまず書かれて、その後100年ほど後に「古事記」が書かれたという。そして『古事記』は一種の偽書であるという。歴史というのは怖いものだ。
 谷沢氏によると、聖徳太子のことが書かれているのは『日本書紀』だけで、それ以外の歴史書には一切出てこないという。また聖徳太子そのものは人間とは思われない能力の持ち主で一種のスーパーマンとして描かれているが、良く考えてみるとそんな人間などいるはずもないと判るのだが、学校で教えられていることがまさか嘘であるとは誰も、特に子供は思わない。だから日本人は誰も聖徳太子の実在を疑うことなど無かったのだが、歴史家はその国家的な嘘を見破ったのである。
 ところで『「正義の味方」の嘘八百 昭和史のバランスシート』は内容そのものも面白いのだが、それと同時に谷沢氏の言葉遣いにも思い掛けない面白さを味わうことが出来た。この段落の初めを私は「ところで」という言葉で始めたが、話題を変える時に昔の人が良く使った言葉に「閑話休題」(かんわきゅうだい)というのがあるが、谷沢氏はこれにうまく読みを付けて使っていて、それがなかなか面白いのである。具体的にそれを示そう。()は付された読みである。
 ①「閑話休題(むだばなしはさておき)事程左様にわが国上代貴族は、質素で、小心翼    々たる集団に過ぎなかったのである。(P40)
 ②「閑話休題(もとへもどって)事程左様に日本人は、年功序列をもって逐次的に昇って いくことこそ、社会的に望ましいと考えており・・・。」(116)
 ③「閑話休題(それはそれとして)事程左様に、昭和十年代の軍需景気は市民生活を豊かにし、郊外住宅を外へ外へと広げていった。」(P187)
 なお念のために「閑話休題」を国語辞書で引くと、新潮国語辞典では、「(物語類で、話をもとに戻す時に用いる語)無駄話はさておいて、それはさておき、さて」と説明している。最近の作家ではこの言葉を用いる人を見ないが、私はなかなか味があって面白いと思う。
 なお谷沢氏の本の面白さの一つは、自分の意見をはっきりと述べ、徹底的に批判することであり、日本人には少ないタイプの人間である。私が感心したその例をこの本から拾って下に示す。
 「『いのちとかたち』(書名、新潮社)で山本健吉は、ハッタリ評論家の常として、(藤原) 道長が同時代に関白と尊称されていた、などと思い切り良く断定したが、それは根拠のな い”知ったがぶり”である。」(P57)
 これに対して山本健吉がどう反応したのか、大いに気になるところであるが、谷沢氏が名誉毀損の裁判を受けたという話も聞かないから、しっぽを巻いて黙っていたのだろうか。
 もう一つ例を挙げよう。
 芭蕉七部集のなかの『猿蓑』という俳集に「たび踏みよごす黒ぼこの路」という句があるそうだが、『日本古典文学大系』のなかで中村俊定がこれにつけた解釈について、江戸時代の実態を全く理解しないで書いていると論証反駁した上で、谷沢氏は「中村俊定は俳集訳者として失格なのである。」(P186)とはっきりと書いている。かくて中村俊定は完全に学者としての面目を失したのである。なかなか出来ることではない。
 ところでこの本は昭和57年(1982年)に出版されたものだが、谷沢氏の書いた次の文章は日本経済の当時の好況の経済状態を見事に反映したものであった。
 「まず、一般的に、もっとも幸福な世代と考えられているのは、戦後派であろう。戦後に生を享け、高度成長期にもの心がつき、現代を謳歌している世代は、日本史上、もっとも生きるのにやさしい、豊かな安定した社会に生きているわけであり、人類史上、最高の幸福を満喫していると言っても過言ではないはずである。
 今日の日本ほど、豊かで、人間味溢れる、安定した社会というものは、日本史上一度もなかったし、現在の世界中、どこを捜してもない。」(P243)
 これはまさにガルブレイスの言うところの「豊かな社会」そのものであったのだが、翻って現在の社会経済状況を見ると全く様変わりしてしまった。全く反対の生きにくい社会に落ち込んでいるのである。
 谷沢氏は昭和十年代の軍需景気について次のように書いていたが、まさにその危うさは現代の大恐慌以来の世界不況を予言するところがものであったのだと私には思われるのである。谷沢氏は次のように書いている。
 「社会全般が軍需景気を謳歌し、国民が小市民生活に酔っている間に、恐るべき破局は醸成されつつあった。」(P187)
 「好景気に浮かれていると、思わぬ落とし穴が待ち受けているという教訓にはなろう。」(P190)
 バブル崩壊後の長期不況の後、ようやく景気が回復しだしたと日本国民が安心し始めた時に、今度はアメリカで金融恐慌が勃発しそれが招いた世界不況によって日本の経済はもはや「豊かな社会」などとは到底言うことの出来ない悲惨な経済状況に陥ってしまった。日本が経済的に惨めな状況になったために多くの若い人たちは結婚して子供を育てられる状況にはなくなっている。そしてその政治的な責任を自民党は問われているのだ。次の政権を担うのは民主党だという大勢が示すものは長きに亘って政権を担当してきた自民党の責任である。それを自覚したら、自民党の議員たちは自分たちには最早、到底政権を担当する資格はないと認識されるはずだし、その責任を取って潔く下野すべきなのだが、恥知らずにも政権党に止まろうと躍起になってジタバタしている。正に厚顔無恥の連中ばかりなので、この醜態こそが国民の支持を失う大きな要因になっているのである。
 谷沢氏はこの本のなかで石橋湛山氏を「石橋湛山こそ、日本思想史上、まことに稀有の思想家であった。」と高い評価を与えているが、石橋湛山は自民党の政治家であったのだ。ところが最近の自民党の総裁となった人たちは、石橋の足下にも到底及ばない情けない連中ばかりであった。自民党の議員の質は情けないほどに劣化してしまっているのである。

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2009年3月 4日 (水)

スーザン・ストレンジ女史の『カジノ・キャピタリズム』

 今スーザン・ストレンジ女史の『カジノ・キャピタリズム』(岩波書店)を読んでいる。この本のサブタイトルは「国際金融恐慌の政治経済学」となっている。この本の後、女史は『国家の退場 グローバル経済の新しい主役たち』(岩波書店)と『マッド・マネー 世紀末のカジノ資本主義』(岩波書店)を出版して、1998年10月25日に亡くなった。ちょうど今回のアメリカ発の金融危機が起きる10年前であった。彼女の国際金融恐慌という予測は的中したといえるだろう。
 『カジノ・キャピタリズム』は昔一度読み始めたのだが、あまりピンとこなくて途中で投げ出しておいたものである。しかし最近の金融危機が私にこの本を手に取らせることになった。
 『カジノ・キャピタリズム』がイギリスで出版されたのは1986年である。そして2年後には『マッド・マネー』が出版されたのだが、『マッド・マネー』の書き出しは以下の通りである。
 「なぜ狂気なのか。私の見るところ、金融市場を国家的、国際的規制当局のコントロールの及ばぬはるか先にまで突っ走らせてしまうのは、『大いにばかげて』いたし、今もそうだからである。」(P1)
 昨日のBSニュースで、アメリカの保険会社AIGが08年10〜12月期に616億6千万ドル(約6兆円)という巨額の赤字を出し、通気での最終損益は992億ドルの赤字だという。AIGはアメリカ政府から300億ドルの追加の金融支援を受けることになったが、この巨額赤字の大きな原因となったものにクレジット・デフォルト・スワップCDSという損失補償の保険商品があった。金融危機発生後、金融商品の価値の低下は止まるところがなかったためにかつては多額の利益を生んでいたCDSが今度は多額の損失を生む基となったのである。CDSは最新の金融商品であった。近年主流の経済学が主張した「市場原理主義」の下、「金融市場を国家的、国際的規制当局のコントロールの及ばぬはるか先にまで突っ走らせてしま」った結果が今回の世界的規模の金融危機を生み出してしまったのである。
 女史はカジノ・キャピタリズムという言葉まで作って、金融市場の異常な状態を10年以上前に指摘していたが、このようなことを指摘した経済学者などは他にいないのではないか。また金融市場の異常な状態をカジノ・キャピタリズムと命名したのは、われわれが今回の金融危機の発生を目撃した現在、全く言い得て妙である。金融市場の異常さを女史は次のように書いている。
 「西側の金融システムは急速に巨大なカジノ以外の何物でもなくなりつつある。毎日ゲームが繰り広げられ、想像できないほど多額のお金がつぎ込まれている。
 ・・・・これらの市場では先物を売買したり、オプションあるいは他のあらゆる種類の難解な金融新商品を売ったり買ったりすることで将来に賭をできる。遊び人の中では、特に銀行が多額の賭をしている。・・・この世界的な金融カジノの元締めが大銀行と大ブローカーである。・・・・・・・
 現代の銀行員やディーラーは、昔のひとが考える金融の世界や典型的銀行とは全く別の世界で働いている全く別の人間であるかのように見える。・・・・国際金融システムを賭博場と非常に似たものにしてしまった、何か根本的で深刻な事態が起きたのである。」(P1〜2)
 シティグループやAIGの政府の支援なしでは立ちいかない苦境、ナスダック元会長バーナード・マドフの500億ドルの詐欺、破綻したイギリスの銀行RBSの元会長サー・フレッド・グッドウィンの年間9千万円に上る年金などを見ると、女史の上の文章は金融業界の問題状況をよく伝えていることが分かる。
 ところで女史は国際金融システムはグローバル化した経済の最も基本的で重要なインフラであると考えている。
 「国際金融システムは、それがひとたび混乱すると、次から次へ拡がっていく伝染病のように国際政治経済を悩ますさまざまな問題を生じさせる根幹なのである。」(P6)
 世界中で金融機関が不良債権によって貸し出し能力を制約されて、実態経済を収縮させることにってしまっている。女史の書いている通りにこことが起こっているのである。
 女史は経済過程を市場だけで独立したものとは考えていない。国家の規制なしの市場というのはありえないと考えているようだ。
 「通貨システムには国家(政治)権力と市場の両方が存在しなければならない。・・・・通貨システムは、どの貨幣を使わなければならないか、あるいはどの貨幣を使ってよいかを定め、合意された通貨取引の執行を強制する国家権力が存在しない限り、効率的に作動しえない。」(P36)
 最近の現実によって、国家の規制をなくして市場にすべて任せれば一番良い結果が得られるとする『市場原理主義』は間違いであることがはっきりして、中谷巌氏は『資本主義はなぜ自壊したのか』(集英社インターナショナル)を書いた。宣伝によると、これは氏の「懺悔の書」であるそうだ。
 さらに女史は金融取引において技術進歩が盛んに進められていることを理解していた。まだ金融工学という言葉はこの時には使われていなかったので「金融技術」という言葉を使っているが、デリバティブという言葉も使っていない。女史が新しい金融商品をどのように考えていたかを示す文章を引用する。
 「最近のアメリカン証券取引所では新しいオプション市場がブームになっている。オプションは、競馬、トランプめくり、サイコロころがし、ルーレット円盤のがらがらなどのギャンブルとほとんど変わらない金融取引である。」(P75)
 賭事そのものがオプションの本質だというのである。 
 彼女は『カジノ・キャピタリズム』の後に書いた『マッド・マネー』のなかで金融業界の異常さを指摘していた。1997年はアジアで金融危機が生じた年で、そのためにアジア経済は大きな打撃を受けていた。
 「アジアでは・・・きわめて多くの人が失業に直面した。何年もの苦労の上に築いた家族経営の多くが破産に追い込まれた。」(P2)
 しかるにその同じ年にアメリカの金融業界の人たちはどういう状態であったか。全く対照的であった。女史はそれを次のように描いている。
 「株式相場から手厚い報酬を得たのは彼ら(ウォール街の株式ブローカー)だけではない。投資銀行家やファンド・マネージャーの手にしたボーナスは想像を絶して、えげつないほどの巨額である。」(P2)
 先に書いたRBS元会長の巨額の年金も同じようなものだ。かくして女史は「金融市場の状態は何らかの緊急の治療を必要としている」(P1)と判断している。彼女の判断が正しかったことは、10年後にアメリカ発の金融危機によって証明された。彼女は見事に10年も前に、金融危機が起こることを予見していたのである。こうしたことを予想しても普通は狼少年扱いされるだけであるから、大学で講義している経済学者などは書かないようだ。しかし本当に経済を理解していれば、経済の現状に潜む問題を見ることができるのだし、その確信を書くことを恐れない。このような能力は女史が正真正銘の経済学者であることの証拠であるといってよいであろう。

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2009年2月 4日 (水)

ベイン・カー『柔らかい棘』を読む

 アメリカは訴訟社会とも言われ、弁護士の多い国柄だからだろう、訴訟を扱った小説が多い。リーガル・サスペンスとも呼ばれる。私が初めて読んだ小説はスコット・トゥローの『推定無罪』(文春文庫)ではなかったかと思うが、残念ながらその内容は最後の真犯人以外は全く覚えていない。最近はジョン・グリシャムなどが良く読まれているようだが、私はグリシャムの小説を読んでいない。彼の小説に基づく映画『レイン・メイカー』は非常に面白かったので、少し読み始めたのであるが最初を少し読んだだけで、結局最後まで読まなかった。最近読んで非常に面白いと思ったのは、W・バッファの刑事裁判ものである。最初に読んだのは『弁護』(文春文庫)であった。彼の本は全て文春文庫で出ているが、面白いので全部読んだ。
 私は『弁護』によって、アメリカの刑事裁判の本質を知ることができたと思う。アメリカでは検事側が容疑者を訴えた犯罪についての実行者であることを陪審員に対して証拠を示して「合理的な疑い」のないところまで明らかに立証しなければならないのに対して、弁護側は検事側の立証には「合理的な疑い」の余地があるということを示して、陪審員が容疑者の犯罪実行について少しでも疑わせ、有罪評決に躊躇させることが必要なのであって、それ以上の立証を行なう必要はないのである。陪審員は、検事側の立証において「合理的な疑い」が存在するかぎりは有罪評決をしてはいけないと事前に教育されているのである。こうした基本的な知識を持って読むと読まないとでは、リーガル・サスペンスの面白さを味わうのに大きな違いが出ると思う。
 ベイン・カーの『柔らかい棘』(講談社文庫)は、医療過誤を扱った裁判小説だが、この本では企業としての弁護士事務所が良く描かれていて、儲かる訴訟事件こそが好ましいものなのである。弁護士事務所にとっては正義などはどうでもよく、訴追側であれ被訴追側であれ、どちらを担当しても勝訴してできる限り多額の弁護料を得られるようにして利益をあげたいのである。
 『柔らかい棘』では、弁護士事務所に所属するピーター・モスは、前回扱った医療過誤訴訟で手痛い敗北を喫して精神的に打ちのめされ、以後医療過誤訴訟は扱わないと強い決心をしたのであったが、たまたまやってきた中年女性のテリー・ウィンターが依頼しようとした乳癌の診療医者が前回敗訴した相手の医者ウォレス・ボンダラントだったことが引き金になって、その訴訟を引き受けることにする。ピーターはカルテなどの提出を求めて調査に入るが、明らかに発見できたはずの乳癌を見逃したことが医療過誤に当たるとして訴訟を提起するのだが、ボンダラントがコロラド州医師会の会長をしているなど、訴訟相手としては手ごわい相手である。ベイリーはその点について次のように書いている。
 「あなたが相手にする残酷でタフな敵は、特別なルールに守られています。特別なルールとは、医療ミスはやむをえないとする風潮であり、医者のすることに間違いはないという過信です。・・・陪審員だって医師に無条件の敬意を抱いていて、救いがたいミスでさえ許している人もいるくらいです。」(P16)
 依頼者のテリーと言う女性は非常に個性的な人間だが、裁判が始まる頃に勝手にメキシコのほうにロクデナシの夫の目を逃れるために娘を連れて出かけていって、ピーターは苦労をするのであるが、思い掛けないボンダラント医師の不法な行為が明らかにして陪審員からの支持を得て有罪の評決を得るのである。しかしさらに思い掛けない事態が発生する。
 大部の本であるが、全く途中で飽きることもなく最後まで一気に読まされる、良くできた小説である。

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2008年11月23日 (日)

『強欲資本主義 ウォール街の自爆』を読み終えて

 今日(2008/11/23)、神谷秀樹氏の『強欲資本主義 ウォール街の自爆』を読み終わったが、この前に小幡績氏の『すべての経済はバブルに通じる』(集英社新書)とチャールズ・R・モリスの『なぜ、アメリカ経済は崩壊に向かうのか 信用バブルという怪物』(日本経済新聞出版社)を読んでいたが、『なぜ、アメリカ経済は・・・』の方は、なぜか内容をほとんど思い出せないのである。もう一度読み直してみようと思っているが、その前に私は竹田茂夫氏の『信用と信頼の経済学 金融システムをどう変えるか』(日本放送出版協会)を読んで、金融について勉強し直しておこうと思っている。
 ところで神谷秀樹氏の『強欲資本主義 ウォール街の自爆』は非情に面白いものであるが、一番印象に残ったのは、アメリカの金融業界の経営者及び社員の強欲さについての神谷氏の描写であった。それは、それほどまでにひどい状態なのかと、到底われわれ日本人には信じられないものであった。いかにも肉食人種のどう猛さはかくや、とでもいうべき精神状態がそこに現れているように私には思われたのである。もともと歴史的にもアメリカはピューリタンの国なのだが、キリスト教信仰などは彼ら経営者たちの考え方と行動にはなんの影響も及ぼしていないのだ。プロテスタンティズムの倫理こそが近代資本主義の精神の根本を作ったとするマックス・ヴェーバーの理論は、現在のアメリカ資本主義に関する限りその実態とはなんらの関わりもなくなっており、いまや完全に破綻してしまっている。アメリカの金融業界は、厚顔無恥の人間でなければいたたまれない場所になっていたのだ。
 なお先日ビッグスリーの経営トップが政府からの財政的支援を求めるためにアメリカ議会の公聴会に呼び出されていった。その時に民間航空機を利用しないで会社所有のジェット機を利用したことで彼らは議員たちから叱正を受けていたが、そこにもアメリカの経営者たちの我々日本人には理解しがたい精神構造が表れていた。思うに、おそらく彼らのジェット機利用という浪費は一種のステータスシンボルなのであろう。
 市場経済、商品交換経済の社会では、経済を動かす原動力はお金(貨幣)であり、そこにこそ金融業の存在理由があるのだと私は考えているが、一方モノとサービスの売買とは何ら関係のない、キャピタルゲイン狙いの資産取引もお金(貨幣)を媒介として行われていて、この取引はお金(貨幣)を増やすことだけを目的とするものであって、人間生活の必要や利便の提供などにはが何ら関係を持たない取引である。そして現代社会では、この利殖のための金融取引が、人間の生活に直接関係するモノとサービスの取引の金額をはるかに超える規模で行われているのである。そしてこの取引の基礎になっている金融商品の評価額が大きく下がった時には、今まで行われてきた取引を支えていた市場参加者の間の信用関係が崩壊して、取引が成り立たない状況を引き起こす。そこにおいて金融商品所有者の手元に莫大な金額の評価損、損失が発生するのである。
 『信用と信頼の経済学 金融システムをどう変えるか』の書き出しは、今回の世界金融危機を今後を考える上で大いに参考となる事態の描写から始まっている。それを以下に引用する。
 「・・・1998年夏から秋にかけて、米国のヘッジファンド(政府の規制を受けない、富豪たちのための利殖ファンド) であるLTCM(ロングターム・キャピタル・マネージメント)が破綻に瀕して、国際的な金融市場が機能停止するのではないかと思われたことがあった。ニューヨーク連邦準備銀行(連銀)や連邦凖部理事会によって、LTCMは救済され、この危機が現実のものになることはかろうじて回避されたが、国際債券市場における流動性の枯渇(債券の買い手がなかなか見つけられない)というかたちでいまだにこの事件の余波が残っている。」(P7)
 武田氏のこの本の初刊の発行日は2001年6月30日であるから、LTCMの破綻からおよそ3年後である。今回の金融危機は、一ヘッジファンドが破綻するどころではない、これとは比べ物にならない大きな規模の根本的な危機である。銀行や生命保険会社を含む世界中の金融機関が損失を被ったといって過言ではない、とてつもない規模のものなのである。だから世界中の政府が公的資金を金融機関に注入するといった形で救済に乗り出していて、それでも銀行の企業への貸し渋りが問題になって実態経済の停滞・縮小が危惧されている。世界中で金融危機への対応が行なわれているが、それが果たしてどれだけ有効に機能するのかが誰にも判断できないのである。既に企業の破綻や事業の縮小による失業の増加が経済統計にも現れてきており、将来の不安に怯えて庶民の家計は支出を絞るようになってきた。LTCMの破綻時には見られなかった現象である。LTCM破綻の影響が3年にも及んだことを考えると、今回の金融危機の影響はもっと長引くことが予想されるのだ。それに対抗するためには、政府がよほどの対抗策を講じなければならないだろう。アメリカでブッシュ大統領からオバマ新大統領への政権交代という、偶然とはいえ良い材料が存在することは、世界にとって幸運といえるものである。1929年アメリカ発の大恐慌の再来だけは避けれられるだろうと思われる。

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2008年11月20日 (木)

マイクル・クライトンの『ネクスト』を読んで

 先日新聞でマイクル・クライトンの死亡記事を読んだ。ちょうど彼の最後の作品『ネクスト』(早川書房)を読みかけていたところだったが、今日(2008/11/20)やっと読み終わった。彼の最近の小説はテクノロジーの最近の発展により世の中がどのように変わりそうかを想像して描いていて、大変参考になる。この本の前に彼は『恐怖の存在』(早川書房)を書いて、地球温暖化問題を含む気候変動問題を扱っている。気候変動問題をネタにして金儲けを企む団体が、最新のテクノロジーを使って人工的に気候を変動させて被害を発生させて危機感をあおり広く研究費をせしめようとする話であるが、彼の小説に出てくるアメリカ人を見ると、アメリカ人というのはとにかく金儲けにしか関心がないのかと、その心情の貧しさを実感せざるを得ないが、今回の本の話でも同じことを感じた。しかしクライトン自身は、技術的にできることは何でもしようとするアメリカの科学界の風潮とは一線を画しているようだ。
 実業界の取引関係の基礎を支えているのは法律であるが、今回の遺伝子技術に関して今や裁判所の判例自体が大いに問題を生み出す基になっているとクライトンは考えて批判している。小説の中でクライトンは架空の遺伝子裁判の場面を描いて判事にアメリカの裁判判例を批判させているが、クライトンは小説が終わった後のあとがきで以下のように書いている。
 私は知らなかったのだが、アメリカでは遺伝子特許が認められているそうで、彼はその不当であることを説明し、遺伝子特許を廃止するべきであると書いているのである。
 「遺伝子は自然に属するものだ。・・・・自然に属するものを所有していいはずがない。・・・・遺伝子関係の特許は、そういう根本的なルールを踏みにじるものである。
 遺伝子特許については、・・・・どこにも発明の要素はない・・」(P322)
 またクライトンによると、現在のアメリカの大学自体の体質は営利企業のそれと変わりがないとのことである。彼のこの指摘は私にはまったく意外であった。
 「今日、大学はみずからが営利事業を拡張し、利潤の追求に走っている・・・」(P329)
 そしてアメリカの大学における医学研究環境の現実は以下のようなものであるそうだ。
 「いまや、医学研究には秘密主義が蔓延し、それは医学の進歩を妨げている。 かつては俗世から隔絶され、研究の楽園であった大学は、いまでは商業主義の巣窟と化した。楽園はもうない。かつては人道主義第一だった科学者たちは、もはや利益と損失を第一に考えるビジネスマンだ。」(P330)
 この文章を引用していて、私は昔読んだノーベル経済学賞受章の経済学者ポール・サミュエルソンの書いた『経済学』(岩波書店)のなかに引用されていた次の文章を思い出し、なるほどと思った。
 「アメリカのビジネスはビジネスである」
 かつては大学は、単なるビジネスの場とは考えられていなかったのだが、今や大学の運営者は、大学を単なる利潤追求のビジネスの場と考えるようになってしまったのだ。
 日本の国立大学も、独立採算が求められてきているようであるが、文部科学省の役人たちもアメリカの悪い影響にどっぷりと浸かってしまっているのではないか。
 ところでクライトンの書いたような社会性のあるエンターテインメントが日本の出版界には少ないように思われるが、残念なことだ。
 なおクライトンは前著の『恐怖の存在』では、資料を掲げて地球温暖化は科学的に確定した事実であるかどうかを疑っているが、日本では政治家にしろ官僚にしろ、また民間企業の人間もすべてが地球温暖化を全く疑うことなしに受け入れていて、私には日本は環境ファシズムといっても良い状況になっていると思われるのである。例えば先日の日本経済新聞朝刊一面の『春秋』を書いている記者は、地球温暖化を疑うことはそれ自体が罪悪であるかのような書き方をしていた。彼にとっては地球温暖化は疑うべからざる科学的な真実なのであるが、私はクライトンの意見のほうを信用する。
 また容器包装リサイクルの実態を見ると、官僚たちは現実を無視して、天下り利権のために公益団体と称するものを作っては国民の税金を無駄遣いして平気でいるとしか思われないのである。錦の御旗となった環境保護、地球温暖化防止の取り組みは政治家や官僚たちの税金無駄遣いの元凶になっていることがますます明らかになってきている。政治家も官僚も、多額の税金を使えば使うほど自分たちの存在価値が証明されるると思い込んでいるようなのだ。だから科学的な事実という裏づけがあるとされる地球温暖化対策などは税金を使うための持って来いの材料なのである。

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2008年10月31日 (金)

マックス・ヴェーバーに対する本格的な批判の書

 社会学者の橋爪大三郎氏は、『世界がわかる宗教社会学入門』(筑摩文庫)においてマックス・ヴェーバーとカール・マルクスを社会学の双璧と評価しているが、ヴェーバーがその論文『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(岩波文庫ほか)で主張した「プロテスタントに特有の『禁欲』の考え方が、資本主義成立にとって不可欠だった」(P23)と書いている。しかしこの説明は少し不十分である。ヴェーバーがプロテスタンティズムの倫理の重要な要素として先ず最初に挙げたのは、プロテスタンティズム発生の歴史的順序からしてルターがドイツ語に翻訳した聖書で世俗的な職業を表すのに使用した『召命』(ドイツ語のBeruf)という言葉であり、ヴェーバーがそれは画期的なものであったとして評価したことを、橋爪氏は看過している。キリスト教は、それまで職業によって金儲けすることを否定的に評価することはあっても、ルターのように宗教的に見て全く問題のないことと見なすことはなかったのである。しかしそういうローマ・キリスト教会自体が、免罪符の販売という形で金儲けに走るという言語道断な恥知らずな行動に走ったことは有名な歴史的な事実である。
 ところでマルクスの主著である『資本論』については、注に引用された歴史的文書の内容が不正確であるという批判が学者によって為されているが、ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』についてそのような批判を行なった学者の存在を今まで私は寡聞にして知らなかった。橋爪氏も「ヴェーバーの学説は、社会科学の定説です」(P270)と書いているくらいである。実際にヴェーバーのこの論文には、沢山の注が付されているが、その注の内容自体が場合によってはウンザリするくらいの分量で、この論文を読み通すのはなかなか大変なのである。そしてこれくらいしつこい論文なら多分間違いもないだろうと普通の読者なら思ってしまうだろう。私もそうであった。ところがここにヴェーバーの論文には重大な資料操作上の誤りがあると主張する本が現れた。羽入辰郎氏の『マックス・ヴェーバーの犯罪 「倫理」論文における資料操作の詐術と「知的誠実性」の崩壊』(ミネルヴァ書房)がそれである。
 その内容をこれから紹介したいと思うが、まず羽入氏のマックス・ヴェーバーに対する彼の学者としての評価が面白いのでそれを紹介しよう。
 「マックス・ヴェーバーというのは、一つのことをきちんと生涯かけて調べていった人間 ではない。そういうタイプの学者ではなく、あちこちをつまみ食いした人間である。」(P20)
 ヴェーバーは、世俗的な職業を『召命』(Beruf)、神によってその人が召し出されたものとして宗教的に正当化したのは、マルティン・ルターの行なったドイツ語訳の聖書においてであったと、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で最初に指摘したとされるが、実はルターについての歴史的事実はそうではなかったと羽入氏は、ルターの聖書ドイツ語翻訳の歴史的な事実経過を詳細に原本に当たって調べた結果に基づいて反論している。ルター自身はBerufという言葉を使ったことはなく、ルターの翻訳が後に他の人たちによって改定されていくなかでBerufという言葉が使用されるようになったというのである。この論証の詳細は『マックス・ヴェーバーの犯罪』を読まれたい。
 またプロテスタンティズムの流派の主流の一つカルヴァニズムが資本主義的企業活動を積極的に促したということをヴェーバーは歴史的な事実として書いているが、これもまた全くの間違いで、ドイツの神学者カール・ホルの以下の文章が正しいとすると、カルヴァニズムは資本主義的活動を徹底的に抑圧していたのである。
 「17世紀中頃までのカルヴァン派の教会ほどに、山上の垂訓での主の言葉に本気でしたがって生きようと努力した教会は、したがってまた「資本主義」に対してこれほど激しく戦ってきた教会もまた存在しなかったのである。」(『M・Wの犯罪』P134)
 カルヴァニズムの租であるジャン・カルヴァンがどのように非人間的な人物であったかについては、シュテファン・ツヴァイクの書いた伝記『権力と戦う良心』(みすず書房)を読めばよく分かるし、そのコチコチに凝り固まった原理主義的人物像からは資本主義に対する敵意以外の評価はとても考えられないものである。このことは、案外ヴェーバーも人を見る目がなかったのかも知れないと思わせるものである。
 さらにヴェーバーは、資本主義精神を体現する歴史的に代表的な人物としてアメリカ人のベンジャミン・フランクリンを例に引いて書いている。ヴェーバーはフランクリンについて、いかにも彼が宗教的な人間であるかのように『改信』や『天啓』といったキリスト教の用語を使って説明しているが、実際に『フランクリン自伝』(私が読んでいるのは、旺文社文庫のものである)を読んでみると、フランクリンは到底真率な宗教的人間とは思われないのである。ヨーロッパ文化圏に属していたフランクリンであるから、自伝において「わたしはすべて神のお導きによって、そのときどきあたっていろいろな方法をとり、それが成功したのである」(P7)と書く一方で、倫理というものについて、「(神によって)禁じられているから悪いというのではなく、また命じられているからよいというのではない。ただあらゆる事情から考えて、そういう行為が人間の本性にとって悪いことだから禁じられるのであり、よいことだから命じられるのではないか、という考え方を持つようになった。」(P97〜98)と書いている。キリスト教社会であるアメリカで生まれたフランクリンがキリスト教、特にプロテスタンティズムの考え方に影響を受けなかったことはありえない。しかし根っからのプロテスタントであったかというと、彼の自伝を読む限り疑問がある。習慣的な思考によって、「神のお導き」といった言葉を使ったとしても、それをもってフランクリンを心底宗教的な人間であったと決めつけることは出来ないだろう。むしろ彼はキリスト教社会で生まれ育った人間にしては珍しく、キリスト教によって全面的にマインド・コントロールされてはいなかった人間であったように思われるのである。ところがヴェーバーの書くところ、フランクリンはプロレスタントの典型であり全き宗教人間なのである。同じ伝記を読んで、フランクリンの宗教性という単純な事実について、どうしてこれほどの差が生じるのであろうか。ヴェーバーの読解力には問題があるのかもしてないと疑わせるものがあるのである。
 ルターにおける聖書翻訳での『召命』berufという言葉の使用、カルヴァン派教会の資本主義の促進、宗教人間の典型フランクリンというヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の基礎となる事実の間違いは、羽入氏の言うようにヴェーバー論文における根本的な問題の存在を示していると思われる。ヴェーバーの論文に特徴的な、余りに詳細に書かれた議論に人は圧倒されて、ヴェーバーの議論に問題があるかどうかを検証しようとする意欲を失わってしまうのだ。見方によっては、羽入氏の言う「ヴェーバー一流のこけ脅かしの詳細な議論」は学問の邪道なのかも知れない。しかし学問の一部には「重箱の隅をつつくような事実探索」が必要であることは、羽入氏の『マックス・ヴェーバーの犯罪』自体が示しているのではあるが。
 ところで単純な話だが、Max Weberがドイツ人である以上、日本語での表記は、ドイツ語の発音に基づくマックス・ヴェーバーが適当であると私は考えるのだが、なぜかウェーバーという、恐らく英語読みの表記が少なくない。これらも原語の発音に近い表記優先というルールがあっても良いのではないか。

 最後に、橋本大三郎先生、羽入氏の以上のような指摘をどのように評価しますか。それでもまだ、橋爪先生、あなたは「ヴェーバーの学説は、社会科学の定説です」と言い続けますか。

追記:(2008/11/03)
 上記文章においてベンジャミン・フランクリンについて書いた時には、私はまだ『フランクリン自伝』を最後まで読んでいなかったのであるが、今読み終えてみて改めてフランクリンの宗教に対する意識がよく分かった。自伝において自分の仕事などが上手くいった時の経験を語る時に彼はよく「神のお導きにより」とか「神のお恵みにより」とかという表現を使っており、また神の存在を信じているということも書いていて、彼は確かに敬虔な人間ではあったと思う。しかしだからといって「改信」だとか「天啓を受ける」だとかといった大袈裟な宗教的な体験などは全く経験したこともなくて、キリスト教社会において普通のキリスト教徒がキリスト教を信じているのと同じようなレベルでキリスト教徒であったに過ぎない。フランクリンが「勤勉」や「節約」を強く説いているからといって、それは職業を『召命』として強く認識していたからであるというよりも、それらの徳が人生における成功に強く繋がっているという至極功利的な理由から説かれているに過ぎないのである。以上のような実態からすると、ヴェーバーが、まさにプロテスタント的な人物でその典型であるとして紹介しているフランクリンは全く本人の関知しないような人間なのである。なぜヴェーバーはこのような単純な事実を読み間違ったのであろうか。

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