今日ブック・オフでR・F・ジョンストンの『紫禁城の黄昏』(祥伝社)2巻本を見つけて買った。この本は既に岩波書店から文庫で出ていたのだが、私は買ったまままだ読んでいなかった。ところが渡部昇一氏だったと思うが、ジョンストンのこの本は非常に貴重な内容を持っているが、岩波書店版は重要なところをカットした簡略本であると先日渡部氏が書いていルのを読んだのだが、なるほど文庫本は1巻である。渡部氏は中国共産党政府にとって「不都合な真実」が書かれているので岩波書店はカットしたのではないかと推測しているが、革新派と見做されてきた岩波書店が中国に気を使ったせいではないかとその理由を渡部氏は考えている。中国という国・政府は知れば知るほど危ない存在だと私は思わざるを得ないのだが、現在真っ最中の衆議院選挙の街頭演説で共産党の志位委員長が日本の軍事費5兆円をムダ遣いと槍玉に挙げているが、中国の最近の軍備増強に対して何らの警戒感も抱いていないのは政治家として余りにも不見識であると言わざるを得ない。世界中でイスラム原理主義者の自爆テロや海賊行為などが頻発しており、こうしたことに対して対岸の家事のようにのほほんと構えているわけには行かないはずである。戦前の日本の軍部の独走には政治的な対応に大いに問題があったことは事実であるが、だからといって一切の軍助力なしで日本が国家としてやっていけると考えるのは無責任である。武力を全面的に否定する現在の日本憲法は早急に改正する必要がある。他国の善意に信頼して軍事から手を引くというのは全くの空想的平和主義であって、北朝鮮の核兵器と大陸間弾道ロケットのことを考えるだけでも危機感を持って当たり前なのに志位委員長は鈍感そのものだ。政治家として幼稚すぎて話も何もあったものではないのである。
また社民党党首の福島瑞穂氏は弁護士とのことだが、核兵器の放棄を唱えるのはともかくとして国家にとっては軍事力が不可欠であることを全く理解していないというのは、政治家として根本的に問題があり、私は失格であると考える。政治家失格と考えるだけでなく、私は弁護士としての氏の資質をも疑わざるを得ないのである。福島氏は年齢的に見ても、とうに夢見る年齢を過ぎているのであるのに、世界の現実というものを直視し、理解することができないでいる。これを見ると私は福島氏には或いは特異な知的な障害でもあるのではないかと疑ってしまうのである。こうした党首を戴く民主党が日本国民の支持を得られないのは当然ではないか。国民の知的レベルを低く見過ぎているようだが、むしろ社民党という政党の構成者の知的レベルこそが低くてお話にならないのである。
話が私が書くつもりの本題から外れてしまった。
かつて岩波書店といえばその本の質については安心できる出版社であると一般に受け止められていたのだが、私は最近の個人的な経験からその点について深く疑うようになってしまった。具体的に言うとディケンズの『オリヴァー・トゥイスト』を私は講談社文庫の小林滋氏の翻訳で読んだが非常に優れたものであったと思う。ところで一寸興味があったので私は岩波文庫の『オリヴァ・ツウィスト』を買って一部を読み比べて見たが、その翻訳の余りの出来の悪さに驚いた次第であった。また昔高校の国語の教師が米川正夫の翻訳をけちょんけちょんに貶していたが、ドストエフスキーの小説の文庫を岩波書店はその米川の翻訳による訳でつい先日までに出していたことを知っているので、私は岩波書店の見識を最近疑うようになってきていたのである。そこにR・F・ジョンストンの『紫禁城の黄昏』の文庫についての大きな問題点を知って、いよいよ岩波書店に対する私の信頼は低下してしまったのである。
追記:
祥伝社から出版された『紫禁城の黄昏』を読み始めたが、最初に渡部昇一氏の監修者まえがきがあって、そこに岩波文庫の『紫禁城の黄昏』の訳者たちには翻訳者の資質を疑わせるところがあるという指摘があって(さすがに渡部氏は英語の先生である)、具体的にその例が原文とともに引用されていたが、それを見ると確かに基本的な英語の単語の使い方を理解していないことが疑われる。したがって本文を読む気がなくなって、せめてあとがきをと思って読んでみると、てにおはの使い方が明らかにおかしいところが2ヶ所あった。P501の「溥儀の自伝に当時『人民日報』の記者であった・・・」の「に」はその一つであるが、これは「は」でなければ文章として意味が通らない。
また訳者たちは「のちに傀儡皇帝となって祖国を裏切った第一級漢奸ではあるものの、共産党の指導によって『真人間にたちかえった溥儀』」(P501)と書いているが、これも良く考えると全くおかしな話である。そもそも溥儀は満州族の出身であって、満州族は中国本土を侵略して植民地として中国皇帝となり長年に渡り中国を支配したが、その地位を追われて満州に帰り再び満州の皇帝の地位に就いたことがなぜ「祖国を裏切った」ことになるのか。満州族にとってもともと中国本土は植民地であって祖国などではないのだ。「祖国を裏切った」というのは中国共産党の連中が勝手に誤解して思っただけのことなのである。P500に「彼(溥儀)が一戦犯の身分から人間改造を終えて人民共和国の一市民となった」と訳者たちは書いているが、「植民地の支配者」の地位から「中国という国の一市民」にしてもらったのに「満州に帰ってそこの皇帝の地位に就いた」ことが「祖国を裏切るという犯罪」であったと訳者たちが考えたのだとしたら、訳者たちはいつ中国共産党の代理人になったのだろう。もし「祖国への裏切り」というのは中国共産党の考え方であって、自分たちはそうは思っていないと訳者たちが考えているのなら、そのことをはっきりと書いておくべきではないか。
渡部氏が岩波文庫では原本にある11もの章が省略されたことなどに対して「岩波文庫訳は、中華人民共和国の国益、あるいは建て前に反しないようにという配慮から、重要部分を勝手に削除した非良心的な刊本」(P9〜10)と書いているが、訳者たちがあとがきに書いていることからも岩波文庫のこの翻訳は明らかに中国共産党の意向を慮って原書の価値を貶めたものであると断じざるを得ない。
また訳者たちはあとがきで、何か気の利いたことを書きたかったのだろう、私には良く理解しかねるおかしなレトリックや表現が使われている。自分たちが意気がるのは勝手だが、読者をたぶらかして偉ぶるのは利口な人間のやることとは思われない。出版社の担当者というのは、単なるメッセンジャーボーイに過ぎないのか。受取った原稿を印刷部所に回したらそれでおしまいではなかろう。本文であれあとがきなどであれ、おかしなことを書いていたら指摘するくらいは仕事のうちではないのか。
かくして岩波文庫の『紫禁城の黄昏』は、岩波書店に対する私の評価を随分と低くした本となったのである。
追記2:
今全訳版の『紫禁城の黄昏』(祥伝社)を読んでいるが、岩波文庫版では省略された第1章から第10章のうちの2章までを読み終わったが、岩波版では訳者たちが省略した「主観的色彩の強い前史的部分である第一〜十章と第十六章」の第2章までを読み終わった。ここまで読んだ限りでは清朝の皇帝制度についての思い掛けない歴史的な実状などが説明されていて、省略する必要などは全く無いしむしろあった方が読者のためにはおおいに有益であると思う。省略が適切と判断した訳者たち(入江曜子氏と春名徹氏)の判断力を私は深く疑うものである。また全訳版の訳者・中山理由氏が著者のジョンストン氏がChinaと書いたものを岩波版の訳者たちは「中国」と翻訳していることを批判しているが、ジョンストン氏は当時使われていた「中国」という中国語の単語は現在普通に使われている国家としての中国を表す言葉とは違っていて、「『中央の王国』または『中の国土』というほどの意味」しか持たないと第8章で説明してわざわざ、中国史上初の統一王朝である秦が素になっているChinaといわゆる「中国」とを氏の本では使い分けているのである。
また『中国文明の歴史』(講談社現代新書)の中で著者の岡田英弘氏は「中国」という言葉について「その最初の意味は『国』の『中』である。『国』は、日本語の「くに」を意味するより以前に城壁をめぐらした『みやこ』を意味した。」(P12)と書いており、「中国」が全国を現す称呼として使われるようになったのは19世紀の末から20世紀にかけてであると書いている。そして『支那』という称呼については、それが古い漢訳の仏典に使われた言葉であるといい、ヨーロッパ人の「チーナ」という発音と似ていることから日本人が使い出したのだという。そして「それ(日清戦争)以後年々増加した(清国からの)留学生は、日本人が自分たちの故郷を『支那』と読んでいることを、留学してみてはじめて知った。これまで清国には、皇帝が君臨する範囲を呼ぶ称呼がなかったので、はじめは日本人の習慣に従って、自分たちの国土を『支那』、自分たちを『支那人』と呼んだ。」(P18)とのことである。
従って中山氏はジョンストン氏の意向に従ってChinaを「シナ」と訳しているが、岩波版の訳者たちはジョンストン氏の説明が出ている第8章を省略したものだから、平気でジョンストン氏の意向を無視してChinaを「中国」と訳している。
ところでシナという言葉を蔑称と考える人たちが日本の一部にいるようであるが、先の岡田氏の説明によれば、それは全くの誤解なのである。原著者の意向を踏みにじって平気な翻訳者というのは許されるものなのだろうか。これによっても岩波版の訳書『紫禁城の黄昏』は大いに問題のある本なのである。現在のものは絶版にして、省略なしの完全版で、訳者も替えて出し直すべきであろう。
追記:
加藤徹氏の『貝と羊の中国人』(新潮新書)を読んでいたら、次のような文章が出てきた。
「・・・シンガポール人の多くは、自分たちは華人であって『中国人』ではないと主張する。狭義の『中国』は、中華人民共和国および中華民国の略称であり、イデオロギーや政治思潮のニュアンスを含むからだ。
この点は、アメリカの華僑・華人も同じである。彼らは用心深く『中国』という自称を避ける傾向がある。現地で発行する中国語新聞は『華字新聞』、中国語は『華語』と言い換えられる。『中国』は、透明中立の地域名ではなく、中華人民共和国ないし中華民国という、イデオロギー的な国家のにおいをもつ呼称だからだ。」(P43)
「いっぽう、『われわれは華人であって、中国人ではない』と主張する在外華人は、シンガポールやアメリカなどに、たくさんいる。彼らから見ると、祖国を支配する政権と祖国そのものは、必ずしもイコールではないからだ。」(44)
加藤氏の以上の指摘は、岩波文庫の『紫禁城の黄昏』では、著者のジョンストン氏が注意深くChinaと『中国』とを区別して使用していたのを無視して、一律に『中国』と訳して表示していたのが大きな誤りであることを別の面から証明している。そしてそのことは、岩波書店のイデオロギー的偏り(岩波書店の中国共産党独裁政権への肩入れ)を見事に象徴しているのである。
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