映画『あ・うん』を見て
日本映画は余り見ないのだが、向田邦子氏の小説などはほとんど集めて持っており、彼女のシナリオに基づく映画だったので、GEOで借りてきたのであった。先日日本映画で初めて『おくりびと』がアカデミー賞の外国映画部門で受賞したが、私は最近の日本映画にはほとんど興味が引かれないのである。単なる食わず嫌いなのかも知れないが、小さな頃は日本映画もよく見たものだ。
この映画の主な出演者は、高倉健、富司純子、板東英二、富田靖子、宮本信子、山口美江などだが、戦前の雰囲気が良く出ていて、描かれている生活のテンポなどにはまことに羨ましいものがあった。エッセイストの山本夏彦氏が現代の日本人が戦前戦中の日本について抱いている過った印象を正そうとして『誰か「戦前」を知らないか』(文春新書)を書いたが、、あとがきで次のように書いている。
「かねがね私は『戦前戦中まっ暗史観』を為にするウソだと思っている。向田邦子も期せずして書いている。私たち戦時中の女学生は、明日の命も知れないのに、箸がころんでもおかしいと笑い転げていた。」(P326)
この映画を見て最も印象的だったのは、戦前に比べると断然豊かなはずな現代社会で生きているわれわれは何てせせこましい生活を送っていることだろうというものであった。確かに現代は戦前に比べると格段に便利になっている。その象徴は、TVでありインターネットであり、携帯電話、洗濯機、冷蔵庫、自家用車などで、戦前の庶民にはこういったものは、あっても手に入らなかったし、そもそも存在さえしなかったものもある。しかしこうした便利なものが手に入ったわれわれは、果たしては生活においてゆとりというものを感じているだろうか。何か慌ただしい生活だ、というのが実態なのではないだろうか。最近になってワーク・ライフ・バランスなどという言葉が使われるようになったのはその証拠である。また携帯依存症などという言葉さえ出来ている。現代は神経症的な時代なのだ。
戦前の庶民の生活は、朝も晩も基本的には家族が一緒に食事を取ることが当たり前であった。私は戦後生まれだが、小さな頃はやはり家族が一緒に食事を取っていた。家族みんなが毎日一緒に食事を取ることは、家族の絆を作る基本であると思う。現代はそれが基本的にはなくなっているように思われる。だから家族がばらばらになってしまったのである。現代の家庭はたまたま一緒に暮らしているだけの「ホテル家族」だといった精神分析家がいたが、経済のグローバリズムによる競争激化が言われようになってから、企業内での下らない社員のあいだの競争増進策が長時間労働を社員に強制することになった。日本語には切磋琢磨という良い言葉があるが、競争という言葉は必ずしも人間にとって良い意味ばかりを持たない。経営者の無能と無理解がこうした愚劣な状況をもたらしたのだと私は考えている。経済学者の飯田経夫氏は「現代の経済社会は無理に無理を重ねた上に成り立っている」といった意味のことを書いているが、現代社会の特質を見事に言い当てていると思う。
戦前の日本もけして庶民にとってよいばかりの社会ではなかったことは私も分かっている。軍部が力を持って日本の政治と社会を支配していたから一面では現代よりも愚劣な面があった。この映画でも、特高警察が出てくる。ミャンマーや中国など、軍事独裁政権の支配する社会は国民の自由を抑圧することによってしか存続できないものだという。中国史の研究者・三石善吉氏は『中国、一九〇〇年』(』中公新書)で、独裁政権の共通の特色を次のように書いている。
「支配階級は、いつでも、どこでもそうであるが、一人一人の人民には全能者として立ちあらわれるが、集団化した人民には滅法弱い。したがって、ひたすら人民の団結を恐れ、これを禁じ、集団と見ればただちに、その真の姿とは関わりなく、これを弾圧した。・・・・集団を恐れる支配階級のこの猜疑心・・」(p48)
独裁政治の最も愚劣な見本は、ジンバブエのムガベ大統領である。彼は国家経済の基盤そのものを壊して経済を破綻させてしまったからジンバブエの国民は海外からの援助がなければ生きていけない状態である。その援助の上前をはねてムガベ大統領は国民をおさえつけ、贅沢をしているのだ。彼こそがジンバブエの災厄そのものなのだが、そのことを認めず選挙結果を誤魔化してまで大統領の地位にしがみついている。
とにかく映画『あ・うん』は戦前の日本社会の良い面を描いている。現代社会の特徴である神経症とは無縁であった。なかなか見応えのある映画であり、見終わって気持ちが良かった。
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