映画・テレビ

2009年3月 2日 (月)

映画『あ・うん』を見て

 日本映画は余り見ないのだが、向田邦子氏の小説などはほとんど集めて持っており、彼女のシナリオに基づく映画だったので、GEOで借りてきたのであった。先日日本映画で初めて『おくりびと』がアカデミー賞の外国映画部門で受賞したが、私は最近の日本映画にはほとんど興味が引かれないのである。単なる食わず嫌いなのかも知れないが、小さな頃は日本映画もよく見たものだ。
 この映画の主な出演者は、高倉健、富司純子、板東英二、富田靖子、宮本信子、山口美江などだが、戦前の雰囲気が良く出ていて、描かれている生活のテンポなどにはまことに羨ましいものがあった。エッセイストの山本夏彦氏が現代の日本人が戦前戦中の日本について抱いている過った印象を正そうとして『誰か「戦前」を知らないか』(文春新書)を書いたが、、あとがきで次のように書いている。
 「かねがね私は『戦前戦中まっ暗史観』を為にするウソだと思っている。向田邦子も期せずして書いている。私たち戦時中の女学生は、明日の命も知れないのに、箸がころんでもおかしいと笑い転げていた。」(P326)
 この映画を見て最も印象的だったのは、戦前に比べると断然豊かなはずな現代社会で生きているわれわれは何てせせこましい生活を送っていることだろうというものであった。確かに現代は戦前に比べると格段に便利になっている。その象徴は、TVでありインターネットであり、携帯電話、洗濯機、冷蔵庫、自家用車などで、戦前の庶民にはこういったものは、あっても手に入らなかったし、そもそも存在さえしなかったものもある。しかしこうした便利なものが手に入ったわれわれは、果たしては生活においてゆとりというものを感じているだろうか。何か慌ただしい生活だ、というのが実態なのではないだろうか。最近になってワーク・ライフ・バランスなどという言葉が使われるようになったのはその証拠である。また携帯依存症などという言葉さえ出来ている。現代は神経症的な時代なのだ。
 戦前の庶民の生活は、朝も晩も基本的には家族が一緒に食事を取ることが当たり前であった。私は戦後生まれだが、小さな頃はやはり家族が一緒に食事を取っていた。家族みんなが毎日一緒に食事を取ることは、家族の絆を作る基本であると思う。現代はそれが基本的にはなくなっているように思われる。だから家族がばらばらになってしまったのである。現代の家庭はたまたま一緒に暮らしているだけの「ホテル家族」だといった精神分析家がいたが、経済のグローバリズムによる競争激化が言われようになってから、企業内での下らない社員のあいだの競争増進策が長時間労働を社員に強制することになった。日本語には切磋琢磨という良い言葉があるが、競争という言葉は必ずしも人間にとって良い意味ばかりを持たない。経営者の無能と無理解がこうした愚劣な状況をもたらしたのだと私は考えている。経済学者の飯田経夫氏は「現代の経済社会は無理に無理を重ねた上に成り立っている」といった意味のことを書いているが、現代社会の特質を見事に言い当てていると思う。
 戦前の日本もけして庶民にとってよいばかりの社会ではなかったことは私も分かっている。軍部が力を持って日本の政治と社会を支配していたから一面では現代よりも愚劣な面があった。この映画でも、特高警察が出てくる。ミャンマーや中国など、軍事独裁政権の支配する社会は国民の自由を抑圧することによってしか存続できないものだという。中国史の研究者・三石善吉氏は『中国、一九〇〇年』(』中公新書)で、独裁政権の共通の特色を次のように書いている。 
 「支配階級は、いつでも、どこでもそうであるが、一人一人の人民には全能者として立ちあらわれるが、集団化した人民には滅法弱い。したがって、ひたすら人民の団結を恐れ、これを禁じ、集団と見ればただちに、その真の姿とは関わりなく、これを弾圧した。・・・・集団を恐れる支配階級のこの猜疑心・・」(p48)
 独裁政治の最も愚劣な見本は、ジンバブエのムガベ大統領である。彼は国家経済の基盤そのものを壊して経済を破綻させてしまったからジンバブエの国民は海外からの援助がなければ生きていけない状態である。その援助の上前をはねてムガベ大統領は国民をおさえつけ、贅沢をしているのだ。彼こそがジンバブエの災厄そのものなのだが、そのことを認めず選挙結果を誤魔化してまで大統領の地位にしがみついている。
 とにかく映画『あ・うん』は戦前の日本社会の良い面を描いている。現代社会の特徴である神経症とは無縁であった。なかなか見応えのある映画であり、見終わって気持ちが良かった。

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2009年1月24日 (土)

映画『抹殺者』を見て

 前にも書いたが、最近の洋画の日本語タイトルには全く呆れてしまうようなひどいものがある。この映画もその代表である。
 この映画でアントニオ・バンデラスはカトリックの神父グティエレスを演じているが、前身は軍隊の情報部に属していた。エルサレムの建築工事現場で発見された金持ちの地下墓地でイエスの遺骨と思われるものが見つかったという報告があって、ローマ法王庁はその事実関係を確認するためにグティエレス神父をエルサレムに送るが、もし発見された遺骨がイエスのものと確認されたら、イエスが神であったというキリスト教の基本教理(イエスはキリストで神だったという)キリスト教の根本教義が覆ることになると危惧したのである。に反することになるから対応しなければならないと法王(と思われる人物)はそれを処分させようと考えている。かくしてイエスのものかも知れない遺骨をめぐってイスラム教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒の三つ巴の争いが始まるのである。これはまさに3大一神教の大いなる問題を表している。ローマ法王庁は、もしイエスの遺骨が発見されれば、ローマ法王庁にとっては大変な問題になると危惧したのである。発見された遺骨の真実を確認するためにグティエレス神父は派遣されたのだが、遺骨の争奪戦に巻き込まれて身体に障害を負うことになる。そして彼はローマ法王庁を離れてキリスト信仰を伝えることを決心するのである。
 こうした内容の映画がなぜ『抹殺者』というような題名になるのだろう。英語の原題はThe Bodyで、「遺体」である。「遺骨」の意味もあるようだ。だから『抹殺者』という日本語のタイトルは映画の内容とは全く関係がないのである。こういう馬鹿げたことが平気で行われているところに、私は日本人の言葉に対する感覚の劣化を感じるのである。言葉が全くいい加減に使われることは日本における文化の劣化を現していると私は考える。この映画の場合は日本での題名をカタカナ名にすることはできなかったのだが、翻訳することさえも放棄して英語名をただカタカナ表示にしただけの映画が最近多くなっている。その中には高校を卒業した者にも到底理解できないようなものがある。最近の映画関係者は日本人としての誇りなどは完全に喪失してしまっているようなのだ。大半の日本人は、私もそうだが、英語が大してできる訳ではないので、カタカナ名の映画のタイトルがどういう意味なのかを理解していないのである。カタカナ表示の映画のタイトルは日本語のそれよりもカッコが良いと、映画関係者にはそう受け止められているのだ。情けない話である。こんなことを書く私は愛国者なのだろうな。愛国者なんてもうはやらないけれども。

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2009年1月12日 (月)

シャーリーズ・セロンは可愛いだけの役者ではない

 シャーリーズ・セロン主演の『スタンドアップ』を見て、改めて彼女の役者魂を見た思いがした。既に書いたことだが、彼女の主演作『モンスター』を見た時に、彼女に対する評価を私は根本的に変えさせられたのであった。彼女の役者根性は、なかなか大したものであると思う。
 私はこの映画に出てくるアメリカの鉱山労働者というのは本当に意識の低い男連中であると思わざるを得ない。この映画の中に、教会で小さな娘たちが聖体拝受をうける場面が出てきて、アメリカは何といってもキリスト教徒の国だと実感させられたのだが、しかしアメリカの労働者は日常生活の場においてキリスト教徒として行動しているかというと、我々日本人の意識では、全く違うとしか思われない。そんなものは薬にしたくもないほどに、程度の低い奴らなのである。彼らもタテマエとしてはキリスト教徒なのだろうが、実質は低劣極まりない男たちであった。彼らが鉱山労働者で、教育レベルが低いからだという反論も出そうだが、私にはそうとばかりはいえないのではないかと思われるのである。
 また宗教的な内容を全く理解していると思われない子どもたちに宗教的な行事によって本人の意思とは無関係にキリスト教徒にするアメリカ社会の習慣は、私には全く許しがたいことに思われるのであるが、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教といった一神教の社会に住む人たちはそうしたことを全く意識さえしないし、むしろ自分たちは完全に良いことをしていると思い込んでいる。宗教であれば、マインド・コントロールは当たり前の事と見做されているのである。いや一神教徒の人たちは、宗教とはマインド・コントロールそのものなのだとは考えもしないのである。
 シャーリーズ・セロン扮するジョージー・エイムズは夫の暴力に耐えかねて息子と娘の二人の子供を連れて家を出て、親元に帰り.そうして鉱山で働くと給料が良いことを知って鉱山会社で働くことになるのだが、この会社の男たちは鉱山での職を男たちのものであると考え、女性はその職を奪う男の敵であるとしてあらゆる嫌がらせ、特に性的な嫌がらせを行なう。その嫌がらせは日本では考えられないような低劣なものである。しかし会社側はそのことに対しては何ら手を打とうとはしない。
 アメリカにおけるこの女性敵視は、何故なのか。それは、キリスト教の教義の本質にしっかりと女性蔑視の考えが組み込まれているからである。キリスト教はローマ帝国の国教になったのだが、その当時沢山いた奴隷を何ら解放しようという考えを持たなかった。もしそのようなことをキリスト教徒たちが主張していたら、キリスト教は到底ローマ帝国の国教にはなれなかったからである。だからコロンブスの発見後にポルトガル人やスペイン人が南アメリカに入り込んだ時に、彼らは現地人たちを平気で奴隷化して酷使し、殺戮した。キリスト教徒でない人間は、人間とは見做さなくて構わないと考えていたからだ。歴史的に見てキリスト教は決して人道主義の教義などでは全くないのである。
 キリスト教では女性はどのようなものと考えられていたか。同じキリスト教徒であっても、女は男よりも劣った存在であり、また男を誘惑する悪の存在であると見做されていたのである。そのことを、カレン・アームストロング女史は『キリスト教とセックス戦争 西洋における女性観縁の構造』(柏書房)において、書いている。
 「キリスト教が広がるにつれて、キリスト教の女嫌いと性的嫌悪感も広がっていった。」(P60)
 「キリスト教はセックスを嫌悪し不法なものとしたことにおいて、また人々が性衝動を持つ生き物であるという理由で、彼らに罪責感を持たせたことにおいて、まさに独特である。」(P20)
 「罪とセックスと女とは、聖ならざる三位一体のなかで結合しているのである。」(P57)
 「魔女妄想は、キリスト教徒によって徐々になされてきた女性の排除を、その論理的極端にまで推し進めたので、今や女性は、非人間的なサタンと手を結んだ『大いなるアウトサイダー』になったのである。」(P159)
  無意識の内に刷り込まれたこうした観念が、男たちを女性たちを貶め、単なるセックスの対象、悪であるがゆえにこそいっそう性欲をそそる対象たらしめているのではないかと私には思われる。はっきり言って、これはキリスト教の宗教教育の大いなる成果、犯罪的な成果そのものなのだ。
 この映画はアメリカにおける最初のセクシャル・ハラスメント訴訟の困難な経過と、勝利、そして職場におけるセクシャル・ハラスメントの禁止に至る経過を描いたものであるのだが、キリスト教国に住むアメリカ人男性の女性に対するその深層心理を理解しないではその内容を充分理解することはできないと思うのである。

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2009年1月11日 (日)

映画『オール・ザ・キングスメン』のお粗末な字幕ミス

 去年(2008年)の夏にリサイクルショップでロバート・ぺン・ウォーレン著の『すべて王の臣』(白水社)という小説を買った。この小説はピュリッツァー賞を受賞したものであるという。その本の帯には、映画『オール・ザ・キングスメン』原作と記され、ショーン・ペンとジュード・ロウの出ている場面が印刷されていた。ところが同じリサイクルショップで最近、映画『オール・ザ・キングスメン』のDVDを見つけて早速購入したのだが、この映画は本の帯に印刷されていたものとは違い、1949年製作の白黒映画で、ロバート・ロッセン監督の作品あった。しかしこの作品は1949年度のアカデミー作品賞、主演男優賞、助演女優賞を受賞した作品であり、またゴールデン・グローブ賞でも監督賞ほかを受賞しているだけに、見てみたら内容はできの良いものであった。
 ところで監督のロバート・ロッセンは赤狩りの犠牲者であったとのことだが、この映画の脚本。製作も手がけている。映画は政治の世界で権力のトップに立つと必然的に堕落するということを描いているのだが、私はつい州知事に成り上がったウィリー・スタークの姿に田中角栄のことを思い出してしまった。
 ところで私がここに書こうとしていることは映画の内容に関係することではない。DVDのケースにあったカバーの紙には、「その衝撃的内容ゆえに、当時占領下にあった日本では公開できなかった作品」と印刷されてあったから、この映画はDVDによって初めて日本に紹介された訳である。だからこの映画の字幕も最近この映画のために翻訳されたものに違いないのだが、少なくとも私は2ヶ所の字幕のミスを発見した。折角の優れた作品が、つまらないミスで汚されるのは残念である。
 先ず最初に気付いたものは次の通りである。
 「業に入らば業に従う。」
 これは新聞記者のジャック・バードンがウィリー・スタークが州知事選で人気沸騰している状況を記事に書いている時に編集長から、新聞社が他の候補を応援することになったから書くのを止めろと云われ、編集長に文句を言ったら編集長がジャックに応えた言葉である。これが「郷に入れば郷に従え」の間違えであることは誰にでも分かることだが、どうやらこのDVDの製作元では気付いた人間は誰もいなかったようだ。
 二つ目のミスは次の通りである。
 「時期に捨てられるわ。」
 ウィリー・スタークの秘書サディ・バーグがウィリーの女に関してジャック・バードンに言った言葉であるが、これは「直に捨てられるわ」の間違いであろう。「直に」というのは、「すぐにも」という意味である。そうでなければ意味が通じない。ワープロの変換ミスかも知れないが、この字幕の翻訳者は日本語の基本を理解していないとしか思われない。
 アカデミー賞やゴールデン・グローブ賞を受賞した優れた作品が、お粗末な字幕翻訳者のために安っぽいものになってしまったのは全く残念である。

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2008年12月 8日 (月)

映画『トゥー・デイズ』が面白かった

 久しぶりに映画のことを書きます。
 ヤマダ電機にクッキング・タイマーを買いに行ったついでに映画のDVDをみていたら、シャーリーズ・セロンのデビュー作という『2daysトゥー・デイズ』が目に入り、安かったので買った。英語の原題は「2days in the Valley」で、ロサンゼルスのヴァレー地区で起きた殺人事件に思いがけず色々な人間が絡んでいくというストーリーである。
 早速夜、晩酌をしながら見たが、これがなかなか凝った玄人好みの映画で、大当たりであった。1998年に国内で公開されているが私は全然覚えがないから、日本でも全く話題にならなかったのではないか。この映画の監督で脚本も書いているジョン・ハーツフェルドも初めて聞いた名前であった。しかし後でallcinemaのデータベースで調べたら、前に一度彼の作品を見ていることが分かった。ロバート・デ・ニーロが刑事役で出ている『15ミニッツ』を前に見ていたのであった。この映画もなかなか面白いものであった。
 ところでこの映画『トゥー・デイズ』の主な出演者の名前を書くと以下の通りである。
 ダニー・アイエロ、ジェフ・ダニエルズ、テリー・ハッチャー、グレン・ヘドリー、ピーター・ホートン、マーシャ・メイソン、ポール・マザースキー、ジェームズ・スペーダー、エリック・ストルツ、シャーリーズ・セロン
 実際にこの映画をみたらほとんどの俳優を知っていたが、名前と顔と一致したのはジェイムズ・スペイダー、シャーリーズ・セロン、マーシャ・メイソンの3人だけであった。出演者は役者としては一流どころであるし、ストーリーもなかなか凝っていて非常に面白い映画である。初めは関係のない人たちが話が進むに従って、バルザックの小説のようにいろいろと繋がってくるのである。
 マーシャ・メイソンはリチャード・ドレイファスと共演していた『グッバイ・ガール』で初めてみたが、彼女のデビュー作である『シンデレラ・リバティー』をみたいと思っているのだがDVDがなかなか見当たらないでいる。ジェイムズ・スペイダーについては、スーザン・サランドンと共演した『ぼくの美しい人だから』が私の一番好きな映画であるが、『セクレタリー』という映画も面白いものであった。シャーリーズ・セロンについては、『モンスター』をみて彼女を見直したが、『トリコロールに燃えて』も見応えがあった。ダニー・アイエロを私が見たのは、『レオン』の女の子がレオンに言われて、彼が死んだ後にお金を貰いに行く強欲なイタリア人役をやっていたのが初めてであった。この映画では元イタリア料理店の経営者であったのが殺し屋になっていたが、スパイク・リー監督の『ドゥ・ザ・ライト・シング』ではピザ屋の経営者のイタリア人を演じていた。
 この映画は非常に面白いから一見の価値があると私は強く勧めるが、ジェイムズ・スペイダーの冷酷無比の殺し屋はなかなかの見物である。

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2008年5月29日 (木)

映画『アメリカン・ジャスティス』を見て

 今日(2008/05/29)久しぶりにキリスト教の勧誘のために家へ人が来た。中年の男女であったが、既に過去2,3回キリスト教の勧誘の訪問があったことは前にも書いたが、今日本で宗教の勧誘を本気で行なっているのはキリスト教徒くらいなのではないか。仏教はもはや葬式仏教か観光寺社の管理団体に堕しているし、神道は習慣的に訪れるか観光のための場所の管理のための団体でしかない。教義を真剣に普及させようという形で布教活動を行なっているのはキリスト教だけのようである。そして布教のためにやってくるのはほとんどが女性である。日中は男はだいたい働いてるから、女性でないと布教活動には出歩けないのであろうが、それにしてもキリスト教には女性に強く訴えかけるものがあるようだ。しかしキリスト教はもともとは反女性・女性蔑視の性格を強くもっていたものであり、だから女性はキリスト教の指導者、司祭や司教、まして法王などには未だになれないようになっている。そういった女性差別・蔑視の体質が今なお女性教徒によって強く批判されないのは一体どうしたことなのだろうと私などは大いに不思議に思うのだが、それは恐らく聖書などを読むと男性上位の観念が知らず知らずのうちに頭の奥に刷り込まれる(インプリンティング)からであろう。つまり宗教は明らかにイデオロギーの一種であり、マインド・コントロールなのである。宗教の本質は信仰することにあるという。そして信仰とは、その教義を頭から信じることである。教義の内容が正しいかどうかを問うことは教徒には許されないことのようなのだ。そういう意味では宗教と教徒の関係は全く権力的、一方的なものである。日本人である私には、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3大一神教は根本的に大きな問題を抱えているとしか思われない。これら一神教が強い影響力を持っている国はどこも問題のある社会であると思う。
 アメリカがキリスト教の国であることは昔から知っていたが、キリスト教原理主義の国であるとは最近まで知らなかった。しかしアメリカ社会は本当にキリスト教的な体質の社会なのだろうかと、映画『アメリカン・ジャスティス』を見て考えた。この映画は、炭坑ストを描いたものである。ブルックサイド炭坑で落盤事故が起こり、炭坑夫が死ぬ。炭坑で働くキンケイド一家の妻ルビーの父親は黒肺病に冒され、激しく咳込んだりしているが、会社は一切医療費の面倒を見ようとはしない。彼らの住んでいる社宅は水道もなく、ルビーは毎日離れた場所にある手漕ぎの吸水ポンプ(共用である)からバケツに水を注ぎ両手に持って家まで歩いて運ばなければならない。私はアメリカでまさかそんな不便な環境に住んでいる人間がいるとは思いもしなかった。しかし炭坑会社は沢山利益を上げていながら労働者の生活の改善のためにはお金を使おうとはしないのだ。こういうのを見ると炭坑の経営者たちは労働者たちを人間とは見なしていない、落盤事故で死んでも他の人間に取り換えれば済む資材くらいにしか考えていないことが解るのであるが、ここにはキリスト教の精神などは全くカケラも見当たらないのである。
 トヨタ自動車は労働者を大切に扱う企業として知られている。労働者を大切に扱うということは、仕事が樂だということではない。仕事で甘やかすことは人間を大事に扱うこととは全く違う、むしろ反対のことである。トヨタ自動車での仕事はきついと思うが、労働者の生活を考えてトヨタは毎年給与を引き上げている。良い仕事を労働者にしてもらうには労働者の生活が安定していて、会社に対して敵対的でなく、労働者が会社を信頼していることが重要であると考えているからである。
 この映画の炭坑会社は労働者を人間として扱うなどという考えは全く無くて、単に利益を最大限にするために生存可能な最低限の賃金を払って使い潰すことしか考えていないのだ。終わり近くで炭坑の持ち主の電力会社の株主総会にルビーが出席する場面があるが、株主が社宅に水道の設備がないというのは本当かと質問すると、経営者はそれはでっちあげの嘘だと平気で答えるのである。恐らくその経営者は炭坑の実態はなにも知らないし知ろうとも思わない人間なのだ。そもそも炭鉱の労働者などは自分たちと同じ人間であるとは考えてもいないのだ。彼らは利益の数字だけが重要な、古いタイプの経営者なのであるが、それだけでなくいかにもアメリカ的な経営者でなのある。従業員、仕入れ先、資金を借り入れている金融機関、株主、更に近隣社会など企業に関係のある当事者を纏めて今はステーク・ホールダーと呼んで、経営者はステーク・ホールダーとの良い関係を築くことが重要だと言われるが、利益を上げることだけが経営者の唯一の義務だと認識されていた時代が少し前まであったのである。
 この映画をみて驚いたのは炭坑ストがAMWU(アメリカの鉱山労働組合)の指導の下に1年以上も継続し、その間に会社側の雇った人間がルビーの家に銃を撃ち込んだりするといった暴力行為を平気で行なったりしたことである。また警察も裁判所も、財産権を専ら重視して会社側に有利に行動するという事実である。そしてここにはキリスト教の精神などは薬にしたくもないのであるが、アメリカのキリスト教原理主義の実態は一体どういうものなのだろうか。これから調べてみたいと思っている。アメリカ社会の一面を垣間見せてくれて、私には面白い映画であった。
 ところで最近古本屋で『僕はアメリカに幻滅した 繁栄の陰でいま何が起こっているのか?』(太陽企画出版)という本を入手したが、これを書いた小林至氏は、著者略歴によると、千葉ロッテマリーンズに2年ほど在籍して解雇された後、アメリカに渡ってMBAの資格を取って、カリフォルニアのCATVに勤務していたという。まだ何も読んでいないが、アメリカ社会は日本以上にタテマエとホンネの差が大きな社会ではないかと最近私は思うようになっており、この本はそういった点を具体的に解らせてくれそうで読むのが楽しみである。

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2008年5月15日 (木)

映画『ランブリングローズ』を見て

 この映画はなかなか味わいのある映画である。第2次世界大戦の前の時代の話で生活には現代とは違って変な慌ただしさはなく、落ち着いた生活振りが羨ましい。お手伝いに雇い入れた若い女性が性欲の強い女性であったことから起こる事件が中心になっているが、性欲が強いこと自体は本来何も悪いことではないはずである。ところがなぜか良く言われない。男はそれほどではないが、女性は淫らだと強く非難される。それには反セックスが基本になっているキリスト教の思想が深く関係していると思われる。しかしローズの雇い主の夫婦は違っていた。ローズを性欲が強いからといって淫らな女だなどと非難しないリベラルな雇い主の夫婦は立派である。アメリカのリベラリズムの精神の良い面が現れていると思う。
 南部のアメリカでの話である。ローズという若い女性がお手伝いに雇われてやってくるのだが、どうやら彼女には男関係にまつわる悪い評判があったようである。それを知りながら雇うことにした一家の夫婦は立派である。ローズは大柄でスタイルが良く美人だ。性格は良く仕事は真面目にやるし、長男、次女、三男という子どもたちとも仲良く付合っていたのだが、ある晩母親が出かけたときにローズは残っていた父親に愛しているといってキスをせがむ。子どもたちはローズがどうやら父親を好きなことに気が付いていたようで、ローズが愛を打ち明けてキスをせがむところをドアの隙間からじっくりと見物する。父親はキスだけはするが後はローズを遠ざける。そしてその晩に、ローズは興奮して眠れないからといって長男の部屋に押し掛けてきてベッドに一緒に寝かせてくれという。長男は13歳であるからローズと父親のいきさつを見て興奮してベッドに潜り込んで懐中電灯でエロ漫画を見ていたところであったがそこにローズが隣に入ってきたものだから、おっぱいを触らせてくれといって触った後、さらに下の方を触りたいといって触りだすと、ローズは酷く興奮するのであった。翌日はローズの休日であったが、ローズは自分で仕立てたという胸繰りの大きな派手な服を着て父親の車に便乗して町に出かける。そして別れた後若い男に声を掛け意気投合してどこかに行ってしまうが、父親と長男はローズの跡を付けてそれを遠くから見ていて父親は困ったことになったと思う。やがてローズを目当てに男たちが夜こっそりやってくるようになり、庭で鉢合わせをして喧嘩をするといったことも起こる。母親はアメリカの歴史の本を書こうとしているくらいだから考え方が進んでいて、父親は男出入りの多いローズは問題だとしてローズを首にして追い出そうとするが、母親はなかなかそれを認めようとしない。だが、男がローズの部屋にいたことがバレてローズはいよいよ父親から首を言い渡されるが、ローズの次の行き先を父親が探してきて出て行かせる段取りをしたところ、ローズは妊娠していると告げる。しかし医者が診察したところ、ローズは妊娠してなどいなくて、お腹が出てきていたのは昔かかった淋病を治療しないで放置していたために卵巣に腫瘍ができていたためであることが判明する。そしてローズはすでに子どものできない身体になっていたのだ。性病の悪化がローズを淫乱症にしていたのだと医者は言う。ローズは子どもの頃に父親から性的虐待を受けていたことが分かる。手術を受けた後に家に帰ったローズは体調が悪くなって入院するが、肺炎が悪化していたのであった。元気になって家に戻ってからローズは警官と付合い結婚する。結婚式が終わってローズが家を出ることになったときに、長男の少年が涙を流すのだが、少年の性の目覚めとローズへの淡い恋心も見ていて楽しかった。ところでローズは結局4回結婚したが、最後の相手とは25年と長く添い遂げたのであった。最後にローズが幸せになれたことには私もほっとしたのであった。
 この映画の少し前に『dot  ドット』という映画を見たが、この映画でも父親が娘とセックスをしていて、アメリカでは近親相姦が相当に行われているようである。最近見たその他の映画でも、ミステリでもとにかく近親相姦が出てくることが多いのには驚かされる。これほど頻繁に描かれるとなると単なるフィクションとは思われない、きっとアメリカの現実を反映しているのだろう。近親相姦というと日本では母親と息子の関係が問題になることが多いようだから、アメリカでは専ら父親と娘という関係であるのは興味を引かれる現象である。先日ドイツで父親が娘を地下室に長年(確か17年だと思うが)閉じこめて性的に虐待し続けて何人も子どもを産ませていたことが報道されていたが、西洋人の精神構造にはどこか日本人などと違う異常なところがあるように感じられる。

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2008年5月 7日 (水)

映画『グース』が面白かった

 この映画はリサイクル商品として安く買ったものだが、主演の女の子を演じているアンナ・パキンが『キャスティング・ディレクター』に出ていた女の子と同じだろうという興味もあって購入したのであった。このDVDのジャケットはいかにもファミリー向け映画ですよという作りなのできっと損をしていると思う。というのは、見てみたらなかなか見ごたえがあったからである。結構社会性もある映画で、大人も充分に楽しめるように作られている。生物学に興味のある人には面白いと思う。私も何かで読んだ覚えがあるのだが、鳥などの子どもは孵化して最初に目にした大きな生き物を親と思うように遺伝的に作られているのだ。だから少女が拾ってきた卵を温めて孵化させたときから少女は親鳥と同じ立場に立たされたのであった。
 母親の運転している車に乗っていたエイミーは、自動車事故で母親が亡くなり、離婚していた父親に引き取られてカナダに移り住むことになる。父親は田舎に住んでいて、美術館に頼まれたりして金属製の作品を創っている。母親と住んでいたところがニュージーランドだったので、父親もエイミーに会いに来ることもなく、二人の関係は疎遠であった。父親にはガールフレンドがいて家に頻繁に顔を出すのだが、エイミーは彼女にもなじまない。父親の家の周りには池があり森もある。池には野生のグースがたくさん渡ってきていた。そしてある日建設機械がやって来て森の木を倒し始める。その土地を開発しようとしているのである。エイミーが倒れた木のところに来て座っていて、下を見たらグースの卵が目に入った。木を倒されてグースは逃げてしまっていて親鳥が放置していった卵であった。エイミーは家に帰って袋を持ってきて卵を入れて家に持ち帰る。そして布を敷いてその上に卵をおき、さらに建築現場などで良く使っている大きな電球を父親の作業場から持ってきて点灯し卵を暖めると、しばらくして卵から雛が孵った。こうしてエイミーは16羽のグースを育てることになるのだが、雛たちはエイミーを母親と考えているから歩けるようになると雛たちはそろってエイミーの後について歩き回るようになった。雛たちが少し大きくなったところで父親がグースのことで役場に相談に行くと、担当の男が家に様子を見にきて、家で飼う場合には回りに迷惑をかけないようにグースを跳べなくしなければならないといって、羽を斬ろうとする。男を追い返して父親はグースを南に渡って帰るようにする計画を考える。グースは母親と見なしているエイミーの後しか付いて行かないから、父親は娘と二人で軽飛行機を使ってグースの道案内をして渡りをさせようというのである。その計画の実行過程が見ていてとても面白い。4日の行程の第一日の夜グースたちが初日で疲れているため予定より近い飛行場に降りたら、そこはアメリカ空軍の基地であったというアクシデントもあって、TVなどのニュース沙汰になりエイミーと父親は一躍メディアの注目を浴びることになる。まだ途中いろいろなことがあったが、エイミーはぎりぎり予定通りに目指す場所にグースを誘導して連れて来ることに成功するのである。14歳の子どもが軽飛行機を運転して行なった冒険は大成功のうちに終了した。なかなか感動ものの映画であった。私もこの映画のことは最近まで知らなかったから日本でも余り見た人はいないと思われるが、見てけして損はしない映画である。動物好きの人にはこの映画は堪えられないだろう。また14歳の娘に軽飛行機の運転を教えて一緒に長距離飛行をする父親の姿には見習うべき点があると思う。

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2008年5月 6日 (火)

映画『ダイ・ハード4.0』には白けさせられた

 リサイクルショップでゴールデン・ウィーク特別セールで『ダイ・ハード4.0』を随分安く売っていたので買ってきて早速見てみたが、その感想はというと、「荒唐無稽も程度ものだ」であった。漏れ聞いた話では、しばらくブルース・ウィリス出演の映画にヒットが出なかったために、「柳の下のドジョウ」を狙って作ったのがこの作品とか。4作品の中で一番アクションが派手であったが、しかしそれが余りにも行き過ぎていて現実離れをしていたために私には素直に作品世界に入り込めず、心から楽しめるものではなかった。今までの作品では、こんなスーパーマンが果たしているものだろうかと思いながらも、まあ、あり得るかもしれないと思わせるところが味噌であったのだが、今回の作品に限っては天から、ホンマかいなと思わせるところが多々あって白けた気分にさせられることがあったので面白さを阻害されて作品世界にのめり込めないところがあった。悪い方向に定向進化した作品といっていいだろう。
 どでかい犯罪を企み実行していたハッカーをマクレーン刑事が苦労の末に最後の最後にたたきつぶす話だが、今回の作品に4.0とわざわざ.0を付けたのもインターネットとコンピュータがこの犯罪に大きな役割を果たしているから、コンピュータソフトに付けられるバージョン表示を真似たのだろう。
 ニューヨーク市警刑事ジョン・マクレーンはいつも圧倒的に強い敵に一人立ち向かって、途中さんざんやっつけられるがそれでもくたばらない。そして最後に一発逆転、敵をやっつけるというのがダイハード・シリーズの基本骨格だが、今回の敵はサイバー・テロリストである。その中にはカンフーで鍛えられた女や銃器の扱いに慣れた屈強の男たちも交じっている。ハッカーのコンピュータへの進入については既に良く知られていることだが、アメリカ政府機関のコンピュータにさえも易々と入り込むというのは本当なのだろうか。米政府は恥になることだから実際にそういったことがあっても発表などしないだろうから、われわれには実態は解らないのだが、私もインターネットに接続していてこわいと思った経験はある。あらゆる情報がコンピュータに蓄積されていて、いろいろな管理もコンピュータが行なう時代であるからコンピュータが外部の人間の進入によって乗っ取られコントロールされたら大きな被害が起き得ることは確かである。しかし企業にしろ政府機関にしろ今更コンピュータを使わないで業務を行なうことは不可能であるのだが、コンピュータの使用には大きなメリットと共にデメリットもあることは確かである。その危険を大袈裟に描いたのがこの映画であった。私などは貧乏であるから、この犯罪を行なうのに要した巨額の資金をテロリストたちはどのようにして調達したのだろうかと考えると、納得がいかない所があってそのことも私には作品への距離を置かせるものとなったのであった。繰り返すが、度派手なアクションも現実離れしすぎると、馬鹿馬鹿しく受け止められ見る者を白けさせるだけになってしまうのだ。ギリギリのところで現実との接点を失わないことが大事であることをこの映画は教えてくれている。

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2008年5月 1日 (木)

シャーリーズ・セロンの『モンスター』

 今日(2008年5月1日)私はリサイクルショップでシャーリーズ・セロン主演の映画『モンスター』のDVDを買った。値段は税込み680円であった。私にとってはこの買い物は大変なお買い得であったが、他方この映画がこんな値段で売りに出ていることは非常に残念なことであった。既にGEOで借りて見ていて、私はこの映画を高く評価していたからである。この映画のジャケットに印刷されているシャーリーズ・セロンの顔は本来の彼女の綺麗な顔からはるかに隔たったものであったから、多分店の人はDVDの評価を間違ったのだろうと思われる。
 ところでインターネットの映画データベースのallcinemaでシャーリーズ・セロンの出演映画を調べて、私が見た映画をチェックしたら、10本であった。それを以下に記載する。
 ①サイダーハウス・ルール
 ②バガーヴァンスの伝説
 ③コール
 ④トリコロールに燃えて
 ⑤モンスター
 ⑥スウィ−ト・ノベンバー
 ⑦ノイズ
 ⑧ディアボロス
 ⑨すべてをあなたに
 ⑩スコルピオンの恋まじない
 この中で特に私の印象に残ったのは『トリコロールに燃えて』と『モンスター』であった。『トリコロールに燃えて』ではシャーリーズ・セロンは、モニカ・ベルッチ主演の『マレーネ』と似たようなシチュエーションの女性、つまりドイツ軍占領地域で占領軍の将校などの相手をしていた女性たちがドイツ軍撤退後に占領地の他の住人女たちに裏切り者としてリンチを受けるという役柄が強く私の印象に残った。ドイツ軍の将校などと付合っていた女性たちは将校などのコネで食品、酒、タバコなどの物資の支給を受けて豊かな生活を送っていたから、占領地の他の女性たちからは恨みを買っていたのだ。ただその恨みの感情の中には美人のゆえにドイツ軍将校の付き合い相手として選ばれた女性たちに対する彼女らのねたみの感情が相当含まれているように思われる。単純に正義の感情だけではないのだ。
 『モンスター』を除く9本の映画では、彼女はどれも基本的に美人としての役柄で出ているのだが、『モンスター』だけは全く違っていた。私はシャーリーズ・セロンがこの映画に出演したことで彼女に対する認識を変えた。単なる美人だけが取り柄の女優ではないことを知ったのである。大変役者根性のある女優であると考えるようになった。
 『モンスター』は実話に基づく映画とのことである。シャーリーズ・セロン演ずるアイリーン・ウォーノスは立ちんぼの売春婦である。学校もろくに出ていないからまともな職業には就けなかったのだ。アイリーンはデブであったから、シャーリーズ・セロンは随分体重を増やしていて、顔も元々のものとはかなり違って本来の綺麗な顔付きではなくなっていた。だからジャケットの写真は今までの彼女とは似ても似つかないものになっていたのである。この映画を見ると立ちんぼの売春婦は非常に危険な職業であることが分かる。サディストの客もいれば、警察官の中には見逃すことの代償でただでセックス得するような者もいる。貧しい家庭に生まれて教育もろくに受けることができなかった女は売春婦にでもなるしかないというのがアメリカ社会の現実なのである。そしてサディストの客から逃れるためたMねに客の拳銃を入手してその客を殺してから、彼女は客を拳銃で殺す連続殺人犯になり、たまたま知り合った若い女を愛するようになるが、裏切られて死刑になる。彼女はけっしていわゆる人を殺すことに快感を覚えるような異常な精神の人間ではなかったのだが、過酷な経験が彼女を連続殺人犯に変えてしまったのであった。人生において愛されることのなかった女性の悲劇であった。見て普通に楽しむタイプの映画ではないが、見て非常に面白いし大いに見る価値のある映画である。

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2008年4月26日 (土)

映画『オリヴァー・ツイスト』を見て(その3)

この稿は、原作の小説を読み終わった後にミュージカル版の映画『オリバー!』を見てからブログに載せるものだが、今小説『オリヴァー・トゥイスト』(講談社文庫)を読んでいて気がついたことなどを忘れないうちに書いておくことにした。
 青少年スリ集団の親玉フェイギンがユダヤ人であることは映画を観ただけでは私には分からず、小説を読んで初めて知ったことは既に書いたが、ディケンズは当時の人たちと同じようにどうやらユダヤ人には相当の偏見を抱いていたようだと、小説での描かれ方から強く感じられた。例えば次のような文章を読んで、そう感じないだろうか。
 「うそ寒い風の強い夜のこと、ユダヤ人はしなびた身体を大外套でしっかりとくるみ込み、ボタンをかけた上に襟を耳まで立て、顔の下半分を完全に隠すよう隠れ家から出てきた。」(P223)
 この場面でフェイギンをディケンズはわざわざユダヤ人と書いているとしか思われないが、それはその方が読者に受けるからと判断したのだろうか。小説の中でディケンズはフェイギンを単にユダヤ人と書いていることも多いのである。
 次の文章にはもっと露骨にディケンズのユダヤ人に対する差別意識が現れている。
 「通りの敷石の上には泥が厚くたまり、街頭には黒い霧が立ちこめ、小糠雨がしょぼしょぼと降っていて、手に触れるものはすべて冷たく、じっとりとしていた。ユダヤ人のような輩(てあい)が外出するのにうってつけのような夜だった。」 (P223)
 私はディケンズの長編小説は、『荒涼館』、『リトル・ドリット』、『デヴィッド・コパフィールド』、『バーナビー・ラッジ』、『エドウィン・ドルードの謎』、『大いなる遺産』、『オリヴァー・トゥイスト』など読んできたが、 今回『オリヴァー・トゥイスト』を読み直すまでディケンズがユダヤ人に対して強い偏見を抱いているということには全く気がつかなかったのである。ヨーロッパではユダヤ人に対する偏見、嫌悪が広く存在しているようである。日本では何かと差別排除をいっているが、ヨーロッパでのユダヤ人に対する差別は今はどうなっているのだろうか。
 ところで読み進んできた『オリヴァー・トゥイスト』の十九章の一部を、岩波文庫の本田季子訳とたまたま読み比べていて、改めて岩波文庫の翻訳書にも本当に酷いものがあることを実感することとなった。それを具体的に引用するので読み比べてもらいたい。本田氏の翻訳は、使用する単語を含めて日本語としての質が余りにもお粗末で学校で行われる授業での直訳を思い出してしまった。日本語としてのこなれ具合が全くレベルが低く、ぶちまけて言えばまともな日本語になっていないのである。こんな翻訳を平気で出版する岩波書店とはいかなる出版社なのであろうかと、今まで思ってもみなかったことを思ってしまったのであった。私の理解では編集者というのはこういう時にも何にも言わないで黙って原稿を受け取ってくるのが仕事なのであろうか。もしそうなら私はその編集者は仕事をしていないと思う。
 「以上の予備条件が協定されたので、サイクス氏はすさまじい速度でブランデーを飲み、たいへんな格好で鉄梴を振りまわしだした、そして同時に、きわめて非音楽的な歌の一節をわめきたて、その間に乱暴な呪いの言葉を吐いた。ついに、自分の職業が得意でたまらなくなって、強盗の道具箱を持ち出すと言い張った。そして、よろけながらそれにぶつかり、中に入っている種々の道具の性質と特性、並びにその構造の特殊の美しさについて説明しようと、箱を開けるやいなや、箱の向こうの床の上に倒れ、そのまま眠ってしまった。」(P235)
 アンダーラインは私が日本語として問題があると考えた文章である。特に「よろけながらそれにぶつかり」の文章は日本語とするなら「よろけてそれにぶつかり」だろうし、さらにその置かれている位置そのものが不適切なので、後の文章と合理的に繋がらないのである。
 次は小池滋氏の翻訳であるが、比べて見るといかにに日本語としてこなれていて、読みやすくかつ分かりやすいかがよく理解できるであろう。
 「以上の予備交渉が成立したので、サイクス氏は次に猛烈なペースでブランデーをあふり、物騒な具合に鉄棒を振りまわしだした。それと同時に何とも調子ぱずれの歌をいくつも、乱暴な悪態の伴奏つきで、がなりたてた。しまいに彼の職務熱心が昂じたあまり、押し入り強盗の道具箱を是非見せてやるぞといってきかず、それを抱えてよろよろ入ってきて蓋を開け、中身の道具類の効能特性、その出来栄えの美観特色を説明しかかった途端に、床の上の箱につまずいてぶっ倒れ、そのまま寝込んでしまった。」(P235)
 外国文学の翻訳書の場合、翻訳者の日本語能力の如何によっていかにすらすら分かりやすく読めるか、内容の味わいが違ってくるかが、以上の引用によってハッキリと理解いただけたことと思う。読者の目に恥をさらさせる前に、読者の目に触れないようにするのは編集者の重要な仕事であると思うのである。
 ところで小説の『オリヴァー・トゥイスト』の初めの方でオリヴァーが葬儀屋を朝早く抜け出て家出をした後のところで私にはどうもおかしいなと思われる箇所があった。第八章の初めである。
 「そばの里程標の石に大きな字で、ここからロンドンまでちょうど70マイル、と記されてあった。それを読んで少年の心の中には、次々にいろいろな新しい考えが浮かんできた。」(P89)
 ところが第三十一章には、オリヴァーは家出の頃に文字が読めなかったことを証する次のような描写がでてくるのである。
 「毎朝小さな教会の近くに住んでいる、白髪のおじいさんのところへ出かけていっては、読み書きを教えてもらった。この先生はとてもやさしい言葉で根気よく教えてくれるので、オリヴァーは何とかして先生を喜ばせようと、勉強に励んだ。」(P388)
 オリヴァーが育てられた救貧院の描写を読む限りでは、そこに収容されている子どもたちは働かされることはあっても、教育を受けることなど金輪際ありそうには見えなかったので私にはオリヴァーが里程標に書かれていることを理解できるとは思われなかったのである。小池滋氏は文章に勢いなどを考慮してあえて第一版を翻訳に使用したそうだから、以後ディケンズによってその辺の矛盾は改定されたかもしれないのだが、オリヴァーの識字能力については明らかに矛盾がある。
 話は変わるが小説に出てきた次のような葬式に関する事実にも興味を引かれた。本当にこんな習慣だったのだろうか。
 「白い喪章を付けているところを見ると、葬られるのは若い人らしい。」(P401)
 さらに次の文章「くそっ、陪審員みたいに面白くもおかしくもねえ。」(P476)に現れた陪審員という言葉だが、この時代にイギリスでは既に裁判に陪審制度が取り入れられていたのだろうか。またこの時代どのようにして陪審員を選んでいたのだろうか。D・W・バッファの『弁護』(文春文庫)を読んだ私には大いに興味を引かれた事柄であった。暇を見て調べて見たい。
 なお今回読んでいて気がついたのだが、ディケンズの小説では重要な出来事が具体性がないままに、そしてご都合主義的に語られるという特徴があるように思われる。この小説でもローズ・メイリー嬢が田舎に行っていた時に、ある日突然酷く体調を崩し病気になるのだが、その病気の内容は結局ハッキリと説明されることはなく、医者が呼ばれて快方に向かう。現代の小説なら病名が具体的に示されるに違いないのだが、ディケンズはそれを説明しようともしないのである。どうやって病状が回復したかも。
 フェイギンの仲間にナンシーという女性がいるが、彼女は周りの泥棒たちばかりという環境にはそぐわない気立てのよい娘なのだが、オリヴァーを助けようとしてフェイギンに疑われ配下のノア・クレイポール(葬儀屋でオリヴァーの先輩だった男)にスパイされ裏切ったと判断されてサイクスに殴り殺される。サイクスは非常に粗暴な男なのだが、ナンシーの幻を見てすっかり精神的に参ってしまう。フェイギンが警察に捕まってその配下の男たちが隠れているテムズ川沿いの崩れかかった家に逃れているところにサイクスも隠れに来たのだが、警察が追ってきて屋根に上って逃げようとしたサイクスは誤って縄で首を吊る形になって死ぬ。小説ではこの場面ではオリヴァーは出てこないのだが、オリヴァーなしでは観客の興がそがれるからだろう、映画ではオリヴァーもフェイギンにこの家に連れてこられて来た形になっていて、サイクスに強いられて屋根の上り、オリヴァーの目の前でサイクスは首を吊るという形になっている。
 サイクスが誤って首を吊る形になって死ぬ場面で小説ではオリヴァーはこの家にいないのだが、それは以上のような事情のためである。オリヴァーはサイクスに連れられて押し込み強盗に入ろうとしたメイリーの家で執事のジャイルズにピストルで撃たれて腕に大けがをするのだが、サイクスはオリヴァーが逃げる邪魔になったので途中で溝にオリヴァーを捨ててしまう。オリヴァーはジャイルズなどに見つかってメイリーの家に連れていかれるが、ローズとメイリー婦人によって保護されて、以後はフェイギンともサイクスとも一切接触することがなくなるのである。
 またオリヴァーの身の上については映画では詳しく触れられないが、実は父親は金持ちで結婚していたが、無理やりさせられた結婚関係は完全に破綻していて妻とは別居しており、父親は良家の娘と知り合い愛し合うようになってその結果オリヴァーは不義の子として生まれたという秘密がブラウンロー氏によって明らかにされる。その過程でオリヴァーの異母兄のモンクスの財産横領行為も暴かれる。ポランスキー監督の映画ではモンクスは出てこないが、デヴィッド・リーン監督の映画ではモンクスも出てくるが、オリヴァーとの関係は余りハッキリしない。
 オリヴァーは救貧院という酷い環境で育ったにも拘わらず悪いことのできない性格である。フェイギンなどがあれこれと仕込んで掏摸をやらせようとしたが、オリヴァーはそれを嫌がって仲間になろうとはしない。こうしたオリヴァーの性格は、ディケンズの考えではどうやら父親や母親から引き継いだ遺伝的なものと考えられているようだが、私などにはひどく不自然なものに思われる。またナンシーがオリヴァーのために酷く熱心に動こうとするのも自然な行動には到底見えない。人間が生きていく上で必要な物を得るために行動するときに、育った環境や今現在生きている環境に染まらないということはあり得ないだろう。悪事を、それが悪事だからという理由でする人間はいないだろう。普通は生きていく上で已むを得ないからするのだし、廻りの影響を強く受けるのだ。
 いよいよ最後の方の五十章にフェイギンの裁判の場面が描かれているが、そこでは陪審員制の裁判が行われていて、陪審員の人数は記載されていないがは評決をするために別室に移り、出てきてから有罪の評決を裁判官に伝えた後、フェイギンは死刑を判決された。フェイギンの罪状は窃盗罪の筈だが、それに対して死刑の判決は、現在の感覚からすると重すぎる。しかし当時とては何らおかしなことではなかったのである。破産した人間、一家が債務者監獄に収監されていたイギリスである。ディケンズは『リトル・ドリット』で債務者監獄に住む一家の話を語っている。多重債務で自己班産した日本人が刑務所に入れられたなどという話をわれわれ日本人はけっして聞くことはないが、かつての大英帝国では違っていたのである。財産権は神聖であったのだ。
 2008年4月26日小説『オリヴァー・トゥイスト』を読み終わった。その感想はというと、まず最初に言わなければならないことは、全く哀しいことだが、見事に内容を忘れ去っていたということである。オリヴァーが救貧院育ちであったことさえ覚えていなかったのである。私は本を買うとその裏表紙に購入日を記載し、読み終わるとその日を記載している。この本の裏表紙をみると「84.5.4読了」と記載されていた。24年前である。それでもここまで徹底して内容を忘れてしまっていたとなると、何とも情けない限りである。
 この第3回も長くなったので、『オリヴァー・トゥイスト』の映画について書くのは次回に回すことにしよう。

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2008年4月17日 (木)

『草の竪琴』、小説と映画

 中古品販売店で『グラス・ハープ』というDVDを見つけた。聞いたこともない映画だったので、手に取って見たら「草の竪琴」という日本語タイトルが小さく記載されていた。何かで見た題だなと思って、裏返して原作の記載を探してみたらトルーマン・カポーティと出ていて、私が持っている小説であることを思い出した。
 小説は新潮文庫で出ている薄い小説であるので、まず先に小説を読んでから映画をみることにして読み始めた。トルーマン・カポーティの小説を読むのは『ティファニーで朝食を』(新潮文庫)を読んだのが初めてであったが、この小説の舞台は『ティファニーで朝食を』がニュー・ヨークという大都会であるのに対して、アメリカ南部の田舎町である。年配の姉妹に引き取られた少年の物語であり、話はゆったりと穏やかに展開する。
 ところでこの小説に出てくる保安官は非常に程度の悪い男であるし、牧師も巡回説教を行っている母親とその子ども15人が得た町の人たちが寄進したお金をネコババするといったこれまた品性下劣な人間である。私はメリメの小説『オーバン神父』(新潮文庫『カルメン』所収)を読んで、カトリック教会の神父の堕落ぶりを見て宗教というものにおおいに疑問を感じたのであるが、プロテスタントの牧師も同じことをやっているのだ。ともにお金に卑しい人間なのである。小説が描いていることが事実とは限らないではないかと言われそうだが、全くありそうもない話を書いたら読者に反発を受けるだけだから、恐らく似たようなことが実際にあったのだろうと私は考える。最近私は宗教界にいる人間が立派であることは案外少ないだろうと思うようになった。なお教会の中での立場は同じような者であっても、カトリックでは神父といい、プロテスタントでは牧師というが、英国国教会では司祭というとのことで、かの有名な英国の作家チェスタトンの創造になるブラウン神父は従ってカトリック教徒なのである。
 この小説の世界(1940年代後半)は現代とは時間感覚が全く違っていることに羨ましさを感じた。テレビだ、携帯電話だ、インターネットだということでわれわれは彼らとは全く異なるせわしない世界に生きているが、それらを除けば彼らの生活は現代のわれわれとあまり違っていないように思われた。大戦後のわれわれの社会はアメリカでは既にガルブレイスが名付けた『豊かな社会』であっったが、しかし田舎に住む人々の日常の生活振りは現代とは全く違っていて、時間がゆったりと流れていることが分かる。
 以下は映画を見てから書いたものである。
 映画は小説の雰囲気をどこまで表現しているだろうかと興味を持ってみたのであるが、この映画はほぼ原作に忠実に作られていて、ゆったりとした時間の流れを感じることが出来た。しかしこの映画は受けなかったのだろうと思う。最近の派手で際どい演出とは無縁の内容であるから、現代人には物足りなくて退屈なのだろうと思う。
 ところでこの原作となった小説を書いたトルーマン・カポーティは、解説によると晩年は酒と薬物に溺れたとのことであるが、こんな叙情的な小説を書いた人間がそういった事態に陥るについては、西洋人の精神構造には何か根本的なところに問題があるように私には思われるのである。彼らの精神の基底にはキリスト教文化があり、今のところ私には何がどうといえないが、それと関連があるのではないかと想像される。
 現代の日本ではバスに乗っていても、電車に乗っていてもケータイの画面を見詰めている、クルマを運転しながらケータイを顔に当てている人たち。図書館に行くと受験が近くなったせいか読書室には受験勉強とおぼしい学生が多くなったが、必ず誰かしら一人くらいはIPODで音楽を聴きながら勉強をしている。インターネットやIPODは果たして人間にとって本当に良いものなのだろうか。そんなものなどなくても十分に時間を過ごせるほうが生活の内容としてはむしろ高級なのではないか。豊かさの中でわれわれは生活の中での時間を失ってきていると思う。本来進歩とは時間的なゆとりを生み出すものとかつては考えられていたのに、実際には豊かさの中で現代人は時間に追われる生活になってしまっているのである。時間的にゆったりと暮らせるのは大金持ちと年金生活者くらいのものだろうか。しかし働く人間に時間的ゆとりがないというのは、進歩という観点から見ると全くおかしなものだと私は思う。現代の経済学者は市場経済がもたらすことはすべて善と考えているようで、それは物事を根本的に考えることをしなくなった思考停止状態にすぎないと私には思われるのである。経済のグローバル化と言われてきてから一面では物質的な豊かささえ後退してきている。世界が一つの市場の中に引き込まれれば、平準化の作用が強く働くから後進国の人たちの生活水準は向上するだろうが、先進国では後進国の製品との競争に押されて賃金レベルが低下する事態に至る業種が出てくる。ワーキングプアと言われる人たちである。後進国の人たちの生活水準を引き上げつつ、先進国の人たちの生活レベルを落とさないことは果たして可能なのだろうか。
 話が随分それてしまったが、『グラス・ハープ』のような映画が作られるアメリカの映画界は好ましいし、われわれはこうした映画を観て現在の生活内容を振り返って見ることもよいのではないかと思う。

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2008年4月12日 (土)

映画『オリヴァー・ツイスト』を見て(その2)

 先日デヴィッド・リーン監督の『オリヴァー・ツイスト』を見たが、さすが『アラビアのロレンス』の監督だけにポランスキーに負けない出来栄えである。この映画は1947年製作であるから白黒映画である。ポランスキーの映画を観てから小説の『オリヴァー・トゥイスト』を読み直しているが、小説はオリヴァーの誕生のことから始まっていて、臨月の美しい若い女性が救貧院の前に行き倒れてそこでオリヴァーを生んでまもなく亡くなるのだ。、リーンの映画ではそれが丁寧に描かれていたが、私はそれが描かれた方が映画の内容を理解する上でもよいと思う。しかし過去の映画を意識して、ポランスキーはわざとオリヴァー誕生の話を飛ばしたのだろう。
 またどちらの映画でもスリ集団の親玉として登場したフェイギンは、小説ではユダヤ人と書かれていて私は初めてそうと知ったのだが、西洋人が見れば外見だけでユダヤ人と解ったのだろうか。リーンの映画のフェイギンはアレック・ギネスが演じているのだが、メイクで大きな鉤鼻をしてるために彼であるとは見ただけでは分からなかった。しかしポランスキーの映画のベン・キングズレーよりもよほど迫力のある悪人役の演じ振りであった。
 既に書いたことだがディケンズがなくなったのが1870年、日本の明治3年であり、ディケンズが小説の中で描いた時代というのは日本でいうと江戸時代に該当する時代であったのである。
 オリヴァーがロンドンについてスリの若者ジャック・ドーキンズに連れて行かれたフェイギンの隠れ家は貧民街にあって、映画で見ても薄汚れた不潔としかいいようのないところにあった。オリヴァーは救貧院育ちだが彼の目から見ても「こんな汚らしい惨めな場所を見たことがなかった。通りは狭くて泥だらけ、あたりにはいやな臭いが立ちこめていた」(講談社文庫p97) オリヴァーはフェイギンの隠れ家で一晩ぐっすり眠って起きると、水差しから洗面器に水を注いで顔を洗うが、フェイギンに言われて洗った後の水を窓から外に捨てる。当時のロンドンにはまだ下水道は完備しておらず上の階の人たちは汚水を平気で窓から街路に捨てていたのである。汚水ばかりではない。糞尿もそうなのだ。江戸時代の日本では糞尿は農家の肥料として使われていて、農家が厠の糞尿溜めから引き取る時には長屋なら大家に野菜などをお礼としておいていった。糞尿は有償で引き取られていたのである。まさに循環型社会であったのだ。だから日本では道端に糞尿が捨てられることなどなかったのである。ロンドンの道端には汚水や糞尿が平気で捨てられていたのだから、「嫌な臭いが立ちこめていた」のも当然なのである。またイギリスの当時の小説ではほとんどお風呂にはいっている場面を見た覚えがないが、日本の江戸時代には湯屋とよばれた公衆浴場が発達していて、庶民が入浴するのに利用していた。湯屋の2階は休憩場所になっていて、お茶を飲んだり囲碁将棋をしたりしてくつろぐことが出来たのであるが、ヨーロッパにはそのような施設は当時存在しなかったようである。日本人の方がよほど清潔に暮らしていたのだ。当時イギリスでは産業革命で日本より一面では進んではいたが、大都市の公衆衛生面で見る限りは日本の方がずっと優れていたのである。
 さてリーンとポランスキーの映画を比較すると、主人公のオリヴァーについてはポランスキーの映画では頬もふっくらとして健康な感じの少年であるが、リーンの映画では頬のこけた痩せて健康状態の良くない印象の少年が出ていて、この方が内容に即した人選となっている。今どきは栄養不良で痩せこけたような少年を探しだすことは困難なのでポランスキーは已むを得なかったのだろうか。また映画の登場人物についても違いのあるところがあって、リーンの映画で出てくるモンクスという人物がポランスキーの映画では出てこないが、この人物は、小説の先を拾い読みした限りではかなり重要な役割を果たす人物なのである。私はまだモンクスが出てくるところまで小説を読み進んでいないので、後でまた触れることにしたい。
 なおオリヴァー・トゥイストの映画については、もう一つミュージカルの『オリバー!』という映画がある。キャロル・リード監督の作品で、153分もの長尺ものであるが、アカデミー賞を受賞している。次回はこれを見た後、そして小説も読み終わってから書くことにしたい。

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2008年4月 4日 (金)

映画『オリヴァー・ツイスト』を見て(その1)

 先日(08年4月1日)NHK・BSでロマン・ポランスキー監督の『オリヴァー・ツイスト』を見たのだがディケンズの原作は2回ほど読んだ覚えがあるのに、映画を観ていて小説の内容との異同がよく分からなかった。映画の内容には少し違うところがあるようにも思われたが、その辺はもう一度読み返して見てから続きを書くことにする。ただし映画の内容に則して言うと、少し前に見た同じディケンズ原作の映画『ニコラス・ニクルビー』でも、寄宿学校の経営者が食費代をけちって生徒たちにはちゃんと食事を与えないことが描かれていたのだが、ロマン・ポランスキーの『オリヴァー・ツイスト』でも救貧員の運営者が、自分たちはたらふく食べていながら、収容されている子どもたちには栄養不良になるほどの貧弱な食事しか与えないという同じ光景が描かれていて、昔の英国人はよほど程度の低い連中ばかりで、相当の悪党ぞろいであったという印象を受けた。
 ところで江戸時代へのタイムスリップした男性が江戸時代の人たちと暮らして現代の日本人の目から見た彼らの実際の暮しぶりなどを描いた小説を書いている作家の石川英輔さんが、江戸時代と同時代のイギリスにタイムスリップしてその社会を描いて江戸の人たちと比べるという小説を書いている。(書名は目下調査中)その中で、石川さんは同じ時代の日本人の方が英国人よりも人間としての程度は高かったと主張しているが、ディケンズの『オリヴァー・トゥイスト』(講談社文庫)を読み始めたら私も石川さんの言うとおりだなと感じ始めた。ディケンズが亡くなったのは1970年であるから明治3年であり、したがって彼が書いた小説は、基本的に日本の江戸時代と同時代の英国の人々を扱っているのである。だから彼の小説に描かれた人たちを直接江戸時代の日本人たちと比べても構わないのだ。
 オリヴァー・トゥイストは、救貧院の前に行き倒れた若い女性から生まれた。母親は彼を生んだ後すぐに死んでしまった。(映画にはオリヴァーの出生のことは出てこない)救貧院という親のいない子供を育てる福祉施設が設置されていたという意味では、英国は江戸時代の日本よりは進んでいたかもしれないが、その救貧院での子どもたちの扱い方は、成長に必要な栄養には全く不十分な食事しか与えず、子どもたちを誹謗する言葉を使うことや体罰は当たり前といった非常に残酷なものであった。その一方この施設の運営者たちはたらふく食べて肥え太っていたのである。そしてそれを当然のことと考えて何ら恥じることがなかった。キリスト教徒としての愛の精神などはクスリほどもなかったのである。とことん偽善的な連中がはびこっていたのだ。
 オリヴァー・トゥイストは10歳ころに救貧院の口減らしのために葬儀屋に徒弟奉公に無理やり出されるのだが、その仕事が嫌になりある朝出奔する。そして成り行きによりロンドンに行くことにし野宿しながら長い道のりを歩いて行き、ロンドンの近くで行き倒れになりかかっているところに、スリ集団の一人ジョン・ドーキンズという若者に出会うのである。
 ところでドーキンズというと、『利己的な遺伝子』で有名なリチャード・ドーキンスと同じような姓だから、私も覚えていてもよさそうなものだが、全く記憶に残っていなかった。
 私は読んだ本には必ず裏表紙に読了した日付を記載するのだが、それを見ると、私が『オリヴァー・トゥイスト』を読んだのは1984年であったから、その頃は私がまだリチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』のことを知らなかったことが分かる。『利己的な遺伝子』の翻訳は既に1980年に紀伊国屋書店から出版されていたが、私はずっと後になるまでこの本と著者のことは知らなかったのであった。

 (今日4月5日にドーキンズとドーキンス、どうスペルが違うのだろうと気になって、まず『利己的な遺伝子』を調べて見るとRichard Dawkinsと記載されていた。そしてディケンズの本も出来る範囲で集めていたので本棚を探して見ると忘れていたペーパーバックの原書Oliver Twistが出てきた。裏表紙を見ると購入日が2000年8月と記載されていた。早速開いて調べて見ると、John Dawkinsと出ているではないか!同じ Dawkinsが科学書ではドーキンス、小説ではドーキンズと訳されていたのだ。どちらが発音としては正しいのだろうか?)

 話は変わるが、私は外国文学については翻訳者が違うと同じ作品でも買ってみる癖があり、ドストエフスキーの小説について集英社からでた江川卓さんの『カラマーゾフの兄弟』を読んで、以前に読んだ他の翻訳者のものと比べて、翻訳によってこんなに小説の面白さが違うものかと思い知らされた。翻訳者の日本語の表現力の違いが読者に大きな違いをもたらすのである。
 高校時代に国語の先生から、米川正夫の翻訳のひどさを教えられていたので、私は基本的に米川訳のドストエフスキーは買わなかったが、岩波文庫でずっと米川訳が出ていることに疑問を持つとともに、岩波文庫そのものについても完全に信用することはなくなったのであった。岩波文庫の『罪と罰』も今は江川卓さんの訳で出ているが、岩波文庫で出ている『オリヴァ・ツウィスト』を、試しに小池滋さん訳の『オリヴァー・トゥイスト』(講談社文庫)と読み比べて見たところと、江川訳と米川訳との違いと同じ感想を持ってしまったので、参考のために書き出しのところを実物によって併記しよう。
 まず岩波文庫の本田季子訳を引用する。
 「ある町の-------種々の理由から、その町の名をはっきり言わない方が慎重だと思われるし、それかといって、かりの名も付けたくないのだが-------公共の建物の中に、大小を問わず、大方の町に昔から存在する、一つの建物がある。すなわち、救貧院である。この救貧院に、ある日-------少なくとも今のところでは、読者にはまったくとるに足らぬことと思われるから、わざわざ正確な日付をここに記す必要はないが-------この章の冒頭にある名前の、一個の人間が生まれた。」(p11)
 人間の数を表現するのにこの人は「一個」と書いているが、日本人は普通こういう表現は使わないものではないだろうか。この人の日本語のセンスを疑わざるを得ない。
 次は講談社文庫の小池滋訳である。
 「いろいろな理由から名前は言わぬ方がよさそうだし、さりとて仮の名をつける気にもならないから、ある町としておくが、そういう町の公共の建物の一つに、町の大小を問わずたいていの町におなじみの名誉なものがある。すなわち救貧院であるが、この町の救貧院で人間の一人がこの世に加えられた。その日時なんかは、少なくとも今のところでは読者にとってどうでもよさそうなことだから、わざわざここで断わる必要もあるまいし、その名前はといえば、既にこの章の冒頭に書いてある。」(p13)
 読み比べれば、どちらがすらすらと読めて内容がすっと頭にはいるかはすぐ分かることだろう。そして日本語としての文章のこなれ具合がいかに大きな差があるかもよく分かるはずだ。『オリヴァー・トゥイスト』は大変長い小説で、講談社文庫では本文だけでも670ページはあるのだから、読みやすさ、分かりやすさは読者にとってとても大きな要素である。だから出版社は、翻訳書を出版するに当たっては翻訳者の選定に大いに注意を払う必要がある。上智大学教授だった翻訳家の別宮貞徳氏は英語の本について翻訳批評の本を何冊も出版していて、私は愛読したが、翻訳書の日本語としてのこなれ具合は、内容の正確さとともに重要な要点なのである。私が経験した範囲でも、実際には日本語としてのこなれ具合が相当にひどい翻訳書が多く出版されている。例えばイギリスの宗教学者カレン・アームストロング女史の『キリスト教とセックス戦争 西洋における女性観念の構造』(柏書房)という本を、必要があって読み始めたのだが、まず訳文の日本語としてのこなれ具合が悪いために内容を理解するのに非常に苦労したし、更にアームストロング女史が紹介している小説の名前も正しく記載していないのである。英国の作家サミュエル・リチャードソンの代表作『クラリッサ』が『クラリスタ』と書かれているし、ノーマン・メイラーの日本語題名『アメリカの夢』(河出書房新社)が『アメリカン・ドリーム』と書かれている。翻訳書名があるものはそれを記載するべきである。翻訳者もろくに調べようとしなかったようだし、編集担当者もチェックしなかったのだ。学術書の場合は出てくる人間の名前や本の書名などはことに正確を期すべきなのに、である。
 話が随分『オリヴァー・トゥイスト』からそれてしまった。次回は映画と小説の異同を中心にして書くことにする。

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2008年3月24日 (月)

映画『夢見る頃を過ぎても』が面白かった

 GEOで借りた3本の映画の中に一つだが、ちょっと面白いかなと思っていただけだったのが、全く思いがけずとても面白かったのである。この映画については全然知らなかったのだが、こういう映画に出会うこともあるのが映画の楽しみであると思う。
 主演はキャシー・ベイツとルパート・エヴェレット。ルパート・エヴェレットのことは余り覚えがない。脇役にスティーブ・ブシェーミもちょい役で出ているはずなのだが、不注意のせいで出ているのが解らなかった。もういちどじっくり見直してみたい。ジュリー・アンドリュースが思い掛けない出方で2つの場面で出てきて歌を歌うのもなかなかの見物である。残念ながらもうお歳ではあったが。
 タイトルからするとうら若い女性が主人公の映画かと思われそうだが、全く違って結婚25年で夫から離婚を言い出された中年女性(孫がいるのであるが)が主人公で、キャシー・ベイツは弁護士の妻である。夫は家を出て、彼女は大好きだった男性歌手ビクター・フォックスがシカゴで殺されたため、彼女はその葬儀に参列するために英国に出かける。ビクターは英国人であったから、当然葬儀も英国で行なわれるのである。彼女は葬儀の前にビクターの家に花束を供えに行くのだが、そこでビクターのゲイの恋人に会う、そしてその男と彼女は親しくなり、一緒に殺人犯を捜すためにシカゴに戻ってきて、最後に犯人を見つけるのであるが、この映画は基本的にはコメディ仕立てになっていて笑わせる。
 映画の元のタイトルはUNCONDITIONAL LOVEだから日本語のタイトル『夢見る頃を過ぎても』というのは一寸どうかと思うのであるが、歳を取っても夢を忘れるなというつもりなのだろうか。
 映画は観てみないと面白さが解らない場合が多い。大して期待していなかった作品が思いがけず面白かったりするのも、映画を観る楽しさの一つで、この映画はお勧めである。

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2008年3月19日 (水)

映画『ストレイト・ストーリー』の面白さ

 映画監督デイヴィッド・リンチの作品というと、『ブルー・ベルベット』、『マルホランド・ドライブ』、『ロスト・ハイウエイ』、『ワイルド・アット・ハート』など、どちらかというと刺激の強い映画を思い浮かべるが、この『ストレイト・ストーリー』はそれらとは全く毛色の違った味わいのある映画である。
 ストレイトという英語の単語いは、誰もがウィスキーのストレイトなどの形容詞を思い浮かべるだろうが、実はこれが主人公の名前なのである。アルヴィン・ストレイトという80歳の爺さんが思い立ってアイオワ州から10年来或る行き違いから行き来のなかった兄を訪ねてウィスコンシン州に一人で旅をするという、ロード・ムービーである。ところが旅の手段に使うのは普通の自動車ではなくて、極く小さなトラクターである。それに寝床用の大きな荷車のようなものを引かせて、時速8キロで移動するのである。目が悪くなって自動車免許を持てなくなったからトラクターなのである。途中で出会う人たちや交通事故、トラクターの故障と修理といったものが描かれているが、農村地帯を普通の移動速度の10分の1以下のスピードで移動する様子は映画を観ている人の心をゆったりとさせてくれる。今まで見たリンチの映画には感じなかった不思議な心持ちである。ロード・ムービーは日本ではほとんど作られないが、大陸の横切る大きな道路でないとロード・ムービーの雰囲気が出ないことがこの映画を見てもよく分かる。のんびりと移動する爺さんの旅に付きあっていると、毎日の時間に追われる生活であくせくした気持ちがほぐれて、良い気分になる。最近のアメリカ映画の多くはテンポが速くて観ている者の神経に強い刺激を与えるものが多いが、こうしたスローテンポの生活を描いた映画もたまには作ってくれるとうれしい。
 豊かな社会はせわしない社会であると思う。豊かなことは良いことなのだが、良いことばかりというのはないもので神経が疲れる生活でもあるのだ。

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2008年2月12日 (火)

映画『パワー・オブ・ワン』はなかなか見ごたえがあった

 映画『パワー・オブ・ワン』は廉価のDVDであるが、内容は見ごたえがあった。最近よく思うのであるが、英語のタイトルをカタカナに変えただけで発売する日本の映画業界の安易さはいい加減にしてもらいたい。パワーもワンも簡単な単語ではあるが、The Power of Oneという熟語になると一応大学を出ている私にも意味がよく分からない。研究社のリーダーズ英和辞典を引いても分からなかった。インターネットで検索すると、なにやらそれらしき解釈が出てはいたが、完全に納得のいくものではなかった。昔は映画に内容に則してうまく日本語に訳したタイトルを付けていたものだが、最近は全く芸が無くなった。英語の小説などの翻訳は、例えばD・H・ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』なども随分くだけた読みやすい翻訳になって出ていえ翻訳の進歩を感じることができるのに、映画の方はその逆でむしろ大きく後退しているのである。
 南アメリカのアパルトヘイトを扱った映画については、随分前にリチャード・アッテンボロー監督の作品『遠い夜明け』を見た覚えはあるのだが、内容は全く覚えていない。『パワー・オブ・ワン』をみると、アフリカに移民した英国人はオランダ系移民のアフリカーナーと呼ばれる白人たちからは阻害されていたようである。主人公のピーター・フィリップ・ケネス・キースはいつもPKと呼ばれているが、父親が森の中でゾウに踏み殺された後、3週間後に生まれた。そして小さいうちに母親も死に、親戚に引き取られて寄宿制の学校に送られる。そこはアフリカーナーの白人が経営していて、聖書の教えに基づくといって黒人を奴隷として使うこと正当化することを教えている。そしてアフリカーナーの生徒たちからいじめられる。ヒトラー崇拝の全くたちの悪い上級生がいて、PKはそのいじめの餌食となっている。小さな下級生に対して大きな上級生が平気で暴力を振るうのである。
 中丸明氏が『絵画で読む聖書』(新潮文庫)の中で「奴隷制度廃止の思想など、キリスト教にはまったくなかった」と書いているが、20世紀になってもキリスト教の教えは南アメリカでは全く変わっていなかったのだ。またアフリカーナーがナチスを支持していたことをこの映画によって私は初めて知ったが、考えてみるとナチスに属していたドイツ人たちもキリスト教徒であったのだから、キリスト教の愛の思想などはまったくお笑い草というしかない。しかし橋本大三郎氏は『世界がわかる宗教社会学入門』において「講義3 キリスト教とは何か」にサブタイトルとして「福音と愛の思想」を付けているが、この映画をみる限り西洋白人の暴力愛好は骨絡みとしか思われない。キリスト教の教えは決して暴力を抑えるほうには働いていないのである。むしろ人間を差別し、虐げることをキリスト教の教えによって正当化さえしているのだ。キリスト教が愛の教えであるなどと、日本人はどうしてこれほどに間違った認識を持ってしまったのか。それともそれは西洋社会のあり方が、日本の社会のあり方と根本的に違っていたからなのであろうか。同じ教えでも社会の風土の違いによって受け止められ方が全く違ってしまうのだろうか。最近、私には西洋人は全般的に人間性が低劣であるように思われて仕方がない。確かに現代の西洋人は昔とは違っていることは私も認めるのであるが、アメリカにおける麻薬汚染とアルコール中毒者の多さ、それに近親相姦の日本とは比べ物にならない多さは西洋社会に潜む問題体質を表しているようの思われるのである。
 私は日本に奴隷制があったとは聴いた覚えがないが、それも日本人の社会的体質が西洋人よりも優れていたことを示しているのではないだろうか。
 この映画の中でも立派な白人はいるのであるが、全体としてみる限りそれは本当に少数派であり、多数派は暴力志向の強い人間たちなのだ。
 現代のテロはキリスト教徒とイスラム教徒との間の抗争である。ともに一神教を精神的な背景としている人たちが殺し合っているのだ。イスラム教徒はどうやら日本にテロを持ち込もうとはしていないようだ。それでも日本がアメリカに肩入れして、イラクなどで軍事活動をすれば直ちに日本にもテロリストは潜入してくるに違いない。

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2008年1月17日 (木)

映画「老親ろうしん」は現代日本の根本問題をえぐっている

 1月15日にNHK・BS2で放映された映画『老親ろうしん』は女性監督の作品で非常に面白かったが、日本の現状というよりも病状をよくえぐっていると思った。現状というのは、男たちがすっかり意気地なくなって、その一方女たちが元気であるということである。薬害肝炎問題で一律救済という原則に徹底的にこだわって日本政府を屈服させたのは女性たちの力であったと思うし、もし原告が主として男たちで占められていたら、ここまで日本政府を屈服させることなく安易に妥協してしまっていただろうと私は思うのである。この映画で萬田久子は役柄によく合っていたし、日本の女たちの元気な部分を代表していた。また離婚した長男の嫁の家に転がり込んで、元嫁との同居の中で元嫁に仕込まれて日常生活での能力を徐々に身に付けてい老いた父親役を小林桂樹がうまく演じていた。これからの高齢化社会を考えると、男も日常生活を一人出遅れるだけの力、自立した生活力を身に付けることが不可欠であると思うし、それは男と女の関係を正常化する上でも欠かせないことであると思う。
 ところで妻から三行半を突きつけられた榎本孝明演ずるその亭主はどうやら大企業に務めているようだが、親戚関係の場では意志薄弱でおよそ頼りにならない人間であって、妻から見て愛想がつきる人間であった。こんな人間が経済活動の場で果たしてきちんと活動できるのだろうか。私の経験からすると良い結果など出せるはずがないと思う。ここにおいて私は日本経済を駄目にしたのは彼らのような男どもだったのではなかったかと思い当たったのである。そして責任論という観点からすると、日本をかくも惨めな現状に至らしめた男たちなのだから極論を言えば男どもは総退陣して、元気な女性たちにその地位を引き渡すべきなのである。男と女の間でのいわば政権交代を行うべきである。
 男たちは過去ずっと長い間日本の支配的なポジションを占めてきたのだが、その結果が昨日1月16日の日経平均株価1万4千円割れという体たらくであった。今朝(1月17日)の日本経済新聞の第一面に日本製紙が再生紙の60%で古紙配合率を偽っていたという記事が出ていたが、社長の中村雅知自身が10年前から知っていてやらせていたことだという。これなどは古紙配合率が表示の率だと紙の品質に問題が起きるからという品質維持のための偽装であったとのことだから、。消費者に迷惑をかける問題ではないが、別の意味で多いに問題がある。これは、私に言わせると昨今のいわば『環境ファシズム』とでも言う風潮が引き起こした事件であって、全く理不尽なおかしな話なのだ。私もメーカーで長い間働いてきたからよく分かるのであるが、製品にとっては品質こそが第一であり、品質に問題が起きるから古紙配合率は少なくせざるを得ないと日本製紙はなぜハッキリ主張できなかったのか。言うべきこともキチンといえないその体質こそが問題なのである。ここにも映画『老親ろうしん』に描かれた亭主の意志薄弱と同じ要素があるのだ。世間で行われていることがおかしければ、「それは間違っている」と言うべきなのに、そう言うだけの勇気もない男が経営のトップにいたのである。これは日本の男の特定の一部にだけ見られる現象などではなく、私は日本の男全般の軟弱化現象であると考えるものであり、日本経済凋落の犯人は正に『だらしなく黄昏た男たち』であると思う。社会保険庁の年金記録問題にしろ厚労省の薬害肝炎問題にしろ、キャリアなどといって偉そうにしていた男たちが実はおよそきちんと仕事をすることもできなかった能無しのグズばかりだったから起きた事件であり、これらは氷山の一角の現象に過ぎないと私は考える。そうして薬害肝炎の問題に関してもその担当責任者をハッキリさせて責任を取らせる後始末さえ出来ない体たらくだ。男たちは回復不能の勤続疲労に陥っているのだから休養すべきであり、女性たちにポジションを譲っていわば政権交代、江戸城引き渡しをするのが当然なのだが、今の男どもにはそれだけの潔さなど期待するべくもないからいつまでもポストにしがみついている恥さらしな男たちをわれわれ日本人はこれからも見なければならないというのは全く情けない限りである。昨今武士道などということも言われたりしたが、現代日本の男たちはそんなものとはおよそ無縁な厚顔なだけの連中に成り下がってしまっている。
 しばらくTVで前に見たのだが、スエーデンでは法律によって一定割合のポストを女性に割り振るという女性活用の制度を実施して成果を挙げているとのことだ。同じことが日本で行われることなど想像できるだろうか。社会制度の大きな革新など日本の男たちにはもう行うだけの気力も、構想力もなくなってしまっている。小松左京氏の『日本沈没』は自然現象が原因であったが、現在のそれは日本の男たちの劣化がもたらした社会現象なのである。

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2008年1月12日 (土)

日本の映画・DVD業界のレベルの低さは恐ろしい

 DVDで『サイコ2001』というイギリス映画をみた。タイトルだけでいうと非常に安っぽいサイコものの映画であるように思われる。私は安っぽい異常心理ものの映画などをみたいとは思わないし、この映画の原作がイアン・バンクスの小説『共鳴』であることを目にしなかったら、そしてこの映画が税込みで500円と安くなかったら買おうとは思わなかっただろう。イアン・バンクスの処女作『蜂工場』(集英社文庫)を読んだきりで、『共鳴』(早川文庫)は持ってはいるがまだ読んでいない。手元に持ってきてみたら、この小説は英国でベストセラー第一位になったとのことである。
 ところが元の映画のタイトルは小説と同じCOMPLICITY『共鳴』なのだが日本で発売されたDVDは上記の通り 『サイコ2001』となっている。しかし映画の内容は映画のタイトルとは全く異なるミステリーであって、どこがサイコなのか私には全く理解できない。恐らくサイコものがはやっているので、それに便乗しようとして全く内容とは関係なくひどいタイトルを付けたのであろう。昔日本で公開された外国映画には結構良い日本語に訳したタイトルが付けられたものがあったが、最近の映画の場合、普通の日本人には到底理解できないような英語をそのままカタカナに直したタイトルのものが圧倒的に増えている。例えば『コンテンダー』というタイトルの映画があるが、これはアメリカ政界内の副大統領への指名争いを描いたなかなか見ごたえのある映画なのだが、原題The Contender(競争者、ライバル)の意味をすぐに理解できる人が果たして日本にどれだけいるだろうか。私も一応大学を出ているがすぐには分からなかったし、日本人の大半がそうだろうと思う。また既に一度書いたがアメリカ映画The  Crucibleが日本では『クルーシブル』というタイトルで公開され、私はDVDで見たのだけれどもこの『クルーシブル』と言う意味も私には分からなかった。辞書を引いてやっとそれが「るつぼ」と言う本来の意味から派生した「きびしい試練」という意味であることが分かったが、キリスト教の抱える魔女問題の暗黒を描いた優れた内容の映画であった。この映画の主人公をウィノ・ライダーが演じていることを宛にしての『クルーシブル』というタイトルでの日本公開だったのだろうか。だとしたら随分と日本人は莫迦にされていると私は思う。映画の内容を理解させることが出来ないようなタイトルを平気で付けて公開するような神経は、私には全く理解できないものだ。
 現代の日本の映画業界には英語をカタカナにしたものは格好がよいと思う人間ばかりいて、まともな日本語を知っている人間はいないのかと思うと全く情けない限りである。日本人が物事を表すのに、日本語を使わず英語を喜んで使うという現代の風潮はけして好ましいものではないと思う。日本人であることに誇りを持てないようになっている現代日本のこの現実は深刻である。日本経済が停滞していることにも、深いところでそのことは反映しているのではないかと私は考えている。藤原正彦氏は『祖国とは国語』(新潮文庫)の中で個人がもつ語彙の豊かさが重要だといっているが、外国映画の翻訳ぬきのカタカナ名化は映画業界にいる人達の教養の低さをハッキリと物語っていると思う。それとも経営者が英語かぶれで無教養なためなのだろうか。日本社会の風潮と営業優先の姿勢とが合わさってこうした事態を招いているのであろうが、ここには現代の日本人の精神的な軟弱性が明確に現れていると思う。日本の国際化ということがかねてより叫ばれているが、日本人が日本人でなくなってまで国際化して英語は話せるが日本語はお粗末という状態になったとしたら、果たして日本人は世界で尊敬される民族でありうるのであろうか。自分が何者であるかという核心(英語で言うとアイデンテティー)を失った時に、帰属するべき共同体を失って日本人には誇りも何もなくなっているだろうと思う。これこそが日本沈没である。

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2008年1月 8日 (火)

映画『ジキル博士とハイド氏』を観て

 元旦に買った映画『ジキル博士とハイド氏』はDVDの表と裏にそれぞれ公開年度の違う2本の映画を録画してあった。一本は1932年公開の映画で、監督はルーベン・アムーリアン、ジキルとハイド役はフレデリック・マーチ、もう一本は監督ビクター・フレミングで、ジキルとハイド役はスペンサー・トレイシーとなっている。(前者を映画Ⓐとし、後者を映画Ⓑと呼ぶことにする) 岩波文庫の表紙には映画化された回数が70回と書かれていたが、その内の2本がこの映画というわけだ。そしてこの2本の映画にはともにジキル博士の婚約相手として上流階級の令嬢が登場し、その結婚が令嬢の父親の反対で遅延させられ、そのことがジキルの行動に大きな影響を及ぼすのは共通しているのであるが、この話は原作の小説切には全く出てこないエピソードなのである。小説には華になるような出来事があまりないので、映画として観客の興味を引きだすために付け加えられたものであろう。ちなみにジキルの年齢は小説では50代となっているから、20代全般とみられる令嬢との結婚は不自然なので映画では40代くらいに設定されている。同じように共通に付け加えられたものとして、ミュージック・ホールの女給の美人をハイドが愛人に囲ってサディズムの身体的暴力を振るうということがある。
 結論として、『風と共に去りぬ』を監督したビクター・フレミングの映画Ⓑの方が断然内容の質は良い。前者の映画Ⓐの変身後のハイドは顔付きが類人猿に似た感じで、映画の最後にはまさに猿のように壁の棚をはい回るという場面があるが興醒めである。小説ではジキル博士は大柄で恰幅のいい、髭を生やしていない五十年配の紳士と描かれていのに対して、ハイドの特徴は次のように説明されている。
 ①若々しい軽やかな足取り(クスリによってハイドは若返っている)
 ②顔色の悪い小男(クスリによってハイドは身長が縮んでいる)
 ③何となく不具者の印象を与える
 ④嫌な笑い方をする
 ⑤しわがれた、ささやくような声で途切れ途切れに話す
 ⑥得体のしれない嫌悪と恐怖の念を抱かせる(具体的に何がと指摘するのは難しいとされ  いるのであるが)
 また小説では、狂言回しの役割を弁護士のアタスン氏が行っているが、両方の映画ともにアタスン氏は出てこず、同業の医師のラニヨンがアタスンの代わりのような役柄を果たし、ジキル博士がハイドになって死ぬ最後の悲劇の場面に立ち会っている。しかし小説ではラニヨン氏はハイドとは余り関わりを持たないまま事件の結末の前に死んでいるのである。
 今回読み返してみて分かったのだが、ジキル博士は変身のクスリを頻繁に使用しているうちにハイドの姿でいることが常態となってしまい、ジキルに戻るためにかえってクスリを飲まなければならないという状況に陥ってしまった。そしてこれこそがジキル博士の心に恐怖を引き起こすようになったのである。そこにこの悲劇の核心があるのだが、両方の映画ともそこまでは描ききれていない。ビクター・フレミング監督の映画Ⓑのハイドはクスリによって若返るし風貌も小説の描いている人物に近くなっている。ただし身体的な特徴である小柄の人物になるのは無理のようである。
 ジキル博士が結婚を引き伸ばされたために性的に欲求不満になって、ミュージック・ホールの美人女給を愛人として囲い背中をむち打つといったサディスティックな行為を行うのであるが、映画でほのめかされていることは、ハイドが表している「人間の悪」とは「性的放縦」であることだ。それはキリスト教の教義の根底に隠されている「セックスは悪である」という教えを忠実になぞったものである。
 映画がどれだけ原作に近く描かれているかを確認するために私はスティーヴンソンの小説を読み直してみたのであるが、小説では男と女がらみの派手なエピソードは全く描かれておらず、これでは映画の観客にはアピールするものが少ないから、小説にはない令嬢との結婚話やミュージック・ホールの女給を囲いサディズムを行うというストーリーを付け加えたのであろう。しかし小説そのものはテーマの面白さで読者を引っ張っていく力があり、私は今回、映像と文章との表現の違いというものを改めて思い知らされたのであった。映画Ⓑでハイドに背中をむち打たれて傷つけられた女給が治療を受けにハイド博士のところに来るというのはうまい筋書きであった。ジキル博士は女給にもうハイドは現れないと保証するのだが、結局喜んで乾杯している女の部屋にハイドが現れ女を殺してしまうのである。この時点でもうハイドの姿であることが常態になっているのであった。
 映画ⒶⒷとも最後の方で、ハイドが老人を殺害した後警察に追われてジキル邸に逃げ帰り、クスリを飲んでジキル博士に変身する。しかし追ってきた警察とラニヨンの目の前ですぐにハイドに戻ってしまい、ピストルで撃たれて死亡する。死んで横たわったハイドの顔が徐々にジキル博士に変わってしまって映画は終わる。しかし小説ではジキル博士がいつもいた部屋でハイドが自殺して死んだ状態で発見されるが、ジキル博士の姿はどこにも見当たらない。そしてジキル博士がアタスン弁護士宛に残した書類を読んで初めて、アタスン弁護士はハイドが実はジキル博士の変身した姿であったことを知るのである。ジキル博士が本当に恐れていたのはハイドの姿に変身した状態が本来の姿になって、クスリを飲まないとジキル博士の姿に戻らないまでに変わってしまっていたことであったとすると、死んだ後もハイドの姿のままであるという小説の終わり方のほうが悲劇の本質を付いていると言える。

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2007年12月13日 (木)

映画『裸足で1500マイル』を見て

 『裸足で1500マイル』という映画を以前にテレビで観た時に印象が深かったので、たまたまDVDで安く売っていたのを買って先日見直した。前に見た時とは違う感想を持ったのでそのことについて書くことにする。
 今回違った感想を持ったのには理由がある。一つは、ジャレド・ダイアモンドの本『文明崩壊』(草思社)を読んだからである。『文明崩壊』では、巨石像で有名なイースター島やマヤ文明などの過去に崩壊した社会と現代アメリカのモンタナ州ビタールート・ヴァレー、アフリカのルワンダ、ドミニカとハイチ、中国、オーストラリアなど環境面で大きな問題を抱えている地域を扱っていて、この本によって私は初めてオーストラリアが環境的に脆弱な地域であることを知った。私は22年ほど菓子製造業の会社に勤めていて、そこではオーストラリア産の配合原料(バターに砂糖や小麦を混ぜ合わせたものなど)を使用したりしていたので、オーストラリアを豊かな農業国と考えていたが、『文明崩壊』を読んで初めてオーストラリアという国は実は環境的には非常に脆弱な地域であることを知ったのであった。『裸足で1500マイル』はオーストラリアの原住民アボリジニの女の子の話である。オーストラリア政府の政策によって強制的に母親たちから引き離された3人の娘が、遠く離れたキャンプに移されて夜はドアに鍵のかかった宿舎に閉じこめられて、日中は白人のメードなどとして働くことができるように教育されるのであるが、そのことに反発して、キャンプを逃げ出し歩いて故郷に帰ろうとする。他方白人の役人はキャンプのアボリジニの追跡官や警察などを使って何とかキャンプに引き戻そうとする。娘たちがその追跡をうまくかいくぐって故郷に帰り着くまでの苦労の話であるが、帰り道はほとんどが荒涼とした土地で砂漠などが多い。ここにオーストラリアが緑の少ない土地である様子がよく表れている。またヨーロッパから移入されて異常繁殖したために害獣となったウサギを防ぐために設置されたフェンスが彼女らが帰るための重要な手引きをしてくれるのであるが、ウサギの害について『文明崩壊』を読んで知っていなかったらフェンスの本当の意味を理解できなかったであろう。
 違った印象を持ったもう一つの理由は、最近キリスト教というものに私が深い関心を持っていたからである。キリスト教徒がキリスト教徒以外の人間に対して何をしてきたかの歴史を知ることは最近の私にはまたとない興味の対象なのである。この映画では、白人がアボリジニを文化的に劣等な人間と見なして一人前に扱わず、親子を平気で引き離しているが、それも実にキリスト教の精神にのっとって行われているのであって、キャンプには教会がありアボリジニの子供たちを毎日教会で強制的に礼拝させている。白人の連中は彼らをキリスト教徒にすることを当然のことと見なしていて、キリスト教への改宗はアボリジニのためにしていることであると彼ら白人はなんら疑うこともないのだ。キリスト教は人類にとって普遍的な文明であると白人が傲慢にも考えていることをこの映画は見事に描いている。
 ところで昔『七人の刑事』というテレビ番組があったことは年配の方は誰でもご存知であろうが、その脚本を書いていた林秀彦さんはオーストラリアに移住して10年以上たつが、『日本を捨てて、日本を知った』(草思社)という本を書いて、身近に接したオーストラリア人(白人)を通して体験し、理解した白人=アングロ・サクソンの人間的な体質を説明している。林さんが理解した白人の人間性は日本人とは全く異なるものであった。それはけして優れたものではなかったのである。むしろあきれ返るようなものなのであった。詳しくは林さんの本を読んでもらいたいが、『裸足で1500マイル』を見て、そのことも腑に落ちたのであった。
 良い映画は実に色々なことを理解させてくれるものである。

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2007年11月30日 (金)

クルーシブルってわかりますか

 クルーシブルという題を見てあなたはその映画の内容を想像することができますか? 原題はThe  Crucibleであるが、私は一応大学を出ているけれども、この英語の意味は全くわからなかった。研究社のリーダーズ英和辞典を引くと、まず「るつぼ」という意味が出てきて、後に「きびしい試練」という意味が書かれている。まず言いたいのは日本人のほとんどの者が理解できないような難しい英単語をそのまま映画の題に使って日本の国内で公開するという映画会社のやり方である。なぜ内容を表す日本語の題にしなかったのか。英語の方が格好がいいと単純に考えたのだろうが、日本人としての私から見ると余りにも情けない考え方である。自分の国の言葉に誇りを持てない日本人の気持ちがハッキリと出ていると考えればよいのだろうが、全く何ということか。
 ところでこの映画の原作はアーサー・ミラーの戯曲であるが、17世紀の末に実際にアメリカの農村に起こった魔女事件を基に書かれた作品だそうだ。内容は一人の若い女性が抑圧された性欲に引きずられて悪魔のしわざを訴え若い仲間の女性たちを誘導して魔女裁判の場でウソの証言を行い、それが村中の集団ヒステリー、大衆心理の狂気を引き起こして多くの村人を絞首刑にしてしまうというもので、私には非常に面白い映画であった。特に私は最近キリスト教に関して深い関心を抱いていたので、内容に引き込まれて見たのであった。この映画の内容がどこまで事実に合致しているかはわからないが、私が理解しているキリスト教の悪い側面、キリスト教の異常さがリアルに描かれていて、改めてキリスト教は人類史上最悪の宗教であると確信した次第であった。宗教とは正にマインド・コントロールそのものであることがこの映画を見ればわかると思う。現在一番問題を起こしている宗教はイスラム教であるが、それでもキリスト教が歴史上殺してきた人間の数には遙かに及ばないであろう。私のところにキリスト教の宣教のために訪れたたくさんの女性たちがこの映画を見たら果たしてどう感じるだろうかと考えた。この映画に描かれた事件が事実であるとしても、それは昔の話で今はもう関係がないというのだろうか。現代はキリスト教の教義が昔ほどにはキリスト教の人たちにも100%の真実とは受けとめられていないからこそ、キリスト教の害が表に出なくなっただけではないかと私は判断しているが、もし今でもキリスト教の人たちがキリスト教の教義を昔のように全面的に信仰しているなら今でもこの映画に描かれたのと同じことが起きているだろうと私は判断する。キリスト教はなぜかセックスを罪と見なし、中世のキリスト教が社会全体を支配していたヨーロッパでは結婚における夫婦のセックスさえも教会は妨げようと必死に努力していたのである。(G・ラットレー・テイラー著『歴史におけるエロス』(河出書房新社)、カレン・アームストロング著『キリスト教よセックス戦争』(柏書房)) さらに異端審問や魔女裁判で多くの人間を殺してきたが、魔女裁判などは年配の女性の財産を取り上げる目的で行われたという側面もあったという。この映画の裁判の場で裁判長を務める教会関係者があやつる論理を聞いていると、キリスト教関係者とはまさに三百代言といってよく、「ああ言えばこう言う」の見本そのものである。そして裁判の目的そのものも決して真実を明らかにすることではいない。キリスト教会の関係者たちは自分たちは絶対に間違うことがなく、非難されることもないという立場にいて、自分たちに都合の良いことを勝手放題に言っているだけなのだ。罪を告白させるために拷問をしたり、悪魔に憑かれた人間だから死刑にするのは当然だと考えている。宗教の名のもとに死刑を宣告して平気でいるキリスト教会とは果たしてまともな宗教団体であるといえるだろうか。そこに現れているのは、神という絶対者をバックにして人間を支配しようとするキリスト教会の歪んだ心理である。こうしたことを見ると、キリスト教の教義などがいかに馬鹿げたものであるかが推測されるのである。生まれたときからキリスト教の教えは神聖なものであると教え込まれてきた人たちには、全くそうした教えに対する免疫力がなくて社会全体が同じ考え方に染まってしまっている。完全なキリスト教社会は思想の自由などとは全く関係がない社会なのである。キリスト教会公認の考え方以外の意見はすべて異端としその存在を求めなかったというあり方は、ファシスト国家と全く変わりがない。キリスト教の狭量さは人間の自由を圧殺したばかりではなく、異端や悪魔憑きなどという名目で人間を殺すことをいとわないほどの決定的な問題体質だったのだ。教会の関係者は神の名前を勝手に使って、神の意志だといっては自分たちに都合の良いように人々を誘導していただけだ。「まやかしの論理、詭弁の塊」、これこそがキリスト教の神学の神髄なのではないか。その抑圧体質が、異常な大衆心理をも引き起こしてきたのだ。
 私個人としては、もし神が存在して全能だとしたら、なぜ悪魔が存在して人間社会はこんなにひどいものなのかと考える。人間の中にはニーチェの言うように「できそこない」がおり、そうした存在は不可避であるから、それを反映した世界のあり方を説明する論理として悪魔などという安易な考えが出てきたに過ぎない。
 こんな程度の悪い宗教がなぜ多くの人間の指示を受けたのか、それこそが大きな問題だ。『神は妄想である』(早川書房)の中でドーキンスは子どもに対する宗教教育の禁止を求めているが、それは正しい意見である。宗教こそは人間の自由な選択によって信仰されるべきなのである。子どもには自由に宗教を選択するだけの理解力はないのだから、赤ん坊の時から洗礼を受けさせるなどという刷り込みは行われてはならない。イスラム教にも同じことは言える。そういうことのない日本は宗教の面では世界の最先端を言っているといえるだろう。

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2007年11月18日 (日)

「昼下りの情事」が面白かった

 今日は映画の話です。
 ビリー・ワイルダーの「昼下りの情事」を見ました。オードリー・ヘプバーンの映画は結構観ていたのに、これは私には初めての映画でした。
 ゲーリー・クーパーについては、私は最近ファンになったばかりなのであるが、それでもこの映画の若いヘプバーンに比べるとやはり年を取りすぎていて、話の内容からすると少々不釣り合いではあったが、それでもとても面白くて楽しめた。成功した事業家でプレイボーイのフラナガン(ゲーリー・クーパー)のお金の使い方は、私がもっと若かった頃であれば何て下らないお金の使い方をしているのだろうと思っただろうが、今は金持ちはどんどんお金を使うべきであると考えるようになったから女性と会う時にいつも楽団を部屋に呼んで演奏させるなどのお金の使い方も面白かった。バブル崩壊後10年以上不況が続いた日本でも、1000兆円以上あった貯蓄のほんの一部が取り崩されて消費に回るだけでも、不況はもっと早く終わって景気が回復していただろうと私は考えるが、日本人はなんだかんだ言っても「にわか成金」でお金の使い方を知らない情けない民族であったというのは残念なことである。今や日本人の金融資産は1500兆円にも達するというが未だにお金の使い方を知らないという面ではほとんど変わっていないと思う。アメリカで言われたダイ・ブローク(Die Broke)という生き方などは日本人には全く思いも寄らないものだ。ダイ・ブロークというのは「死ぬまでにお金を使いきって、それまでできるだけ楽しく暮らす」という積極的な生き方のことである。自分の子どもには遺産を残さないでお金を自分のために使い切るのである。自立して生きていけるだけの教育などを与えて育てたら、後は子どもは自分で人生を切り開いて生きていくべきであると考えるからだ。そういう考え方は非常に健全であると私などは考えるが、パラサイトシングルなどという親離れをしない子どもと子離れをしない親たちの生き方を表す言葉が流行語になるような日本の社会は、私には不健全きわまりないとしか思われない。話が映画から離れすぎてしまったようだ。
 最近昔のアメリカ映画をDVDで結構見るのであるが、これが結構面白いのだ。最近の映画と比べると、どぎつい刺激はないし、安心して見ていられる。それでなお退屈することもない。むしろ昔の映画にはゆとりがあるし、今の映画よりもずっと遊びがあると思う。「昼下りの情事」の監督はビリー・ワイルダーであるが、現代のコメディ映画の監督の代表をウッディ・アレンとしたら、体質の違いははっきりしている。どちらも映画はしゃれているのだが、ワイルダーの映画の方がアレンよりも見ていて気持ちがくつろぐのである。アレンの映画のバックグラウンドにはいわばサイコセラピーの雰囲気が感じられて、笑いに屈折したものがあるように思われるのだ。単純に笑って楽しむ楽しむとしたらワイルダーの方が私には好ましいのである。現代のコメディの方が進歩しているといえるのだろうか。生きていくのにサイコサラピーが欠かせないようなほど社会が不健全になってしまったという事実がコメディのバックグラウンドの雰囲気を変えてしまったのではないだろうか。

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