心と体

2009年8月29日 (土)

われわれはどのように死ぬのが良いのか

 今月(2009年8月)の初めに私の母は痴呆状態が酷くなって特別養護老人ホームに入所した。私は今日(2009/08/28)入所後初めて母親を訪ねて様子を見てきた。
 母親の4人部屋は3階にあるのだが、エレベーターから出たところが広間になっていて、テーブルが沢山設置されていて入所している老人たちが普通の椅子に座るか、車椅子に座っているのだが、ほとんどの老人が何もしないでじっとしている。壁には大型の液晶テレビが置かれていて番組が写っているがほとんど見ている人はいない。互いの会話もほとんど聞かれない。ただぼーっと座っているだけなのだ。毎日こうした生活を送っているのであろう。これはなかなか凄まじい光景である。
 ところで私はたまたま少し前から久坂部羊氏の『日本人の死に時 そんなに長生きしたいですか』(幻冬舎新書)を読んでいて、ここを訪れた時には半分近くを読んでいたのだが、久坂部氏の書かれていることがよく理解できた。氏が書いた小説を2冊ほど私は持っていて、ただまだ読んではいなかったのだが、氏が医者であることは知っていた。この本を読んで初めて知ったのだが、久坂部氏は介護関係の診察を行なっていたので、歳を取って自分で自分の面倒が見られなくなった人が介護されて生きるということの実態を沢山見てきて、その経験に基づいてこの本を書いたのである。氏は現代の寿命が伸びた日本人の生き様、ということは死に様を観察することになったのだが、結論を言うと「長生きすることは、実態を知るとけして幸せなことではない。」ということであった。たとえお金が沢山あってきめ細かな世話を受けることが出来る人たちであっても、「世話を受けて生きること自体が必然的に苦痛をもたらす」というのである。今まで日本人は、長生きすることはそれ自体が幸せなことであるという価値観、見方を植えつけられてきたのであるが、氏の目に映ったものは実際にはその反対こそが真実なのであった。最近は良くクォリティ・オブ・ライフ(生活の質。QOL)ということが言われるが、久坂部氏のこの本を読むと、長生きして生きていることが苦痛となる前にうまく死ぬことがQOLの最後を飾る重要な要素であることが分かるのである。
 後期高齢者の医療制度が作られたが不評でなくなったようだが、久坂部氏に言わせると高齢者に対する医療というのは従来考えられてきた医療とは全く異なるものなのだ。
 「今、私たちがやっている老人医療は、病気を治すための医療ではありません。
 診療の対象は、老化による麻痺や機能低下、認知症(老人性痴呆)、腰痛や耳鳴り、さらには末期がんなどです。これらははっきり言って、今までの医療からは見捨てられてきたものです。治らない状態の人を、医学的にどう支えていくか、それが我々の目指す老人医療です。」(P4〜5)
 こうした医療の現状について久坂部氏は次のように書いている。
 「医療はその役割を果たすのに、十分に広い視野を持っていたでしょうか。とにかく命を延ばせばいいという方針の裏で、言葉は悪いのですが、『中途半端に助かってしまう人』を創り出してきたのではないでしょうか。その結果が、今の介護危機ともいえる状況です。
 ・・・・今、医学は大いに発展して、寿命を超えるほど人を生かすようになりました。」(P5〜6)
 つまり本人がもう死んで楽になりたいと思っても、無理やり生かすことはあっても死なしてはくれないのが日本の実状なのである。日本では尊厳死が、ごちゃごちゃ変な理屈を言って認められないが、そんなのは全く意気地のないおかしな話だ。真剣に「人権」ということを考えるのなら、人間には死を選ぶ権利もあることを認めるべきであろう。
 こうした状況に対しての氏の考え方は次の通りである。
 「私は長寿はよいとは思いませんが、天寿は否定しません。与えられた寿命で、ほどほどに死ぬのがいいと思います。」(P6)
 しかし「適当な時期に死ぬというのは、なかなか難しいことなのです。」(P20)
 詳しいことはこの本を読んでもらうとして、私が一つ付け加えたいと思うのは、お金のある人はdie broke(お金を使いきって死ぬ)という生き方を実行してはどうかということである。元気なうちにお金を使って充実した人生を送り、金を使いきったら死ぬという生き方である。死ぬ時期は寿命を考えずまだまだ自分のことは自分でできるうちに勝手に尊厳死する、つまり自殺するのである。老いぼれて介護を受けて変化も何もない毎日をだらだらと生きるよりは余程ましなのではないだろうか。QOLということを言うのなら、真剣に介護など受けないで済むように死ぬことを意識して生きるべきだと私は考える。
 私は余り老後の生活資金を持っていないのだが、久坂部氏のこの本を読んで老後の不安を感じなくて済むようになった。それが私にとってのこの本の最大の効用だ。

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2008年6月14日 (土)

雅子妃問題についての福田和也氏の見解

 私には天皇家のことなど、はっきり言って関心外のことであった。だから雅子妃が病気療養中という一般的なことは知っていても、その具体的な内容についてはとんと知識がなかった。というよりも知ろうという気持ちが起きなかったのである。たまたま古本屋で香山リカ氏の書いた『<雅子さま>はあなたと一緒に泣いている』(筑摩書房)という本を見るまで、もっと良く知ろうなどと思いもしなかった。この本を読んでいる途中、福田和也氏が文芸春秋などの雑誌に皇室に関する論考を発表しているのを思い出したが、まだ読んでもいなかった。しかし香山氏の本を読み終わって、福田氏は皇室に関してどのようなことを書いているのだろうかと興味が湧いてきた。福田氏の本はできる範囲でそろえてあったので、探してみると『美智子皇后と雅子妃』(文春新書)があったが、この本を持っていることは、完全に失念していたのである。読んでみると、さすが福田氏と思うような内容であった。香山氏が、精神科医としての診療経験をバックにおいて、主として女の事情という観点から書いていて、美智子皇后と雅子妃の関係については、姑と嫁の関係という観点から専ら分析しているのだが、それは結局「女の敵は女」という観点に基づいている。
 ところで雅子妃の病気について私が不思議の思うのは、皇居には一流の精神医もいるだろうから雅子妃は当然その治療を受けているだろう、それにも拘わらずなかなか病状が快方に向かわないというのは一体どうしてなのだろうかと、ということだ。私が独断で思ったのは、雅子妃の余りにも強いエリート意識が治療行為の妨げになっているのではないかということである。そして例としては極端かもしれないが、ドイツの社会学者マックス・ヴェーバーが強度の精神疾患で、6年ほどの期間精神崩壊の状態にあったことが思い出されたのである。ヴェーバーのこの事件については、A・ミッツマンの『鉄の檻 マックス・ウェーバー 一つの人間劇』(創文社)に詳しく描かれている。
 ところで福田氏は、美智子皇后と雅子妃の生家の職業の違いに基づく精神的なバックボーンの違いを深く追求しているが、それはなかなか読みごたえのあるものだ。美智子皇后の生家正田家の職業は、粉屋すなわち製粉業であり、平民のブルジョワ家庭であり、そして強い禁欲精神がそのバックボーンであったという。一方、雅子妃の生家小和田家は士族の家柄で、代々高級将校や官僚などの職に就いていて、刻苦勉励がその精神的基盤であると分析している。すなわち美智子皇后と雅子妃との関係は、単に同じ平面上の嫁と姑との関係ではなくて、精神的バックボーンが全く異なる人間の関係でもあったのだ。
 以下はすべて私個人の意見であるが、ハーバード、東大、そしてケンブリッジをでて外務省のキャリアであったためにエリート意識の強い雅子妃には、美智子皇后にどうしてもなじめない部分があったのだろう。さらに自分の方がはるかにエリートであるにも拘わらず世継ぎとしての男子を生むことに関しては美智子皇后にどうしても及ばなかった。
 これは福田氏とは無関係に私が勝手に想像しただけのことだが、それが雅子妃の強い挫折感に繋がっているのではないだろうか。人間にはどう努力しても力の及ばないことがあるし、それは運命として受入れるしかないのだが、どうしてもそのように考えることができなければ人間の精神は不調を来すに違いない。それを克服する道は、人間を練るしかないのだが、余りにも優秀だったがゆえに雅子妃は運命論を受入れることができなくて、それが雅子妃の不幸に繋がったのではないだろうか。

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2008年6月12日 (木)

『<雅子さま>はあなたと一緒に泣いている』を読んで

 精神科医の香山リカ氏が書いている『<雅子さま>はあなたと一緒に泣いている』(筑摩書房 )という本を古本屋で見つけたときに、意外にも私は購入してみようと思った。福田和也氏が雑誌に雅子さまについての論文を掲載しているのを新聞の広告で見たりしたことはあっても、私は読もうという気にまではなかなか成らなかったのだが、香山氏がわざわざ雅子さまについて一冊の本を書いていて、それが筑摩書房から出ているというので俄然読んで見る気になったのである。雅子さまが病気のためになかなか皇太子妃としての仕事に復帰できないでいることは新聞にも出て知っていたが、今まで私はそれほど興味がなかった。この機会にそのあたりを少し知っておきたいと思ったのである。ちなみにこの本の出版は2005年7月10日である。
 香山氏はこの本の第一章で、著名な女性四名を取上げて、結婚とキャリアについて分析を行なっている。取上げられたのは、緒方貞子、田中真紀子、藤山直美と小渕優子と、年代的には広く離れている。私は小渕優子をこの本を読むまで知らなかったが、彼女は故小渕首相の娘で代議士だそうである。緒方、田中、小渕の3人は政治家の家系でありしかも3人とも結婚したから「結婚プラスキャリア」という生き方だが、藤山だけが役者の家系で結婚はせず独身でキャリア一筋である。緒方と田中は、女性は結婚するのが当然と考えられていた世代であったが、田中は角栄の地盤を引き継ぐ形で代議士になり、小渕も父親の地盤を引き継いで代議士になった。ただ田中は夫を入り婿と考えていたのに対して、小渕はそうでもないようだ。
 香山氏はこの本で、雅子さまの問題を結婚に関連するいろいろな問題という観点から触れている。ところで私はこの本に刺激されて『結婚の効用』とでも言うものを考えてみた。以上それを項目別に挙げてみる。私が思いついた『結婚の効用』はおよそ七つである。
 ①一つは「セックスに伴う快楽」である
  セックスが行われる理由における一番のものは、何といっても「セックスに伴う快楽」 であろう。しかし食欲と同じように本能に基づくものでもあるセックスに、人間の場合は 道徳的な規制が古くから存在した。
  「結婚した男女間のセックス」は今なお、セックスをするのに一番道徳的に問題がない ものと考えられており、その下に「結婚前の同意の上のセックス」があり、昔は日本でも セックスの相性確認という意味も含めて広く行われていたようでもある。「結婚前の同意 の上のセックス」は今も道徳的にも許されるセックスと考えられている。しかし後者の場 合でも現代は青少年のセックスはなぜか道徳的に好ましくないものと考えられているよう で、私はこの考え方は多いに問題があると考えている、これ以外の「売春によるセック  ス」の場合を除く「婚外のセックス」は道徳的に好ましくないと考えられているが少し前 「不倫のセックス」は一時流行でさえあった。、「売春によるセックス」はタテマエとして は法律的に違法となっているが、実態は違っている。むしろ本当の自由意思に基づく売春 は道徳的に何ら問題はないとするリバタリアンの考え方は妥当であると私には思われる。
  しかし「セックスに伴う快楽」というこの点についてはこの本も、やはりといって良か ろうが、全く触れていない。セックスの相性というものは外から見て解らないものだから であろうか。雅子さまの問題でセックスが関係する部分は、子供、それも跡継ぎとしての 男の子供ができなかったということであって、私にはそれこそが一番大きな問題点であ  ると思われる。日本では昔はイエの観念が強くて男の子供が重要視されたが、今男の子供 が特に問題になるのは天皇家くらいではないのか。
 ②『自分たちの遺伝子を引き継ぐ子供を一緒に育てる楽しみ』
  親として子供を育てることには、大変さと共に楽しみがともなうのではないか。また子 供を育てるという過程で、人間は本当の大人になってゆくという要素もあるように思われ る。
 ③『気心の知れた男と女の間のコミュニケーションの楽しみ』
  会話と、身体的な合図によるものとを含めて、男と女の間のコミュニケーションは孤独 でない状態の心地よさとでも言うべきものを齎す。またセックスをするという関係ので、 心身共に裸になり、自分自身をさらけ出すことができるというのは精神衛生上も良いこと なのではないか。
 ④『お互いに、いわば水をやりあって相手の成長する姿を見る楽しみ』
  この視点は、作家の大庭みな子さんから教わったものであるが、一緒に暮らす男と女の 間でより良い関係を続けるためには重要なものであると思う。
 ⑤『一緒に世間と戦うパートナーであるという楽しみ』
  こういう点も結婚というものに含まれる要素ではないのだろうか。男と女の生活の共通 の基盤になると思われる。
 ⑥『結婚していることが一人前の人間であると見なされる条件でもあった』
  このことは、現代では『結婚の効用』からは外れつつあるが、それでも部分的には残っ ているのではないか。
 ⑦『結婚は生活手段でもあり得る』
  かつてこのことは女性にとっては大きな要素であった。男にとってもそうであるという ことがあってもよいだろう。
 香山氏は雅子さまの長期の療養生活に関わる問題点を、特に女性という要素に関連するものを重点において、いろいろな観点から語っているが、私から見て触れられていないと思われるものが一つあり、それこそが重要な要素ではないのかと思うのである。その要素とは、『エリートの挫折』または『エリートゆえの挫折』というものである。雅子さまはアメリカの大学を優秀な成績で卒業後、日本に戻って東大に入り、在学中に外交官試験に受かって外務省に入庁し、重要な部署に配属されたとのことである。つまり雅子さまはキャリアの面ではエリート中のエリートであったのであるが、皇太子との結婚後なかなか子供ができず、ようやくできたと思ったらそれは女の子であった。ところが皇太子との結婚で一番に求められていたのは男の子供、すなわち跡継ぎとしての子供を生むということであった。しかしこのことは努力すれば必ず達成できるような事柄ではなかったのであり、年齢的にはもう次の子供を産むのも難しいとなると、雅子さまのエリート意識には手酷い打撃になったと考えるのが妥当なのではないだろうか。私は香山氏のこの本を読むまで雅子さまについて書かれたものなど読んだこともなかったので、私が上に書いたような『エリートゆえの挫折感』ということを既に誰かが書いているのかどうか知らないが、香山氏の本にはそのことが全く触れられていないので、私には香山氏が重要な要素を見逃しているように思われるのである。雅子さまはおそらくエリートとしての強烈な優越感を抱いていただろうと推測するが、妊娠・出産という努力すれば達成できるとは限らない、むしろ努力の及ばない事態に遭遇して、強烈なエリート意識こそが雅子さまの精神に対して圧倒的な無力感、挫折感を齎したのだろうと私は解釈するのである。それはエリートゆえの悲劇といって良いのではないだろうか。

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2008年4月24日 (木)

「死に方」を学ぶ

 私は現在61歳であるが、60歳になってから「もういつ死んでもいいや」という心境になった。60歳まで生きたのだから、後は余禄だと考えるようになったのだ。今のところ死ぬのは75歳くらいが適当だろうと考えている。日常生活の場において自分で自分の面倒が見られる範囲で生きたいからだ。人に面倒を見てもらわなければ生きられない寝たきりのような状態で生きたいとは思わない。だから「死に方」を研究しなければならないと思っている。日本では尊厳死を正式には認めていないようだが、これはおかしい。人間以外の動物で自分の死を選択する知性を持つものはいない。死を選択するという行為は最も人間的な行為なのである。人間は金銭目当てで人を殺したりする動物だから、個人の死の選択がらみで人を殺すといったことをする危険性があるが、」そうだからといって個人が自分の死を選択するのを国家が禁止したりするのは全く余計なことである。尊厳死のための条件整備をするのがせいぜい政府の介入範囲だと思う。
 フランスのラ・ロシュフコー公爵の箴言集に含まれる有名な一つに、『太陽も死もじっと見つめることはできない』というのがあるが、「死をじっと見つめることはできない」というのはどういう意味なのだろうか? 生きている状態から死んだ状態への転換は、人間の意識という面からすると一瞬のうちに行われるからじっと見つめることは出来ないという意味なのか、それとも人間は自分が死ぬということをまともに考えることをいつも避けているという意味なのだろうか? しかし人間誰もが自分の死ぬことを、たとえ喜ばないまでも死は生物にとっては必然の事柄だから従容として受入れる気持ちにならないとは限らないのではないだろうか? キリスト教徒である西洋人は特に生に執着する人たちであるように思われるが、仏教徒である東洋人はその点、西洋人よりも死に対して親和性があるように思われる。例えば切腹は自殺の一つの日本的なやり方で正当にしてかつ全うな死に方であるが、キリスト教では自殺は禁止された忌まわしい死に方だから自殺をした人間は軽蔑される。このように文明によって死に方に異なった道徳的な価値判断がなされるのである。男が腹上死をした場合、普通は事故死と見なされるのだろうが、血圧の高い男が腹上死をした場合だとセックス中の死は予想されえたものであるから半ば自殺に近いかもしれない。しかし自殺扱いした例はないようで、腹上死は男にとっては勲章付きの死に方である。下世話な価値判断ではあるが。
 既に書いたように私は60歳を超えたらもう何時死んでも構わないという心境になったが、これには生物学者の池田清彦氏の影響が大である。池田氏は死につて、人間は死ぬべきときに死ねばいいということを書いているが、これは実に含蓄に富む表現であると思う。もっとハッキリ言うと、「死ぬときが死ぬべきときだ」ということなのである。自分の死が近くなったと知った時、また自動車事故などで思いがけず死ななければならなくなってその死を自覚した時などに、「ああ死ぬべきときが来たのだ」と思って死ねば余計な心労なしに死ねるのではないかと思う。「ああこんなに早く死ななければならないなんて、もったいない、残念だ」と悔やんで死ぬよりもよほど上品な死に方だと私は思うのだ。生物にとって死は必然だが、何時死ぬかは誰にも分からない。それを悩んで宗教にすがる人もいるようだが、私に言わせると全く無駄な下らない悩みでしかない。何時死ぬかなど誰にも分からないのだから、早く死んだら損をすると考えるのも全く考えるだけ無駄である。死、特に偶然の死は誰にもコントロールできないのだから、死を恐れて宗教にすがるのは完全に無意味なのである。自分の手が絶対に届かないこと、つまり死は悩んでも仕方がない。それよりも生きている間、生活を楽しむことを考えるほうが利口である。だから私は、「人間は死ぬべきときに死ねばいいのだし、死ぬときが死ぬべきときだ」と考えれば余計な悩みを悩まなくて済むから、それだけ人生を楽しめる確率が増えると思うのである。そしてこれもまた池田清彦氏の教えだが、「いよいよとなったら、野垂れ死にをすればよいではないか。」こうして私は死を恐れることから完全に免れることが出来たのである。
 死との関係で生きるということをどう考えるかというと、最初に書いたように基本的に自分の面倒を自分で見ることが出来なくなったら死にたいと私は思う。自分のことが自分で出来ないような不自由な状態で生きることは私にとって意味があるとは思えないのである。だから自分の死を自分で決めることが私には重要なのであり、死に方を研究しておくことが欠かせないのである。たとえお金があっても不自由な身体で病院で人の世話になってまで生きたいとは思わない。高齢化社会に向かってわれわれは死に方を学ぶ必要があると思う。

 それでは具体的にどうするのかというと、人間、適当なところで死ぬのが良いのではないか。適当なところで死ぬとは、医学が生かしてくれる限り生きるという生き方を意識的に拒否して生きるということである。医学は生命は何よりも重要という昔からの価値観に従って、人間はあらゆる手を尽くして生きられる限り生きるべきであるというイデオロギーによって治療を行なっているが、医学の手に自分をどこまで委ねるのかを人間は選択する自由があると私は思う。人間には死ぬことを選択する自由があることを知るべきだと思う。何も考えること無く惰性で医療を受け続けることが良いことだと考えないだけの知性を持ちたい。一切医療を受けないで死ぬのも自由なのだと思う。たとえ家族であっても本人の意思を尊重するべきである。
 こうした考え方は従来考えられてきた医学の目的・存在意義からすると、とんでもないものに思われるだろうが、私には医学が支えることができるかぎり生きるのが当然だとする考え方自体が人間的に生きるという観点からするとナンセンスであるとしか思えない。人間は動物であるが、医学があるから動物のようには自然には死なない。それは人間の脳の高い働きが作り出した医学の働きによるものである。しかし「何が何でも生かすことが医学の目的・存在意義である」とするイデオロギーが人類に高齢化社会という自縄自縛をもたらした。どのような状態になっても生き続けさせるということは、もはや人間的なものではない時代になったと考えるべきではないか。人間は死に方をもっとキチンと考えて生きなければならない時代を迎えたのだ。人間、適当なところで死にましょう。

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