学問・資格

2008年7月 8日 (火)

地球温暖化のもう一つの人間的要因

 現在地球温暖化ということが世界的な解決課題として世界的に政治レベルにまで受入れられている。その要因の一番のものとして自然科学者の間で考えられているのは、人間の活動によって発生している2酸化炭素を筆頭とするいわゆる温暖化ガスの排出量の増加である。この増加をどのようにして抑制し、更には減少させる取り組みを堂行なうかが世界的な課題として、G8の洞爺湖サミットの重要な検討課題となっている。ところが科学者の一部には、地球温暖化は本当に起こっているのか、また起こっているとしてもその原因が温暖化ガスによるものと本当に言えるのかを疑問視する人たちがいる。昨年暮れに出版された『暴走する「地球温暖化論」 洗脳・扇動・歪曲の数々』(文芸春秋)は地球温暖化説とその原因に対して異議を唱える日本の科学者などが書いたものである。またアメリカの作家マイケル・クライトンは2004年に『恐怖の存在』(早川書房)という本を出版して環境問題を取上げたが、小説には珍しく科学的なデータを注として掲載して温暖化論に対する疑問を示している。
 地球の気候の温度条件に一番の影響を与えるものは、いうまでもなく太陽の活動状況である。その活動状況が低ければ太陽から地球に起こられてくるエネルギーは少なくなり地上の温度は低くなるし、高ければ気温は高くなる。太陽から光によって届けられたエネルギーは熱に変わり、それが地上の気候の温度を根本的に決定付ける。太陽からの光がもたらす熱エネルギーがもし地球の外部に出ていかなければ(つまり地球が完全な閉鎖系であれば)、、「熱力学の第一法則」によって地球上に熱が蓄積される一方になって地上はすでに焦熱地獄になっているはずである。ところがそのようにはなっていない。地球は宇宙に向かって開放系であって、地球から宇宙に絶え間なく熱は放散しているのでる。そして今問題になっている温暖化ガスと言われるのものには地上から宇宙へ向かって放散されるはずのその熱を貯える働きがあるとされ、その蓄熱作用のために地上の温度が少しずつ上昇していって、それが極地や高山の氷をと解かして海水面の上昇をもたらしたり、干ばつや異常な大雨、ハリケーンの増加などの異常気象をもたらして人類に災害をもたらすことが危惧されているのである。他方で地球の温暖化は寒冷地の気温上昇をもたらすことや2酸化炭素の空気中の増加が光合成を促進して寒冷地での農産物の生産を増やすことを可能にするといったメリットを挙げる化学者もいる。
 このように世界の政治の世界で大きな問題として受け止められている地球温暖化も、温暖化がもたらす結果についての考え方によっては別に悪いことでも何でもないとなるのだが、そもそも温暖化ガスによる地球温暖化という現象自体が存在するのかということが疑問視されるということは、温暖化の原因が温暖化ガスであるとする説がまだ充分に科学的なものではないことを示していると思われるのである。
 ところで温暖化ガスは別としても、自然科学者ではない素人としての私が、地球を温暖化する基本的な要因としての人間活動、温暖化ガスを排出するということとは別の内容の人間活動の存在を考えるべきではないなと最近ふと考えるようになったのである。その要因の影響の程度を数値によって計算することは私にはできないが、以下に私が考えついた要因を書くだけは書いてみよう。
 人間が生存するために体内では化学反応によって熱を発生させていて、それで一定の体温を保っているということは、人間自体が発熱体であり、人体から常に熱が発散しているということである。人体から発散された熱が逃げる先は大気中である。世界人口については、19世紀初頭には10億人であったものが、2007年には66.7億人と推定されており2世紀ほどの間に大幅に増加している。つまりそれだけ人口が増えれば、単純に19世紀初頭よりも現在は地上の人類については6.7倍も多くの人体からの発熱が大気中に放散されているということで、これだけでも19世紀初頭よりも地球の気温に対する影響が大きくなっている。百万人が7百万に人になったというのとでは地球に対する影響度の意味合いが違うと思うのであるが、それでも地球の大きさから見ると70億人弱の人口が地球の気温に対してどれだけの影響を及ぼしうるかは私には計算できないが、わずかながらでも影響は及ぼしているといえるのでないだろうか。
 更には人間の数の増加というだけでなく、人間の生活活動が科学技術の進歩と生活条件の向上によって昔とは比較にならない発熱現象をともなって行われていることも考える必要がある。たとえば地球上では2005年末現在で約9億台の自動車が保有されているとのことだが、自動車が放出しているのは単に2酸化炭素ばかりではない。自動車はエンジン中で発生させた大量の熱を10%強だけ移動のために使用しようしているだけで、残りを熱として大気中に放散しているという。オートバイについても同じことが言える。その他内燃機関によって動くもの、船などもそうだし、ジェット機も大量の廃熱を大気中に放散している。また都会でのヒートアイランド現象の一つとして考えられている、空調機の使用が建物の外に放出する多くの熱の存在もある。更には現在の生活に不可欠な電気を得るためには石炭や石油、更にはウランを使用した発電所が世界中で大量の熱を発生させているが、発生した熱のうちの大量のものが電気に変換されずに大気中に放散されている。原子力発電所では海から海水を取り込んで冷却用に使用してから暖められた海水を海に放出している。世界の人口の増加と、生活水準の向上や生産活動の増加が電気を使用するために多くの発電所が世界中に設置されていて、大気中や海中に大量の熱を放出しているのでる。このようにして地球の大気中や海中にはかつてなかったほどの熱が放出されており、これらの影響だけでも地球の大気の温度を上げる効果はあるはずだ。また人間は生きていくためには食事を取らなければならないが、調理のためにも熱は利用されてそれの一部は必ず大気中に放散される。世界で考えると調理のための熱から大気中に放出される熱は膨大なものであろう。したがって人間活動に伴う熱の利用がかつてなかったほどに大気中に多くの熱を放出しており、それだけでも地球温暖化への影響は存在している。地球の規模に比べてどれだけの影響があるかは私には計算できないが、温暖化ガスの影響にも匹敵するものがあるのではないかと素人考えではあるが、私には思われてならないのである。私が言いたいことは、温暖化ガスだけを目の敵にした現在の温暖化対策は、科学者としては片手落ちなのではないだろうか、ということである。科学者が研究費をせしめるためには大きなテーマが必要だと言われるが、今や地球温暖化問題はそのための格好の対象に仕立てられているというのが現在の実情ではないのか。地球温暖化問題を取上げる科学者については、そういった点を疑って観る必要があると思われるのである。科学者も人間であり、自己の利益に動かされる部分があることは確かであると思うからだ。

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2008年6月 4日 (水)

単なる常識人の生物学者など詰まらない

 日本経済新聞の日曜版の新著紹介の紙面に『半歩遅れの読書術』というコラムがあり、月替わりで筆者が変わる。6月からは生物学者の長野敬氏が担当していて、1日の第一回は私の良く読んだ石川英輔氏の『大江戸シリーズ』が紹介されていた。氏は大江戸シリーズを三部作と書いているが、実際には七作まで出ており、氏の紹介は少し正確さに欠ける。
 ところで私はディケンズの『オリヴァー・トゥイスト』の映画作品にからんでディケンズの作品が年代的には江戸時代に該当することを指摘した。そして石川氏が第五作の『大江戸仙女歴』(講談社文庫)で描いているように、ディケンズの小説に描かれたイギリス社会が江戸の社会よりも町の綺麗さや庶民の清潔さなどを比べると、イギリスは少しも優れたものではなかったと書いておいたが、それと同時にディケンズの小説『ニコラス・ニクルビー』にも現れているように、西洋人の人間性は日本人などと比べると段違いに冷酷なものであると最近思うようになった。それはキリスト教の旧約聖書に描かれている沢山の残酷な話などの影響もあるのだろうかと私は想像しており、まだ日本ではキリスト教は愛の宗教などと誤解されているが、経済学者の竹内靖雄氏が『<脱>宗教のすすめ』(PHP新書)で書いているように、世界で一番人間に害をなした残酷な宗教というと、キリスト教なのである。
 長野氏のコラムに戻るが、氏は石川氏の大江戸シリーズの小説が男女の仲のことを扱っていることに関連して、「江戸文化の専門家、延広真司氏は巻末解説のなかで、研究者の立場から著者の考証などに敬意を表した上で、第三部『大江戸遊仙記』(講談社文庫)は『濃厚な場面』が多いので学生に推薦しにくく、紹介に止めていると渋い顔。』と書いてから、「 『役に立て』たい立場からは調子が出すぎている。」としているが、私にはこれらはどうも受入れ難い意見である。というのは、これらの意見の底にあるものは、学生などはまだまだ子供だからセックスに関する有害な情報には触れさせたくないと言う意識なのである。どうやら大学生になってもまだセックスするには早すぎるという考えなのである。
 ところで大江戸シリーズの主役の一人、『いな吉』を長野氏は美少女芸者と紹介しているが、その通りいな吉はまだ10代であるが大人の酒席に一人前の芸者として呼ばれて三味線を弾き唄うということを職業にしている。そして主人公の早見洋介が江戸にきた時はいな吉は洋介を旦那と考えているから当然一緒に寝てセックスをしている。洋介は現代の東京なら条例で捕まることを江戸ではしているのであるが、いな吉にすれば好いた相手と当然やるべきことをしているだけなのである。同じセックスをしても、江戸時代は当たり前、現代は犯罪、というのはおかしい話ではないか。そしておかしいのは、私には現代の考え方・条例の方としか思われないのである。
 長野氏と同じ生物学者の池田清彦氏は、『十八歳未満の青少年と大人とのセックスを禁じる条例というのは、おバカの極みだとおかしくなる。』と書いている。(『やがて消えゆく我が身なら』(角川書店)P195) そしてその理由を次のように説明している。『すべての野生動物は繁殖可能な年齢になれば交尾する。・・・・人類は完全な野生動物だから、十五や十六の女がセックスするのは自然現象以外の何ものでもない。自然現象を法律で禁止したり強制したりすることは不可能だということは小学生にでもわかる。』(同書P195) 自然科学者の理解としては当然のことを言っていると私には思われる。
 同じく生物学者でありながら、長野敬氏と池田清彦氏とではセックスに関して意識が全く異なっている。池田氏はリバタニアンを自称しているが、単に世間並みの常識しか持たない長野氏などには、私は小さくまとまった全く面白みの無い学者としか思われない。どうして長野氏の場合、セックスに関しては自然科学者としての訓練が生かされないのだろうか。どうやらセックスに関しては、長野氏は自然科学者である前に世間並みの常識人でしかないようである。 

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2008年4月 6日 (日)

文明の進歩とは交換経済の進展である

 現代社会ではわれわれが、物にしろサービスにしろ、何かを手に入れるには交換というやり方でしなければならない。交換するものは、お金か物、またはサービスである。しかし何かを得るための方法は昔は交換だけではなかった。お金と交換するというやり方、すなわち買うという方法は昔からあったが、昔はもう一つ違うやり方があった。奪い取ること、すなわち掠奪というやり方である。現代でも行われている掠奪行為というと、比較的小さなものは強盗などであり、その大きなものの典型は海賊行為であろう。
 ローマ帝国の兵士は給料を支払われていたが、戦利品という名の掠奪物の配分を受けることが彼らが戦うことの大きな動機になっていた。その他戦争に付き物の一つに、昔は兵士が女性を強姦するということがあったが、セックスするためにお金を払わないという意味では掠奪と異ならない。軍隊や戦争を描いたアメリカ映画を観ると、兵隊が外出日に町に出て女を買うという場面を見ることがあるが、最近は兵隊はきちんとお金で給料を払ってもらえるからセックスをするためにお金で女性を買うことも出来るのだが、大昔はそれが出来ない場合が多かったから兵士は強姦するというやり方で性欲を満足させるしかなかったのである。
 こう考えると、文明の進歩とは交換経済の進展ということであることが分かるであろう。あらゆるものがお金との交換というやりかたで平和裏に流通することこそが文明の進歩なのである。確かに売春というものは最古の職業と言われるほど古くから存在したが、現在の日本で江戸時代などのように女性がお金で人身売買されて売春を強要されることはほとんど無くなっているのではないだろうか。個人の自由な意志に基づく交換としての売春が、現在の日本では一般的であるように思われる。それは文明の進歩といってよかろう。日本国内で問題になる駐留アメリカ兵による強姦事件は、アメリカ兵が行なっているセックスの中では例外中の例外なのである。アメリカ兵がセックスをする場合、ほとんどお金との交換で行なわれている。はるか昔は当然であった勝ったほうの兵士による強姦も、今は戦争の時であっても正当なものとは認められなくなっているのである。たとえ占領地であっても、強姦をした兵士は軍律違反で取り締まられ、懲罰を課される。しかし兵舎の外に出て、お金を支払って交換というやり方でセックスをすることは黙認されているのだ。資本主義社会でお金との交換によるセックス・サービスは、交換という限りでは正当な取引なのである。
 カール・マルクスは資本主義経済を、すべての経済行為が商品交換によって覆い尽くされる社会として捉えたが、商品交換経済こそは文明社会の基礎なのである。それは暴力による取得を認めない。何かを得ようと思うなら、誰であっても交換という平和的なやり方以外は正当なやり方とは認められない社会、それこそが文明社会なのである。

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