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2009年7月

2009年7月26日 (日)

日本の政治が面白くなってきた

 先日(2009/7/24)BSジャパンの「プライムニュース」で横浜市長の中田氏と開成町長の露木氏が出て地方分権をもっと進めるべきだと、具体的に問題点を上げて説得力のある話をしていたが、今日(2009/07/26)BSーTBSの「政策討論われらの時代という番組 で「注目の地方首長が提言」という話題で新潟県知事の泉田氏と杉並区長の山田氏とが出演して中央官庁の政策などを具体的な例を挙げて批判していたが、要は前に上げた番組の場合と同じように中官庁が地方の実態に構わずに細かなことまでうるさく規制するのは無駄が多いというのである。
 この二つの番組を見て私は日本の政治の状況が大きく変わってきていると改めて強く感じたのであった。少し前なら地方の首長がこういった中央官庁批判をすることは、後での中央官庁の役人の嫌がらせを恐れて到底誰もしなかったことである。それが今やそんなことは気にしないで、国民の前でどうどうと中央官庁のやる政策を批判するようになったのだ。中央官庁のキャリア官僚連中の陰湿な行動が今や、マスコミによって大きく報道される事態になったからであろう。嫌がらせをすれば、それがまた具体的に報道されて中央官庁が批判されることになるのだから、力関係が完全に逆転してしまった。はっきり言って、これは中央官庁の自業自得なのだ。ついでながら私の住んでいる札幌市の上田市長がこういう場に出てこないことから判断すると、どうやら上田市長には余り自分の意見というものがないようで、札幌市民としてはとても残念なことである。
 そして長年政権党の立場にあった自民党が官僚におんぶする形でしか統治が出来なかったことが、こうした番組によって国民の目に明らかになってしまったのである。そのくせ自民党は、今や来るべき衆議院選挙において民主党に負けそうな情勢になったものだから「民主党には政権担当能力がない」などという難癖をつけることに一所懸命で、そのこと自体がまた自民党の末期症状を現しているのだが、自民党の議員たちはもうそうしたことを冷静に判断することさえ出来なくなっている。彼らは天に向かって唾をしているのであって、それは自分に振りかかってくるだけの話なのだ。「貧すれば鈍する」という諺の正に見本そのものが現在の自民党のドタバタなのである。
 麻生首相が大雨で起こった山口県の土砂崩れの現場を実地検分するということも、選挙対策でしかないのだと国民は冷めた目で見ている。国民の目の前で裸になれば自民党への投票が増えると分かれば、麻生首相は裸になることも厭わないだろうとさえ思われる体たらくである。政治家としての矜恃も何もなくなってしまって、ただただ政権党の地位にしがみついていたいだけのパフォーマンスなのである。自分たちが政治家として国民の負託に応えていなかったという反省があれば、一旦は下野して出直すことを考えるのがまともな人間の考えることだろう。もう自民党の人たちは、完全にトチ狂ってしまって羞恥心も何もなくしてしまっている。「こんな自民党はもう要らない。自民党よ、さようなら」国民はもうそう判断してしまったのだ。自民党の議員は全員頭を剃って、目に見える形で国民に反省の気持ちを示したらどうか。

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2009年7月22日 (水)

幸福の科学よお前もか

 最近政党のポスターが目に付く。私の住んでいる札幌市の清田区の住宅地の個人宅に創価学会の太田代表の大きな顔写真を印刷したポスターが貼られていて、その家の数が案外と多いのである。札幌の大学を卒業して内地に就職し暮らしてきたが、停年退職して戻ってくるまで公明党のポスターが個人宅にこれほど貼られているのを見たことはなかった。
 近くのスーパーの敷地には主として自民党と民主党のポスターが掲示されていたのだが、最近になって初めて聞く名前の政党のポスターが出ていた。『幸福実現党』である。中年女性の顔が印刷されていて、大川きょう子と名前が出ていた。インターネットで調べると推測通り、大川きょう子氏は幸福の科学総裁・大川隆法氏の妻であった。幸福の科学は当初自民党を支持していたのだが、最近の自民党のドタバタを見て見切りをつけたとのことで、今年(2009年)になって急遽政治団体を結成し、早速先日の都議選に10人の候補者を立てたが全員落選した。しかしNHKのニュースで報じられたのによると今回の衆議院選挙には確か284名とかの候補者を立てるということであった。なかなかすごい候補者数である。今日(2009/07/22)の日本経済新聞朝刊に出ている「主要政党別の立候補予定者数」に「諸派」の立候補者数が347と出ていたが、この大半は『幸福実現党』からの立候補者なのだろう。これだけの数の候補者を立候補させるには大変な資金が必要だと思うが、『幸福の科学』の資金力は大変なもののようである。
 また幸福実現党のホームページを見ると、「憲法9条改正 北朝鮮のロケットから日本を守ります」と「消費税・相続税全廃 あなたの財産を倍増させます」と政策を掲げている。
憲法9条の改正」を政策の第一に掲げていることは大変評価できることである。ただ「消費税・相続税全廃」という政策はいただけない。むしろ宗教法人がきちんと課税されていないことを改めるということをこそ掲げるべきであろう。(全くありえないことを承知の上で敢えて書いたのである。)
 経済学者の竹内靖雄氏は「<脱>宗教のすすめ」(PHP新書)で、われわれの社会は何故か宗教を特別のものと考えて、宗教団体の実態を見逃している。宗教団体はサービス産業に過ぎず、事業を行なっているのだからその収益に対して他の事業会社と同じように課税するべきであると主張している。私も長年生きてきてその経験に基づいて判断すると、竹内氏の主張は全く妥当であると思われる。自民党は公明党の助けなしには最早政権を維持できないほどに弱体な政党になってしまったから、創価学会をバックとする公明党の手前、宗教団体への適正な課税などということは到底言い出せない。そもそも竹内氏のこの本を読むような自民党議員自体が果たしているかどうかさえ怪しいぐらいだ。自民党の議員は石橋湛山氏の爪の垢でも煎じて飲んだら良いのだ。現在の自民党の議員たちは政権党の一員たる政治家でいることに執着するだけで、本来の政治家としての役割を果たすことなどには全く関心がないように見えるというのは全く情けない限りである。こうした体たらくだから国民の信頼を失ってしまったのであって、そうしたことを理解しないで麻生首相は民主党には政権担当能力がないと貶しているが、私は自らを良く省みて言えとアドバイスしよう。麻生首相の発言などは笑止千万のものなのである。麻生首相のこの発言を国民の誰がまともに受取るというのだろうか。
 ところで宗教団体がバックにいる政党としては公明党が周知であるが、他の例として頭に浮かぶのはオウム真理教である。教祖の麻原彰晃が政治団体の『真理党』を設立して1990年の衆議院選挙に先頭に立って立候補したが、集団立候補した全員が落選した。今回の『幸福実現党』はこの事件を彷彿させるものである。果たして当選者は出るのだろうか。しかし私が気になるのは、幸福の科学総裁の大川隆法氏が自分の妻を政党の総裁にして今回の選挙を闘おうとしていることだ。これは大川隆法氏の教団を含めての私物化を証明するものではないのか。政治に市民の感覚を持ち込もうと考えているのかも知れないが、それ以前に自分の女房を政治団体のトップに据えて平気な感覚こそが大きな問題であると思う。豊富な政治資金は、宗教団体が適正な税金負担をしていないことから得られているとしたら、全く不公正な話であり、国民はこうした点にも注意することが必要なのである。

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2009年7月21日 (火)

自民党は「法治」に背いているのではないか

 今日(2009/07/21)麻生首相が衆議院銀選挙を決定することになっているが、その前に「両院議員懇談会」を開いて東京都議選惨敗及び内閣支持率の低迷について麻生首相が反省の弁を述べるということだが、そもそもこの会合は当初「両院議員総会」として請求されたものであった。しかしそこで麻生首相の責任追及・総裁辞任を求められることが自民党の内紛を国民の目に晒すことになり衆院選挙に悪影響を及ぼすことを恐れた自民党執行部が決議のない「懇談会」に切り替えたという。
 中川、加藤元幹事長が中心となって署名集めを行ない「総会」開催に必要な人数の署名を集めて執行部に「総会」の開催を請求したが、執行部はそれを「懇談会」に変更して開催することにしたのである。当初「総会」開催請求の署名をした議員の中にも麻生首相の退陣を求める動きに反発して署名を取り下げる人が出てきたが、その結果「総会」開催請求に必要な人数を下回ったのかどうかは報道されていないようだ。もし署名者の人数が必要な人数を上回っていたのなら、自民党執行部が「総会」を「懇談会」に勝手に変えるというのは「法治主義」という近代社会の基本ルールを踏みにじるものである。そうであるなら自民党という政党には近代社会の政党としての資格はない。イランの大統領選挙で開票結果が正しいものであったかどうか大いに疑わしくてイランが近代民主主義国家ではないことを国際社会にさらけ出したが、自民党の体質はイランと大して変わらないのではないか。
 こうしてますます自民党は国民の信頼を失っていくのである。最近の自民党の行動を見る限り、よくもこんな政党が長年政権党でいたものだと思わざるを得ない。長期政権に安住して自民党にはロクな人材がいなくなってしまって、程度の低い連中ばかりが「オレは議員だ」とはびこっていたのだ。自民党はもはや完全に「裸の王様」になってしまった。

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2009年7月16日 (木)

『日本を貶めた10人の売国政治家』を読む

 自民党の最近のドタバタ、特に東京都議選での惨敗後の右往左往を見ていて、ちょうど新刊として出たばかりの小林よしのり編『日本を貶めた10人の売国政治家』(幻冬舎新書)が面白そうなので購入した。歴代総理を点数付けした本に、福田和也氏の『総理の値打ち』(文春文庫)があるけれども、こちらは「売国政治家」という観点からの複数人による採点結果を基にして、政治家ワースト10を選んだものである。ちなみに採点者の名前を書いておくと、小林よしのり、副島隆彦、大原康男、田久保忠衛、堀辺正史、西尾幹二、関岡英之、潮匡夫、小谷野敦、勝谷誠彦、木村三浩、宮城能彦、長谷川三千子、高森明勅、宮台真司、高山正之、八木秀次、富岡幸一郎、業田良家、西村幸祐の諸士である。恥ずかしながら私個人としては半数近くの人は知らない人たちであった。
 選ばれた個々のワースト政治家について書かれた文章の前に採点者たちの座談会が載っている。座談会は、小林よしのり、長谷川三千子、高森明勅、富岡幸一郎、勝谷誠彦の5名で行われた。
 行われた議論を読んでいて違和感を覚えたのは「日本の国体」という言葉を使った議論であった。そもそも「日本の国体」とは何を言うのかが私にははっきりと分からない。「アメリカの国体」や「中国の国体」などという言葉が使われるのを私は寡聞にしてかつて聞いたことがないから、「国体」というのはどうやら日本に独特のものであるらしい。私にも何となく分かるのは、天皇制に関係しているらしいということである。日本の天皇制に比較的近いと思われるのは、イギリスの王室の制度であるが、日本の天皇家が日本国の創造神話に出てくる神様と血筋の関係にあって2000年以上の歴史を有するのに比べれば、英国王室の歴史はそれほどではない。ただ現在天皇制も英国の王室制もともに「立憲君主制」の下にあって「君臨すれど統治せず」を原則にしているために政治的には何ら実権を有していない点は共通である。
 ここで私は確認のために「国体」という言葉について辞書を引いてみたら、新潮国語辞典では「国家を統治権の存立状態によって分ける区別。君主国体、共和国体、貴族国体がある。」と説明されており、大辞林第三版(三省堂)では、同じような説明の他に、「天皇を倫理的・精神的・政治的中心とする国のあり方。第二次大戦前の日本で盛んに用いられた語」と説明されていたが、どうやら座談会で使われていたのはこの意味の「国体」であったようだ。しかしこのような意味での「国体」を現代の日本の若い人たちのほとんどは私と同じように理解していないだろうし、今どきこの意味において問題にしてもらっても、私は意味がないと思う。日本国の創造神話の神々の末裔としての天皇などは、ただのお話としてはともかく、民主主義政体の現在の日本にとっては実質的な意味を持たないし、政治的に無害な存在としての天皇制以外のものはもはや有害なだけでしかないと考えるからである。この点が、この座談会出席者と私の考えが根本的に異なるところである。
 次に出席者の話に出てきて驚いたのが、戦前の宮内省には6000人を超える職員がいたという話で、私の感覚からすると異常に多い人数だと思う。現在は「1000人ぐらいしかいません。」と不満な口調であるが、私には何故そんなに大勢要るのかと理解に苦しむところである。寺尾善雄氏の『宦官物語』(河出文庫)を読むと、清朝の皇帝は衣服の着替えも全て宦官にしてもらっていて、自分ではやってはいけないことになっていたという。中国の皇帝は、完全なる生活能力の無能力者に仕立てられていたそうで、「宦官の規模を縮小した清朝においてさえ、「宮廷の正常な運営には三千人は必要とするのに、いまは二千人しかいない」とある。明の末期には女官九千人、宦官は十万人いたという・・」(P51)から、中国の宮廷に比べたらまだまだましかも知れないが、政治権力の実権から切り離された戦後の宮内庁と戦前の宮内省とを比べて職員の数が少ないなどというのは全くおかしな議論である。宮内庁の職員の数の話も「日本の国体」に間接的ながらかかわる話だとすると、どうも座談会出席者の観念する「日本の国体」というのは私には危なかしい話に思えて仕方がないのである。
 ところで新潮国語辞典でも大辞林第三版でも、「国体」という言葉の意味の第一番に上げているのは「くにがら」という説明であったが、この意味でなら「日本の国体」を大事にしようとすることには私も大賛成である。アメリカのような国の「くにがら」はやはり日本人の体質にはそぐわないところがある。しかし野球のメジャー・リーグの試合の前に「ゴッド・ブレス・アメリカ」を選手も観客も全員が立って歌うのは、見ていて羨ましく思う。日本の現在の国家ではこういうわけにはいかない。スポーツ観戦用に第2の国歌を作っても良いと私は考える。
 さて次にこの座談会で行われた議論の中で私が納得しかねるものとして、軍隊の話がある。私が大学時代に講義の中で聞いた話の中で、「ああ、そうなのか」と思ったものに「軍隊の銃口は国外に向けられているだけではない。国民に対しても向けられることがあるのだ。」というのがあった。この「国民にも向けられる軍隊の銃口」ということについて、この座談会の出席者たちは、現在の政治家たちはみな「軍隊は暴走するものだ」という固定観念に囚われていて、そのために自衛隊の強化・装備の充実に及び腰で、国際政治の実態に眼を閉じていると非難しているが、まず最近のチベット暴動、新疆ウイグル自治区での暴動などで明らかなように政治権力者が軍隊に命じて国民に銃口を向けさせることはありうることであって、軍隊の暴走などとは何ら関係なしにそういうことは起こりうることなのである。「軍隊の銃口が国民に向けられる」場合の大半は政治権力者の命令に従う場合であろう。軍隊は、警察と並んで国家の暴力装置であって、政治権力者の考えに従って対外的にも対内的にも軍隊は動員されるものなのであり、それは当たり前のことなのだ。「軍隊の暴走」は、政治権力の弱体な状態が引き起こすものなのである。この座談会の出席者たちには政治学の基本が理解できていないのである。
 『日本を貶めた10人の売国政治家』をまだ途中までしか読んでいないが、少々引っかかるところがあったのでその点を以上で書いてみた。

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2009年7月15日 (水)

高齢化社会の抜本改革の対策は簡単だ

 今日(2009/07/15)日本経済新聞朝刊の「経済教室」で林正義一橋大学准教授が『固定資産税の活用 検討を』というタイトルで書いた論文の最初は次のように始まっている。
 「やむことのない日本の高齢化が社会保障費を拡大させている。」
 社会保障費には年金への政府支出も含まれているに違いないが、国民が年金保険料を支払うことで成り立つとする年金制度が社会保険庁の不始末のために国民の信頼を失って保険料を支払う国民の比率が低下する一方だという。それを補うために消費税を使うことが考えられ消費税率の引上げが政治的な課題として浮上して来ているが、私はもっと根本的な事柄が失念されていると考える。
 日本人の寿命が伸びて世界一になったということは、例えば65歳で停年退職して仕事を離れてから死ぬまでの期間が20年近くという長いものになって、高齢者はその長い期間年金の支給を受けて生活することになったが、その制度を維持することが国家として財政的に到底不可能になってきたのである。その根本的な問題は、十分働くことが出来る高齢者が大勢いるにもかかわらずそれらの人たちを働くことから実質的に排除しているということであると私は考える 。多くの十分に働く能力のある高齢者が働いて収入を得ることが出来れば年金の支給を受けなくても良くなり、社会保障の制度を国全体として改善できるはずだ。
 これは、私自身が60歳で停年退職して高齢者の仲間になって、身近に目に付いたことから実感したことである。高齢者については、そうでない人たちに比べて、健康面から見て労働能力における差が大きいと講習会で聞いたことがあるが、私の実感からも実際にそうだろうと思う。
 高齢者でも元気な人は75歳くらいまで働けるだろうし、働ける間働くことは本人にとっても健康のためにも良いだろう。そうやって高齢者の中で働いて稼いだお金で暮らす人が増えれば、年金の財政も改善されるだろうし、健康の維持にも役立てば医療費という社会保障費の改善にも貢献するだろう。
 ところが日本の現状は、元気で働ける高齢者が職を得て収入を得られるようになっていないのだ。政策的に一番にやるべきこと、即ち高齢者の就業対策をやらなくて、政治家も官僚も、また経済学者も社会保障の財源確保という次善の対応策のことばかりを考えているとしか思われない。それは彼らが日本社会の現実をキチンと把握していないからであろう。
 地球全体として考えると、人類は自ら生産した財とサービス以外には消費することは出来ないのであって、現在働く場がなくて年金を受給して生活している人たちは生産の場から排除されているのであるから、これらの高齢者が働いて生産に貢献するようになれば生産される財とサービスの量は増えるし、高齢者も自分の消費する分くらいは十分に生産できるはずである。
 高齢者の潜在している労働能力部分を働く場に顕在化させること、これこそが現在高齢化社会の問題とされていることを解決する一番の根本的な対策なのである。どうすれば元気な高齢者の就労の場を作れるか、この政策を最重要のものとして日本政府は取り組むべきである。

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2009年7月14日 (火)

ドタバタ自民党の醜態

 麻生首相がようやく解散時期を国民に報告できる状況になった。新聞などの報道によると、7月21日解散、8月30日投開票に決まったという。私には、これは麻生首相の意地が決めた結果であって、お坊ちゃまのダダコネにしか見えない。
 自民党内には麻生首相の下では衆議院選挙を戦えないと首相交代を求める声が高まっていた。しかしこれは正に「天に唾する」のと同じなのだが、自民党の議員の連中はそのことにさえ気付いていないようだ。そもそも麻生太郎氏を自民党総裁に選んだのは彼ら自身であったのだから、自分たちの行動の結果を自ら否定していながらその責任を何ら感じていないという、全く面の皮ばかり厚い恥知らずの行動なのである。最近の地方選挙の結果に表れた国民の意思を見て、自民党が国民の支持を失っているということを腹の底から感じざるをえなかった自民党の議員たちは完全に浮き足立って理性を失った結果がこの醜態をもたらしたのである。そうして、こうした自分たちの行動自体が、麻生首相の無能に加えて、国民の目に自民党は全く信頼するに値しない政党であるという決定的な印象を生みだしたのだ。
 そもそも麻生首相の下では衆議院選挙を戦えないという考え方自体が、自民党の議員たちが如何に国民から遊離した状態にあったかを証明するものであったし、有権者である国民を馬鹿にしたものである。今までの麻生首相の行動が不適切であったというのなら、自民党の議員たちはもっと早くに総裁の地位から解任するべきであったのだ。近づく選挙に不利になったからといって慌てて党首の顔を取り換えて、国民に対する見かけの印象を粉飾して何とか自民党を政権党の地位に止まらせ、自分たちは引き続き政権党に所属する議員の地位に止まりたいだけなのである。政治家であるということは、単に政権党の議員でいることが最大の目標であると言ったものではないはずだ。それは他人の褌で相撲を取るという安易な行動でしかない。今や自民党の議員連中には、国民の負託に応えなければならないという自覚・責任意識などはこれっぽっちも見られない。有権者は馬鹿ではないのだ。
 麻生首相は民主党を貶して、政権担当能力がないと訴えていたが、国民の目から見ると最早自民党こそが政権担当能力を失っているとしか思われないのである。安倍、福田、麻生の3代の首相が国民の眼に晒して見せたのは、自民党内部の人材の払底という事実であった。自民党所属の議員たちが、これこそは自民党で一番の優れた政治家であるとして選出した総裁が3人続けて全て外れのペケであったのだから、国民が自民党という政党に対して最早期待できないと考えたのは当然であろう。週刊誌では舛添議員の自民党総裁就任が予想されているが、厚労相として顔を売ったから有権者に受けが良いだろうというだけの思惑でそういう話が義民党の議員のあいだで出ているのなら、いよいよ国民を馬鹿にした愚劣な自民党的発想だ。正に自民党は「貧すれば鈍する」の最低の状態に落ち込んでしまっているのである。

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2009年7月10日 (金)

『「正義の味方」の嘘八百 昭和史のバランスシート』を読む

 谷沢永一氏の『「正義の味方」の嘘八百 昭和史のバランスシート』(講談社文庫)を読んでいるが、この本は購入してから随分寝かしてあった。それは、本のタイトルが酷く際物的であると感じられて買ってはみたもののその後手が伸びなかったのである。ところがある時手に取ってふと解説を読もうとしたら、書いていたのが意外やショートショートで有名な星新一氏であった。星氏がこの本を随分と褒めていたので、それで大いに読む気をそそられたのである。私は谷沢氏の本を相当買ってあって、『悪魔の思想』(クレスト社)や『こんな日本に誰がした 戦後民主主義の代表者 大江健三郎』(クレスト社)など何冊か読んだが、谷沢氏の本で特に強く印象に残ったのは『聖徳太子はいなかった』(新潮新書)であった。私はこれによって歴史というものが過去にそれぞれの時代に書かれた記録を基準にして解釈されており、昔書いた人が意図的に嘘を書いている場合がありうるので、それを見破ることが歴史家の重要な任務であるという谷沢氏の主張に大いに目を開かれたのであった。聖徳太子もそういった当時の政治的な理由で創造された偶像であるという。
 また日本の歴史を初めて書いたものとしてわれわれが中学校などで教えられたのは、古い順に「古事記」次いで「日本書紀」であったが、岡田英弘氏の『歴史とはなにか』(文春新書)には、「日本書紀」がまず書かれて、その後100年ほど後に「古事記」が書かれたという。そして『古事記』は一種の偽書であるという。歴史というのは怖いものだ。
 谷沢氏によると、聖徳太子のことが書かれているのは『日本書紀』だけで、それ以外の歴史書には一切出てこないという。また聖徳太子そのものは人間とは思われない能力の持ち主で一種のスーパーマンとして描かれているが、良く考えてみるとそんな人間などいるはずもないと判るのだが、学校で教えられていることがまさか嘘であるとは誰も、特に子供は思わない。だから日本人は誰も聖徳太子の実在を疑うことなど無かったのだが、歴史家はその国家的な嘘を見破ったのである。
 ところで『「正義の味方」の嘘八百 昭和史のバランスシート』は内容そのものも面白いのだが、それと同時に谷沢氏の言葉遣いにも思い掛けない面白さを味わうことが出来た。この段落の初めを私は「ところで」という言葉で始めたが、話題を変える時に昔の人が良く使った言葉に「閑話休題」(かんわきゅうだい)というのがあるが、谷沢氏はこれにうまく読みを付けて使っていて、それがなかなか面白いのである。具体的にそれを示そう。()は付された読みである。
 ①「閑話休題(むだばなしはさておき)事程左様にわが国上代貴族は、質素で、小心翼    々たる集団に過ぎなかったのである。(P40)
 ②「閑話休題(もとへもどって)事程左様に日本人は、年功序列をもって逐次的に昇って いくことこそ、社会的に望ましいと考えており・・・。」(116)
 ③「閑話休題(それはそれとして)事程左様に、昭和十年代の軍需景気は市民生活を豊かにし、郊外住宅を外へ外へと広げていった。」(P187)
 なお念のために「閑話休題」を国語辞書で引くと、新潮国語辞典では、「(物語類で、話をもとに戻す時に用いる語)無駄話はさておいて、それはさておき、さて」と説明している。最近の作家ではこの言葉を用いる人を見ないが、私はなかなか味があって面白いと思う。
 なお谷沢氏の本の面白さの一つは、自分の意見をはっきりと述べ、徹底的に批判することであり、日本人には少ないタイプの人間である。私が感心したその例をこの本から拾って下に示す。
 「『いのちとかたち』(書名、新潮社)で山本健吉は、ハッタリ評論家の常として、(藤原) 道長が同時代に関白と尊称されていた、などと思い切り良く断定したが、それは根拠のな い”知ったがぶり”である。」(P57)
 これに対して山本健吉がどう反応したのか、大いに気になるところであるが、谷沢氏が名誉毀損の裁判を受けたという話も聞かないから、しっぽを巻いて黙っていたのだろうか。
 もう一つ例を挙げよう。
 芭蕉七部集のなかの『猿蓑』という俳集に「たび踏みよごす黒ぼこの路」という句があるそうだが、『日本古典文学大系』のなかで中村俊定がこれにつけた解釈について、江戸時代の実態を全く理解しないで書いていると論証反駁した上で、谷沢氏は「中村俊定は俳集訳者として失格なのである。」(P186)とはっきりと書いている。かくて中村俊定は完全に学者としての面目を失したのである。なかなか出来ることではない。
 ところでこの本は昭和57年(1982年)に出版されたものだが、谷沢氏の書いた次の文章は日本経済の当時の好況の経済状態を見事に反映したものであった。
 「まず、一般的に、もっとも幸福な世代と考えられているのは、戦後派であろう。戦後に生を享け、高度成長期にもの心がつき、現代を謳歌している世代は、日本史上、もっとも生きるのにやさしい、豊かな安定した社会に生きているわけであり、人類史上、最高の幸福を満喫していると言っても過言ではないはずである。
 今日の日本ほど、豊かで、人間味溢れる、安定した社会というものは、日本史上一度もなかったし、現在の世界中、どこを捜してもない。」(P243)
 これはまさにガルブレイスの言うところの「豊かな社会」そのものであったのだが、翻って現在の社会経済状況を見ると全く様変わりしてしまった。全く反対の生きにくい社会に落ち込んでいるのである。
 谷沢氏は昭和十年代の軍需景気について次のように書いていたが、まさにその危うさは現代の大恐慌以来の世界不況を予言するところがものであったのだと私には思われるのである。谷沢氏は次のように書いている。
 「社会全般が軍需景気を謳歌し、国民が小市民生活に酔っている間に、恐るべき破局は醸成されつつあった。」(P187)
 「好景気に浮かれていると、思わぬ落とし穴が待ち受けているという教訓にはなろう。」(P190)
 バブル崩壊後の長期不況の後、ようやく景気が回復しだしたと日本国民が安心し始めた時に、今度はアメリカで金融恐慌が勃発しそれが招いた世界不況によって日本の経済はもはや「豊かな社会」などとは到底言うことの出来ない悲惨な経済状況に陥ってしまった。日本が経済的に惨めな状況になったために多くの若い人たちは結婚して子供を育てられる状況にはなくなっている。そしてその政治的な責任を自民党は問われているのだ。次の政権を担うのは民主党だという大勢が示すものは長きに亘って政権を担当してきた自民党の責任である。それを自覚したら、自民党の議員たちは自分たちには最早、到底政権を担当する資格はないと認識されるはずだし、その責任を取って潔く下野すべきなのだが、恥知らずにも政権党に止まろうと躍起になってジタバタしている。正に厚顔無恥の連中ばかりなので、この醜態こそが国民の支持を失う大きな要因になっているのである。
 谷沢氏はこの本のなかで石橋湛山氏を「石橋湛山こそ、日本思想史上、まことに稀有の思想家であった。」と高い評価を与えているが、石橋湛山は自民党の政治家であったのだ。ところが最近の自民党の総裁となった人たちは、石橋の足下にも到底及ばない情けない連中ばかりであった。自民党の議員の質は情けないほどに劣化してしまっているのである。

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2009年7月 6日 (月)

自民党は粛々と身を引くしかない

 昨日(2009/07/05)に投票で、静岡県知事が川勝平太氏の当選で終わったと報道されたが、私はこの報道を聞くまで川勝氏が立候補していたことを知らなかった。川勝氏については、私は氏の著書を何冊か持っていて、名前は知っていたが、まさか民主党の候補として立候補したとは意外であった。川勝氏が自民党から立候補していたらまだ読んでいない氏の著書を読む気が失せていたであろう。私が持っている氏の著書は以下の3冊である。
 富国有徳論(中公文庫)
 「美の文明」を作る(筑摩新書)
 「美の国」日本を作る(日経文庫)
 著書のタイトルを読んだだけでも、川勝氏がどのような人間であるかはおおよそ想像がつくであろう。このような人がもし現在の自民党から立候補したとしたら、自らの信条とは全く外れた行動をしたとして人格を疑われたに違いない。
 最近の地方公共団体(名古屋市、さいたま市、千葉市)の市長選挙で自民党系の候補がすべて落選しているという。最近の麻生首相の言動を見た日本人の過半数は最早自民党という政党を完全に見限ってしまっていることは明白であると思う。そしてこうした結果をもたらしたのは自民党自体なのである。自民党は保守政党として長期に渡って政権党であり続けてきたが、同じ保守政党としての民主党に支持を奪われてしまったのだ。小泉首相の退陣以降、自民党総裁に就任した安倍、福田、麻生と3代の首相は皆、国民に醜態を晒して到底首相の柄ではないと国民から判断され、自民党は三行半を突き付けられてしまったのだ。
 長期政権の惰性が、自民党の議員の資質を決定的に低下させてしまったようだ。イギリスではブレア首相以来の労働党が今や国民から見放されようとしている。地方選挙で大敗を喫しているようだし、国政選挙が近く行なわれれば、間違いなく負けるだろうと予想されている。長く権力の場にいることは自然とその政党の所属議員に堕落をもたらすのだろう。「権力は堕落する、絶対的な権力は絶対的に堕落する。」という政治学で知られる有名な言葉がある。その通りのことが自民党に起こったのだ。自民党は自らの醜態、人材の払底を徹底的に反省して、出直すしかないのだ。今、政権党から滑り落ちないことだけ考えて下らない手を打てば、いよいよ国民の信頼を失うばかりであろう。潔く自らの失態を認めて政権を去り、出直すしか無いのである。自民党議員の皆さんは、今内部に国民が納得するような首相として相応しい人材の名前を挙げることが出来るのだろうか。週刊誌の見出しなどを見ると、何となく厚生労働大臣の舛添氏が候補として考えられているのかなとも感じられるが、私個人としては舛添氏も何となく胡散臭い感じをまぬかれないのである。
 民主党の議員たちもそれほど立派な人たちであるとは思わないが、それでも自民党の議員たちよりは少しはましなのではないかと考える。もし彼らもどうしようもないようならすぐに国民の支持を失うだろうから、そしてそのことを彼ら自身も良く弁えているだろうから、自民党の政治よりは少しはましなものになるだろうと思われる。
 とにかく自民党は今回は粛々と政権から身を引いて、人材を揃え国民の支持を得られるように出直しの努力をするべきなのである。最後の首相になりそうな麻生さんは、それにしてもお粗末であった。人間的にも薄っぺらで、こんな人しかいなかった自民党は正に人材払底の状態なのだ。

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「我が町」と感じるということ

 今日早朝近所を散歩していて、我が家近くに戻った時に、ふと「ここは我が町だ」と感じた。もう2年半近く住んでいたのだが、今住んでいる場所についてこんなことを感じたのは初めてであった。それに60年以上生きてきてあちこちに住んできたのだが、こんな感慨を持ったのも初めてであった。
 私の住んでいるところは全くの住宅街で、一軒家と共同住宅とが混在していて、住宅と住宅との間には空間があり、個人の土地の一部が自然と通路になっているところがいくつかある。そういうところを生徒たちが近道として利用し日々通り抜けている。私の住んでいる共同住宅の脇もそのような通路になっていて毎日生徒たちが通っている。私自身も近所のスーパーなどに買い物に行く時に便利に利用している。
 今朝散歩の帰り道、近所の脇道を同じように通り抜けようとして、私はあれと思ったのである。その脇道は前回私が利用した時まで草が膝くらいまでぼうぼうと生い茂って、通る時に道塞ぎになっていたのであったが、今朝見ると綺麗に刈られていて、黄色く枯れ草色に変わっていたのである。久しぶりに使ったのだったが、少し前に誰かが草を刈っていたのである。
 これが私に「我が町」という言葉をふと思い起こさせたのであった。この時初めて私は自分が住んでいるこの地域を「我が町」として強い情緒的な感慨を抱いたのである。草ぼうぼうの脇道が、草が刈られて歩き良いものになっていたという小さな変化が今住んでいるこの地域に対する愛着を呼び起こしたのである。こういう小さな変化が生じたと気が付くということ、それは「我が町」の証拠なのだ。
 それで思ったのであるが、日本人で自分の住んでいるところを「我が町」として愛着を以て感じられる人が果たして、今どれくらいいるのだろうか。自分の住む住居もただ仕事が終われば帰って寝るだけの場所ぐらいにしか意識されず、その地域の持つ個性・特徴などに全く気付くこともないというようなところには地域共同体は存在しない。今や地域競争対なおDというものはほとんど死語なのだ。特にマンション形態の共同住宅では、隣近所の住人も何も付合いもなく互いの顔も知らないといった、人間とのかかわりを疎ましく思うだけの人間しかいなくなった日本という社会はけして住みやすい社会ではありえないだろう。自分自身の体験に則して考えても、高齢化して年金生活となり、暇だけはたっぷりあるという生活にでもならなければ生活を楽しむ時間も持てないというのが日本の実態である。日本人にはもう少し生活を楽しむための時間を持つことが必要であると痛感する。日本社会の安定のためにも、自分の住むところを「我が町」として意識できる人が多ければ、その町は安心して住める町になるのに。

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2009年7月 3日 (金)

温暖化ガス削減のための原子力発電は大問題

 いつの間にやら地球温暖化防止のためのCO2削減対策は世界中での最優先課題になってしまったようだ。NHKでは「明日のエコでは間に合わない」とかいうキャッチで温暖化防止への参加を訴えている。
 ところで原子力発電は、石炭や石油といった化石燃料を燃やさないのでCO2を発生させないから温暖化防止に役立つとして、原子力発電の中止を決めていたヨーロッパ各国も政策を転換してまたぞろ原子力発電の拡張に向かって動き出している。確かに目先、原子力発電はCO2を出さないのであるが、その発電に当たってはウランという放射性物質を使用することによる避けられない大問題を抱えている。原子力発電所で燃やされるウランは放射性廃棄物を生み出す。その処分には解決不能の問題が存在するのである。
 物理学者の槌田敦氏が『原発安楽死のすすめ』(学陽書房)という本を書いているが、その中で原子力利用に伴うリスクについて次のように書いている。
 「原子力を利用するについては、三つの大きな問題がある。第一は軍事問題、第二は原子力事故、第三は放射能の後始末である。」(P146)
 そして第三の問題である「放射能の後始末」とは、「人間の能力を遙かに超えた」(P146)ものであるという。原子力発電の結果生じる放射能には、燃料として使用されるウランなどの残物に含まれるもの他に、例えば原子炉の鋼材に含まれるコバルトに中性子が当たると発生するコバルト60などがある。後者は廃炉に伴う問題であるが、しかし「原発を運転すると必ず生じてしまうこうした放射能のうち使用済みの燃料の中に含まれる放射能がもっとも量が多い。」(P146)という。そして使用済みの核燃料は再処理することになっているが、「再処理」とはプルトニウムを取り出すことを言うのだそうだ。この後に残った廃物には高濃度の放射性物質が含まれるために、それらは「高レベルの放射性廃物」と呼ばれ、それをガラス固化して、高さ1.4m、直径45㎝程度の容器に詰める。そうして人間から隔離するために地下深くに埋設されることになっている。ところが「高レベルの放射性廃物」の放射能は時間の経過によってそのレベルが低くなっていくのではあるが、100年後には10分の1くらいに減っても放射能は完全にはなくならないのである。従ってたとえ地下深くの岩盤に保管したとしても問題はなくならない。槌田氏は次のように書いている。
 「放射能と人間との隔離でもっとも注意しなければならないのは、地下水から隔離することである。」(p149)
 100年以上もの長期に渡って果たして地下水から放射性廃物を完全に隔離することは出来るのだろうか。特に日本の場合、容器のひび割れなどの他に地層や地震などの問題による放射能の地下水との接触が起こる可能性が小さくないという。放射性廃物が地下水と接触すれば地下水は放射能を帯びるし、いったん放射能を帯びた水から放射能を除去することは不可能である。
 槌田氏は放射性廃物の放射能の減衰について100年後のデータを示しているが、高木仁三郎氏は、『原子力神話からの解放』(光文社)の中で、「とくに問題になるのが使用済み燃料の中に含まれている死の灰の本体部分で、高レベル廃棄物と呼ばれるものです。この中には、何百万年という非常に寿命の長い放射性物質が含まれています・・。」(p269)と書いている。原発によって生じる放射性廃棄物の問題はその害が無くなるまでには超長期を要する大変厄介な問題なのである。
 原子力発電によって人間社会は大変なリスクを抱え込むことになったのである。つまり原子力発電とは、放射能汚染という究極のリスクを先送りすることによってエネルギーを得るというやり方なのである。当面現在生存している人間たちは放射能汚染の問題からは守られているかも知れないが、100年後の我々の子孫たちは100年前の人間たちの都合のために飛んでもない被害を受けることになりかねないのである。

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NHKの中国共産党的体質

 NHKが4月5日に放送した『NHKスペシャル JAPANデビュー 第一回 アジアの”一等国”』という台湾を扱った番組に対して月刊誌WILL6月号に、渡部昇一氏が『NHK台湾偏向報道への公開質問状』を掲載した。私はこの番組を見ていないが、渡部氏が書いている内容が正しいとすると、非常に問題のあるものであると言わざるを得ない。台湾では日本の統治が現地の人たちには良く受け容れられていたという話は、私の歴史の本などで読んでいたが、NHKのこの番組では全く反対のことが伝えられたという。岡田英弘氏などによると、日本が統治する以前、中国のあちこちから台湾に移り住んできた人たちの話す言葉には共通語といい得べきものが無くて中国人同士のあいだで意志の疎通に問題があったところ、日本の統治の下で日本語が共通語となって話されるようになった結果その問題が解決したという。また日本は鉄道の施設や義務教育制度を導入することによって遅れていた台湾社会をレベルアップさせたとも言う。日本の台湾統治は、欧米列強がアジアで行なった植民地統治とは内容的にみて全く違っていて、現地の人たちの為にも役に立つ面が多かったのであったのにもかかわらず、NHKの番組ではそういった面は全く触れずに日本が悪いことしかしなかったように伝えているという。それは中国政府が強く主張する、日本は侵略国家であったという主張を代弁するようなものであったようだ。村山談話によって日本政府自ら、大東亜戦争において日本が侵略国家であったと認めるだけでなくわざわざ宣言したのであったが、欧米列強で中国侵略を行なった国家はどこもそんなことはしていない。村山談話は自己満足だけの全く愚かなものでしかなかったのであるが、その害悪は今なお日本政府を束縛して国益を害しているのである。
 またWILL8月号では自民党元総裁の安倍晋三氏が『NHK台湾番組は放送法違反か』を寄稿して、今回のNHKの番組を批判しているが、自民党議員の中山斉彬氏が出した質問状にも真面目に回答していないとして怒っていた。
 こうしてみてくると、NHKが今回の番組でやったことは実態としては中国共産党政権の提灯持ちでしかなかったのである。日本国民から強制的に巻き上げた受信料という税金もどきを使ってNHKが中国政府のイチャモン主張をバックアップする番組を製作していたとは、全くいい根性である。今回の番組制作を通して透けて見えたものは、日本国民の利益に反する番組を日本国民のお金を使って作り上げるというNHKの売国奴的体質であった。NHKは常に日本の公共放送を自認してきているが、それを語る資格は最早NHKには全くないと言わざるを得ない。また面白いことに、NHKの独善的な体質は、中国共産党の一党独裁政権と同じものであることを示しているのである。
 NHKのクビに鈴をつけるやり方を日本国民は真剣に考える必要があるのだ。その一つの重要なやり方として私は、WOWOWのように受信料を払わなければ番組を見ることができないという有料放送方式に変更するべきであると考える。テレビ受像機を買うとNHKの番組を見ようとみまいと強制的に受信料支払義務が生じるというのは、私に言わせると個人の財産権の侵害にほかならず、重要な憲法違反である。

 以上の原稿を書いた時点で私はまだWILL8月号に掲載されていた大高未貴女史の『台湾人の名誉を傷つけたNHK偏向報道』の記事を読んでいなかったのだが、そこで大高女史はこの番組の背後に中国共産党の影を感じている。しかし私にはNHKの官僚的体質そのものが中国共産党に相通じるものがあるように思われるのである。大高氏はNHKは「無理やり受信料を取り」と書いているが、公共放送を唱えるからといって国民に、見ようと見まいと受信料支払を義務づける法律が存在することこそが根本的な問題であって、今までの自民党政権下では誰もそのことに疑問を持たなかったということに国会議員の情けないほどの法律感覚の欠如が示されていて、私には許し難いことなのである。繰り返すが、それは憲法に定められた私有財産権の侵害そのものであって、憲法の規定に違反し、近代社会の基本的なルール・枠組みを踏みにじっているのである。

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