科学者がなぜ宗教に甘いのか
科学と数学との関係について知りたいと思い、丹羽敏雄氏の『数学は世界を解明できるか カオスと予定調和』(中公新書)を読み終わってから、次いで自然科学が起こった西洋について知るために渡辺正雄氏の『科学者とキリスト教 ガリレイから現代まで』(講談社ブルーバックス)を読んでいるが、科学者である著者の渡辺氏がなぜこんなに宗教や神というものに甘い態度なのかと強い違和感を感じた。この本は1987年の4月に初版が発刊されているが、この本のカバーに印刷された渡辺氏の略歴をみると氏は東京大学工学部を卒業後東大助教授を経てこの本の出版時には東京基督教大学の教授であった。勤務先がキリスト教系の大学だからなのか、宗教というものに対して随分と甘い評価をしているのだ。渡辺氏はまえがきで以下のように書いている。
「科学は宇宙の起源と人間の起源を究めることはできるかも知れないが、人は何によって生きるかに答えることはできない。科学は生命現象を説明したり、生物学的生命を延ばすことに寄与したりはするが、人間を人間として真に生かすものを提供することはできない。科学は今や、一瞬のうちに全人類を滅ぼすほどに強大な力となってはいるが、人間を人間として生かす力を、ただ一人の人間に対してすら与えることができない。
解決を求めようとすれば、それを宗教に求めざるを得ないということになるであろう。・・・・その科学の発展の著しさが、今日、かえって宗教の必要性を人々に痛感させている・・・・」(P6)
これを読むと渡辺氏は、宗教は人間にとって必要不可欠なものであり、科学と共存することには何も問題はないし、当然のことであると考えているようだが、果たしてそうだろうか。普通の日本人はほとんどがたいして宗教に凝っていないけれども、幸せに暮らしていくのに宗教が不可欠であるとは思ってもいないし、日本人が宗教的でないことは何も問題を起こしていないことは日本人なら誰でも知っていることだ。渡辺氏にはそれが見えていないのだが、なぜだろう。宗教によって目を曇らせているからではないだろうか。
渡辺氏は宗教については「歴史的に科学ともっとも深くかかわってきた宗教は周知の通りキリスト教である。近代科学の成立・発展は、まずキリスト教的な西洋世界において行われたからである。これ(科学)に寄与した人々の多くは、自ら意識するといなとにかかわりなく、キリスト教的な世界観のもとで研究を進めてきたのである。」(P6〜7)」と書いているが、キリスト教徒でありながら科学者でもあるという人間は西洋では多いようである。量子力学という自然科学の最先端を研究していたイギリス人のジョン・ポーキングホーン氏は『科学者は神を信じられるか クォーク、カオスとキリスト教のはざまで 』(講談社ブルーバックス)で宗教とキリスト教の関係について次のように書いている。
「両者は相互補完的なもので、科学とキリスト教のふたつの観点から世界をみた方が、より完全な理解が得られるのではないだろうか。」(P4)
「私は個人的には、科学とキリスト教の両方とも必要であり、両分野はお互いに語り合うことが重要だと思っている。}(P5)
渡辺氏とポーキングホーン氏とは全く同じ見解を抱いているのである。ところで宗教について言うと、日本と西洋社会とでは全く社会的環境が違っている。西洋社会では子供が産まれるとすぐに両親は赤ん坊を教会に連れて行って洗礼を受けさせるようである。つまり子供は本人の意思とは全く関係なくキリスト教徒にさせられるのであるが、西洋人は誰もそれを疑問には思わないのである。日本では七五三という子供を神社に連れていってお祝いをする習慣があるが、それは別に子供を何らかの意味で宗教に入信させることとは無関係である。西洋ではキリスト教徒になること(であること)は、いわば地域社会の一員になるための不可欠な要件でもあって、本人の立場からするとインプリンティング(刷り込み)によって本人の自由意志とは無関係にキリスト教信仰の道に押し込まれるのである。したがって私は西洋のキリスト教徒が本当の意味での宗教者であるといえるのかどうかを疑問に思っている。宗教的な自覚も何もなく、単に社会的習慣によって彼らはキリスト教徒であるに過ぎないのだ。子供の頃に馴染んだものからは、人間は簡単に抜け出せない。彼らはいわば精神のロボットなのである。
ポーキングホーン氏が宗教、神について書いていることを読むと私はこれが果たして科学者が書くことなのかと全く頭を傾げざるを得ないのである。具体的に引用しよう。
「神の創造は、過去のある時点で何がどう起こったかだけではなく、現在、進行中の出来事にも関与している。宇宙を創造した神は今もまだ、このように関与することによって存在しているのだ。宇宙をこのように現にあらしめている、この宇宙の進化の歴史の背後には、神の心と目的が明確に存在しているのである。」(P63〜64)
この文章を読んで私が思うのは、何を勝手なことを言っているのか、彼のこの主張の裏には何の根拠もないふぇはないか、ということである。彼のこの言明は神の存在を刷り込まれて育ったキリスト教徒の典型的なお喋りでしかないのである。しかも彼は「我々は神が存在するか存在しないかを証明することはできない。」(P46)と書いているから、神を信仰するかしないかは全くの個人のいわば趣味の問題に過ぎないのである。私は宗教の根底にあるのは「かも知れない」という証明を超越した思考であると考えている。神の存在を信じることについては、日本には次のように昔の人が言った適切な表現がある。『鰯の頭も信心から』 正にそうなのである。冷静に考えれば、神を信じることと、鰯の頭を信じることとの間には何の違いもないのである。こういうことを書くと、キリスト教の信者の方は「何と不敬なことをいう」と大変に立腹されることだろうが、日本人の私などから見ると何もおかしなことはないのであって、唯一全能で絶対の神が存在すると考えるユダヤ、キリスト、イスラム教徒こそは目が曇っているのである。ところが科学者であるポーキングホーン氏も、こと宗教のこととなると目が見えなくなるのである。
「宗教が信仰を土台にしていることは誰でも知っている。・・・・信仰はある意味で一種の飛躍ではあるが、それは闇に向かうのではなく光への飛躍なのである。宗教が求めるものは、現実に人々が置かれている問題が何であるかを理解しようとする試みである。・・・・宗教といえど、それが真実であるときだけ価値がある・・・。」(P24)
私は彼が言っていることは綺麗事でしかないと思う。例えばイスラムのテロリストは上の言明とは全く反対の存在ではないか。宗教にも良い面と悪い面とがあるのであり、ニーチェは『アンチ・クリスト』を書いて、キリスト教は病者の宗教であると批判しているが、ポーキングホーン氏はニーチェのこの批判にどう応えるのだろうか。
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