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2009年5月

2009年5月29日 (金)

科学者がなぜ宗教に甘いのか

 科学と数学との関係について知りたいと思い、丹羽敏雄氏の『数学は世界を解明できるか カオスと予定調和』(中公新書)を読み終わってから、次いで自然科学が起こった西洋について知るために渡辺正雄氏の『科学者とキリスト教 ガリレイから現代まで』(講談社ブルーバックス)を読んでいるが、科学者である著者の渡辺氏がなぜこんなに宗教や神というものに甘い態度なのかと強い違和感を感じた。この本は1987年の4月に初版が発刊されているが、この本のカバーに印刷された渡辺氏の略歴をみると氏は東京大学工学部を卒業後東大助教授を経てこの本の出版時には東京基督教大学の教授であった。勤務先がキリスト教系の大学だからなのか、宗教というものに対して随分と甘い評価をしているのだ。渡辺氏はまえがきで以下のように書いている。
 「科学は宇宙の起源と人間の起源を究めることはできるかも知れないが、人は何によって生きるかに答えることはできない。科学は生命現象を説明したり、生物学的生命を延ばすことに寄与したりはするが、人間を人間として真に生かすものを提供することはできない。科学は今や、一瞬のうちに全人類を滅ぼすほどに強大な力となってはいるが、人間を人間として生かす力を、ただ一人の人間に対してすら与えることができない。
 解決を求めようとすれば、それを宗教に求めざるを得ないということになるであろう。・・・・その科学の発展の著しさが、今日、かえって宗教の必要性を人々に痛感させている・・・・」(P6)
 これを読むと渡辺氏は、宗教は人間にとって必要不可欠なものであり、科学と共存することには何も問題はないし、当然のことであると考えているようだが、果たしてそうだろうか。普通の日本人はほとんどがたいして宗教に凝っていないけれども、幸せに暮らしていくのに宗教が不可欠であるとは思ってもいないし、日本人が宗教的でないことは何も問題を起こしていないことは日本人なら誰でも知っていることだ。渡辺氏にはそれが見えていないのだが、なぜだろう。宗教によって目を曇らせているからではないだろうか。
 渡辺氏は宗教については「歴史的に科学ともっとも深くかかわってきた宗教は周知の通りキリスト教である。近代科学の成立・発展は、まずキリスト教的な西洋世界において行われたからである。これ(科学)に寄与した人々の多くは、自ら意識するといなとにかかわりなく、キリスト教的な世界観のもとで研究を進めてきたのである。」(P6〜7)」と書いているが、キリスト教徒でありながら科学者でもあるという人間は西洋では多いようである。量子力学という自然科学の最先端を研究していたイギリス人のジョン・ポーキングホーン氏は『科学者は神を信じられるか  クォーク、カオスとキリスト教のはざまで 』(講談社ブルーバックス)で宗教とキリスト教の関係について次のように書いている。
 「両者は相互補完的なもので、科学とキリスト教のふたつの観点から世界をみた方が、より完全な理解が得られるのではないだろうか。」(P4)
 「私は個人的には、科学とキリスト教の両方とも必要であり、両分野はお互いに語り合うことが重要だと思っている。}(P5)
 渡辺氏とポーキングホーン氏とは全く同じ見解を抱いているのである。ところで宗教について言うと、日本と西洋社会とでは全く社会的環境が違っている。西洋社会では子供が産まれるとすぐに両親は赤ん坊を教会に連れて行って洗礼を受けさせるようである。つまり子供は本人の意思とは全く関係なくキリスト教徒にさせられるのであるが、西洋人は誰もそれを疑問には思わないのである。日本では七五三という子供を神社に連れていってお祝いをする習慣があるが、それは別に子供を何らかの意味で宗教に入信させることとは無関係である。西洋ではキリスト教徒になること(であること)は、いわば地域社会の一員になるための不可欠な要件でもあって、本人の立場からするとインプリンティング(刷り込み)によって本人の自由意志とは無関係にキリスト教信仰の道に押し込まれるのである。したがって私は西洋のキリスト教徒が本当の意味での宗教者であるといえるのかどうかを疑問に思っている。宗教的な自覚も何もなく、単に社会的習慣によって彼らはキリスト教徒であるに過ぎないのだ。子供の頃に馴染んだものからは、人間は簡単に抜け出せない。彼らはいわば精神のロボットなのである。
 ポーキングホーン氏が宗教、神について書いていることを読むと私はこれが果たして科学者が書くことなのかと全く頭を傾げざるを得ないのである。具体的に引用しよう。
 「神の創造は、過去のある時点で何がどう起こったかだけではなく、現在、進行中の出来事にも関与している。宇宙を創造した神は今もまだ、このように関与することによって存在しているのだ。宇宙をこのように現にあらしめている、この宇宙の進化の歴史の背後には、神の心と目的が明確に存在しているのである。」(P63〜64)
 この文章を読んで私が思うのは、何を勝手なことを言っているのか、彼のこの主張の裏には何の根拠もないふぇはないか、ということである。彼のこの言明は神の存在を刷り込まれて育ったキリスト教徒の典型的なお喋りでしかないのである。しかも彼は「我々は神が存在するか存在しないかを証明することはできない。」(P46)と書いているから、神を信仰するかしないかは全くの個人のいわば趣味の問題に過ぎないのである。私は宗教の根底にあるのは「かも知れない」という証明を超越した思考であると考えている。神の存在を信じることについては、日本には次のように昔の人が言った適切な表現がある。『鰯の頭も信心から』 正にそうなのである。冷静に考えれば、神を信じることと、鰯の頭を信じることとの間には何の違いもないのである。こういうことを書くと、キリスト教の信者の方は「何と不敬なことをいう」と大変に立腹されることだろうが、日本人の私などから見ると何もおかしなことはないのであって、唯一全能で絶対の神が存在すると考えるユダヤ、キリスト、イスラム教徒こそは目が曇っているのである。ところが科学者であるポーキングホーン氏も、こと宗教のこととなると目が見えなくなるのである。
 「宗教が信仰を土台にしていることは誰でも知っている。・・・・信仰はある意味で一種の飛躍ではあるが、それは闇に向かうのではなく光への飛躍なのである。宗教が求めるものは、現実に人々が置かれている問題が何であるかを理解しようとする試みである。・・・・宗教といえど、それが真実であるときだけ価値がある・・・。」(P24)
 私は彼が言っていることは綺麗事でしかないと思う。例えばイスラムのテロリストは上の言明とは全く反対の存在ではないか。宗教にも良い面と悪い面とがあるのであり、ニーチェは『アンチ・クリスト』を書いて、キリスト教は病者の宗教であると批判しているが、ポーキングホーン氏はニーチェのこの批判にどう応えるのだろうか。

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2009年5月28日 (木)

セブンイレブンヘの公正取引委員会の指導について

 NHK・BSニュースで公正取引委員会がセブンイレブンの加盟店に対して弁当・総菜の消費期限切れ商品を値引き販売することを禁じて廃棄処分させていた件を、優越した地位の乱用として指導するということが報じられていたが、私に言わせると何を今更と思わざるを得ない。私はたまたまローソンの参加店のおばさんを知っていたが、期限切れ商品をやはり廃棄処分せざるを得ないと言ってもったいないと残念がっていた(またそれは加盟店の負担で処分するので利益を削ることになったから尚更であったのだが)のを知っているし、私たちはそうした弁当などをタダで食べさせてもらったこともあった。それはもう10年以上も前の話である。セブンイレブンだけの話ではないのだ。
 それほどに古い話なのであるが、今までそうしたことを公正取引委員会の人たちが全く知らなかったとすると、余りにも世間知らずであると言わざるを得ない。そんなことは世間では周知のことだったのである。公正取引委員会の人たちというのは、深窓の令嬢のような人たちばかりだったのだろうか。しかしそんなことでは困るのだ。業界の人たちからのタレコミがなければそうした実状も耳に入らないというのは、如何にも役人らしい仕事ぶりである。もっと情報の蒐集のための繋がりを国民とのあいだに作っておかなければ公正取引委員会としての仕事を十全に行なうことなど不可能だ。情報こそが仕事の核心であり、情報網の整備をしなければ仕事もできないことを公正取引委員会の人たちはシッカリと認識しなければならない。しかし役人にこんなことを言っても無理か。

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2009年5月25日 (月)

地球温暖化論に対する疑問

 丹羽敏雄氏の『数学は世界を解明できるか カオスと予定調和』(中公新書)を読み始めたのは、ベノワ・B・マンデロブロとリチャード・L・ハドソンの『禁断の市場 フラクタルでみるリスクとリターン』(東洋経済新報社)を読もうとして数学の応用ということについて今少し勉強しておこうと考えたからであった。ちなみに全くの偶然であるが、丹羽氏の本にマンデルブロがマンデルブロートという名前でフラクタル数学の研究者として紹介されていた。
 ところで丹羽氏の本を読んでいる内に、今や世界的に通説となっている地球温暖化論に関する疑問が思いがけず浮かび上がってきたのである。なお私としてはこの本を読むことによって科学とは何かということを教えられたのであった。
 先ず私が抱いた最初の疑問は丹羽氏の書いている次の文章から湧いてきたのであった。
 「厳密に言うと、地球を含め惑星の動きもきわめて複雑である。たとえば、地球の楕円軌道は一定しているのではなく、楕円自身がゆっくりと回転したり、細長くなったりと形を変えている。その周期は一万年単位のゆっくりとしたものであるが、地球史的にはきわめて重要な影響を及ぼす。楕円が細長くなると、太陽からの距離が遠くなる期間が長くなり、その結果地球が寒冷化する。地球の氷河期が周期的にやってくる原因の一つと考えられている。」(P43)
 なぜ地球の太陽を回る軌道が完全に一定でないのかというその理由として丹羽氏は「多体問題」の存在を挙げている。地球が太陽の回りを回転する際の軌道については、ニュートンによって発見された万有引力の法則を使って太陽と地球との間の引力の相互作用を計算した結果としての軌道とされているが、じつは地球と太陽以外の惑星の及ぼす弱い引力の影響が存在するのであって、太陽と地球の間の引力の相互作用だけに基づいて計算された軌道と少し違った軌道を地球は回っているのである。こうしたことは、私がそうであったように世間の人は知らないはずだ。
 ところで地球には過去に何度かの氷河期があったし、また恐竜が跋扈していた頃は今よりも地球の温度はずっと高かったと言われている。私は今までなぜ氷河期があったのかを全く疑問に思うこともなかったのだが、丹羽氏の上の説明でようやく正しい理解を持つことができたのである。
 また温暖化に関連して読んだ本によって、私は地球の温度に一番強い影響を与える要因が、太陽からの届く光エネルギーであることを知ったが、太陽の活動自体が変動するものであって黒点はその結果の一例であるという。ということは地球の温暖化やその逆の寒冷化についての一番の影響は太陽との距離とその活動状況なのである。
 したがってもし地球が現在太陽を回る楕円軌道の内の太陽に近い場所にいるのなら地球温暖化をもたらしているの主たる要因は太陽光の強さであるはずだし、逆に楕円軌道の太陽から遠い場所にある氷河期であるのなら太陽からの距離が遠いことに基づく太陽光の弱さということになる。IPCCの報告書というのは、果たしてそうした点をキチンと踏まえて書かれているのであろうか。
 また私は丹羽氏が気象学者のローレンツが気象現象の分析のために作ったモデル(ローレンツモデル)を例にして、計算によって出される科学的な結論の危うさについて説明していることを引用したい。気象現象は大気という流体の中で起こっている現象であり、ローレンツは流体の運動を表す方程式から出発しているという。
 「非常に現実的な現象である流体の運動をはじめ、多くの重要な現象を記述する多くの方程式が解けそうにない、というのもまた厳然とした事実である。
 そこで取られる科学の常套手段は、その方程式を簡単なものに置き換えることと、近似的に解くという手段である。」(P134)
 「ローレンツの研究や、一般に多くのカオスの研究はコンピュータの数値実験に負うところが多い。コンピュータの数値実験には実際上、本質的に誤差がつきまとう。しかもカオスを示すシステムの時間的変動を計算しようとすると、この誤差がある意味で致命的である。」(P142〜143)
 なおこの場合のカオスは流体運動に現れるのだという。コンピュータを使って方程式の計算を行なう際にはパラメータを設定してやらなければならないのだが、そこに問題が起きるのだと丹羽氏は言っているのである。二つの理由によって、現象を分析・説明するために作られる方程式のモデルの正しさが担保される保証がないのだから致命的である。
 「一つは原理的な理由で、神ならぬ人間には現象の変動の仕組みは完全にはおそらく解明できないであろうということ。・・・・・・・
 もう一つの理由はもっと実際的で、システムを定めるさまざまなパラメータの値が近似的にしかわからないことからくる。たとえダイナミカル・システムを定める方程式の形は原理的には正しいものであっても、モデルの「外的」要因を定めるパラメータの値となると、そうはいかなくなる。モデルのよってたつ原理の妥当性とは異なり、その値は絶対のものとは仮定できない」(P124)
 IPCCの報告書の作成に関係する科学者の数がいかに多かろうと、以上の丹羽氏の指摘する事態には何ら影響しないのであるから、IPCCの報告書の結論は安易に受け容れられないものでもあるのだ。なぜなら、丹羽氏によれば「世界は想像以上に複雑でまだまだ未知の部分が大部分である・・。」(P152)のだから。
 地球温暖化論は今や世界中の人たちによって科学的な真実そのものと見做されているが、私に言わせれば現代の風潮は「環境ファシズム」とでも言って良い状態であり、大いに異論が唱えられて根本的な見直しも必要であるように私には思われるのである。
 また私が科学について重要だと考えているのは、個人の研究成果であるということである。つまり科学的な結論について個人の顔の見えることが重要であると思うのである。たとえどれほど大きな集団の名前の下で出されたものであっても(IPCCはその最たるものであろうが)、科学としての信頼性を担保するものは科学者個人であると私は考える。科学的な結論が集団の名前によって示される時、重要な科学的な内容のものについては、場合によってはその集団内の政治的な力学によって真実が歪められることもありうるのではないかと懸念されるしのである。マイケル・クライトンの小説『NEXT』(早川書房)は研究資金集めの手段としての環境テロリズムという観点からその問題を取り扱っている。
 現代では科学研究費は巨額のものになり、集団的に研究を行なわざるを得ない場合が多くなっているようであるが、科学的な真実を担保するものは集団ではなくてあくまでも個人であると私は考えている。そういう観点からすると私はIPCCの報告書の内容、専らCO2などの温暖化ガスを温暖化の原因とする結論について100%信用することはしかねるのである。

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2009年5月24日 (日)

盧武鉉前大統領の国民葬ってなぜ?

 今晩(2009/05/24)のNHK・BSニュースで、韓国の前の大統領・盧武鉉氏の自殺に関して韓国政府が国民葬にすることを決めたという報道がなされた。不正資金疑惑の捜査が盧武鉉氏自身に及んだことが自殺の原因と考えられて、国民の一部には韓国政府に対する批判が出ているという。しかしこういう話は全くの不見識そのものであって、私には全く理解できないことだ。
 このことは、韓国人は日本人とは全く違う体質の人たちなのだと改めて私に強く印象づけたのであった。日本ではかつて田中角栄氏がロッキード事件で検察の調査を受けたし、それによって議員の地位から引退せざるを得なくなったが、そのことを日本の国民は当然のこととして誰も同情などしなかった。仮に角栄氏が自殺したとしても、そのことのゆえに検察を非難するなどはありえなかったであろう。日本人と韓国人の反応はそれほどに違っているのである。
 今回の事態は次のことを明らかにした。すなわち韓国人には「法の支配」ということについての基本的な理解が完全に欠落しており、ただただ情緒に流されて騒いでいるのである。それをさらに韓国政府が国民葬にするというのだから韓国という国にとっての恥の上塗りというべきである。韓国政府は国民の情緒的な反応に引きずられて、とんでもない政治的な判断を行なってしまった。
 こうした理不尽な韓国政府の反応に対して、徹底的に批判する韓国人はいないのか。かくしてこのような反応をする韓国人の日本人に対する歴史認識に関する批判などは全くナンセンスなものであることがはっきりしたである。このような韓国人の批判に引きずられて反省などを表明してきた日本の政治家はその不明を恥じるべきである。

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2009年5月23日 (土)

政治家はどこでも同じだ

 日本、アメリカ、イギリスといえば、民主主義が根付いている国といえるだろう。そして私は最近のニュースを見て、政治家、国会議員というのはどこでも同じなのだと強く感じている。それは悪い意味での共通性である。
 日本では自民党の古賀選挙対策委員長が今年行なわれる衆議院議員選挙に関して「投票率は低い方が自民党のためには良い」と言ったと伝えられているが、正に語るに落ちるとはこのことである。自民党の選挙責任者が「我が党は日本国民の支持を失っている。」と堂々とマスコミに話したのである。国民の支持を失ったのは、彼ら自民党の政治家が長年に渡ってロクでもない政治をやってきたからである。そのことを自民党の政治家自身が認めたのである。それならばもっとましな政治をするように改めれば良いのであり、それは自民党の内部で検討するべき事柄である。古賀議員の言葉は、たとえ自民党が政権政党の地位を失ったからといって個人としては議員という身分を失う訳ではないのだから、端的に言って政権党から滑り落ちることが残念でたならないと言っているに過ぎない。このような事態は自民党そのものの自業自得に過ぎないのだから、真面目な人間なら真剣に過去の行動を反省するだろうし、日本国民に対してロクでもない政治しかできなかったことを心底から詫びるはずである。しかしそういうことは古賀氏の口からは聞かれないのである。どうも議員というのは、自分が国民のために役に立っているかどうかなどはどうでも良いことであって、自分が議員という地位にいることができさえすれば良い、できれば政権政党に所属していたいと考えているようなのである。彼らはエリートであると自認しながら、その心構えはまるで程度が低いのである。
 最近イギリス議会の議員たちの歳費の請求に関して無茶苦茶な公私混同が見られて、イギリス国民が大変腹を立てているということが報道された。イギリスの下院議長であるマーティン氏がそのことを非難されて辞任を表明したと報道されたが、これは300年ぶりの事態であるそうだ。ノーブレス・オブリジェ(高い地位には責任が伴う)というエリートの倫理感が西洋にはあると言われていたのに、正にそれも地に落ちたというのが今回の辞任劇に象徴的に洗われている。RBS(ロイヤルバンク・オブ・スコットランド)の前会長が非常識な年金を貰うことになったという報道がこの前に行われていて、その時もイギリス国民が怒っていると伝えられたが、これも議員の歳費のデタラメ請求と根は同じなのなのであり、現在のイギリスのエリートはお金にひどく汚くなっているのである。
 またアメリカ議会の共和党の議員がオバマ大統領の政策に対して何でも反対という姿勢で非難していることが報道されているが、私は彼らの主張の内容を聞いて情けないと思わないでいられない。対立する政党のやることは、その内容の如何に関わらず何でも反対というのは、日本やイギリスの議員たちもやることは同じなのである。
 こうして見ると、日本、イギリス、アメリカという民主主義国家といって構わない国の議員たちが、そのレベルにおいてはドングリの背比べの程度の低さであることを、最近のニュースによって私は初めて強く印象つけられたのであった。どこにいても人間は変わらないのだ。このように議員という人たちが大した人物などでなく、市井の人たちと変わらない、いわば下らない連中であることを国民が知ったことは民主主義のためには良かったのかも知れない。
 今日(2009/05/23)TVのニュースで、韓国の前大統領・盧武鉉氏が自殺したと報道されていたが、女房に引きずられて不正に多額の資金を受取っていたという話も、政治家といわれる人たちの程度の低さを明らかにした。ただ盧武鉉氏の不正な資金受領が検察によって取り締まられたということは韓国の民主主義が機能していることを証明していると言う意味で、私は評価するものである。アフリカ諸国や中国では賄賂が横行しているが、それが表立って取り締まられることがないというところに、それらの国の程度の低さを現しているのである。映画の『ホテル・ルワンダ』などで軍の将軍などが当然のこととして賄賂を請求し受取っている場面が描かれているが、そうしたことがエリートによってなされる国では社会や経済の発展は望めない。政治家などの私腹を肥やすだけの日本政府の援助なども意味がない。援助をするならお金は渡さず、設備や機械などの現物の形で渡すべきであろう。勿論使い方やメンテナンスの技術指導も同時につけてやらなければダメであるが。

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2009/5/23 パソコンを見ている人は果たして仕事をしているのか

 今日(2009/05/23)日本経済新聞の朝刊に日銀・白川総裁の記者会見の記事が出ていた。日本の社債市場について、「今後の情勢を注視する構えだ。」と記者が書いていた。TVのニュースで、記者発表の場で官庁の担当者などが「情勢を注視していきたい。」といったことを発言するのを見ることがよくあるが、私はこれを聞く度に「自分たちはちゃんと仕事をしているのだぞ。」と宣伝しているように思われて仕方がないのである。しかし良く考えてみると、「注視すること」が重要な仕事であるなどと思ってもらっては困るのである。問題に対してキチンとした対応をすることこそが重要なのである。確かに事実を把握することは問題を把握するための基礎的な作業であるが、私には記者会見の場で役所の連中がそのことをいうことで自分たちの役所がちゃんと仕事をしているという宣伝をしているとしか思われず、私は見ていて不快を感じるのである。
 同じように仕事をしている振りをしているのではないかと疑っている光景として私が「注視」しているものに、役所で机に座っている職員のパソコン「注視」がある。私は長年民間企業で事務職に従事していたが、パソコンが事務部門に本格的に普及しだしたのは1990年代半ばくらいからではないかと思う。オフコン(オフィスコンピュータ)がパソコンに置き換えられて事務職員や販売職員一人一人がパソコンを支給されて使用するようになり、パソコンはサーバーに繋がれてインターネットにも接続されるようになった。メールを使った連絡も当たり前になった。そして事務処理はすべてといって良いほど、パソコンで処理されるようになったのである。したがって事務職員についてはパソコンに向かってディスプレイを見つめていることは「仕事をしている」ことと同義になったのである。 
 日本人は基本的に真面目だから何もしないでいることには我慢できないので、することがなくなると何か見つけてきてするのだそうである。それはよい面もあるのだが、場合によっては大きな問題を孕んでいる。1人1台パソコン時代となって、仕事はパソコンのディスプレイを見ながらする形になったが、パソコンのディスプレイを見ているから仕事をしているということにはならない。職員10名の内仮に2名はやることがなくてただ暇つぶしにディスプレイを見ているだけだとしても、誰もそのことに気づかない可能性は大きいのである。
 私の民間企業における経験からいっても、職場の長は自分の部署の職員数が多いほど自分が偉いと考える。ましてや役所ではその傾向が強いように思われる。確かに現代で事務職員がパソコンを使わないで仕事をすることはできないがゆえに、パソコンに向かっていることが仕事をしていることになるのではあるが、逆にパソコンに向かっている=仕事をしているという見かけには大いに注意が必要であると思う。役所の窓口での仕事ぶりや人の配置などをみていて、私はいつももっと少ない人数でも処理できるのではないかと思うので、机に座って仕事をするパソコン「注視」の職員の数も相当過剰なのに違いないと判断している。役所の上司には人員削減という視点は全くないようだし、そもそも人員削減は自分の偉さを下げることになるのだから拒否反応しかないのであろう。役所の人員合理化というのはよほど目利きの大臣が剛腕を以て行なわない限り不可能だろうと思うが、大臣というのがほとんど大した能力もない政治家・議員なのだから百年河清を待つに等しいのである。
 パソコン「注視」=仕事をしている、という見方には大いに問題があることを知る必要があるのである。パソコンを使って仕事をした経験のない高齢者の方には到底思いも及ばないことであるのだ。

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2009年5月21日 (木)

『禁断の市場』と科学への数学の応用について

 K・メンデルスゾーンは『科学と西洋の世界制覇』(みすず書房)で、現在自然科学と呼ばれるものは当初西洋において哲学の一部と見做されていたため「自然哲学」と呼ばれていたが、それは数学の発達と歩調を合わせて進歩したと書いている。天動説から地動説への転換が自然科学の発達において決定的な意味を持っていた。そして自然科学の発生はルネサンスと呼ばれる歴史事象の重要な一部であったという。観測された現象の間の数学的な相関を把握することによって、天体の運動の軌跡などを予測できるようになったのである。
 丹羽敏雄氏は『数学は世界を解明できるか カオスと予定調和』(中公新書)のなかで、「プトレマイオスの天動説はきわめて数学的な性格を持っている。・・・彼の理論は円や直線といった基本的な幾何学図形をもちいており、幾何学的な性格を持っている。もちろん、彼がもちいたユークリッド幾何学は当時の最高の数学であった。」(P7)と書いているが、自然哲学から自然科学への転換に当たって重要であった天文学はそもそもの初めから数学との繋がりが密接であったのだ。K・メンデルスゾーンは「その(自然哲学の)とてつもない強さの根源はその正確な予測能力にある。」(P4)と書いているが、「正確な予測能力」の元にあったのが数学であったことは言うまでもないであろう。
 ところで私が今回のアメリカ発の金融危機を予測したものとして高く評価しているのはチャールズ・R・モリスの『なぜ、アメリカ経済は崩壊に向かうのか 信用バブルという怪物』(日本経済新聞出版社)であるが、この本には何らの数式も出てこない。またこの本を理解する上で良い参考になったのは小幡績の『すべての経済はバブルに通じる』(光文社新書)であったが、これにもまた数式は出てこない。数学を使用しなくても、社会現象を説明することはできるのである。
 タイトルに挙げた『禁断の市場 フラクタルでみるリスクとリターン』(東洋経済新報社)の著者はベノワ・B・マンデルブロとリチャード・L・ハドソンであるが、マンデルブロは自然科学者であるばかりでなく社会科学も研究するし、数学者でもあって、フラクタル理論と呼ばれる数学理論の創始者でもある。「禁断の市場」とは金融市場のことであって、この本は今回のアメリカ発の金融危機を予測しているそうであるが、その予測の元になっているのが、フラクタル理論なのである。なお丹羽敏雄氏は『数学は世界を解明できるか カオスと予定調和』の中で、マンデルブロについて次のように触れている。
 「このような自己相似的な形を初めて組織的に研究したのはマンデルブロートで、彼はそれをフラクタル図形と呼んだ。」(P163) 
 『禁断の市場』はまだその初めを読み始めたばかりであるが、既存の数学理論であるフラクタル理論を金融理論に当てはめることには問題はないのだろうかとふと疑問に思うこともあって、私は丹羽氏の『数学は世界を解明できるか カオスと予定調和』を読み出したのである。私にはチャールズ・R・モリスが十分に今回の金融危機の実態を説明していると思われたので、このような疑問を抱いたのであった。数学は普遍的な内容を持つものであると私は理解しているが、しかし一つの理論がすべての事象を説明できるとは思われない。フラクタル理論は金融現象とどのように相性がいいのだろうかと、いまのところは理解できないのである。まずは丹羽氏の『数学は世界を解明できるか カオスと予定調和』を読んで、数学の適用について基本的なことを理解しようと思ったのである。
 また山下正男氏の『思想の中の数学的構造』(筑摩文庫)も面白い視点で書かれていて、少しづつ読み進めているが、数学が科学の基礎的な部分を担っていることは事実であると思う。

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