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2009年3月

2009年3月30日 (月)

『した振り仕事』繁盛記

 かねてより私は日本のキャリア官僚に対する不信感を抱いていたのであるが、雑誌『諸君!』4月号の養老孟司氏の論文『食料自給率改善に秘策あり 農水官僚を即刻、農村に”下放”せよ』を読んでいて、キャリア連中のやっている仕事の本質は「形だけやった振りをするだけの”した振り仕事”」なのではないかと気が付いたのである。私は数年前に停年退職し年金生活をしているおかげでNHK・BSが日中放送する『国会中継』を見ることができる。働いていたときは『国会中継』を放送していることすら知らなかった。これは非常に面白い番組で、面白いというのは国会議員の質がよく分かるのである。例えば社民党の党首・福島瑞穂氏の麻生首相への質問などを見ていると、まるで「自分の意見は絶対に正しいのだから、麻生首相は当然、それを受け容れるべきである」という話しぶりで、まるで駄々っ子がする意見の押し付けを見ているようである。福島党首は弁護士であるそうだが、私はこうした幼稚な質問しかできないような人間には到底訴訟を依頼する気にはなれない。さらに民主党の議員の質問によく見られるのは、単なる揚げ足取りとしか考えられない内容の質問であり、またしても質問者の知的レベルを疑わざるを得ないような下らない質問なのである。
 もし多くの国民がこうした議員の具体的な行動を見ていたら、きっと次回からそのような程度の低い議員への投票は行なわないだろうと思われるのである。しかし質問している当の議員は、自分が質問している姿がTVに映っていること自体が誇らしいものであると考えているようであり、質問内容を有権者がどのように評価するだろうかとなどとは全くは考えが及ばないようである。ということはやはりそうした議員というのは、私に言わせると初めから情けないレベルの人間なのである。
 こうした知的レベルの低い議員たちが、どうしてキャリア官僚たちに対抗できるであろうか。キャリア連中は、知的なレベルについては厳しい試験を通過してきているのである。既に何回か書いたが、国会議員は、どれほど知的なレベルが低くても(露骨に言うとどんなに馬鹿であっても)、選挙に受かりさえすればなれるのであるから、普通に考えれば国会議員たちの平均的な知的なレベルはキャリア官僚たちの平均的な知的レベルには到底及ばないはずである。ましてや最近は2世議員だ、3世議員だといって、その議員適性などは厳しくチェックされないままに安易に国会議員になる者が増えているという恐ろしい事態が生じているのである。これも露骨に言うと、世間知らずのプータロウが国会議員になっているのである。
 『国会中継』に話を戻すが、議員の質門に対して各省庁の次官などが応える場面がある。その時私が見ていて、なんでこんな人物が次官なのかと思うような人が出てきて答えていることがある。外見だけで判断してはいけないと言われるかも知れないが、しかし人物というのはある程度は外見に現れるものであると私は思う。したがって私はキャリア官僚について深い疑いを抱かざるを得ないのである。
 過去に社会保険庁の長官をした人物を私は全く知らないが、あれだけデタラメな仕事をしていた組織はおそらく”ヤミ専従”などが日常的に跋扈しており、長官だったキャリア連中は「臭いものに蓋」で「見て見ぬ振り」をしていたに違いないと私は睨んでいる。キャリア連中の仕事に対する姿勢は、基本的には「見かけの上で形だけは仕事をした振りをして真面目に仕事はしないし、難しいことはやり過ごす」というもの、すなわち『した振り仕事』こそが彼らの仕事の本質なのではないだろうか。最近農林水産省で”ヤミ専従”が大勢いると疑われて、その調査を担当した課長が実態を隠すために、実際に上がってきた調査資料を隠してデタラメな資料作成をして新聞社に渡すという驚くべき事件が発覚し、課長職を更迭されたが、これなどは私の言う『した振り仕事』などを遙かに上回る正にウルトラCの仕事ぶりであった。キャリア官僚の仕事のデタラメ振りはついにここまで進化したのである。最近何かと不祥事続きの農林水産省という組織を防衛するための行動であったと報道されているが、キャリア官僚という連中がここまでやるとなると、国民はもはやキャリア官僚たちを全く信用することなどできない。
 他方で民主党党首の小沢一郎議員の西松建設からの巨額献金事件に関する意見を聞く議員総会において、ほとんどの議員が意見も言わずに鳩山幹事長は小沢氏擁護の立場を支持しているが、国民の目からすると、億を超える多額の献金という事実があってなお問題はないというような民主党の議員の感覚は異常というしかない。また自民党の二階俊博・経済産業相も、献金額の規模は小さいといいながら西松建設から事務所賃借料相当額を個人献金に偽装して受取っていたのだから、自民党が小沢議員を批判するのは、昔の言葉で言うと「目くそが鼻くそを笑う」のと一緒なのである。こうした体たらくの国会議員がキャリア官僚連中を果たしてキチンと使えるものだろうか、大いに疑問だといわざるを得ない。怪しい国会議員たちを横目で見てほくそ笑みながら、キャリア官僚連中は『した振り仕事』でいい給料を貰い、年金もたっぷり、退職金もたっぷり、その上天下りでは、これこそ本当に『した振り仕事』繁盛記である。

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『バベルの謎 ヤハウィストの冒険』を読んで

 最近、長谷川三千子氏の『バベルの謎 ヤハウィストの冒険』(中央公論新社)を読んでいるが、旧約聖書をもう少し理解したいと思ったからである。読んで見ると、旧約聖書の作者は一人ではないから、その内容に齟齬するところがあると、具体的にテキストをあげて指摘していて、面白いのである。そうしたことを、18世紀以降に進んだ旧約聖書の研究成果を踏まえて長谷川氏は論じていて、内容としてはなかなか面白いところが有るのではあるが、それでも私にはむなしく感じられるのである。それは、私が全能の唯一神などは存在しないと思っているからである。存在しもしない神のことをああだ、こうだと論じても結局意味がないとしか思われないのである。神の不在を決定的に確信するようになったのは、進化論学者リチャード・ドーキンスの『神は妄想である』(早川書房)を読んだからである。
 またK・メンデルスゾーンの『科学と西洋の世界支配』(みすず書房)を読んだことも、私が宗教の意味を評価しなくなることに強い影響を及ぼした。メンデルスゾーンによると、「500年前、すなわち(ポルトガルの)エンリケ航海王子がアフリカ沿岸を航行し、世界制覇の第一歩を踏み出したとき、ヨーロッパは東洋の偉大な文明と比較すると絶望的なほど貧しかった。」(P2)ところがそのときまでにヨーロッパには、その後のヨーロッパの世界支配を可能にした根が根付いていたという。その根とは、当時「自然哲学」と呼ばれたものであるが、じつは現代では科学と呼ばれる哲学上の思想であった。なぜそれがヨーロッパで生まれたのかははっきりしないのだが、それはヨーロッパの自然科学を発達させた。そしてそれによりヨーロッパはヨーロッパ以外の他の世界の地域に対する力の優位性を獲得したのであった。西洋は科学を発達させることによって世界を支配することのできる力を持つようになったのである。メンデルスゾーンによると、科学の基本的な特徴は、現象の間の数学的な相関関係を把握したことであり、それに基づいて自然の力を利用し、世界のヨーロッパ以外の人たちを支配する力を持つことができるようになった。そして支配した地域の人間たちをキリスト教に改宗させようとしたのである。キリスト教徒は人間を支配することに対して何らの違和感を持っていなかった。その一例としてキリスト教徒の中国人への布教が引き起こした大きな事件として義和団事件があり、三石善吉氏が書いた『中国、一九〇〇年 義和団運動の光芒』にキリスト教徒の横暴な振舞いが中国人の怒りを買った経過が描かれている。
 ところで私が最近、不審に思っていることが一つある。それは、なぜ宗教学者と言われる人たちのほとんどが一神教についての歴史的な功罪をキチンと評価しないのかということである。一神教、特にキリスト教について徹底的に厳しい評価をしたのは、私が知っている限りでは、経済学者の竹内靖雄氏である。竹内氏は『<脱>宗教のすすめ』(PHP新書)において、世界的に見て最も人類に害をなした宗教はキリスト教であると書いているが、私もいろいろと読んだ限りでは竹内氏の主張は正しいと思われる。ところがいわゆる宗教学者といわれる人たちには、宗教の悪というものに対する感度が全く欠如しているように思われるのである。例えばキリスト教の宗教改革の大物としてジャン・カルヴァンがいる。マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』という有名な論文にも名前が出てくるくらい有名な人物であるが、作家のシュテファン・ツヴァイクが書いた小説『権力とたたかう良心 カルヴァンとたたかうカステリオン』(みすず書房)で描かれているカルヴァンはまさに権力志向の強い卑劣な人間そのものであるのだが、他方でカルヴァンは講談社の「人類の知的遺産」というシリーズの1巻に久米あつみ氏が『カルヴァン』として取上げている人物である。ローマ・カトリック教会が免罪符の販売という史上最悪の詐欺を行なってキリスト教を貶めたことに対して、その批判勢力として対抗して出てきたのが宗教改革派であるが、カルヴァンが行なったのは日常生活の楽しみを一切否定する体の宗教的恐怖政治であった。こうした人間を知的な偉人として平気で持ち上げるというのは、ヒトラーを政治的な偉人として持ち上げるのと大して変わりがないのではないかと私には思われるのである。
 下らない人間について一所懸命に細かなことをああだこうだと研究することが果たして学問なのだろうかと、私は最近疑問に思うようになっている。このシリーズには『毛沢東』の巻も有るが、毛沢東は大躍進政策や文化大革命などによって大変な数の中国人を殺したのであり、そういう意味ではヒトラーと大して変わらない人間であったと私は判断する。マックス・ヴェーバーは政治は結果責任だといったが、そうだとするとジャン・カルヴァンも毛沢東も大きな責任を負っている。彼らがやったことの結果から判断する限り、知的に偉大な人間でも何でもないのである。特に私は、キリスト教神学など、いや一神教の神学全般について全くの戯言であるとしか思われないのである。キリスト教の聖職者や神学者といわれる人たちはよく「神がああだ、こうだ」というが、これらは全くの思いつき、勝ってな憶測を述べているのもしに過ぎない。聖書に書かれている神の言動も、私には全く何の根拠もない戯言でしかない。そうでない証拠を見せてくれたら私も考えを変えるのだが。
 このことを長谷川三千子氏の『バベルの謎 ヤハウィストの冒険』を読んでいて、私は改めて強く確信したのであった。ヤハウィストというのは、ユダヤ教の神ヤハウェの天地創造の話を書いている『創世記』に始まるモーセ五書(残りは『出エジプト記』、『レビ記』、『民数記』、『申命記』の4つ)を書いたとされる一人の人物についてドイツの聖書研究家ゲルハルト・フォン・ラートが名付けた名前である。この作者については複数説も有るのであるが、長谷川氏は一人という立場に立つ。そして彼女は、『創世記』に書かれている話はそれ以前に書かれていたと考えられる複数の話が継ぎ合わされたものであって、だから整合性に問題があるという事実を論証しているが、確かに彼女のいう通りであると思う。ところが長谷川氏は、「ほぼ二千年近くものあひだ、『律法』(トーラー)、すなはち『モーセ五書』は、モーセ本人の筆になるものである、ということになってゐた。これは、ユダヤ教においても、キリスト教においても、疑ってはならぬ公式見解としてまかり通っていたのである。」(P56)と書いており、教会の公式見解は間違いであると言っているのである。
 書かれたものについては、その作者が誰であるかは重要な問題である。そして教会と研究者とで聖書の作者についての見解が異なるというのは非常に面白い話で、私は研究者の見解が正しいと考える。繰り返しになるが、そういうことを教えられたという意味で、『バベルの謎 ヤハウィストの冒険』は面白い本であるのだが、しかしこのことを知ったことにはどうしてもむなしさが付きまとうのである。なぜかというと、唯一絶対の全能の創造神などというものは存在するはずがないと考えるからである。存在しないものについての話などは私には興味がないし、そういうものについてああだ、こうだと論じること自体が全く無意味なことだと考えるからである。しかし信仰というものは、その信仰することの内容の真実性には基づかないのであり、ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も大勢の信徒がいて、今なお毎日殺し合いをしている。そして宗教指導者たちは殺し合いを止めさせようとは積極的に動いていないように見えるのである。こうした実状に鑑みて判断する限り、一神教は全く問題のある宗教であると言わざるを得ないであろう。ところが宗教学者たちは、そうした宗教の害悪を語ろうとはしない。

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2009年3月23日 (月)

政府こそ本気で少子化の責任を取れ

 私は以前に少子化対策として育児手当てを一人月額50000円にして、国が全面的に子育ての責任を負うようにするべきだという提案を書いたが、今日(2009/03/23)の日本経済新聞に大和証券グループ本社の会長清田暸氏が私よりももっと大胆な少子化対策を提言していた。育児手当てを一人月額10万円にして、出生数の倍増をめざせと提言していたのである。最近のアメリカの証券業界の経営者というと、自分の収入を増やすことしか考えないロクデナシしかいないようだが、日本はやはり少し違うと感心した次第である。この提案は真剣に検討するに値するものだと私は考える。従来の日本政府の対策は全く及び腰で、真剣に出生率上昇を実現しようとは考えていないと思う。効果の有無に関わらず形だけやって、国民の批判に対応しようという見せかけのものに過ぎない。
 ところで昨晩NHK・BSでヨーロッパで出生率が一番高いというフランスと結んで少子化対策についての番組をやっていたが、結論的にいうと子供を育てることが負担にならない対策をフランス政府がキチンと行なっていることがよく理解できた。日本で出生率が上昇しないのは、日本政府が本気で少子化対策に取り組んでいないからであることも明確になった。麻生内閣では子育ては女性が主体だからというので小渕少子化対策大臣を選んだようだが、これなどは正に口先だけの対応に過ぎない。清田氏がいうように、至急出生率上昇のための対策を実施しないと子供を産める年代の女性は年々減るばかりで間に合わなくなるのだ。これだけは設備投資などと違ってお金を出せばいつでも増やせるといった性質のものではない。
 私は最近、麻生首相には完全に愛想を尽かしている。会社経営の経験も有って、経済などのことも分かっているようだと勝手に思い込んでいたのだが、話によると麻生氏が経営した会社はどれもロクな業績を上げていないという。どうやら麻生首相は、ええカッコしいのおぼっちゃまクンで、実は世間知らずのプータロウなのだとしか思われなくなった。日本の政治のトップに就くのが、こういう手合しかいないというのでは日本は良くなるはずがない。キャリア官僚といった手前の利益を計ることが一番の関心という連中が、エリートを自認しているような日本社会の将来にはもはや希望など持てるはずがないではないか。そうはいっても、日本がこれ以上没落する前にせめて麻生首相、育児手当て月額10万円の少子化対策ぐらい実行してください。これはきっと国内消費を増やして景気対策としても大きな効果があると思いますよ。一石二鳥の効果抜群の景気対策を見逃す手は有りません。

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宦官制度と官僚制

 中国人と中国という国に興味があって中国関係の本を比較的よく読むのだが、最近読み始めた寺尾善雄氏の『宦官物語 男を失った男たち』(河出文庫)は、思っていた以上に面白い内容であった。
 宦官の制度は中国の皇帝制度と表裏一体で存在し、清朝が消滅した時にやっと終焉を迎えたのであった。われわれ日本人は、宦官というと中国にのみ存在した制度と考えていると思われるが、実はそうではないのだと寺尾氏は言う。
 「中国の宮廷、後宮というと、必ず頭に浮かぶのは宦官だが、これは中国の特産物ではなくて、古い時代には、エジプト、ギリシャ、ローマ、トルコ、朝鮮と、アジア全域から地中海にわたって存在し、朝鮮でも李王朝の末期まで、中国と同じように有ったのだから、宦官が存在していなかった文明国は、世界で日本だけということになる。」(P3)
 私自身、この本を読むまで宦官というものが世界的に普遍的な存在であったとは知らなかったのであるが、日本の場合、例えば天皇の住んでいた朝廷では皇后とその世話をする女官というものが存在し、天皇の夜伽も仕事としていたが、だからといって彼女らを男から完全に分離するために「男の機能を失わせた男」としての宦官というものを使おうとは日本人は考えなかった。日本は中国文明を積極的に取り入れたにも関わらず、宦官制度だけは全く取り入れなかったのである。
 寺尾氏によると、宦官は皇帝の夜の生活の手配をして、場合によっては「時間制限の拘束」などをさえ行なっていたという。しかし宦官という存在がいなかったからこそ、源氏物語では、桐壷帝の後宮の一人であった藤壷が体調を崩して里帰りした時に光源氏がそこを訪れて藤壷と密通する場面が描かれているが、実はこの前にも既に関係はあったのだ。天皇の女と関係するなどは勿論許されることではないのだが、それでも中国のような宦官制度を必要と考えなかったところに、私は日本人のおおらかさを感じるのである。徳川幕府の大奥制度でも男子との交流を厳しく制限したが、やはり宦官などという醜悪な人間は必要とは考えなかったのである。
 なお中国では古く殷の時代から宦官は存在したとのことだが、去勢という形で男の機能を失わせる宦官が発生した理由を寺尾氏は次のように説明している。
 「同一民族同士の農耕社会には奴婢はいても宦官は存在しなかったことを見ると、遊牧民族が動物を飼いならすために用いた去勢という行為を、異民族支配に採用したのが始まりである。」(P50)
 中国の皇帝制度においては宦官の存在は、その問題点が指摘されて理解されることはあっても、そのために宦官の存在をついに全面的に否定する人間は一人も現れなかったという。中国社会においては宦官は絶対的に必要な悪として認識されていたのである。そして王朝における宦官の人数は優に1000人を超えて存在し、明朝では万を超えていたという。そこにはわれわれ日本人が伺い知ることのできない何かが有ったのである。そのことを寺尾氏は次のように書いている。
 「私たち日本人からすれば、何とも不思議な話だが、そこに中国の特異性、日本人との差、中国社会の深層にある何か得体のしれぬ物を、感じずにはいられない。」(P4)
 またわれわれ日本人のほとんどは、宦官が政治面で大きな影響力を持ったことを知らないのだが、それは中国史の王朝の興亡の歴史において宦官が果たした役割がほとんど描かれることがないからであろう。しかし寺尾氏の本を読むと、宦官は皇帝を立てたり、暗殺したりさえしていたのであった。
 中国というと、官僚の選抜のための科挙の制度が有名であるから、政治の実態は皇帝と科挙を通った官僚によって行われていたと思われがちであるが、日常生活の世話をする形で皇帝に密着していた宦官は、幼い皇帝や暗愚な皇帝の場合には皇帝を操って政治を壟断してさえしていたのであった。宦官の政治関与に関して寺尾氏は次のように書いている。
 「歴史を通観すると、宦官の政治関与が見られぬ王朝は皆無であったと言ってよい。だがこれは単なる一個人の罪ではなく、専制主義の持つ必然的な悪である。」(P4)
 「宦官は暗黒専制王国の産物であると同時に、宦官集団そのものもまた、一個の暗黒専制王国であった。・・・・・ほんの一握りの宦官だけは運よく支配層の一員にまで這い上がり、この暗黒専制王国上層部として、悪逆横暴の限りを尽くした。」(P4)
 ところで絶対的な権力を持つ中国の皇帝というと、何でも決めることができるとができるとわれわれは思うのだが、実はそうでもなかったことを寺尾氏は描いている。『ラスト・エンペラー』という映画で描かれた清朝最後の皇帝溥儀の日常生活を寺尾氏が描いたのを読むと、皇帝が宦官によってある意味では拘束さえされていたことがよく分かるのである。皇帝溥儀は紫禁城の外に出たこともなく常に身の回りには宦官がいて、着替えも何も自分で行なうこともなくて、ある意味では意思能力のない無能力者なのであった。つまり全くの世間知らずのプータロウであったのだ。
 こうした宦官の行動の仕方を見ると、彼らは官僚と変わらない。宦官たちの行動原理は前例墨守の官僚と同じであった。彼ら宦官たちには、支配される側の人たちに対する責任意識などは全くなかったが、私には現代の日本の官僚たちもほとんど同じなのではないかと思われてならないのである。

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2009年3月16日 (月)

医学の脅迫観念

 歳を取ると、やれ高血圧だ、高脂血症だ、尿酸値が高いだなどと、病気として指摘されるものが増えてくる。しかし柴田二郎氏や浜四郎氏などの本を読むと、どうも単純に医者のいう通りにしていてはいけにように思われるのである。私が昔住んでいた湯河原町のアパートの近くの個人医院の医者がある時、「歳を取ると少し血圧が高くなるのは当たり前で、150や160は何でもない」と言ったのを覚えている。しかし今は下が90を超えるか、上が140を超えると、たいていの医者は異口同音に「高血圧だから、降圧剤を飲むように」といって降圧剤を処方する。私もそういわれてしばらく降圧剤を飲んだことがあるが、浜四郎氏の「100から180までの間なら、降圧剤は飲まない方がいい」という主張の方がまともだと思うので、最近は飲まないでいる。
 ところで統計学でいわれるものに、自然界に存在する釣り鐘型をした「正規分布」という現象がある。例えば最近大きな問題として騒がれている「メタボリック・シンドローム」も、見方によっては異常な考え方である。「自然現象の現れ」と考えられる「正規分布」という見方をすれば、世間には痩せた人もいれば太った人もいるのが自然の秩序なのである。それをある一律の基準を定めて、それ以上は肥満で「メタボリック・シンドローム」という病気だと言うのである。しかし痩せていることについては、拒食症による場合を除けば病気だとは言わないようだが、私はおかしいのではないかと思う。
 寄生虫博士として有名な藤田紘一郎氏によると、歳を取ってからは少し太りぎみくらいの人の方が長生きをしていると言う。痩せていると体力がないから病気に弱いのだそうである。今いわれている「メタボリック・シンドローム」の基準はおかしいと藤田氏は言っている。藤田氏は統計に基づいてそういっているのだ。
 そして最近新聞広告で、岡本裕氏の『9割の病気は自分で治せる』(中経文庫)という本を知って早速買って見た。その中で、医者を信じきって、医者のいうままに薬漬けの医療を受けている日本人は、医者や病院にとっては利益になる「おいしい患者」なのだと岡本氏は皮肉を込めて言っている。そしてそうした状況を作りだした張本人は、医者の技術料を極端に低く決め、薬代の差額でしかペイしないような薄利多売の診療システムを作り上げた厚生労働省なのだと岡本氏は指摘している。私は舛添厚生労働相こそこの本を読むべきだと思う。
 また岡本氏によると、日本の医者は「マニュアル診療」をするだけで、自分の頭で考えることをしていないと言う。このことを岡本氏は次のように書いている。
 「(日本の医者は)、ゆっくりと物事の本質に考えをめぐらす余裕など毛頭ないというのが現状だと思います。」(P20)
 健康診断にしろなんにしろ医者は血圧を測って、例えば先の「90以上、または140以上は高血圧」の診断基準(マニュアル)を金科玉条にして「あなたは高血圧とだ」と全く条件反射的に判定するが、そもそも人間には体質的に差異があると考えるべきではないのか。痩せた人間も太った人間も全く同じ基準で高血圧と診断することは、私には間違っているとしか思われない。岡本氏も、浜四郎氏と同じように、高齢者は少し血圧が高い方が元気で長生きするという統計的な調査結果も出ていると言う。浜氏はなぜ日本の医学会ではこの事実を無視して「90以上、または140以上は高血圧」という異常な基準を決めたのかと批判している。
 したがって私は、医者との距離の取り方を自分で勉強する必要があると思う。昔私の勤めていた会社に年配で仕事熱心な女子社員がいたが、ある時風邪を引き、仕事の忙しい時期だったので仕事を休まないように早く薬で治そうと考え医者に行って薬を貰ったが、すぐに治らないものだから別の医者のところに行き、つぎつぎと同じことを繰り返しているうちに、彼女はひどく体調を崩してしまった。大きな病院に行って検査してもらったところ、余りにも抗生物質を服用しすぎて体中の有用不可欠な細菌までも殺してしまい、外部の細菌に対する抵抗力をすっかり失ってしまっていたことが判明した。以後彼女は長期に入院することとなり会社も辞めざるを得なくなってしまったのである。私はアーサー・ヘイリーの小説『ストロング・メディスン』(新潮文庫)を読んだ時に、医者が「風邪を引いた時は、アスピリンでも飲んで、水分をたっぷり取って暖かくして寝ているのが一番だ」と言っているのを読んで、そのようにしているが、病気になった時くらいはとにかく休養するべきなのだ。中学くらいになったら、学校ではそうしたことを是非とも教えるべきだと思う。
 医者のマニュアル診断は場合によっては、一種の強迫観念ではないかと私には思われる。またそれには医学の本質についての誤解もあるのではないか。米山公啓氏は『医学は科学ではない』(筑摩新書)と言う本を書いているが、現代の医学教育そのものにも問題があるように思われるのである。
 なおわれわれ、特に働いている人は、病気になった時くらいはいい休養の機会ができたと思って、じっくり療養する精神的なゆとりが必要であると思う。

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2009年3月 8日 (日)

小沢代表の自民党体質とこれからの民主党

 民主党・小沢代表の秘書が企業献金容疑で逮捕されたが、小沢氏の自民党時代の行動に非常に傲慢不遜なところがあったことを知っていた私には、やはり小沢氏は自民党崩れなのだと思わざるを得ない。今回の事件に端なくも小沢氏の自民党体質がハッキリと現れたのである。私の感想は「やっぱり」である。
 小沢氏が民主党を育てて自民党に対抗できる勢力に仕上げたことを私は大いに評価するのであるが、かねてより小沢氏の体質には信用しきれないものを感じていた。西松建設からの献金相手は小沢氏に限らず、自民党にも二階経済産業大臣の他にも多数いたが、献金額からすると小沢氏が圧倒的に多い。どういうルートで入ってきたかを問題にすることは意味がない。問題は実質である。献金であればその金額こそが重要であろう。特にそれが議員個人に対するもので企業絡みのものであれば。億にも達する金額が企業から議員個人に対して献金されたとなると、そこに何らかの利益誘導があると考えるのが当然だ。
 小沢氏の2大政党時代を開いた功績は大いに評価できるとしても、今回の事件によってその先はもう小沢氏の出番はない。私は民主党にとっては、その方がよかったと思う。自民党の悪い体質を引きずっていた小沢氏からきれいに別れることができるのだから。後は残った人たちが頑張るだけである。自民党も非常に程度が低いものであったことが近年はっきりしてきたのだから、小沢氏がいなくなっても民主党は自民党に対抗できると思う。
 小沢氏なしでも政権獲得を実現できると考えることができいないようでは、民主党も全く大したことのない政党であると考えざるを得ない。背伸びしてでもこの機会を是非活かすことが出来なければならない。小沢氏なしでは何もできないというような意気地のない政党であるのならすぐにも解党をする方がよい。また自分から手を上げて小沢氏の後を継ぐという意思表示ができる人間が何人も出てくるようでなければ民主党は政党として政権担当能力などはない。最近流行の「させていただく』などという言葉を平気で使うような人間にはリーダー足りうる資格など初めからないのである。「私がやる」という主体性こそが求められている。

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2009年3月 4日 (水)

スーザン・ストレンジ女史の『カジノ・キャピタリズム』

 今スーザン・ストレンジ女史の『カジノ・キャピタリズム』(岩波書店)を読んでいる。この本のサブタイトルは「国際金融恐慌の政治経済学」となっている。この本の後、女史は『国家の退場 グローバル経済の新しい主役たち』(岩波書店)と『マッド・マネー 世紀末のカジノ資本主義』(岩波書店)を出版して、1998年10月25日に亡くなった。ちょうど今回のアメリカ発の金融危機が起きる10年前であった。彼女の国際金融恐慌という予測は的中したといえるだろう。
 『カジノ・キャピタリズム』は昔一度読み始めたのだが、あまりピンとこなくて途中で投げ出しておいたものである。しかし最近の金融危機が私にこの本を手に取らせることになった。
 『カジノ・キャピタリズム』がイギリスで出版されたのは1986年である。そして2年後には『マッド・マネー』が出版されたのだが、『マッド・マネー』の書き出しは以下の通りである。
 「なぜ狂気なのか。私の見るところ、金融市場を国家的、国際的規制当局のコントロールの及ばぬはるか先にまで突っ走らせてしまうのは、『大いにばかげて』いたし、今もそうだからである。」(P1)
 昨日のBSニュースで、アメリカの保険会社AIGが08年10〜12月期に616億6千万ドル(約6兆円)という巨額の赤字を出し、通気での最終損益は992億ドルの赤字だという。AIGはアメリカ政府から300億ドルの追加の金融支援を受けることになったが、この巨額赤字の大きな原因となったものにクレジット・デフォルト・スワップCDSという損失補償の保険商品があった。金融危機発生後、金融商品の価値の低下は止まるところがなかったためにかつては多額の利益を生んでいたCDSが今度は多額の損失を生む基となったのである。CDSは最新の金融商品であった。近年主流の経済学が主張した「市場原理主義」の下、「金融市場を国家的、国際的規制当局のコントロールの及ばぬはるか先にまで突っ走らせてしま」った結果が今回の世界的規模の金融危機を生み出してしまったのである。
 女史はカジノ・キャピタリズムという言葉まで作って、金融市場の異常な状態を10年以上前に指摘していたが、このようなことを指摘した経済学者などは他にいないのではないか。また金融市場の異常な状態をカジノ・キャピタリズムと命名したのは、われわれが今回の金融危機の発生を目撃した現在、全く言い得て妙である。金融市場の異常さを女史は次のように書いている。
 「西側の金融システムは急速に巨大なカジノ以外の何物でもなくなりつつある。毎日ゲームが繰り広げられ、想像できないほど多額のお金がつぎ込まれている。
 ・・・・これらの市場では先物を売買したり、オプションあるいは他のあらゆる種類の難解な金融新商品を売ったり買ったりすることで将来に賭をできる。遊び人の中では、特に銀行が多額の賭をしている。・・・この世界的な金融カジノの元締めが大銀行と大ブローカーである。・・・・・・・
 現代の銀行員やディーラーは、昔のひとが考える金融の世界や典型的銀行とは全く別の世界で働いている全く別の人間であるかのように見える。・・・・国際金融システムを賭博場と非常に似たものにしてしまった、何か根本的で深刻な事態が起きたのである。」(P1〜2)
 シティグループやAIGの政府の支援なしでは立ちいかない苦境、ナスダック元会長バーナード・マドフの500億ドルの詐欺、破綻したイギリスの銀行RBSの元会長サー・フレッド・グッドウィンの年間9千万円に上る年金などを見ると、女史の上の文章は金融業界の問題状況をよく伝えていることが分かる。
 ところで女史は国際金融システムはグローバル化した経済の最も基本的で重要なインフラであると考えている。
 「国際金融システムは、それがひとたび混乱すると、次から次へ拡がっていく伝染病のように国際政治経済を悩ますさまざまな問題を生じさせる根幹なのである。」(P6)
 世界中で金融機関が不良債権によって貸し出し能力を制約されて、実態経済を収縮させることにってしまっている。女史の書いている通りにこことが起こっているのである。
 女史は経済過程を市場だけで独立したものとは考えていない。国家の規制なしの市場というのはありえないと考えているようだ。
 「通貨システムには国家(政治)権力と市場の両方が存在しなければならない。・・・・通貨システムは、どの貨幣を使わなければならないか、あるいはどの貨幣を使ってよいかを定め、合意された通貨取引の執行を強制する国家権力が存在しない限り、効率的に作動しえない。」(P36)
 最近の現実によって、国家の規制をなくして市場にすべて任せれば一番良い結果が得られるとする『市場原理主義』は間違いであることがはっきりして、中谷巌氏は『資本主義はなぜ自壊したのか』(集英社インターナショナル)を書いた。宣伝によると、これは氏の「懺悔の書」であるそうだ。
 さらに女史は金融取引において技術進歩が盛んに進められていることを理解していた。まだ金融工学という言葉はこの時には使われていなかったので「金融技術」という言葉を使っているが、デリバティブという言葉も使っていない。女史が新しい金融商品をどのように考えていたかを示す文章を引用する。
 「最近のアメリカン証券取引所では新しいオプション市場がブームになっている。オプションは、競馬、トランプめくり、サイコロころがし、ルーレット円盤のがらがらなどのギャンブルとほとんど変わらない金融取引である。」(P75)
 賭事そのものがオプションの本質だというのである。 
 彼女は『カジノ・キャピタリズム』の後に書いた『マッド・マネー』のなかで金融業界の異常さを指摘していた。1997年はアジアで金融危機が生じた年で、そのためにアジア経済は大きな打撃を受けていた。
 「アジアでは・・・きわめて多くの人が失業に直面した。何年もの苦労の上に築いた家族経営の多くが破産に追い込まれた。」(P2)
 しかるにその同じ年にアメリカの金融業界の人たちはどういう状態であったか。全く対照的であった。女史はそれを次のように描いている。
 「株式相場から手厚い報酬を得たのは彼ら(ウォール街の株式ブローカー)だけではない。投資銀行家やファンド・マネージャーの手にしたボーナスは想像を絶して、えげつないほどの巨額である。」(P2)
 先に書いたRBS元会長の巨額の年金も同じようなものだ。かくして女史は「金融市場の状態は何らかの緊急の治療を必要としている」(P1)と判断している。彼女の判断が正しかったことは、10年後にアメリカ発の金融危機によって証明された。彼女は見事に10年も前に、金融危機が起こることを予見していたのである。こうしたことを予想しても普通は狼少年扱いされるだけであるから、大学で講義している経済学者などは書かないようだ。しかし本当に経済を理解していれば、経済の現状に潜む問題を見ることができるのだし、その確信を書くことを恐れない。このような能力は女史が正真正銘の経済学者であることの証拠であるといってよいであろう。

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2009年3月 2日 (月)

映画『あ・うん』を見て

 日本映画は余り見ないのだが、向田邦子氏の小説などはほとんど集めて持っており、彼女のシナリオに基づく映画だったので、GEOで借りてきたのであった。先日日本映画で初めて『おくりびと』がアカデミー賞の外国映画部門で受賞したが、私は最近の日本映画にはほとんど興味が引かれないのである。単なる食わず嫌いなのかも知れないが、小さな頃は日本映画もよく見たものだ。
 この映画の主な出演者は、高倉健、富司純子、板東英二、富田靖子、宮本信子、山口美江などだが、戦前の雰囲気が良く出ていて、描かれている生活のテンポなどにはまことに羨ましいものがあった。エッセイストの山本夏彦氏が現代の日本人が戦前戦中の日本について抱いている過った印象を正そうとして『誰か「戦前」を知らないか』(文春新書)を書いたが、、あとがきで次のように書いている。
 「かねがね私は『戦前戦中まっ暗史観』を為にするウソだと思っている。向田邦子も期せずして書いている。私たち戦時中の女学生は、明日の命も知れないのに、箸がころんでもおかしいと笑い転げていた。」(P326)
 この映画を見て最も印象的だったのは、戦前に比べると断然豊かなはずな現代社会で生きているわれわれは何てせせこましい生活を送っていることだろうというものであった。確かに現代は戦前に比べると格段に便利になっている。その象徴は、TVでありインターネットであり、携帯電話、洗濯機、冷蔵庫、自家用車などで、戦前の庶民にはこういったものは、あっても手に入らなかったし、そもそも存在さえしなかったものもある。しかしこうした便利なものが手に入ったわれわれは、果たしては生活においてゆとりというものを感じているだろうか。何か慌ただしい生活だ、というのが実態なのではないだろうか。最近になってワーク・ライフ・バランスなどという言葉が使われるようになったのはその証拠である。また携帯依存症などという言葉さえ出来ている。現代は神経症的な時代なのだ。
 戦前の庶民の生活は、朝も晩も基本的には家族が一緒に食事を取ることが当たり前であった。私は戦後生まれだが、小さな頃はやはり家族が一緒に食事を取っていた。家族みんなが毎日一緒に食事を取ることは、家族の絆を作る基本であると思う。現代はそれが基本的にはなくなっているように思われる。だから家族がばらばらになってしまったのである。現代の家庭はたまたま一緒に暮らしているだけの「ホテル家族」だといった精神分析家がいたが、経済のグローバリズムによる競争激化が言われようになってから、企業内での下らない社員のあいだの競争増進策が長時間労働を社員に強制することになった。日本語には切磋琢磨という良い言葉があるが、競争という言葉は必ずしも人間にとって良い意味ばかりを持たない。経営者の無能と無理解がこうした愚劣な状況をもたらしたのだと私は考えている。経済学者の飯田経夫氏は「現代の経済社会は無理に無理を重ねた上に成り立っている」といった意味のことを書いているが、現代社会の特質を見事に言い当てていると思う。
 戦前の日本もけして庶民にとってよいばかりの社会ではなかったことは私も分かっている。軍部が力を持って日本の政治と社会を支配していたから一面では現代よりも愚劣な面があった。この映画でも、特高警察が出てくる。ミャンマーや中国など、軍事独裁政権の支配する社会は国民の自由を抑圧することによってしか存続できないものだという。中国史の研究者・三石善吉氏は『中国、一九〇〇年』(』中公新書)で、独裁政権の共通の特色を次のように書いている。 
 「支配階級は、いつでも、どこでもそうであるが、一人一人の人民には全能者として立ちあらわれるが、集団化した人民には滅法弱い。したがって、ひたすら人民の団結を恐れ、これを禁じ、集団と見ればただちに、その真の姿とは関わりなく、これを弾圧した。・・・・集団を恐れる支配階級のこの猜疑心・・」(p48)
 独裁政治の最も愚劣な見本は、ジンバブエのムガベ大統領である。彼は国家経済の基盤そのものを壊して経済を破綻させてしまったからジンバブエの国民は海外からの援助がなければ生きていけない状態である。その援助の上前をはねてムガベ大統領は国民をおさえつけ、贅沢をしているのだ。彼こそがジンバブエの災厄そのものなのだが、そのことを認めず選挙結果を誤魔化してまで大統領の地位にしがみついている。
 とにかく映画『あ・うん』は戦前の日本社会の良い面を描いている。現代社会の特徴である神経症とは無縁であった。なかなか見応えのある映画であり、見終わって気持ちが良かった。

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