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2009年2月

2009年2月23日 (月)

経済学はなぜ共通の理解にならないのか

 アメリカは世界で最も経済学の進んだ国であろう。そしてそれはアメリカの大学で教えられている。したがって最も進んでいる経済学はアメリカの国会議員にも浸透していて良いはずだ。そうだとすれば今回の金融恐慌に起因するアメリカ経済の沈滞に対するアメリカ政府がとるべき対応について、当然民主党と共和党との間で大きな意見の相違が起きるはずがないと考えてもおかしくないと思うのだが、実際には共和党の議員たちは民主党が作成した多額の政府支出を伴う経済対策案に揃って反対した。共和党の議員たちには、かつて1930年代のアメリカの大恐慌のときに、政府は市場に介入するべきではないとした古典派の経済学に基づく対応の考え方が、今日もなおしっかりと居座っているようだ。しかも近年は「市場原理主義」の考えがが猛威を振るっていたから、尚更なのであろう。
 ところで私には、市場原理主義の考え方は、自分では具体的には何も考える必要がない思考停止の便利なイデオロギーでしかないと私には思われのである。市場に任せておけば経済行為はすべて最も効率良く遂行されるのだから、政府は市場に余計な干渉をするべきではないと考えるのが市場原理主義であるが、経済活動のレベルが急降下している現在、共和党の議員たちがそのようにのんきに考えることができるのは、そもそも彼らが職を失って喰うのに困ることなどない立場にいる金持ち連中だからなのではないか。今回の金融危機が起きたのも、彼らの信奉する市場の結果だとは彼らは考えないのである。彼ら共和党の議員たちは実際に起こった出来事には眼を閉じて見ようとせず、何も考えなくてよい「すべてを市場に任せるのが一番いいのだ」というイデオロギーに侵されている能天気な連中なのである。
 私は日本の政治家も不勉強だと思うのだが、アメリカの政治家も大して変わらないようである。キリスト教がアメリカ国民に圧倒的に刷り込まれているイデオロギーであるのと同じように、市場原理主義もアメリカ人に根強く居座っているイデオロギーであって、経済学が進歩しても、そんなこととは無関係に、不勉強な政治家たちの頭から離れることはないのだ。市場原理主義は、自分たちが住んでいるのは「市場という全能の神」が支配する理想郷であると信じることであって、宗教を信仰する人が現実に起こっていることの原因から目をそらして、この世に起こっている現実はすべて神の意思の現れだとする信仰という思考停止を選択するのと同じイデオロギー現象なのだと私には思われるのである。

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2009年2月21日 (土)

受精卵取り違え事件のもうひとつの見方

 香川県立中央病院で起こった受精卵の取り違え移植事件については、作業手順についてのチェック体制の不備が原因と報道されているが、果たして本当の原因はそれだけなのだろうか。私がこのように思った理由は、ある講習会で聞いた話が頭に残っていたからである。
 その講習会の講師は、西武百貨店の当時の専務の人であったが、私の頭に強く残ったのは彼が指摘した次のような話であった。病院の管理についての一番の問題は、医者が最高権力者になっていることだと、その講師は話した。病院には医療行為の他に病院という組織体の運営管理ということがあるが、医者は医療の専門家ではあっても病院の経営ということに関しては素人にすぎない。ところがその素人が、経営に関する能力も資格もなくても病院の最高権力者になることができるのだから、病院経営がうまくいかないことがあるのだ、とその講師は言っていた。この話は強く私の印象に残った。
 ところで今回の受精卵取り違え移植事件の深層にあるのではないかと私が疑うのが、この部門がその担当医者の「治外法権」の場になっていて、極端な言い方をすれば本人の好き勝手なやり方で運営され病院長も口を出せない状態になっていたのではないかということである。手順を決めたマニュアルはあったというが、取り違え防止のための手順を決めたものはなかったという。ここにも以上で述べた「治外法権」の影響があったのではないか。
 以上のことは私の単なる推測に過ぎないのであるが、不妊治療の担当医者が一人だけでしかも実績もあったことから病院長を含む周りの人たちが口を出せない状況にあったのだろうと、先の話から私には思われるのである。今回の事件で体外受精の分野での取り違えミスは解消されるだろうが、今後も別の医療分野で同じような「治外法権」が原因の治療過誤が起こりうるのではないかと推測されるのである。
 なお最近読んだ医療過誤を扱ったミステリー、ベイン・カーの『柔らかい棘』(講談社文庫)でも、治療の場が医者の権力下にある密室、すなわち一種の「治外法権」の場であることが問題であったことが描かれているが、医者の権力をどうやってコントロールするかという重要な問題の所在を示唆しているのである。

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2009年2月20日 (金)

国会中継の面白さ

 年金生活に入っての効用と思ったことの一つは、日中に放送される国会中継を見ることができることであり、おおいに楽しませてもらっている。私も停年退職する前の昼間働いていた間は、国会中継が行なわれていることさえ知らなかった。
 今日(2009/02/20)も楽しませてもらったが、しかし残念ながら国会中継の質疑の内容そのものが面白いというのは少なくて、質問する議員の質が判かることが面白いのであり、ハッキリ言うとがっかりさせられることがままあるのだ。時々、実際に見ていて「なんだこりゃ」と呆れてしまい、すっかり情けない気持ちになるのである。
 例えば民主党の議員の質問には単なる揚げ足取りまたは言質取りとしか思われないような程度の低い質問がまま見られる。もう少し頭を使った、見ているわれわれ国民が鋭いと思えるような内容のある正鵠を射た質問をして貰いたいのだが、自分の考えていることは絶対正しくて、首相や大臣にはその自分の考え方に何が何でも宗旨替えさせようというだけのしつこいだけの繰り返しの質問がよくある。内容そのものの質によって知性でねじ伏せるような質問を見たいと思うのだが、知性のキラメキなど全く感じられない愚劣な質問を平気でしている。私に言わせると、「あんたは馬鹿か」と思わせるだけの程度の低い質問をしている。きっと本人の頭が全く悪いせいなのだろう、国民から自分の質問した内容が程度が悪いと馬鹿にされていることさえも判っていない情けなさなのである。こうした愚劣な質問をするものだから、質問に答える方もいい加減になってしまうのだろう、応え方は一応丁寧なのだが(世間で言う慇懃無礼)、内容的には木で鼻をくくったような内容のことを言って済ましていることがあるが、これは質問者の自業自得というものである。しかし国民、納税者という目で見ると、こんな下らないことをさせるために貴重な税金を使うのは止めてもらいたいと腹が立つのである。
 例えば今日、民主党の議員が高速道路の無料化の経済効果についての試算値をあげて、麻生首相に不況対策のための経済政策として高速道路料金の無料化を迫っていたが、建設費や補修維持費といった費用の返済・負担を無視して議論して平気でいるのだ。こういう実務的な感覚が欠如した内容の話を平気でするのは議員として不見識極まりないと言わざるを得ない。金銭感覚が欠如しているから、きっと税金の無駄遣いということもよく分からないのであろう。議員も官僚も、お金を稼ぐということを知らないから、こうした馬鹿話も平気でできるのだ。金銭感覚のない人間ばかりがずっと政治に携わってきたからこそ、日本政府が膨大な負債(国債)を抱えることになってしまったのである。そういう観点からすると、笠井潔氏の言う『国家民営化』ということも真剣に検討する必要があると思うのである。
 今日は共産党からは女性議員が質問を行なっていたが、今までも見てきた経験から言うと、女性議員の場合には自分を正義の味方と思い込んで、情緒的に偏った質問をする傾向が強いようだ。彼女たちは、福祉というと何でも国や地方政府などの公共的な負担で行なうことだけを求める意見の持ち主が多いようである。彼女たちもきちんとした金銭感覚を持っていないのである。しかしそれでは困るのだ。フリーランチなどはありえないのである。そうした基本的な認識を欠いて政治を論じては駄目なのである。金銭感覚の欠如した政策は無意味である。
 国民新党の議員が日本郵政のオリックスへの不動産売却に関して、売却後の転売の金額が郵政の売却金額からすると飛んでもない金額になっていた事実を指摘していたが、その話を聞くと全く呆れるしかない。1万円で売った資産が何千万もで転売されている。西川社長は民間出身だということだが、ことオリックスへの資産売却については到底民間出身者の行動とは思われないことをやっている。何か裏があるに違いないと推測される。今回のオリックス問題は、鳩山総務大臣が言い出したことであるが、これも民主党が対抗政党としての力を得たからではないかと私には思われる。もし参議院でも自民党が多数を占めていたら表沙汰になることもなかったのではないかと思うのである。
 ところで与党の議員が質問すると、決まって提灯持ちの質問になっている。そんな質問をしてもらうために国民は税金から議員に給料(歳費)を払っているのではないのだということを認識してもらわなければ困る。そんな質問しかしないのでは、国民に対する裏切りも同じなのである。ここにも金銭感覚の欠如が露呈している。
 国会中経を見るのは面白いが、もっともっと質疑の内容の質を向上してもらいたい。日本の社会が停滞するのも政治の質の低さが影響しているに違いないのだ。

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2009年2月19日 (木)

自民党は末期症状

 酩酊会見事件で中川財務・金融担当大臣の辞任の経過を見ると、自民党は本当に末期症状なのだなと思わざるを得ない。世界が深刻な経済危機に陥っている時に、ローマで開催されたG7の重要な会議に出席した中川大臣が、本人は否定しているが、酒に酔って記者会見に臨んで世界に醜態を去らしたのである。中川氏が酒が原因と考えられる不始末については、過去にも閣議にふらふらとして出席したといったこともあったと伝えられていたが、そのような前科のある人物を「盟友」としていた麻生首相は、酒飲み友達だから重要ポストに就けたのだろうか、とその見識が疑われる事態になっている。
 こうしたことを見ると、自民党は最早完全に末期症状であるとしか思われないのである。私は日本のキャリア官僚という連中は、自分たちは優秀なのだといった気位だけは高く、そして高い給料を得ているけれども、果たして彼らは国民のためになることを真剣に行なっているのかと考えると、到底そのようには思われないのである。年金生活に入っている私は、日中に放映される国会中継を見ることができるので時々見るけれども、そうした時に省庁の次官が答弁する姿を見ていて、とてもまともなことを言う連中とは思えないことがある。どうして国民はこんな連中に税金から高い給料を支払っているのかと腹立たしくなるのである。しかしそうした官僚連中がはびこるようになったについては、私は自民党の議員の資質の低さが大きな原因なのではないかと考える。自民党の議員たち自身がレベルが低いから、頭の良さを自負するキャリア官僚たちに馬鹿にされていいようにあしらわれ、操られているのに違いないと考えてしまうのである。前にも書いたが、議員というのはどんなに馬鹿であっても、選挙に受かりさえすればなれるのであって、その知的な資質は問われないという根本的な問題がある。
 自民党は長期に渡って政権を担当してきたのだし、官僚を使うのは議員の役目であると考えざるを得ないから、現在のように官僚たちの専横を許してきたのは自民党の官僚の使い方に責任があったと判断せざるを得ないのである。自民党の議員の知的な資質は余りにも低いものだったのではないか。そして今回の中川氏の醜態はそのことを証明しているのであって、この体たらくでは官僚たちに議員が馬鹿にされるのも当然であると思う。麻生首相の漢字知らずが報道されたが、中川氏についても衆院での来年度予算の説明の文書を読む際に、26個もの漢字の読み間違いをしていたと中川氏の辞任に関連する報道で伝えられていた。この説明文書を中川氏自身が書いていないことは漢字の読み間違いによって明らかであるが、仮に官僚に書かせたものであっても仕事に真剣に取り組んでいるような人間なら事前に目を通して自分で正しく読めないようなものはチェックしていて当然である。中川氏はそうしたことさえもやらなかったということであり、それは中川氏の仕事に対する姿勢が全くいい加減なものであったことを現している。麻生首相も中川氏も、仕事に対する姿勢は多いに疑わしいと考えざるを得ないのである。こうした不真面目な政治家が自民党という政党の代表のようになって政権運営を行なうということは、自民党が国民を虚仮にしていることである。そういう態度の政党には、国家の運営に関わる資格はない。民主党もそれほど信用できるとは思わないが、とにかく現状の自民党は政権から外れて出直すしかない。自民党の若い人たちはもっと真面目に政治という仕事に取り組むべきである。そして今までの悪い体質を根本的に転換しなければ、自民党には未来はないと悟るべきである。

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2009年2月12日 (木)

「神」という魔術的な観念

 羽入辰郎氏の『マックス・ヴェーバーの犯罪』(ミネルヴァ書房)を読んでいて、「ああ、そうなのだ!」と腑に落ちた文章に出会った。それをまず以下に引用する
 「”理念型”という呪文をひとたびヴェーバーからかけられると、われわれの頭は麻痺し、その正常な思考の動きをすべて止めてしまう。われわれはその瞬間から大魔術師ヴェーバーに対して頭を垂れ、ほとんど常識的な検証作業すら止めてしまうのである。”理念型”とはそれほどまでに威力のある呪文なのである。この魔術的概念、”「資本主義の精神」の理念型”を脱魔術化すること・・・。」(P195〜196)
 この”理念型”という概念を”神”という言葉に置き換え、マックス・ヴェーバーという名前を”両親”または”神父”などという言葉に置き換えると、人間が宗教にからめ捕られるプロセスの説明そのものになるではないか。例えばヨーロッパやアメリカなどのキリスト教圏、中東などのイスラム教圏においてそこに住む人たちのほとんど全てがキリスト教徒またはイスラム教徒になっている理由は、まさに上の文章に書かれた状況が説明している。共同体としての圧力が、キリスト教徒であること、またはイスラム教徒であることを個人に対して強制していることは、その共同体の外部に暮らしている私から見ると明白である。そうした地域に住んで、キリスト教徒でないこと、またはイスラム教徒でないことは、まともな人間ではないこととして受け止められるのである。そうした社会に宗教の自由などは存在しないのである。個人が信仰を持つことは、共同体などの社会的圧力から完全に守られていることが保障されないかぎりは実質的には意味がないのであるが、すでにキリスト教徒またはイスラム教徒である人間にとってはそういう考え方そのものが完全になじまないものなのである。そうした社会に会っては、「神」が存在することは、理屈抜きに受け入れるべき事柄であって、「神」が存在するかどうかを疑うこと自体が許されないことなのだ。
 「神」という観念こそは、まさに魔術的な観念なのである。普通の日本人にとっては「神」という概念は個人的にはそれほど大きな意味を持っていない。むしろ非常に軽い意味合いの存在ですらある。何かの時に軽く口に出るだけであって、その実在を固く信じる一神教徒のように全能で超越的な絶対神が存在するなどとは日本人は誰も観念しないのである。こういう自体を日本人の無宗教として問題にする宗教学者がいるが、自分の商売が宗教学だからといって日本人の無宗教をあげつらうことこそ、私はむしろ問題であると考える。宗教の問題性を彼ら宗教学者は良く理解していないのである。
 最近の私は、宗教特に一神教はマインド・コントロール以外の何ものでもないと考えているが、21世紀になってますます激しくなってきたキリスト教とイスラム教の対立、テロリズムは宗教のマインド・コントロールとしての悪の側面を一層明らかにした。科学技術が発展したなかで、その成果でもある武器を使用して、魔術的な神観念をもつ一神教の信者が自らの頭で考えることなしに「聖戦」という、これまた魔術的な観念に取り込まれて自爆テロなどを行なう。こういうことを行なわせる宗教は人間社会にとって害をなすだけなのではないか。今は専らイスラム教徒が「聖戦」を行なっているが、かつてはキリスト教徒も十字軍という形で「聖戦」をイスラム教徒にしかけて、大虐殺を行なったのである。そうして見ると、現代のイスラム教徒のテロリズムは、時代が変わって攻守ところを変えた過ぎないのである。
 一神教徒は、唯一絶対の超越神を信仰しているがゆえに自分たちは高等な人間であると思い込む傾向があるようだ。彼ら一神教徒たちは、訳の判らないいろんな神を信じる多神教の信徒などは、程度の低い神を信じる程度の低い人間であると傲慢にも考えるのである。そこに傲りが生じる。唯一絶対の超越神は、論理的にいっても、多神教の神の上に立っているに決まっている。しかしその論理的な正当性は、もし唯一絶対の超越神が実際に存在したならばということであって、唯一絶対の超越神の存在そのものを一神教徒はてんから証拠のあるなしを問わずに信じているだけのことであって、その存在を見た人は現代では誰もいないのではないか。聖書にはモーゼが神に会ったと書かれているが、その後に会った人は、聖人や聖女などが夢うつつの中で会ったようなことを言っていても、私などには、本当とは到底思われないのである。つまり現代においては、なぜ神はその姿を我々の前に現さないのかと私は不信に思っている。それは、詰まる所神など存在しないという証拠なのではないかというのが私の結論である。その存在を信じるに足りないものである「神」を、私は到底信仰することなど出来ないのである。
 「神」という観念に魔術的な意味合いを与えた人間こそが本当は問題なのである。そしてヨーロッパの中世においてその魔術的な観念のマインド・コントロール機能を徹底的に悪用して権力を振るったのがローマ・カトリック教会であり、究極の詐欺とも言える免罪符の販売によって信徒から財産を巻き上げたのである。魔女裁判の裏側には、女性たちの財産を巻き上げるというカトリック聖職者の魂胆さえあったそうである。そういった非道なことを神の名の下に平気で行なったのが、ローマ・カトリック教会であった。そしてその個人的な問題の一面はメリメの小説『オーバン神父』に良く描かれている。すなわち個人が安楽な生活を送るのに非常に都合の良い職業としての聖職、神父の地位とはそういうものでもあったのである。
 そして19世紀末の清朝の中国に布教の名目で送り込まれたヨーロッパ列強の神父たちは、外交特権に守られた時には中国の農民の土地を無法にも奪うなど非道なことを平気で行なって農民や地主の怒りを買い、義和団事件を引き起こすそもそもの原因を作ったのであった。こちらは専らプロテスタントの聖職者であったようだが、キリスト教の神父などは、とんだ聖職者であったのだ。
 一神教の「神」というのは、なんと罪作りな存在なのだろう。かくして一神教の「神」という観念こそ、脱魔術化が不可欠な最優先課題なのである。脱魔術化された後の一神教の「神」とは、お化けのようなものでしかないのだろうと私には思われるのであるが。

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2009年2月 9日 (月)

義和団の乱と清帝国

 中国に関心が深くなって色々と本を読んでいるが、たまたま読み始めた三石善吉氏の『中国、一九〇〇年 義和団運動の光芒』(中公新書)で意外な事実を知った。義和団事件の本当の原因がキリスト教であったということである。三石氏は清を『文化帝国』と呼んでいる。そして清朝は宗教的寛容を持った朝廷であったという。
 「中華帝国は儒教を正統教学とし、キリスト教徒、回教徒、また仏教徒であれ、帝国の正統教学である儒教的価値体系に挑戦してそれに取って代わろうとしないかぎり放任したのであった。」(p9)
 それに対して西欧列強は中国を蔑視し、徹底的に征服し収奪しようとした。しかし西洋列強の征服欲は単に中国に対するものばかりではなかったのである。三石氏は次のように書いている。
 「(西欧の)合理主義の流れが、宗教と政治と産業の革命を経て、進歩の思想、工業主義、人民主権主義などの武器を満載して、全世界を征服しようとしていた。」(p16)
 そしてキリスト教徒は全体として中国を蔑視していたという。特にプロテスタントにその傾向が強かったのであった。
 「イエズス会士たちは中国の文明に大きな尊敬を払っていたが、逆に、プロテスタント宣教師たちはヘーゲルに代表される中国蔑視感を強く共有していた。いや、単にプロテスタントだけではなく、十九世紀のすべての欧米人は、深く進歩の思想にとらわれており、変化のない・遅れた・異教徒の住む中国という鏡に照らしてはじめて、西洋文明の優位を確認したのである。」(p16〜17)
 西洋列強が中国を侵略し始めたのは19世紀であったが、「十九世紀後半はまさしくこのプロテスタント的世界観が世界を覆っていた時代である」(p17)という。そして中国を侵略した西洋人とは、「キリスト教に凝り固まった当時のヨーロッパ人」であったとのこと。
 なぜキリスト教徒はそれほどに侵略的であったのか。キリスト教徒は昔から侵略的であったのではないか。15世紀末から16世紀に南米大陸に進入して原住民の奴隷使役と虐殺を行なったのはカトリック教徒のスペイン人であった。キリスト教徒でないもの、異教徒は、キリスト教徒にとっては悪魔なのであったから、異教徒を殺すことに何の道徳的制約もなかったのである。
 三石氏のこの本は清朝の義和団の乱を扱ったものであるが、思いがけず現在の共産党独裁政権の根本体質を言い当てている文章があった。
 「支配階級は、いつでも、どこでもそうであるが、一人一人の人民には全能者として立ちあらわれるが、集団化した人民には滅法弱い。したがって、ひたすら人民の団結を恐れ、これを禁じ、集団と見ればただちに、その真の姿とは関わりなく、これを弾圧した。・・・・集団を恐れる支配階級のこの猜疑心・・」(p48)
 これこそは天安門事件の本質を言い当てているのではないか。
 キリスト教徒は、「文化帝国」清朝の宗教的寛容に付け込んで中国大陸の内部に入り込んだが、「教会が民家を強制的に壊して教会堂を建てたとか、農民の土地をだまして教会の財産にしてしまったとかいう話も数多く報告されている。」そうである。南米でスペイン人が行なったのよりはましだが、中国でも非常に傲慢な行動をキリスト教徒はとっていたのである。またキリスト教徒は全体として、キリストの教えに反して非常に強欲であるように思われる。なぜなのか。
 また布教活動の結果として獲得した信徒はどうであったかというと、「教会は信仰を強制し、信者になるものは、たいていろくでなしかごろつきで」あったそうである。ここに見られるのは、教会としての勢力拡大欲だけである。キリスト教の精神などは何ら顧みられていなかったのである。キリスト教の布教者たちは侵略の先兵であったにすぎない。そしてそのことを何らは恥じていないのである。
 ところでこの本によって初めて知ったのだが、中国においては武術というのがいかに社会に深く根付いていたかということであった。義和団はキリスト教徒が余りにもあくどいことをして農民などを苦しめていることに反発して、キリスト教徒を中国から追い出すことが目的であったが、それを指導したのがカンフーの指導者などであった。そしてキリスト教徒の追放はひいては西洋列強を逐い出すことに繋がるのであった。キリスト教宣教師の悪業がなければ義和団の乱は起こらなかったのだとは私は全く知らなかった。こうしてみると世界史におけるキリスト教の影響は全く凄まじいと私は思う。

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2009年2月 6日 (金)

天下り・渡りに関するキャリア官僚の答弁の愚劣

 先日国会中継で、民主党の議員が農林省のあるキャリアの渡りの実態を示して、天下り・渡りについて農林省が深く関与しているとして問題性を指摘していて、そのことを農林省は認めるべきだと追求したことに対して、農林省の次官がそのことについて回答した内容を聞いてあきれ返ってしまった。民主党の議員が1名の農林省OBの実際の天下り・渡りの実態を示して、これは本人が認めた天下り・渡りの事実であり、農林省が長年に亘って作り上げた天下りシステムが存在することを認めるべきだと迫ったが、農林省の次官は省内にそのことに関する事実を知っている者がいないし資料がないといって否定していた。
 民主党の議員が示した天下り・渡りの事実を認めた農林省OBは、おそらく「このような天下り・渡りはやってはいけないことだ」と認識・反省して、自らの不利益を考慮しないで国民に実態を明らかにしたものと思われる。これに対して、農林省次官の全く嘘で懲り固めただけとしか思われない事実関係を知らないとする発言は、納税者としての国民の立場から見ると、「このような破廉恥漢が次官になって、嘘八百をぬけぬけと語っている。」と心底怒りを禁じえないものであった。こんな愚劣な人間が次官という官僚の最高位に上り詰めることが出来たというのは一体どうしたことなのか。官僚組織のなかでだけ通じる特殊な理由があるのに違いない。こういうことを平気で口にして恥じない官僚とは、キャリア官僚たちにとっては守護神なのだろうが、まさに国民の敵そのものなのである。

 ところでたまたま読んでいた牛島信氏の『この国は誰のものか』(幻冬舎)に、官僚の民間企業に対する天下りについて書いていたところがあったので、その部分を引用する。
 「ほとんどの場合、特定の人物の優秀さを見込んで役所からもらい受けるなどという話ではなかったのだ。役所があり、そことの関係を維持する、露骨にいえば最低限苛められないように、できれば他より優遇されるように、という権力に対する一企業としての利害から受け入れたのだ。
 今でも同じことが続いている。場合によっては、天下り後の待遇を、給与の額、個室を用意すること、選任の秘書をつけること、そして車をつけることまで、文書で確認させて行われてきたのだ。」(P32)
 国民の税金が。こんな連中に対して高い給与を支払うことに使われているなど、全く許しがたいことである。彼らの仕事は国民に対して果たしてどんな役に立っているのだろうか。むしろ国民に対して害を与えているだけなのではないのか。日本のキャリア官僚などといった手合は、まったくの井の中の蛙であって自分たちは優秀で偉いと自己認識しているようなのだが、実際にやっていることは集団としての官僚組織を利用して自己利益を計っているだけなのだ。そしてこうしたことを許したのには、今まで政権を担ってきた自民党の議員たちの無能がある。自民党の議員たちは余りにも無能で不勉強、不見識なものだから、一応勉強はできて頭の良いキャリア官僚たちに実際の政治の中身を依存するしかなかったのである。そのことは今や全く明らかであると思う。議員とは、極論すれば選挙に受かりさえすれば馬鹿でもチョンでも成れる職業であることは、紛れもない事実なのである。悪知恵に長けたキャリア官僚たちには手もなく騙されてきたのであろう。
 どうやればキャリア官僚を超える知能レベルの議員を国民は選挙を通じて国会に送り込めるのか。それは克服することは非常に難しい問題だ。実務的に考えると、キャリア官僚に対抗できるだけの優秀な政策スタッフを政党として揃えることであろう。たとえ議員その人は頭が良くなくても、頭の良いスタッフを揃えればキャリア官僚の悪知恵に対抗することは可能であろう。キャリア官僚の現状を考えるかぎり、政治家は官僚を敵として対応するしかないと思う。政策を官僚に依存しないで立案できるような体制を早急に確立することに政治家は力を注ぐべきである。現在の天下り・渡りの元凶がキャリア官僚の早期退職という慣行にあることを麻生首相は認識しているようだ。そうであるなら麻生首相はその問題点を官僚制度の改革によって正すことに直ちに着手するべきである。

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2009年2月 4日 (水)

ベイン・カー『柔らかい棘』を読む

 アメリカは訴訟社会とも言われ、弁護士の多い国柄だからだろう、訴訟を扱った小説が多い。リーガル・サスペンスとも呼ばれる。私が初めて読んだ小説はスコット・トゥローの『推定無罪』(文春文庫)ではなかったかと思うが、残念ながらその内容は最後の真犯人以外は全く覚えていない。最近はジョン・グリシャムなどが良く読まれているようだが、私はグリシャムの小説を読んでいない。彼の小説に基づく映画『レイン・メイカー』は非常に面白かったので、少し読み始めたのであるが最初を少し読んだだけで、結局最後まで読まなかった。最近読んで非常に面白いと思ったのは、W・バッファの刑事裁判ものである。最初に読んだのは『弁護』(文春文庫)であった。彼の本は全て文春文庫で出ているが、面白いので全部読んだ。
 私は『弁護』によって、アメリカの刑事裁判の本質を知ることができたと思う。アメリカでは検事側が容疑者を訴えた犯罪についての実行者であることを陪審員に対して証拠を示して「合理的な疑い」のないところまで明らかに立証しなければならないのに対して、弁護側は検事側の立証には「合理的な疑い」の余地があるということを示して、陪審員が容疑者の犯罪実行について少しでも疑わせ、有罪評決に躊躇させることが必要なのであって、それ以上の立証を行なう必要はないのである。陪審員は、検事側の立証において「合理的な疑い」が存在するかぎりは有罪評決をしてはいけないと事前に教育されているのである。こうした基本的な知識を持って読むと読まないとでは、リーガル・サスペンスの面白さを味わうのに大きな違いが出ると思う。
 ベイン・カーの『柔らかい棘』(講談社文庫)は、医療過誤を扱った裁判小説だが、この本では企業としての弁護士事務所が良く描かれていて、儲かる訴訟事件こそが好ましいものなのである。弁護士事務所にとっては正義などはどうでもよく、訴追側であれ被訴追側であれ、どちらを担当しても勝訴してできる限り多額の弁護料を得られるようにして利益をあげたいのである。
 『柔らかい棘』では、弁護士事務所に所属するピーター・モスは、前回扱った医療過誤訴訟で手痛い敗北を喫して精神的に打ちのめされ、以後医療過誤訴訟は扱わないと強い決心をしたのであったが、たまたまやってきた中年女性のテリー・ウィンターが依頼しようとした乳癌の診療医者が前回敗訴した相手の医者ウォレス・ボンダラントだったことが引き金になって、その訴訟を引き受けることにする。ピーターはカルテなどの提出を求めて調査に入るが、明らかに発見できたはずの乳癌を見逃したことが医療過誤に当たるとして訴訟を提起するのだが、ボンダラントがコロラド州医師会の会長をしているなど、訴訟相手としては手ごわい相手である。ベイリーはその点について次のように書いている。
 「あなたが相手にする残酷でタフな敵は、特別なルールに守られています。特別なルールとは、医療ミスはやむをえないとする風潮であり、医者のすることに間違いはないという過信です。・・・陪審員だって医師に無条件の敬意を抱いていて、救いがたいミスでさえ許している人もいるくらいです。」(P16)
 依頼者のテリーと言う女性は非常に個性的な人間だが、裁判が始まる頃に勝手にメキシコのほうにロクデナシの夫の目を逃れるために娘を連れて出かけていって、ピーターは苦労をするのであるが、思い掛けないボンダラント医師の不法な行為が明らかにして陪審員からの支持を得て有罪の評決を得るのである。しかしさらに思い掛けない事態が発生する。
 大部の本であるが、全く途中で飽きることもなく最後まで一気に読まされる、良くできた小説である。

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